第3話 まるごとソーセージ

 僕は地下鉄大手町駅の地上出口で、大きく息を吸った。市場から出荷される野菜みたいに満員電車に詰め込まれて通勤するのには、入社から4年が経ってもなかなか慣れるものではなかった。僕は腰に手を当て、小さく体を反らせた。背骨が、軟骨の中で気泡が弾けるような小さな音を立てた。僕は体を戻し、再び大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと職場に向かって歩き始めた。まだ朝の8時過ぎだったが、太陽はまるでトスされたバレー・ボールみたいに天高く昇り、上空からオフィスビル群の窓をひとつ残らず強烈に白く照らしていた。僕の斜め前では、50代くらいのサラリーマンが、顔中の毛穴から汗を吹き出しながら扇子を片手に息を切らして歩いていた。やがて、前方左手に20階建てのオフィスビルが見えた。まるで県立高校の教師がデザインしたような、平凡でつまらない外観の建物だ。僕の職場はこのビルの15階にある。僕はビルの隣にあるファミリーマートでまるごと・ソーセージとアロエドリンクを買い、ビルの出入り口へ向かった。入り口の自動ドアが避けるように道を開けるのを尻目に、ちょうど口を開けて待っていたエレベーターに乗り込んだ。高層階用のエレベーターに乗ったのは幸運にも僕一人だった。15階で扉が開くと、僕はまっすぐにトイレに向かった。そしていつものように一番奥の個室に入り、鍵を閉めた。便座に腰を掛け、天井に向かって大きく息を吐く。毎朝出勤した後にこの個室で一休みするのが僕の日課なのだ。

 僕は便座に座ってしばらく息を整えた後、ファミリーマートのレジ袋からまるごと・ソーセージを取り出し、音を立てないように注意深く包装を破った。香ばしく焼けたマヨネーズの匂いが僕の鼻を突いた。舌の両脇から大量の唾液が分泌されるのを感じた。僕はゆっくりと包装を剥がし、まるごと・ソーセージの端を一口齧った。ひと噛みすると、弾力のあるソーセージの皮が弾け、中から肉汁が溢れだした。よく捏ねられたパンの上で、焼けたマヨネーズと肉汁が混ざり合い、それをさらに小麦の風味が包み込んだ。僕はこの惣菜パンが学生の頃から大好物だった。仕事の前に人知れずひっそりとこのパンを食べることが、僕の人生の中で一番幸せな時間だった。僕は一口一口噛み締めながらまるごと・ソーセージを齧り、合間にストローでアロエドリンクを飲んだ。体の隅々まで糖分が染み渡るのを感じた。

 まるごと・ソーセージを7割ほど食べた頃、隣の個室に誰かが入ってきた。僕は息を殺し、両耳に神経を集中させた。壁を一枚挟んだ向こう側で、入ってきた誰かが鍵をかけ、ベルトを外し、便座に腰を降ろす音が聞こえた。そして、何度かの咳払いの後、まるで残り少ないケチャップを容器から捻り出すような音が、静寂の化粧室に響き渡りはじめた。僕は思わず舌打ちをした。人が食事をしている隣で大便をするなんて、いったいどういう神経をしているのだろうか。僕はその時、学生時代に何かの本で読んだ内容を思い出した。匂いというのは、その物質が鼻腔内に付着することで感知できる。つまり、大便の匂いを感じるということは、大便の粒子が今この瞬間にも飛散していることを示しており、粒子は時間とともに徐々に周囲の物質に付着するのだ。まるで、冬の日の庭一面に霜が降りるみたいに。僕は慌てて残りのまるごと・ソーセージを頬張り、息を止めた。食事はできることなら美味しく摂るべきというのが僕の持論だった。

 僕はチラリと左手首の腕時計に視線を落とした。安物のアナログ時計が、いかにも気怠そうに秒針を震わせていた。就職が決まった際に仕方なくインターネット通販で買った時計だ。値段はよく覚えていない。たぶん五千円くらいだったと思う。もう少しいい時計を買ってもよかったのだが(ロレックスのような高級品は無理だが、それなりに有名なメーカーの時計を買うくらいの貯金はある)、仕事に使うものに余計な出費をするのは僕の意思に反していた。金の使い道の決定というものは、僕が社会に対して行える数少ない意思決定の一つだ。微々たる金額ではあるものの、自分が支持する物に対して金を流すということは、この資本主義社会における健全な金の使い方であるように思えた。つまり、職場に安い時計を着けて行くということは、僕の身柄を不当に拘束する「敵」に対する、僕なりのささやかな抵抗なのだ。

 時計に視線を戻すと、慌てて秒針が動き出した。この時計は少し目を離すとすぐに仕事をサボろうとする癖があった。まるで深夜の牛丼チェーン店のアルバイトみたいに。もし手首についているのがロレックスだったなら、ディズニーランドのキャストのようなプロ意識を持って時刻を教えてくれるのだろうか。僕はパンの包装を丸めて足下のビジネスバッグに放り込み、ワイシャツとネクタイを整えた。今日身につけているものの一切は、駅前の量販店でまとめて買ったものだ。全身の衣類を合わせても1万円でお釣りが来る。これもまた、「敵」に対する微弱な意思表示のひとつだ。

 僕は個室を出て、洗面台で手を洗い、顔を上げて鏡を見た。鏡に映る僕は、まるで通り魔の卒業アルバムみたいに、何かに対する不満を露わにしていた。僕はハンカチで手を拭き、両手の人差し指で無理やり口角を上げた。通り魔の顔にセロファンテープで貼り付けたような表情が添加された。取って付けたような笑顔でも、無いよりはマシだろう。僕は両手で頬を叩き、まだ口角が上がっていることを確認して、トイレを出た。扉を背にして長い長い廊下を進み、突き当たりを右に曲がると、オフィスの入り口がある。廊下の先には別の扉があり、外へ出る非常階段に続いている。扉の上では避難口を示す誘導灯が、静かに明かりを灯していた。

 その誘導灯は、緑と白の二色で構成されており、パネルの中で緑色の人物が避難口からいまにも走って外に出ようとしていた。職場だけでなくデパートや駅にある誘導灯と同じものだ。僕はその顔のない緑色の人物のことを羨ましく思った。僕も彼の後に続いてその非常階段から外へ走って行くことができればどんなにいいだろうと思った。僕はビルの隙間から見える、雲ひとつ無い晴天を想像した。大手町から皇居まで走り、園内の芝生で空を見上げながら陽の光を浴びるのだ。

「外はとても気持ちよさそうだね」僕は誘導灯に向かって言った。声に出すつもりはなかったが、それは僕の口からはっきりと言葉として発せられた。やれやれ、いよいよ病んでいる、と思った。

「やぁ、雲ひとつ無い青空さ。君はまた朝から便所飯かい?毎日毎日、大変なことだね」誘導灯の中の緑色の人物が、呆れたような口調で言った。

「やれやれ」僕は小さく首を振った。

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