第32話 背教の誓約
6 背教の誓約
細目の男は虚を突かれたように声の主を見た。
エルムが首をかしげていた。
「すごい執念だね。アトリちゃんの血はそんなにお金になるの」
「……それが何か」
「そうなんだ。それはちょっと悩むなあ」
エルムが突如しゃがみ、足元の杖に目をやる。
細目の男はアトリの首に刃を向けた。
エルムはしゃがんだまま杖を拾い、しげしげと観察し始めた。立ち上がるでも構えるでもない。視線は完全に仲間や人質を無視している。
「なんのつもりです」
「ひどいなあ。買ったばかりの杖なのに。もうこんなに深い傷がついちゃった」
エルムが細目の男に渋面を向けた。
「あとで弁償してもらうからね」
「……弁償? あとで?」
「うん。あとで。……ジャスパー、ルピニアちゃん、ごめんね。ボクは最善の方法をとらせてもらうよ」
呆気にとられた視線が集まる中、エルムは悠然と立ち上がり歩き出した。横へ。アトリからも扉からも離れた方向だ。
「狩人さん、あなたは今こう考えてるね。そろそろフェアリーの傷を止血したい。衰弱されたら困る。最悪の場合は死体から蘇生させる手もあるかな。でも寺院への寄進でお金がかかるし、魔法は失敗することもある。できればやりたくない」
「……」
「もちろん自分の傷も手当したい。ボクたちを始末するのはなんとかなっても、その脚でアトリちゃんを連れ去るのは面倒だよね」
「何が言いたいのです」
エルムは足を止め、笑顔で振り向いた。
「ボクと取引しない? ボクの要求を聞いてくれたら二人の怪我を治してあげる。アトリちゃんを連れ去るのも手伝うよ」
「……ほう。この期に及んで取引ですか」
「あなたはこうも考えてるね。あの獣人はさっき時間稼ぎをした。口車に乗せられるものかって。でも考えてみてよ、今さら時間を稼いでもボクたちに打てる手はないでしょ。命乞いだと思って聞いてほしいな」
細目の男は左右へ目を走らせた。
ジャスパーは縛られたままだ。ルピニアは弓を手放した。アトリは男の足元で倒れている。エルムは杖を持っているが、接近戦を仕掛けるには距離が離れている。現状では四人とも男の脅威になりえない。
「要求とやらを聞きましょうか」
「そうこなくちゃ♪」
エルムが満面の笑みを浮かべてうなずいた。
「ボクの要求は二つ。一つ目は、ジャスパーとルピニアちゃんを殺さずに逃がすこと」
「……ふむ。もう一つはなんです」
「さっき弁償してもらうって言ったよね。二つ目はお金。あなたの片棒を担ぐんだから、分け前としてアトリちゃんの血の半分はボクにちょうだい」
細目の男は低く笑った。
「これはこれは。大胆で分かりやすい要求だ」
「あんたは何を――」
「これが最善の方法だよ、ルピニアちゃん。とりあえず四人とも死ななくて済むでしょ」
拳を震わせるルピニアを見やりながら、エルムは笑顔を崩さない。
「ボクだって命は惜しいし、お金にならない冒険なんてしないもの。狩人さんにしても悪い話じゃないよね。脚を怪我したままで三人殺して、アトリちゃんを抱えながら長い階段を上がるのはかなり大変だと思うけど」
「実に面白い提案です。しかし私が蹴ったらどうします」
「神術にも、いくつか禁じられた呪文があるって聞いたことない? 一つだけボクでも使える禁呪があるよ。取引してくれないなら、ボクはそれを唱えて神官をやめちゃう。この場の誰も傷を治せなくなるけどいい?」
「神官をやめるとはどういう意味です」
「背教の誓約。神様を裏切り冒涜する言葉だよ。正確に知らないと危ないから教典に書いてあって、神官はみんな読んで覚えるんだ。この言葉だけは絶対に口にしたらだめって。一文しかないから、これくらい距離があれば捕まる前に唱え終わっちゃうよ」
アトリがはっとしたように顔を上げた。
「そうそう、ジャスパーやルピニアちゃんを人質にとってボクを脅迫しても無駄だからね。アトリちゃん以外は殺すつもりだって分かってるもの。そのときは死ぬまで抵抗するけど、お互いに面倒じゃない?」
「なんと、逆に私が脅迫されるとは!」
細目の男は愉快そうに声を上げて笑った。
「大したお嬢さんだ。自分の価値を心得ている。なかなかうまい命乞いではないですか」
「ジャスパー、あんた言うことはなんもないんか!」
激昂したルピニアが目を向けた先で、ジャスパーは目を見開き固まっていた。
ルピニアは唇を噛んだ。今や彼女の頭は言葉の奔流であふれそうになっていた。
勘違いしていた。何がコウモリより無害だ。ジャスパーは親友と信じていた相手に目の前で裏切られた。言葉を失うのも無理はない――
「あまりジャスパーをいじめないで。あと、悪いけどもうちょっと弓から離れてくれる? 狩人さんがルピニアちゃんを警戒してて交渉しづらいよ」
エルムがルピニアを追い払うように左手を振る。
ルピニアは視線で呪い殺さんとばかりにエルムを睨んだが、彼の笑顔は小揺るぎもしなかった。
「実に頭が切れる。殺すのが惜しくなってきましたよ」
「助手にでもしてもらえたら嬉しいなあ。ダンジョンを出た途端に殺されるのはいやだしね」
エルムは冗談めかして言いながら左手を下ろし、右に構えた杖に添えた。剣を警戒する構えだ。
「ルピニアさん。エルミィさんの案に乗ってください。こんなところで死なないで」
アトリが倒れたまま声を上げる。
「エドワード先輩は死なないための心得を教えてくれましたよね。それを思い出して」
「ありがとう、助かるよアトリちゃん♪」
満面の笑顔がアトリに応えた。
「アトリちゃんもああ言ってるよ。分かったら離れて」
再度ルピニアを追い払う仕草をし、エルムが左手を下ろす。その手が右に構えた杖に戻るのを、ルピニアは冷ややかに見つめていた。
「……あんたこそクズや、エルミィ」
エルムを睨みながら、ルピニアが後じさった。
「そういうわけだけど。狩人さんはどうするの?」
細目の男はルピニアの位置を確認した。
ルピニアが再び弓を拾い、矢を番えるまでに十秒は必要だ。彼の剣が先にルピニアを捉えるだろうことは誰の目にも明白だった。
「いいでしょう。まず私の脚を治療しなさい」
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