第39話 帰還
13 帰還
村を照らす日差しは柔らかく、風は穏やかだった。
大きな木製の扉の上で、吊り看板が静かに揺れている。葉の茂る枝をあしらった円状の枠に囲まれ、向かい合ってさえずる二羽の小鳥。
「帰ってきましたね……」
止まり木亭の看板を見上げ、アトリが感慨深げにつぶやいた。
「なんだかすごく久しぶりな気がするね。たった一日しか経ってないのに」
「……せやな」
あいまいに応じたルピニアの表情は険しい。
「なんだ、難しい顔して。何か気に入らないのか?」
「別に。アルディラはんに何から聞いたろうか考えとっただけや」
「まだ怒ってたのか。オレはややこしい話はあとでいいから昼寝したい」
ルピニアは肩をすくめた。
「あんたはシンプルでええな。ウチはなんかモヤモヤして落ち着かんわ」
「今回はジャス公に賛成だ。さっさと報酬にありついて寝てえ」
「同感だな。俺もいい加減こいつを下ろしたい」
口々に言いながら、エドワードとケインが横に退き四人に道を譲った。
「先輩たちどうしたの?」
エルムが首をかしげる。
エドワードは親指で扉を指した。
「俺らが開けちまったらつまらねえだろ」
「最初の冒険だからな。その扉はお前たちの手で開けるといい」
四人は顔を見合わせ、うなずきあった。
四つの手が木の扉に重なる。
「せえの」
掛け声は自然と唱和した。
押し開けた扉の向こうから大勢の話し声、飲食物や紫煙の匂い、むっとする人いきれが一度にあふれ出た。
大声で笑いあい、杯を交わす冒険者たちがいた。
隅のテーブルでひそやかに商談をする者たちがいた。
賑やかに楽器を奏でる者がいた。
調べに耳を傾けながら武器を磨く者がいた。
四人を包んだ空気は生の気配に満ち、心地よい重さすら感じさせた。
――生きて、帰ってきたんだ。
長く濃密な一日の果てに味わう止まり木亭の空気に、ジャスパーの胸は静かに震えた。
これが冒険者として最初の帰還だ。この先、自分たちが何度この扉を開くことになるかは分からない。それでもこの瞬間を忘れることは決してないだろう。エドワードもケインも、そして止まり木亭に集う多くの冒険者たちも、きっと同じ思いを胸に刻んでいるに違いない。
「……」
目を細めて店内を眺めていたアトリが、不意にうつむいた。羽織った毛布は胸の前できつく握られている。
「どうかしたんか、アトリ」
「いえ……」
うなだれるアトリの肩を、遅れて入ってきたケインが軽く叩いた。
「あいつらのことを考えてくれたんだな」
「……本当ならあのひとたちも、胸を張ってこの扉を開けられたはずなんです」
ルピニアは言葉に詰まった。
ケインが率いていた五人の初心者たちは、不運にも最初の冒険で妖精狩りの罠にかかり、逃げ帰らざるを得なくなった。彼らの失敗にアトリが責任を感じないはずがない。
「気持ちは分かるが自分を責め過ぎるな」
ケインがゆっくりと首を振る。
「あいつらは別に死んだわけじゃない。今回は運が悪かっただけだ。次こそ成功するよう祈ってやれ」
「一度も失敗しねえ冒険者なんざいねえよ。次はお前らが泣く番かもしれねえ。今回は素直に喜んどけ」
「エドワード先輩でも失敗を?」
「でなきゃ借金なんざしてねえ」
エドワードは肩をすくめ、喧騒に満ちた酒場の奥へ歩き出した。
「さっさと来い。女将に報告すりゃ仕事は終わりだ」
定食屋区画は酒場の奥にあるいくつかのテーブルを簡易的に区切った空間であり、未熟な冒険者とその先導となる中堅冒険者が主に利用している。
この区画を取り仕切る女将ことアルディラは、カウンターと奥の厨房を忙しく往復しながら給仕と調理人に指示を飛ばしていた。
「あら、帰ってきたわね」
厨房から出てきたアルディラは手に大皿を持っていた。皿には大雑把に切り分けられた生肉の塊が載っている。ジャスパーがわずかに眉を寄せたのをエルムは見逃さず、くすくすと笑った。
アルディラは六人を見回し、縛られた細目の男に目をやり、最後にルピニアに視線を戻した。
「言いたいことがたっぷりありそうな顔ね。でもまあ、とりあえず昼の四の鐘くらいまで寝てきなさい。憲兵は呼んでおいたけれど、どうせ到着するのは夜になるわ」
「遅く起きたひとたちの食事ですよね。手伝いますか」
アトリの申し出にアルディラが首を振る。
「あなたが休まなくてどうするの。それとケイン、ちょっとそいつを下ろして」
アルディラは手近な椅子に座らされた細目の男を冷ややかに睨み、片手を突きつけた。
「――〈束縛せよ。解き放つ鐘の響くまで〉」
光る縄が細目の男の全身を余さず縛った。ジャスパーを拘束したものよりも数段太い。素人の目で見ても並の魔法ではちぎれそうにないと思えた。
「いいわ。倉庫に放り込んでおいて。エドとケインも、悪いけれど話は少し待ってくれないかしら」
「構わねえよ。ちょうど昼寝したかったところだ」
「いいだろう」
ケインが再び細目の男を担ぎ、裏口から出て行く。
「文句はあとでしっかり聞くわ。あなたたちはとにかく一度宿に戻ること。いいわね」
「ルピニアちゃん、一休みしようよ。ボクもちょっと休まないと頭が働きそうにないし」
「……せやな。そうさせてもらうわ」
ルピニアがきびすを返し出口へ向かう。その背を見送り、エルムはため息をついた。
「ごめんねアルディラさん。たぶん、ルピニアちゃんは何をどうしたいのか自分でも分からないんだと思う」
「心配ご無用。伊達に年は食っていないわ」
アルディラはカウンターに大皿を置き、肉の塊に人差し指を向けた。
「〈来たれ。汝は炎。汝はつぶて〉」
アルディラの指先に小さな炎が宿ったと思うと、肉塊に飛び移り燃え上がった。
呆気にとられるジャスパーらの前で肉と脂がじゅうじゅうと音を立てる。
食欲を刺激する香ばしい匂いが漂い始めたところで、アルディラはぽんと両手を打ち合わせた。
炎が唐突に消えた。
アルディラは腕組みし、小さくうなった。
「……少しミディアム寄りになっちゃったかしらね」
再び厨房に姿を消したアルディラを見送り、四人は止まり木亭を後にした。
ジャスパーは扉を閉める前に店内を振り返った。
少し奥の壁際に、客用ではない机と椅子が設置されている。壁には張り紙があり、「冒険者登録受付。夕の一の鐘から夕の四の鐘まで」と書かれていた。
受付時間まではだいぶ間がある。誰もいない机と椅子は、喧騒の中でぽつりと取り残されているように見えた。
「どうしたの? ジャスパー」
「オレたちがそこで登録したのって、たった三日前だろ。なのにずっと昔のことみたいでピンとこないんだ」
エルムは微笑んだ。
「いろいろあったものね」
「なんか懐かしい気がする。ただの机と椅子なのにな」
「そうですね。わたしも見慣れているはずなのに、そんな気がします」
「死にかけて帰ってくりゃ、何を見てもそんなもんだ。場数を踏んでもそいつは変わらねえ」
「……なんとなく分かる気がする」
ジャスパーはうなずいて扉を閉めた。
日差しは少し強くなっていた。心地よい風に乗って、朝の終わりを告げる鐘の音が村に響いた。
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