第4話 誘導灯の中の緑色の人
「やれやれ、という言い草はないんじゃないかい?君から話しかけておいて」緑色の彼は、少し怒ったような口調で言った。彼の頭部は緑色の円によって描かれているだけで、その表情を読み取ることはできなかった。それどころか、それが前頭部なのか後頭部なのかさえ判別できない。しかし、僕は生きている人間との会話と同じように、あるいはそれ以上に、彼の感情の変化を素直に感じることができた。
「君は僕を知っているの?」僕は言った。
「よく知っているさ。僕は何でも知っている。特に、逃避願望を抱いている人間のことはね」
「逃避願望?」
「誘導灯だからね」彼は言った。「君が何かから逃げたいと強く思った時、僕は君の前に現れ、君の望む方向へ誘導をする。それが僕の仕事だし、僕の仕事は消防法で規定されている。この法律が改定されない限り、僕は君の側にいる」
僕は改めて彼の姿を注意深く観察した。彼は右腕と左脚を上げ、ドアに向かって駆け込んでいた。そして首を後ろに向け、僕の方を見ている。そのドアが、彼の言う、僕の望む方向ということなのだろうか。遠くでヘリコプターが空を混ぜる音が聞こえた。
「ひとつ、質問してもいいかな?」僕は彼の目(があるであろう場所)をじっと見ながら尋ねた。
「いいとも、なんでも聞くといい。君には質問する権利があるし、僕には回答をする義務がある」
「君はいま、僕に逃避願望があると言った。確かに思いあたる節はある。でも、それは人間なら誰でも持っている類のものだ。人は誰しも、何かから逃げているものだと思う。僕は友達が多い方ではないけれど、知り合いならそれなりにいるつもりだ。しかし、誰かが誘導灯と会話をしたなんていう話はいままで一度も聞いたことがない。君は、僕以外の人間ともそうやって言葉を交わすことがあるの?」
「強さの問題だよ。そして方向の」彼は少しも姿勢を変えずに、僕に語りかけた。彼は続けた。「君の願望は誰よりも強く、そしてきっかけを望んでいる。だから僕が現れた。君に自覚はないかもしれない。しかし、君が考える以上に、人間が僕と話すことは難しいんだ。この国では、嫌なことから逃げることは良くないことだとされている。石の上にも三年、という言葉があるようにね。逃げることが良しとされるのは、命に関わる時だけだ。君の想いはそれほどまでに強い。そう、命に関わるほどに。消防法は、国民の命を守る為にある。僕は君を救う為に現れた。君の心の最も深いところにある、君を苦しめるものはなんだい?」
僕は彼の言ったことを頭の中で反復してみた。逃避願望、消防法は命を守る為にある、僕の苦しみ、命に関わるほどの苦しみ。僕は、自分の中にその答えを持っていた。しかしそれはまだ漠然とした概念のようなものであり、人に説明できる状態まで整理されたものではなかった。僕は、深海に垂らした釣り糸を手繰るみたいに、注意深く、慎重に言葉を探した。「未来の自分」僕は言った。
「未来の、自分」彼はゆっくりと繰り返した。
「そう、このまま生きていった場合の、未来の自分だ」僕は自分の中にある状態に、適切な単語を当てはめながら、そして適切な例えを織り交ぜながら、ゆっくりと答えた。「僕は、いまの会社に就職してから5年間、僕なりに多くのことを経験し、多くの人に会ってきた。まだまだ下っ端ではあるけれど、幸運なことに異動の機会に恵まれて、組織の末端から中心部に至るまで、多くの人と仕事を見ることができた。そして、この組織がどういったメカニズムで動いているのか、大まかに把握することができた。もちろん、全ての業務の工程を覚えたわけではないけれど、僕はその中に、ある種の共通項のようなものを見つけた。全ての業務に共通する、芯のような物だ。不規則に見える数字の羅列の中から、法則性を見出すように。そして、それを見つけたあとの仕事はとても簡単だった。降ってくる数字を方程式に入力すれば、答えは自ずと出てくる。見た目は複雑だが、本質的には工場の単純作業となんら変わりはない。そして、もうひとつ気づいたことがある。それは、いまの管理職の連中、つまりこの組織の上部の人間たちは、過去に僕と同じ経緯をたどり、僕と同じものを見つけた人たちなのだということだ。つまり、僕はいま彼らと同じ道を歩んでいる。彼らは、僕の将来像なんだ。僕はその時、ある種の絶望のようなものを感じた。どこまでも続くと思っていた線路の、終着駅が見えてしまった。到着するのはあと40年も先のことではあるけれど」
