第33話 急転

  7  急転


「交渉成立、だね♪」


 エルムは構えを解き、細目の男へと歩を進めた。

 数歩進んだところで剣が上がり、エルムを向く。


「おっと。その杖は捨ててもらいましょうか」


 エルムは眉をひそめた。


「ボク、この杖けっこう気に入ってるんだけど。ちゃんと新しいの買ってくれる?」


「分け前で好きなものを買えばいいでしょう」


「このデザインはバッタモンド商会でないと買えないんだけどなあ……。まあ仕方ないね。どこかでもっと可愛いのを探そうっと」


 エルムは杖を背後に放った。


 しかし杖が手の中を抜けきる寸前、エルムは杖の端を握り直した。


 背後へ振った腕の勢いを殺さずに下へ、そして前へと回す。

 アンダースロー。

 杖が回転しながら細目の男めがけて飛んでいく。


「捨てたよ!」


 エルムは杖を投げると同時に地を蹴り、細目の男へ一直線に駆けた。

 目を疑うほどの速さだった。




 回転する杖が眼前に迫った。そのすぐ後ろに獣人の少女。十メートル近くあったはずの距離が一瞬で潰されている。


 細目の男は飛来した杖を剣で弾き、即座に獣人の少女へと刃を切り返した。

 少女の姿が横にぶれる。

 剣は空を切った。


「……な」


 細目の男は剣を引き戻しながら愕然とした。


 間合いを読み違えた。ぎりぎり届かない距離で剣を誘われた。

 そこまではいい。理解できる。

 しかし突然真横へ跳ぶあの動きは何だ?


 獣人の少女は時に残像すら残しながら、左右にめまぐるしく動き回る。目はともかく剣を向ける動きが追いつかない。

 敵を追いきれず戸惑う背後で、さらに足音。


「ちっ」


 挟撃されたと瞬時に理解し、細目の男はアトリを置いて跳んだ。


 もはやこの羽妖精は人質の用を成さない。彼女をこれ以上傷つけたくないと見透かされ、人質に意味はないという確信を与えてしまったのは大きなミスだった。


 しかし挟撃されたとはいえ、相手は非力な少女が二人だ。そのいずれも強力な武器を持たない。体勢を整えれば容易に迎撃できる。


 細目の男は傷の痛みをこらえて走り、壁の数歩手前で振り返った。


 獣人の少女がどれほど驚異的な速度を誇ろうと、この位置なら背後を取られることはない。正面か左右からの攻撃なら二人同時でも対処できる。


 右方で獣人の少女が停止した。左方からはエルフの少女が、片手に金属製の鍋らしきものを握って迫ってくる。


 細目の男はほくそ笑んだ。


 手近に武器がなかったのだろうが、そんなもので攻撃とは片腹痛い。ならば警戒すべきは獣人の――


 風切音がした。

 左から猛然と飛んでくる金属の塊があった。


「!?」


 理解が追いつかぬまま、細目の男は身体を沈め回避した。深鍋が恐ろしい勢いで頭上を通過する。鍋は壁に当たって石床に落ち、けたたましい音を立てた。


 ――あの速度で投げただと? エルフの腕力で?


「――〈開け〉」


 少女が駆けながら古代語を発し、左腕を振った。一瞬の後、彼女の手には大型の鈍器めいた何かがあった。


 細目の男は左に剣を向けた。


 今は獣人より、あのエルフの方が危険度は高い。出現した得物は形状からして、メイスかモーニングスターか。いずれにせよ重い鈍器だ。細腕で振り回すにはまったく向いていない。剣で弾き飛ばし、改めて獣人の少女に対処すれば良い。


 左脚の痛みをこらえつつ、細目の男は向かってくるエルフの少女に剣を振り下ろした。

 鈍い金属音が響く。腕に強烈な手応えが伝わった。

 細目の男は目を見張った。弾き返されたのは彼の剣だった。


 下からのフルスイングで剣を弾き上げた少女は、即座に得物を打ち下ろそうとしている。切り上げからの切り返し。剣術の基本技。未熟ではあっても素人の動きではない。


「ぬうっ」


 細目の男は不十分な体勢のまま、強引に剣を振り下ろした。踏み込まざるを得なかった左脚に激痛が走ったが無視する。


 この少女は危険だ。速やかに排除しなければ取り返しの付かないことになる予感がする。


 少女はあっさりと攻撃を放棄した。

 しかも避けるどころか一歩踏み込んだ。

 金属同士が衝突し、火花が散った。少女は掲げた得物で剣を受け止めたのだ。


 細目の男は理解を超える状況に混乱した。


 予想がことごとく裏切られる。いったい何が起こっている? なぜ非力なエルフの少女が、自分とまともに剣戟をしている? だいたいこの得物はどこから――


 少女の得物を注視した細目の男は、またも理解を超える現実を突きつけられた。

 それは直径三十センチほどの、ふちが湾曲した丸い鉄板に、頑丈そうな金属製の柄が付いただけの代物だった。武器ではない。断じてこのような用途のために作られたものではない。


「フライ、パン」


「攻防一体。安くてお得な万能鈍器や」


 少女が不敵に笑う。


 信じられない。成人男性と互角に鍔迫り合いをしながら、なお軽口を叩く余裕があるというのか。


「この腕力、まさか肉体強化――」


「乙女の秘密を知ったんや、ただじゃ済まさんで」


 少女が一瞬沈み込む。次の瞬間、フライパンが猛烈な力で押し返してきた。


「来や、エルミィ!」


 剣を押し戻され、細目の男は後じさった。


 視界の右端に素早く移動する緑色の物体。

 獣人の少女が迫ってくる。


 今まで仕掛けてこなかったのは攻撃手段がなかったからに違いない。今度はエルフの少女に時間を稼がれた。次はいったい何をしてくる?


 剣を振ってエルフの少女をけん制し、細目の男は右側に目を向けた。

 視界に飛び込んできた光景を理解するには、二呼吸ほどの時間が必要だった。


 獣人の少女は急激に方向転換して壁へ走り、勢いを殺さずに石壁を二メートル以上駆け上ったのだ。


 少女がさらに壁を蹴り、上方へ跳躍する。

 細目の男の頭上から落下を開始した少女の手には、あの金属鍋があった。


「な――」


 とっさに剣を上に向けた瞬間。

 視界の下端に、フライパンをフルスイングするエルフの少女が映った。


 信じがたい激痛が全身を駆け抜ける。


 右脚の向こう脛を全力で殴打された。

 それを理解した次の瞬間。耳と鼻が潰されるような痛みと同時に、男の視界は暗黒に閉ざされた。

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