第45話 忘れ物

  6  忘れ物


「アトリはこれからどうするんだ?」


 グラスを片づけていたアトリは、きょとんとしてジャスパーを見つめた。


「どうするって、何をですか?」


「アトリがアルディラさんに魔法を教わってたのは、妖精狩りと戦うためだろ。あいつはもうやっつけた。これからも冒険者を続けるのか?」


「……先のことはしっかり考えていませんでした。とにかく魔術を覚えることしか頭になくて、気がついたら倒してしまっていたような気分です。まだ少し信じられないというか……」


「それもそうか」


 ジャスパーは椅子の背にもたれ、天井を眺めた。


「一度にいろいろあったしな。オレも登録してから三日しか経ってないなんてピンとこない」


「あまり先のことは分かりませんけど、しばらくは冒険者を続けると思います。まだアルディラさんに何も恩返しができていませんし、この先何をするにもお金は必要ですから」


「……そういうのはルピニアが得意そうだな。まだ金に慣れてないだろうけど、そのうちあいつが財布を握るような気がする。変なとこで几帳面だしな。鍋なんて次の冒険のときでいいのに」


 呆れ顔のジャスパーにアトリも苦笑を返した。


「あるべきものが揃っていないと、落ち着かないのかもしれませんね。なんとなくルピニアさんらしいです」


「あるべきもの、か」


 ジャスパーが眉を寄せる。アトリはその表情に見覚えがあった。


「……どうかしましたか?」


 アトリはトレイをテーブルに置き、ジャスパーに向き直った。


 彼は今朝もこんな表情を浮かべていた。あの時はエドワードに割り込まれたが、ジャスパーが問おうとしていた内容も同じだったのだろう。彼は何か大事なことを口にしようとしている。


「背中の羽」


 ジャスパーは言いにくそうに口を開いた。


「よく分からないけど、隠すのって大変なんだろ。服とかいろいろ。これからも隠していくのか」


「……迷っています」


 アトリはわずかにうつむいた。


「今日だけでもたくさんのひとに知られてしまいましたし、もう隠しても意味がないかもしれません。でも、事情を知らないひとはもっと多いです。ちぎれた羽なんて見せられたら困ると思います」


「見せられたほうが困る? なんだそれ」


「ジャスパーさんは、たとえば腕や脚を失くしたひとを見たらどう思いますか? 何があったんだろう。どう接したらいいんだろう。どんな話題なら大丈夫なんだろう。そんなふうに気を使ってしまいませんか」


 ジャスパーはしばし考え込み、やがてうなずいた。


「ああ。最初はちょっと困ると思う」


「最初だけですか。ずっと困るのではなく?」


「そりゃ最初だけだろ。知らなくても困らないなら聞かないし、仲良くなったら気にしない」


「こっそり他のひとに聞いたりしないんですか」


「しない。知らないところで身体のことをひそひそ言われるのはいやだろ。オレだっていやだ。それくらいなら本人に聞く。オレもはっきり聞いてくれれば答える」


 アトリは目を細めてジャスパーを見つめた。


「ジャスパーさんは本当にまっすぐですね。そんなひとばかりだったらいいのに」


「エルムによく言われる。オレみたいな奴ばかりだったら世の中は平和になるって」


 ジャスパーが肩をすくめる。


「だけどエルムみたいな奴だって必要だと思う。あいつは何年も先のことを考えられる。オレなんか明日の食べ物くらいしか考えないぞ」


 アトリは吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。


「ご、ごめんなさい。ジャスパーさんらしいです。本当にエルミィさんと仲良しなんですね」


 ジャスパーは複雑そうに眉を寄せた。


「難しいことはいつもあいつに頼ってる。本当はそれじゃいけないんだろうな。今だって言いたいことがあるのに、言葉が浮かばなくて困ってる」


「……わたしが羽を隠すことについて、ですよね。ジャスパーさんは反対ですか」


「反対っていうほど考えがまとまってないんだ。なんかすっきりしないっていうか」


 ジャスパーは腕組みしながらうなった。


「ずっと羽を隠して生きるつもりだった、って言ったよな。そのときは仕方なかったと思う。だけど今のアトリは違う。もうそんなのは違うだろって思うんだ」


「今は、違う……?」


「アトリは羽を失くしたんじゃない。生きるために自分で捨てたんだ。ひとがどう思うかなんて関係ないだろ。それに、アトリは羽がなくても強くなろうって頑張ってる。そういうのは恥ずかしくなんかない」


 アトリは息を呑んだ。心の深いところで大きな鐘が鳴ったかのように、力強い響きが胸を震わせた。


「自分でちぎった羽は傷じゃない。隠してたらいつまで経っても自信を持てない。そんなのは良くない。こうやって生きてきた、これからも生きていくんだって、みんなに見せてやればいいじゃないかって……ああもう、やっぱりうまく言えない」


 ジャスパーが苛立たしげに髪をかきむしる。


「……この羽は、わたしが自分で道を選んだ証ということですか?」


「そうなんだけど、もっとこう、ぴったりの言葉があるはずなんだ。それがどうしても出てこない」


 アトリは胸に手を当て、目を閉じた。


 力強い風が胸の奥まで吹き抜けていくようだ。心のどこかにかかっていた霧が晴れていく。その向こうから忘れていた何かが浮かび上がってくる。


 いつから見えなくなっていたのだろう。それは誰もが心に宿す、失くしてはならない輝かしいものだった。


「ああ……」


 深い息が漏れた。熱く湧き上がる思いが胸を満たし、透明なしずくとなってこぼれ落ちる。


 ――ずっと……ずっと忘れていました。こんな言葉がわたしの中にもあったんですね。


「あ、アトリ。ごめん、オレ何か悪いこと言ったか。だったら謝る」


「……悪いことなんて何もありません」


 アトリは頬をつたう涙をぬぐい、微笑んだ。


「分かったんです。この羽の意味も、わたしがこれからどうしたいのかも。ジャスパーさんのおかげです」


 濡れた瞳に確たる意志の光を宿し、アトリが穏やかに笑う。ジャスパーは慌てて両手を振った。


「結局オレは何を言いたかったのか、よく分からないんだ。オレのおかげとか言われても」


「大丈夫です。ジャスパーさんの言いたかったこと、ちゃんと分かりました。ありがとうございます」


 困惑するジャスパーに頭を下げ、アトリは足早に部屋を出ようとした。

 その足が不意に止まる。


 アトリはもどかしげに何度も首を巡らせた。その視線は扉とグラスを往復し、どちらにも止まりかねているようだった。


「……何かやりたいことがあるのか? グラスくらい代わりに片づけるぞ」


「ごめんなさい、お願いします!」


 アトリはジャスパーに背中を向けるや勢いよく扉を開け放ち、部屋の外へ駆けていった。




「……アトリもあんなことするんだな」


 ジャスパーは開いたままの扉を眺めて唖然とした。


 自分が何を伝えたかったのか未だにはっきりしない。そんな自分の言葉からアトリは何を受け取ったのだろう? 彼女が何か大切なものを見つけたのなら、自分も喜んで良いのだろうが……。


「たぶん、いいことしたんだよな」


 放置されたグラスを片づけながら、ジャスパーは何度も首をひねっていた。

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