第34話 風が吹くとき
8 風が吹くとき
「ぐむうっ」
深鍋を頭に被せられ、男が闇雲に剣を振るう。
「雑だよ」
エルムは易々とその脇に滑り込んだ。
敵が正確に剣を振るっている間は隙を見出せなかったが、両脚を傷め視界すら失った今なら話は別だ。
剣の柄と右腕を横から掴む。腕を振り下ろす勢いをそのまま利用し、男をうつ伏せに引き倒す。
その流れのまま腕と手首を掴んで後ろ手にひねり、関節を極める。たまらず剣を落とした男の背中に腰を下ろし、動きを押さえつける。
しかし痛みに耐えてもがく男を押さえつけておくには、エルムの体重は軽すぎた。さながら暴れ馬に跳ね飛ばされまいとしがみつく騎手だ。いつまでも押さえていられるとはエルムにも思えなかった。
「アトリ、魔法や!」
叫ぶルピニアの息は荒い。彼女の隠し玉である固有技能、肉体強化も万能ではなかった。骨格や筋肉を強化できる時間は限られており、力を引き出すほどに反動による消耗が激しくなる。短時間でも全身を強化し、成人男性を凌駕する力を引き出した代償は小さくなかった。
アトリは杖を手に立ち上がったものの、使うべき術を決めかねていた。
今はエルムが敵と密着している。火弾の術や火花の術では、炎が確実に両者を燃やす。術の威力を高めるほどエルムの命は危険にさらされる。
睡魔の術は論外だ。最悪の場合エルムだけが倒れ、敵は一切の傷を負わずに解放されてしまう。そうなればもう接近戦闘に耐えられる者はいない。敵は今度こそ何の障害もなく三人を殺すだろう。
「アトリちゃん、ボクはいいから魔法を!」
「エルミィさん……」
アトリは杖を握り締め、ひたすら思考を巡らせた。
他に方法はないのか。できることはないのか。必死に自分を守ってくれている者を巻き添えにするなど――
「アトリッ!」
予想外の方向から大声がした。
どうにか身を起こし、膝立ちしたジャスパーが叫んでいる。
「オレに、攻撃魔法だ! 思いきりやれ!」
アトリは目を見開いた。
最適の術が瞬時に導き出される。
呪縛の術を破りうる攻撃魔法。精霊がいない地下では使えないからと、実演しなかった術。
しかし今なら。風の加護を受けたこの羽が、露出している今なら。
――ジャスパーさんなら、きっと耐えきる!
アトリは躊躇なく杖を捨て、両手を広げた。
ちぎれた羽が立ち上がり、淡い緑色の輝きを帯びる。
密室に風が吹いた。
春風を思わせる穏やかな気流。
アトリの髪がなびく。彼女の帽子がふわりと浮き、石床に舞い落ちた。
風は離れたジャスパーの頬を撫で、柔らかな香りで彼を包んだ。
優しい風。温かい風。懐かしい風。
「花の、匂い」
我知らずつぶやくジャスパーの耳に、凛と響く声があった。
「風の乙女。羽のともだち。あなたの力を貸して」
高く澄んだ声。祈りに似た強い思いがジャスパーの胸を駆け抜けていく。
「あのひとの戒めを解いて。わたしに、このひとたちを、守らせて!」
羽が強く輝いた。
風が走った。
一瞬、身体が浮きそうな烈風がジャスパーに吹きつけた。
皮鎧が軋む。吹き飛ばされまいと耐えるジャスパーの全身に、小さな衝撃がいくつも走る。
風が吹き抜けると魔法の縄は各部で寸断されており、ぼろぼろと崩れながら落ちていった。
足元のショートソードを掴み、ジャスパーは立ち上がった。
鎧に数条の浅い傷がつき、衣服には裂け目がいくつもできている。身体の各所を切り裂かれたが深手ではない。痛みも無視できる程度だ。
細目の男がついにエルムを跳ね除け、強引に深鍋を頭から引き抜いた。
「ぐうっ……」
細目の男が痛む両脚に鞭打ち、剣を手に立ち上がる。
ジャスパーは雄叫びを上げ、駆けた。
それはまさしく解き放たれた獣の疾走だった。
――迷ったらど真ん中、だけど!
駆けるジャスパーには何の迷いもなかった。
狙うべき場所は一箇所しかない。手数で押す戦術も却下だ。小刻みな攻撃など我慢がならない。力いっぱいの一撃を叩き込まなければ気が済まない。
「ルピニア!」
駆けながら叫ぶ。躊躇せず距離を詰める。
細目の男が長剣を振り上げ、迎撃の構えを取った。
しかし長剣の間合いに入るより早く、ジャスパーはショートソードを思いきり投げつけた。
刃が空を裂き、投げ槍のごとく細目の男に迫る。
「おおっと!」
細目の男がとっさに剣で横へ弾く。
一瞬冷や汗を流しつつも、細目の男は勝利を確信した。
たしかに意表を突いた、危険な一撃だった。力も速度も十分だった。ただし後先を考えない博打だ。唯一の武器を手放すとは無謀に過ぎる。
突進するジャスパーめがけ、細目の男が剣を切り返す。
その目が驚愕に見開かれた。
ジャスパーの手は、横から飛んできたフライパンを空中で掴んでいた。
長剣の間合いに入ったジャスパーに刃が迫る。
しかし、ジャスパーはその攻撃を最初から予測していた。
敵は両脚の踏ん張りが利いていない。先ほどまでとは比べ物にならないほど力の抜けた一撃だ。
――エルム、借りるぞ。
ジャスパーはフライパンの底で剣を受けると同時に、右足を後ろへ引いた。
身体を右にひねる。
剣の腹をフライパンの底面で横へ押す。
力が右へ流れ、剣がジャスパーの右側を通過していく。
普通の戦士であれば、避けられない攻撃は踏み込んで受け止めるか、弾こうとする。ジャスパーの動きはそのどちらでもない。一歩引き、相手の力を上滑りさせる技はエルムの杖術を真似たものだ。
想定外の方向に受け流され、細目の男は体勢を崩した。
流された剣を止めようと両脚に力を込めた瞬間、激痛が細目の男の身体を駆け抜ける。
男の動きが一瞬止まった。
その遅滞はジャスパーにとって十分な隙だった。
「せぇのっ!」
床を踏みしめ、腰と両腕に力を込めて身体のひねりを返す。斜め上へ向かって全力でフライパンを振り抜く。
会心の手応えとともに、フライパンが細目の男の顔面を捉えた。
細目の男は膝から崩れ落ち、石床に倒れた。
それきり男が動く気配はなかった。完全に意識を失ったようだ。
ジャスパーは深く息をつき、手にしたフライパンを眺めた。
度重なる用途外の衝撃に底面がたわみ、柄の付け根辺りの鉄板も歪んでいる。
「……頑丈なほうがいいな」
「せやろ」
ルピニアが片目をつぶった。
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