僕は大きく息を吐き、ポケットからフリスクを取り出して食べた。ミントの香りが喉から鼻へ吹き抜けていった。こんなに一気に喋ったのは久しぶりだった。その相手が誘導灯だということも、不思議と気にならなかった。ダムが口を開け、底に溜まった泥を吐き出すように、僕は再び喋った。
「彼らは社会的にはとても真っ当な人たちだ。社会的地位もあり、家庭を持ち、収入もある。至って善良な市民と言える。しかし、ずっとそうであったわけではないはずだ。彼らにもやはり尖っていた時期があったのかもしれない。それは学生時代かもしれないし、この組織に入ったばかりの頃かもしれない。しかし、今はその面影はなく、法則に従って仕事を、そして人間関係をこなしていく。一般的な価値観からすると、とても"まとも"な日々を」
「僕は昔から、少し変わっていると言われてきた。考え方もそうだし、行動もそうだ。僕の興味の対象は多くの人々に理解されなかったし、僕の中では確かな意味を持つ行動が、多くの人から見れば突飛な行動に見えているらしかった。僕はそれを自覚していたし、そういう自分の性質を悪くない物だと思っていた。しかし、就職してから、そういった性質は薄くなっていった。徐々にではあるが、確実に。そして、自分の進んでいる線路の先が見えてきた。僕は、自分が日に日に"まとも"になっていくのを感じる。川底の石が水流に揉まれ、角が取れて丸く滑らかになるように。それが怖いんだ。あるいは、それが大人になるということなのかもしれない。いろいろな人とぶつかる中で、角を削って摩擦を減らしていくことが、この社会で生きていく上では賢い真っ当な生き方なのだろう。つまり、一般的な価値観を迎合し、誰からも嫌われない形に落ち着くことが。でも、それは効率化を推進するあまり個性を消すことと同じだ。僕は、例え多くの人に軽蔑されようとも、目にした者の網膜を焼き、手にした者の皮膚を裂くような、そんな石であり続けたい。僕は彼らのようになりたくない」
僕はそこまで喋ると、再び大きく息を吸った。自分の中にある漠然としたものに言葉を与え、誰かに説明することは、とても気分が良かった。パイプの中の得体の知れない詰まりが取れたような、あるいは怪奇現象に科学的な説明がされたような、強烈な爽快感を感じた。
「いいじゃないか」と緑色の彼は言った。「日本人は出る杭を叩く民族だ。それは日本が島国で単一民族であったことに由来するのかもしれないし、聖徳太子が『和をもって尊しとなす』と言ったからかもしれない。日本の治安はそれで維持されてきたし、高度経済成長が成し遂げられたのもその性質によるところがあるだろう。しかし、いまはグローバル社会だ。人間の性質にも希少価値というものが認められるべきだ。わざわざその価値を潰すことはない。君がいわゆる大人になるということは、白い柔肌の女子高生が日焼けサロンに通うくらい、愚かで意味のない行為だ。君を誘導しよう。君の未来から、君を逃す」
「どうやって?」
「その答えは、この非常扉の向こうにある」
僕は目の前の非常扉に視線を移した。ビルメンテナス会社によって綺麗に掃除されたこのビルにあって、この扉だけは隅に埃がたまり、何年も開けられていないようだった。
僕はそっとドアノブに手をかけた。かあ、とどこかでカラスが鳴いた。
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