葛西のスペイン・バル

村上はがす樹

第1話 スペイン・バルとムラカミハルキ

「ねぇ、今年のハルキはノーベル文学賞を取れるかしら」彼女はカウンターに両肘をつき、サングリアが並々に入ったグラスを揺らしながら尋ねた。僕は彼女の左腕にかかっている腕時計を見た。小さな文字盤の中で秒針が申し訳なさそうに時刻を刻んでいた。今日はノーベル賞受賞者の発表日であり、発表まではあと3時間と少しというところだった。ここ1週間ほど、ムラカミ・ハルキがノーベル文学賞を取れるかどうかが、お昼のワイド・ショーやインターネット掲示板の格好のネタとなっていた。僕はそっと店内を見渡してみた。カウンターの先には様々な種類の酒瓶が壁一面に並んでおり、店主は巨大な豚の足から注意深く生ハムを削ぎ取っているところだった。ムラカミ・ハルキ。スペイン・バルのカウンターで取り上げる話題としては、悪くないもののように思えた。

「取れるかもしれないし、あるいは取れないかもしれない。それは誰にもわからない。明日の上司の機嫌がわからないのと同じように」僕はそう言ってウィスキーのオン・ザ・ロックを飲んだ。上手い例えを思いついた後の一口は、僕を幸福な気分にさせた。

「でも推測することはできる」彼女は笑顔を浮かべて言った。「例えば、明日の上司のスケジュールを確認すればいい。そうでしょう?」彼女はそう言うとグラスに入ったサングリアを一口だけ飲んだ。その横顔はとても幸福そうに見えた。

僕は彼女の手が好きだった。彼女の白く小さな手からは、触れるまでもなくその柔らかさを感じることができた。指先の爪には派手な装飾はないが、しかし丁寧に手入れされていた。小さな両手でサングリアと氷の入ったグラスを揺らす仕草は、そのまま美術館に展示したいくらいに美しかった。僕はカウンター席で彼女がグラス口をつける時の横顔を見るのが好きだった。今日の彼女は夕陽のような柔らかな照明に輪郭を照らされ、これから何かが始まりそうな神秘的な雰囲気を纏っていた。ふと、彼女が握るグラスの縁に、薄く口紅の跡が付いているのが見えた。僕はそのグラスを舐めたいと思った。

 僕は慌てて視線を逸らし、誤魔化すようにウィスキーのオン・ザ・ロックを飲んだ。こんなところで勃起をしてしまったら、きっと彼女は幻滅するだろう。彼女のとデートは今日で4回目であり、そろそろ進展があっても良い頃合いだった。男女の関係におけるこのような微妙な時期には、性的な思惑は隠すべきだと、僕は経験から学んでいた。もちろん、僕は彼女を抱きたかった。初めて会った時から僕は彼女に対して確かな好意を持っていたし、その感覚はデートを重ねる度に強く、シャープなものになっていた。僕は27年間の人生の中で、女性に対してこれほどまでに強く好意を抱いた経験はなかった。幸福なことに、彼女は僕と同い年だった。僕はいままで何人かの女性と関係を持ったが、同級生のガールフレンドができたこと一度もなかった。出会ってから一ヶ月ほどしか経っていないが、僕は彼女との間に何か運命的な、見えないくらいに細くてとても頑丈な縁のようなものを感じていた。

「ねぇ、アヒージョくん」彼女は僕の耳に近づき、囁くように言った。僕の苗字はアヒージョではないし、もちろん名前もアヒージョではない。とてもありふれた、日本人的な名前をしている。しかし、何回目かのデートの途中で好きな食べ物は何かという質問に対してアヒージョだと即答してから、僕は彼女からアヒージョと呼ばれている。

