第2話 えんがわとアヒージョ

「ねぇ、アヒージョくん」彼女は僕の耳元で独り言みたいに呟いた。僕たちはベッドの上で抱き合っていた。服は着ていない。僕は彼女の背中に腕を回し、彼女の腕は僕の背中に回されていた。僕は枕の上に頭を乗せ、彼女の頭は僕の肩の上に乗せられていた。はじめからお互いがそういう形に設計されているかのような、隙のない、完全な抱擁だった。彼女が言葉を発する度に、心地よい振動が僕の肩に伝わった。

「なに?」僕は言った。

「私、アヒージョくんのことが好きよ」

「僕も、君のことが好きだよ」とてもありふれた言葉だったが、僕はその言葉にある種の決意みたいなものを込めたつもりだった。

「君のことが好きだよ」彼女は初めて見る単語を辞書で引くみたいに、その言葉をゆっくりと繰り返した。そして小さなため息をついた。「君は、いつまでも私のことを名前で呼んでくれないのね」

「確かに」僕は言った。「でも、厳密に言えば君も僕のことを名前で呼んではいない。何度も言うけど、僕の名前はアヒージョじゃない」

「そういうことじゃないのよ」彼女は呆れたように言った。

「つまりどういうこと?」

「本名であれ俗称であれ、その単語が、あるひとつの個体を示す固有名詞であることに変わりはないでしょう。確かに君の名前はアヒージョではないけれど、私は2回目に君に会ったときに、君のことをアヒージョと定義した。プログラミングコードの冒頭で、君にアヒージョという固有名詞をタグ付けをしたのよ。その時点で君は、少なくとも私との間ではということだけれど、本名と同等のものとしてアヒージョという名前を与えられたの。つまり、その時点から私の言葉には、あなた一人に向けた特別な意味が込められているのよ。他方、君の言葉はいつも不特定多数に向けられている。まるで電子メールの一斉送信みたいに。それはフェアじゃないと思わない?」

 僕は彼女の発する振動を肩に感じながら、部屋の中に視線を泳がせてみた。そこはいつもと変わらない、僕のアパートのワンルームだった。いつもと違うのは、ベッドの脇に僕と彼女の衣服がぐちゃぐちゃに脱ぎ捨てられていることと、ベッドサイド・テーブルの上に飲みかけのグラスと、精液を拭いたティッシュ・ペーパーの山と、口を結んだコンドームが置かれてあることくらいだった。

「プログラミングのことはよくわからない」僕は言った。「でも、とにかく君は君のことを指す固有名詞で呼ばれたいんだね?それが本名かニックネームかに関わらず」

「そういうことになるわね」彼女は言った。

 それから短い沈黙が二人を包んだ。僕は彼女が言ったことについて考えを巡らせてみた。確かに、僕が今まで彼女に対して投げかけた言葉は、どれもオンラインショップからのダイレクト・メールみたいに、無機質で意味のないもののように思えた。僕は、彼女のことを彼女の本名で呼ぶ所を想像してみた。しかし、それはまるで共産主義思想の挿絵みたいに、ひどく現実味がないものに思えた。

「何を考えているの?」彼女は言った。

「君の呼び名ついて」

「別に、本名で呼んでくれてもいいのよ?」

「それはフェアじゃない」僕は言った。「君は僕のことをアヒージョと呼んでいる。僕に何の相談もなく、唐突に。バーカウンターで、注文していないのにアヒージョが出てきたようなものだ。でも、食べてみると案外悪くないものだよ。自分が一番食べたいものが、実際に食べる上で一番美味しいものとは限らない。君にも僕と同じ感覚を持って欲しい」

「ねぇ、君は、私の名前を覚えてる?」彼女は僕の言葉を無視していった。

「三井のぞみ」僕は即座に答えた。そして、文芸書の目次を読み上げるみたいに続けた。「昭和63年10月27日生まれ。血液型はB型。ホテルリッツカールトン・トーキョーでブライダルプランナーをしている。兄妹は二人。一週間前に自宅のエアコンが壊れた。好きな食べ物は、寿司と生春巻き」

