第26話 猜疑の夜

  15  猜疑の夜


「……はあ。初心者向けのクエストやったはずやろ。二階におらんはずの魔物がおるわ、ケインはんのパーティも襲われるわ。何がどうなっとるんやろな」


 ルピニアがため息をついて前を向く。その横顔はジャスパーが想像していたほど沈んでいなかった。


「そうだなあ」


 空気が変わったことに安堵しつつ、ジャスパーは努めて楽観的な光景を想像した。


「もともとはただのキノコ刈りだったんだよな。たぶんエドも、安い報酬に文句言いながら子守してくれてさ。走るキノコをみんなで追いかけて」


「けど、そうはならんかった」


 鋭い口調がジャスパーの言葉を両断した。


「エドは昨日の時点で護衛を依頼されたんや。バートラムはんは、なんでそんなことをしたんやろな?」


「……今日のダンジョンがいつもより危険だって、知っていたからか」


「当日ならともかく翌日のことやで。なんでそんなことを知っとったんか。ウチらと同じ二階のクエストを受けたケインはんたちに、なんで報せんかったんか。おかしな話や。なんでやと思う?」


「それは――」


「バートラムはんはこう考えた。今日、ウチらだけが、危険な目に遭うかもしれん」


 ジャスパーは嫌な予感がした。強く言い切ったルピニアの言葉は明快で、誤解のしようもない。


「当然アルディラはんも知っとったんやろな。せやから金貨十枚にも驚かんかった。たぶんエドはなんも知らんな。報酬を聞くまで子守やと思っとったし、ウチらを何から守るんかも知らんかった。……ところで、ウチが冒険者登録を済ませたんは、つい一昨日や。あんたとエルムはいつやった?」


「オレたちも一昨日だ」


「アトリはもっと前やろな。少し前から働いとるとか言っとったし。昨日はウチが時間を潰しとったら水を運んでくれたわ。おおかた口しのぎの仕事なんやろ。給仕服もけっこう似合っとった。まあウチの見た感じ、あの仕事には向いとらんな。細腕すぎてトレイをひっくり返しそうやった」


 ルピニアの横顔が頬をゆるめた。


「そうなのか。帰ったらちょっと見てみたい」


「あの手の服はエルムで見慣れとるんやろ」


「いやまあ、そうだけど」


「まあ中身が男やしな」


 穏やかに笑うルピニアと軽口の応酬をしながらも、ジャスパーは困惑していた。

 今までに見たどんな彼女とも違う。感情がまるで読めない。


「さて、前提が揃ったところで問題や。ウチらより前から止まり木亭におって、初心者やのにバートラムはんから直々に紹介されて、ダンジョンに入る前から必死やった誰かさんは、いったい何を覚悟しとったんやろな」


「……」


「言いにくそうやな。あんたのそういうとこ、けっこう悪うないで」


「……」


 ルピニアは笑みを崩さなかった。ジャスパーは背中にはっきりと怖気を感じた。


「お人よしなあんたの代わりに言ったる。ウチらの中で、アトリだけが今日のダンジョンはおかしいと知っとった。アトリだけが何かに襲われるんを見越して警戒しとった。アトリだけが襲われる理由に心当たりがあった。けど、いつどこで何に襲われるんかはアトリも知らんかった。そう考えんとつじつまが合わん」


 ジャスパーは反論できず、小さくうめいた。


「……アトリ、だけが」


「大事なことやからな。ちょっと多めに言うてみた」


 ルピニアが眠るアトリに目をやる。


「さてどうする。ウチと一緒にアトリを叩き起こして、『オレたちが襲われるのはなぜだ』って聞くか」


「いやだ」


 ジャスパーは即答した。


 なぜ断るのか自分でも理由が分からない。むしろルピニアの方が正しいとさえ思う。

 それでも今はだめだ。彼女の提案を受け入れれば、何か大切な、越えてはならない一線を踏み越えてしまう。きっとその後に残るのは後悔だけだ。


「聞くなら朝でもいいだろ。今は安全だ」


 ルピニアはくすくすと笑いながら、抱えた両膝に顔をうずめた。


「あんたはそう言うと思っとった。……ありがとな」


 困惑するジャスパーをよそにくぐもった声が続く。


「なあ。……もしウチが、こんな目に遭っとるんは全部アトリのせいかもしれん言うたら。あんたどうする」


 ひどく力のない声に戸惑いながらも、ジャスパーは答えに迷わなかった。


「そうでなけりゃいいなって言う」


 ルピニアは膝に顔をうずめたまま小さく吹き出し、肩を震わせて笑い始めた。


「なんだよ。真面目に言ってるんだぞ」


「分かっとる。あんた、ほんまにお人よしや」


 ルピニアは身を起こし、おもむろに頭上へ腕を伸ばした。


「あーあ。なんか清々したわ。……気づいたら愚痴になっとった、すまん」


「別にいい。それにしてもずいぶんいろいろと考えてるんだな。オレはそんなに頭が回らないぞ」


 ジャスパーが呆れ顔で頭をかく。


 一方のルピニアにしてみれば、ジャスパーの返答は予想通りだった。


 ――それは最初から分かっとる。


 ルピニアは吹き出したいのをこらえつつ、胸中の毒がすっかり消えてしまったことに驚いていた。


 自分はきっと、あの答えを期待していたのだ。考えすぎだ、少し落ち着けと誰かに言ってほしかったのだろう。ジャスパーは過不足なく応えてくれた。彼にそんな意識があったとも思えないが、今はその単純さがありがたい。