「なに?」

「エッチなこと考えてるでしょ?」

「考えてない」僕は考えるより先にそう答えた。

「嘘」彼女はまるで森の中で妖精でも見つけたみたいに、小さな声で、そっと僕の股間を指さして言った。「ボッキしてるもん」

「してない」僕はなるべく冷静に、そして力強く言った。僕は下半身に意識を集中してみた。幸いなことに、まだ勃起をしているような感覚はなかった。「これは勃起じゃない。スラックスの皺が、座るとそう見えるだけだよ。僕は村上春樹のノーベル賞の話題で興奮するような変態じゃない。そして僕の名前はアヒージョじゃない」

「絶対嘘。じゃあ、触って確かめてみてもいい?」

「だめ」

「どうして?」

「まず第一に」僕は頭を整理しながら、ゆっくりと、おはじきを1つずつ数えるみたいに言った。「ここは公共の場だし、僕はこの店が気に入っている。ここは僕の家からも近いし、ワインとアヒージョが美味しいし、そしてリーズナブルだ。僕は仕事帰りに一人でここに来ることもある。僕はお酒を飲むとすぐ顔が赤くなるけど、酔っ払って騒ぐこともないし、飲んだら長居をしないで帰るから、とても優良な客なんだ。それもあって、マスターや店員さんにはすごく良くしてもらっている。君と飲むのはとても楽しいけど、そういった軽率な行動でこの店での信頼を失いたくない。そして第二に」僕はできるだけ真剣に、彼女の目をまっすぐに見ながら言った。「君に触られたら本当に勃起してしまう」

 彼女は小さく笑った。どうやら彼女は僕の説明に満足したようだった。「ごめんね、アヒージョくんをからかうの好きなの。君は真剣な顔をして少しズレたことを言うから」

「僕はズレている自覚はないんだけど」

「そういうのって、本人にはわからないのよね。長い時間船に乗っていると、床が揺れていることに慣れてしまって、陸に降りた時に違和感を感じるように。ねぇ、私もこのお店が好きよ。本当はもう少し居たいけど、私、お酒が入ると変なこと言っちゃうから、そろそろ出ようか。まだ優良な客であるうちに。でも、また連れてきてね。いい子にしてるから」

 僕はフロアの店員を呼んで伝票を受け取り、会計を済ませて店を出た。彼女からの提案で、支払いは割り勘にした。店を出るときに、マスターがドアの外まで見送りに出てきて、いつもありがとうございます、と言った。僕は手を上げてそれに答え、彼女はとても丁寧な笑顔で、お料理もお酒もとても美味しかったです、お店もとてもおしゃれで雰囲気もいいし、すごく気に入りました、また来ます、と言って、ゆっくりと会釈をした。その後の、下がった髪を耳にかける仕草が美しかった。

 僕と彼女は駅に向かって歩いた。駅を通り過ぎて少し歩くと、僕のアパートがある。僕は左手の時計を見た。就職したときに買ったセイコーは、いかにも律儀に20:30を示していた。

「まだ少し早いけど、もう帰る?」僕は義務的に尋ねた。

「今日はとても楽しかったよ」彼女は僕の質問を無視して言った。彼女はハンドバッグを大きく振りながら歩いていた。無邪気な笑顔がとても印象的だった。「ねぇ、アヒージョくん。今日は何曜日だっけ?」

「金曜日」

「明日は?」

「休み」

「そして?」

 僕は彼女の方を見た。彼女は遠足に来た少女みたいに、すごくご機嫌そうに見えた。

「君に一つ謝りたいことがあるんだ」僕は満を持して言った。

「なに?」

「さっきのバルで、ひとつ嘘をついた」

「あ、やっぱりボッキしてたんでしょ!」

「勃起はしていない」僕はやはり冷静に力強く言った。「でも、エッチなことは考えていた」

 彼女は笑った。「ほら、ムラカミ・ハルキの話題でエッチなことを考えるなんて、やっぱり変態じゃない」

「違うよ」僕は言った。「君のことを考えてたんだ。君はとてもきれいで、魅力的だよ。君の手と口紅を美術館に展示したいくらいに」

「美術館?口紅?」彼女は少し考えてから笑った。「バカだなぁ君は」

 そして、僕たちはセックスをした。

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