「正解」彼女はそう言って、僕に小さくキスをした。幽かな汗とシャンプーの混ざり合った匂いがそっと僕の鼻の頭を撫で、静寂の中に消えていった。

「ことぶき」考えるより先に言葉が唇を通り過ぎた。僕は言い訳をするみたいに言った。「君は寿司が好きだから、一文字目を訓読みして、ことぶき。僕がアヒージョだから、食べ物つながりで。縁起もいいし、字面もいい。どうかな?」

「キモい」彼女は耳元の虫を払うみたいに言った。率直で、凛とした、気持ちのいい拒絶だった。「ねぇアヒージョくん、もう少し真面目に考えて。これは、とても大切なことなのよ。定食の小鉢を選んでいるんじゃないのよ」

 僕は職場の食堂の日替わり定食を思い浮かべた。A定食のつけあわせの小鉢は、ひじき、きんぴら、キムチから一つ選べるシステムなのだ。そんなにダメだっただろうか。寿という単語は縁起がよく、響きも悪くないもののように思えた。僕は彼女が好きだったし、好きな女性に縁起のいい呼び名をつけることは、一種の思いやりのように思えた。彼女の呼び名に対して、彼女の意向を無視して自分の提案を貫くことも、あるいは可能かもしれない。だが僕は彼女の率直な拒絶を受け入れることにした。それが最も適切な方法であるような気がしたのだ。僕は再び自分の部屋を一瞥した。部屋の端にある本棚には、分厚い海外の小説と資格の参考書がインテリアみたいに並んでいた。枕元のデジタル時計の液晶が変わり、時刻は23:31になった。僕は寿司のことを想像してみることにした。新しいヒノキの香りが漂う清潔な店内で、まるで将棋の駒を指すみたいに、大将の手から白く光るものがカウンターに置かれた。客は僕の他には誰もいない。僕は魚編の漢字が隙間なく埋められた湯呑みで緑茶を一口飲み、カウンターの上をじっと見つめた。それは紛れもなく寿司だった。しかも極上の寿司だ。白く光るシャリが、いかにも脂の乗ったえんがわをふわりと羽織っていた。僕はえんがわを注意深く手にとり、口の中に入れた。醤油はつけなかった。口に入れた途端、砂浜に作った城を波が攫うみたいにシャリが舌の上を流れ、えんがわ特有の鼻の奥を滑るような脂の風味と酢飯の香りが味覚を支配していった。とても美味い寿司だった。寿司、というより鮨という方が適切であるように思えた。この寿司の前では、寿という単語が持つ縁起の良さが、ひどく陳腐なものに見えた。才能ある役者の舞台には余計な演出が不要であるように、本当に美味い食べ物にはゲン担ぎなど不要なのだ。彼女はそのことを怒っていたのだろうか?だとするならば、余計な捻りは加えず、もっと率直になるべきなのだろうか。「えんがわ」と僕は言った。

「えんがわ」彼女は僕の言葉をそのまま繰り返した。

「そう、えんがわ。寿司屋で最初に頼むネタ。扱いが難しいけれど、腕のある職人が握ればこれ以上のネタはない」

「素敵」彼女はそう言って、僕の乳首を咥えて舐めた。僕の背中に回った彼女の腕が、僕の体をさらに強く抱きしめた。「えんがわ。素敵な名前。アヒージョくんには言ってなかったけど、私、えんがわが大好きなのよ」

「えんがわとアヒージョ。とてもミステリアスな組み合わせのように思える」

「和洋折衷」

「あるいは」と僕は言った。窓の外から、鈴虫の羽音が聞こえた。心地よい、夏の夜だった。「ねぇ、えんがわ」

「なに?アヒージョくん」

「僕は、えんがわのことが好きだよ」僕は言った。胸の奥で、心臓が出力を上げた。

「正解」彼女はそう言って、僕にキスをした。深く、濃厚な口づけだった。

 そうして、僕たちは恋人になった。

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