「あの変人が懐くわけやな。あんたくらいシンプルでないと一緒におれんやろ」


「エルムのことか」


 ジャスパーがわずかに苦い顔をする。


「あいつのことは勘弁してやってくれ。害はないだろ」


「それも分かっとる。悪いけどエルムはコウモリより無害や」


「……それはそれで、あいつが気の毒な気がする」


 ジャスパーの顔はひどく複雑そうだった。


 ――ちょっといじめてしもうたかな。


 ルピニアは壁際で横になっているエルムに目をやった。見た限りでは静かに眠っているようだ。


「今さらやけどエルムも大丈夫なんか。怪我はともかく、心のほうが相当まいっとるやろ」


「一晩寝れば大丈夫だと思う。さっきも治療術を使ってたしな」


 それもそうか、とルピニアは思う。精神を集中できなければ魔法は使えない。エルムにはそれができるだけの余力があったのだ。


「ならええけど。魔法使いが二人とも倒れたままやったら、ウチら大ピンチやからな。……ところで」


 ルピニアはジャスパーに視線を戻した。


「ひとつ聞いときたいんやけど。ウチらはエルムをどう扱えばええんや? ほんまにヘンタイっちゅうわけやないんやろ」


「一応言っとくけど、あいつは別に男が好きなんじゃないぞ。たぶん女に興味がないわけでもない。……まあ簡単に手を出したりしないし、無害ってのは当たってるけど」


 ――は?


 予想外の答えだった。ルピニアは思わずジャスパーの顔をしげしげと見た。


「女に興味があるとかないとか、あんたの口から聞けるとは意外やな」


「オレのことはいいだろ。とりあえずあいつはエルミィって名前で、ああいう服が好きで、女には慎重な男だと思ってくれ。難しいか?」


 ルピニアは苦笑した。


 なるほど難題だ。しかしこうも正面から頼まれてしまっては仕方がない。


「あんたに免じて努力したる。面白いもんも聞けたし。どうせいろいろ訳ありなんやろ」


 ルピニアは鼻眼鏡を外し、汚れがついたレンズに息を吹きかけた。


「理由とか聞かないのか」


「そこまで野暮やないつもりや」


 スカートのポケットから布を引き出し、レンズの脂汚れを拭く。脂が薄く広がったまま残る。少してこずりそうだ。


「あんまり軽い話やなさそうやし。第一、ほんまに必要ならあんたが言うやろ」


「なんでオレなんだ?」


 ジャスパーが意表を突かれたような顔になる。

 この点について、ルピニアには一つの仮説があった。


「さっきのを見とって思った。エルムは何か辛いもんを抱えとる。けどエルミィになりきっとる間は忘れたことにしとるんやないかって。そんなら落ち着いて説明できるんは、あんただけっちゅうことになる」


「……」


 レンズを拭きながら目をやると、ジャスパーは顎を拳に載せて考え込んでいた。


「……正しいか間違ってるかは言えない。それにしてもよくそんなこと思いつくな」


「ただの勘やけどな。せやけど、見とれば分かることもある。エルムが安心してじゃれつくんも、いざってときに正気に戻せるんもあんただけやろ。心底信頼されとるんやな」


 ジャスパーは小声でうなった。


「ほんと、よく見てるよお前」


「せやろ」


 ようやく透明さを取り戻した鼻眼鏡をかけ直し、布をたたむ。

 その間もほとんど無意識に口が動いていた。


「エドに噛みつきよったんも、ほんまはおと――」


 ルピニアは慌てて口をふさいだ。

 ジャスパーがかすかに眉をひそめている。


「……すまん。調子に乗っとった」


「いや。いいんだ」


 ジャスパーは拳を解き、ふうと息をついた。


「どこかで聞いたけど、女は男の何倍もしゃべるんだろ。お前だって女の子だしな」


 ルピニアは虚を突かれ、目をしばたいた。


「やるやんか。今のは悪うない。まるっきり分かっとらんわけでもないんか」


「何がだ?」


 ジャスパーが首をかしげる。

 二人はきょとんとした顔を見合わせた。


「ああ、女心がどうこうってやつか? 別に何も考えてなかったぞ。そう思ったから言っただけだ」


「……ほんまに打算がないんやな、あんたは」


 ルピニアは肩からすっと力が抜けるのを感じた。


「あーもう。清々しいくらいや。なんであんたにはできたんか、今なら分かる気がするわ」


「オレにはできた? 何がだよ」


「アトリを笑わせることや。悔しいけどウチにはできんかった。おヒゲさんとか肉の切り分けとか、打算のかけらもないやろ」


 ルピニアは再びアトリに目をやった。


 疑いが消えたわけではないが、先ほどよりもはるかに冷静に彼女を見ることができる。いったいどれほど激しい感情をぶつけようとしていたのかと思うと、自分が怖くなるほどだ。


「いい奴だな、お前」


「なんや突然」


「別に。そう思っただけだ」


 ルピニアはまじまじとジャスパーを見た。彼は彼でほっとしたような顔をしている。


 唐突に分かった。彼はアトリとエルムだけでなく、この自分のことまで案じてくれていたのだ。


「……ほんま、あんたのお人よしにはかなわん」


 後衛は自分が支える。パーティの要になる。そんな気負いがばかばかしく思えてくる。


 ルピニアはゆっくりと立ち上がった。

 ふわ、とあくびが漏れる。気づかないうちに眠気が忍び寄っていた。


「寝るのも仕事のうちだったな」


 ジャスパーがランタンを掴んで立ち上がる。


「せやな。さっさと寝んとエドに怒られそうや」


 ルピニアはランタンと荷物を手に歩き出した。


 これが初日最後の仕事だ。しっかりこなして、続きは明日考えよう。

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