第5話 非常扉の向こう側

 ドアノブを握ったまま、僕はしばらく立ち尽くしていた。古びた金属製のドアノブは、真夏だというのに不気味な程の冷たさを保っており、掌を通して僕の体から体温が、あるいは魂のようなものが、少しずつ、しかし確実に吸い取られていくような感覚があった。まるで宇宙船の表面に開いた小さな穴から、船内の空気が外に漏れ出すみたいに。もちろん、それは僕の思い違いかもしれない。考えてみれば、こんなに長時間に渡ってドアノブを握り続けた経験は(少なくとも僕の記憶の中には)なかった。金属の熱伝導というものは本来そういうものであり、これから超常的なことが起こるのだというイメージによって、神経が研ぎ澄まされ、普段意識していない現象にまで敏感になっているというのは、十分に考えられることだった。眠れない夜に、天井のシミが人の顔に見えるのと同じように。

 とはいえ、やはりこの扉の向こうには、常識ではありえない何かがあるように思えた。なにせ、僕は先ほどまで誘導灯と会話をしていたのだ。しかも、ごみ捨て場でご近所さんと交わす半ば形骸化した世間話ではなく、誰にも言ったことのない悩みまで吐露するほどの、濃密な会話を。つまり、僕が今まで学んできた常識の通じる世界は昨日で終わりを告げ、いま僕がいるこの世界は熱力学もニュートン力学も、もしかしたら地動説すら通用しない世界である可能性もあるのだ。この扉は本当に宇宙空間に繋がっており(現代科学の常識によると宇宙はとても寒いらしい)、ドアを開けた瞬間に有無を言わせぬ力で宇宙空間に引きずり込まれる可能性も否定はできない。だとするならば、誘導灯の中の緑色の人は、人の弱みに付け込んで僕を貶めようとする悪魔であると考えることもできる。科学と宗教は相反するように見えるが、世界の現象を説明するという点においては似たようなものなのかもしれない。この先、何が起こっても不思議ではないのだ。

「もうひとつ、聞いてもいいかな?」僕は再び誘導灯に話しかけた。

「どうぞ、なんでも聞いてくれ。消防法に休日はない。24時間365日、いつだって営業中だ。まぁ、君の聞きたいことは大体わかる。この扉の向こうには何があるのか。そうだろう?」緑色の彼ははっきりとした口調で答えた。まるで海外の通販番組の吹き替え版みたいな、胡散臭い口調だった。

「まぁ、そういうことになる」

「それは言えない」彼は言った。「君の疑問はもっともだ。誰だって、突然非常灯に話しかけられて、未来を変える為にこのドアを開けろなんて言われたら怪しむだろう。むしろ君はいささか警戒心が足りないくらいのものだ。僕も答えたいのは山々だ。なぜなら、君を救うことが僕の存在意義なんだからね。しかし、答えられない。答えないのではなく、答えられない。実は、その扉の向こうに何があるのか、僕もよく知らされていない。しかし、その扉の向こうの安全は保障する。消防法は、この国の偉い議員先生方が議論に議論を重ねて規定したものだ。確かに彼らは不当に汚い金を受け取ることもあるし、大半の国民のことをどうしようもない馬鹿だと思っている節もある。ひどく自己中心的で、傲慢で、身勝手だ。しかし、だからこそ仕事はしっかりこなす連中だ。彼らは多くの権力と同時に、多くの責任を背負っている。権力と責任は切っても切れない関係にある。セックスにおける快楽とリスクのようにね」

「政治のことはよくわからない。けれど、言っていることはわかると思う」僕は言った。彼は少し間をおいて、続けた。

「その扉を開けて向こう側に行けば、君は君の望む逃避行を実現することができる。政治家の権力と責任にかけて、それを保障する。そして僕は、その方向を指差すことしかできない。誘導灯だからね。だから、その先は君の足で進むしかない。老人のリハビリと同じだ。もちろん、進む、進まないは君の自由だ。消防法はあくまで設置者の義務を規定した法律で、君には何の義務もない」

「少し、考えさせてほしい」僕は言った。「このドアの先が安全だということは分かった。そして、僕の抱く危機感は、いずれ命に関わることだということも。しかし、今すぐに逃げることが必要だというわけじゃない。僕の恐れる未来が来る前に、結論を出せばいいわけだ」

「もちろん構わない」彼は言った。「でも、早いほうがいい。未来はいまも、刻一刻と近づいている。当然のことだが、未来を変えるにはそれ相応のエネルギーが必要だ。そして、変えられる未来にも限りがある。年齢によって生命保険の掛け金が上がり、還付金が下がっていくようにね」

「ありがとう」

 僕はドアノブから手を離し、踵を返してオフィスの入り口に向かい、ドアを開けて中に入った。まるで昆虫がいっぱいに詰まった虫かごの中に入ったみたいに、様々な音が僕の両耳に流れ込んできた。職員の話し声、プリンターの駆動音、足音、紙をめくる音。僕はそれらの雑音を掻き分けて、自分のデスクへ向かった。すでに上司と同僚たちは各々の机に座り、パソコンのモニターで何かを確認していた。

「おはようございます」僕はできるだけ愛想よく挨拶をした。

「おう」上司がモニターから目線を僕のほうに向けた。「お前、朝からなんちゅう辛気臭い顔してるんだ。通り魔の指名手配写真みたいだぞ」

 僕は無理やりに愛想笑い浮かべて席に着き、ノートパソコンのモニターを立ち上げた。黒い画面に映る僕の顔からは、トイレで貼り付けたはずの笑顔はどこかに消え、確かに犯罪者みたいな顔をしていた。その日の仕事はまるで手に付かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る