第35話 ひとりじゃない
9 ひとりじゃない
治療を受けている間、アトリはうつむいたまま何度も口を開きかけてはつぐんでいた。
「無理にしゃべらなくていいよ。ルピニアちゃんと一緒に休んでて」
アトリの傷がふさがったことを確認すると、エルムは細目の男を縛り上げているジャスパーのもとへ歩み去った。
「まあこっち来て座り」
壁際に座り込んだルピニアが床を軽く叩く。
「……はい」
アトリは重い足取りでルピニアの隣へ歩き、正座した。
黙ってうつむくアトリの背中で、ちぎれた羽が所在なげに震えている。羽は半透明な薄絹のようでありながら、光が当たると澄んだ緑色にきらめいた。朝露がきらめく若葉を思わせる、瑞々しく柔らかな輝きだった。
「綺麗な羽や……」
ルピニアはうっとりと息をついた。
「触られたら痛いんか?」
「いえ……」
「なら大丈夫やな」
ルピニアは身を固くしているアトリの肩に腕を回し、抱き寄せた。
「……あの」
「ええよ。しゃべらんでも。その分ウチがしゃべったる。覚えとるか、おとといウチがアトリの部屋に押しかけたやろ。ウチの名前は半分がオオカミや、物騒やろって話したな。あのときアトリはなんて答えたか覚えとるか」
アトリは力なく首を振った。
「ウチは覚えとる。嬉しかったから覚えとる。狼は賢くて仲間想いやから素敵や言うてくれたんや。けどな、ほんまにフライパンで男をぶん殴るオオカミやで。あれ見てまだそう思ってくれるか?」
「……ルピニアさんは素敵です。強くて、颯爽として、優しいです」
「ありがとな。けど、それ言うたらアトリは穏やかで、強くて優しいやんか。ウチには真似できんわ」
アトリが再び首を振る。
「強くなんてありません。優しくもありません。理由も言わずにこんなことに巻き込んで、後ろで守ってもらうだけでした。そんなこと……言ってもらえる資格なんて」
「アホやな。ウチらに説明せなあかんかったのはアルディラはんや。前で戦うんもアトリの仕事やない。ええか、アトリはエドを押し切ってあの五人を助けたんやで。弱いとか優しゅうないとか抜かす奴がおったら、ウチがぶん殴ったる。あの妖精狩りもしつこくアトリを追い回しといて、何が『無闇に逃げ回るからですよ』や。ひとの仲間をコケにしよって。顔面潰れてええ気味や」
「……なか、ま」
「仲間やろ。一緒に肉食べて、キノコ刈って、くだらん話で笑うて、バケモノと命がけで戦って。それが仲間やなくてなんや」
ルピニアは身体ごと向き直り、アトリを抱きしめた。
「一人やったんやな。あんな奴に追われとったから。誰も巻き込まんように一人になるしかなかったんやな。もうええんや。あいつはもうおらん。今度また出てきよっても四人で叩き潰したろ。もう我慢せんでええ。怖いとか辛いとか寂しいとか、いくらでも言うたらええんや」
「わたし……は……」
アトリが途切れ途切れにつぶやく。
「ずっと……怖かった……苦しくて……疲れました……」
ルピニアは静かにアトリの頭を撫でていた。
「……一人は……もう……いやです……」
「もう一人やない。大丈夫や」
抱きしめた腕の中で小さな肩が震える。
かすかな嗚咽が漏れる。
それはまたたく間に堰を切った。
アトリは声を上げ、泣いた。
「……あっちはとりあえず大丈夫そうだな」
「ジャスパーの傷も浅くてよかったよ」
エルムが安堵したように息をつく。
「剣で切られたわけじゃないし、そんなに心配することじゃ」
「それはそれで問題なの」
エルムは口の前に指を立て、ささやいた。
「魔法の怪我のほうがひどかったなんて分かったら、アトリちゃんが気にするでしょ」
「それもそうか。分かった、黙っておく」
ジャスパーは鎧の傷を指でなぞった。
「本当はもっとズタズタにされるかと思ったけどな。あれくらいで済んだのが不思議だ」
「きっと優しい精霊だったんだよ。アトリちゃんがみんなを守りたいって願ったから、応えてくれたのかもね」
「そうかもな。……だけど守るって言えば」
ジャスパーはエルムの肩に手を乗せた。
「エルム。お前だって守れたじゃないか」
エルムは意表を突かれたように目をしばたいた。
「今日お前がいなかったらアトリは捕まってた。オレもルピニアもたぶん死んでた。昨日だって、お前がいなかったらアトリが
「そう、なのかな」
エルムは横を向いた。視線の先ではルピニアがアトリをあやすように抱きしめている。
「でもボクだけじゃ無理だった。アトリちゃんを数に入れてもまだ一人。まだ一回だよ。全然届いてない」
「それでも一回は一回だろ。お前は前に進んでる」
「……そっか。うん。そうかもね」
かすかに震えるエルムの肩を放し、ジャスパーは足元に横たわる細目の男へ目を向けた。
細目の男はバッタモンド商会特製の細く丈夫なロープで念入りに縛られている。目を覚ます気配はなかったが、負傷のわりに呼吸はしっかりしていた。
「それにしてもこいつ頑丈だな」
ジャスパーは顔をしかめた。
「顔を見てたらもう一発殴りたくなってきたぞ」
「それはだめだよ。ボクたちには、このひとを勝手に傷つける権利がないもの」
エルムが苦笑しながら首を振る。
「どういう意味だ?」
「説明はあとで。それより先輩とケインさんの様子を見てくるね」
「……いけね、すっかり忘れてた」
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