第13話 クララ、日本の芝居を見るのこと

 本日分は浅草の写真点で写真を撮った話と、クララの日本芝居初体験の話がメインとなります。


明治9年4月13日 木曜日

 松平家を訪ねてから約一週間になる。つとめて書かないようにしていたのだけれど、今日は楽しいことがあったので、書かずにはいられない。

私は土曜からひどい風邪をひいて具合が悪かった。松平家でひいたのかもしれないし、土曜日に迂闊にも暑い台所から出て入浴したのが原因かも知れない。医者に貰った薬は、普通の人間が一生の間に飲むほどだ。日本に来て風土に慣れてくると、清国つまり花の王国に近づいてくるので、もう他の人間とは違ってくるのだ。

 さて、今日の楽しいことを書こう。

「明日はみんなで浅草の写真屋に行きましょう」

令嬢たちに昨日そう話しておいたので、今朝おやおさんとおすみが豪華な着物姿で現れた。

 濃淡のある青、紫、灰色の美しい縞の入った縮緬の羽織を着てきたのはおやおさんだ。非常に幅の広い綾織りの錦には黒と青と白の縞が入っていた。着物は紫と白で、半襟は絹糸と金糸で鳥や蔦を巧みに刺繍した灰緑色の繻子でできており、金色の帯留めの留め金は銀だった。

 一方のおすみはと云えば、黄色の格子縞の絹の着物を着て、ビロードの裏のついた豪華な帯を締めていた。表地の模様はどうにも書き表すことができないので、以下省略。

「何故私に関する描写だけ、そんなぞんざいな扱いなんですか!?」

装身具の中で特に目立ったのも、綺麗に結い上げられたおやおさんの髪に挿してある混ぜ物のない鼈甲の櫛と簪だった。

「この簪と櫛はおやおさんの亡くなった本当のお母様の形見で、とても高価なのですよ」

富田夫人の説明に、だけれど何故かおやおさんの方が首を傾げた。

「あら、そんなに高価な物でしたの? おすみは知っていて?」

「おやお様が身を飾る物の値段などお知りになる必要はありません。そのような下世話な話は我々下々の者だけが知っていればいいのです」

 お気の毒なことにおやおさんは、このような高価で素敵な物を身につけていながら、値段のことなどご存じない。或いは少しも分かっていないのである。というのは、お金とか値段とか数など知らないのが上流階級の印なのだから。

「そうですね」富田夫人は全く同意とばかり頷かれて「私も十七歳になって初めて、十銭と一円の区別が出来るようになりましたからね」

 ……このような無知がその恥を隠すために高価な衣服を纏っている。ところが、悲しいことにその衣服は透き通っていて、私たちの目から真実を隠せはしないのだ。


明治9年4月15日 土曜日

 今日母はひどく気分が悪く、外出できないので私も家にいた。

 きのう季節風が吹いたが、雨のない小さな台風といったところで、まったく無害だった。今夜また風が出てきたが、どの程度ひどくなるのかは分からない。

 東京会議所がこの敷地に、今ある門番小屋を台所にして、現在の家より小さいけれど、新しい家を建ててくれることになった。学校の理事の小野寺氏はとても親切で、何かと援助しようとして下さる。英語も素晴らしく、とてもいい方だ。

 おや、風が強くなってきた。怖いからあまりひどくなりませんように。

 だけど、神様を信頼しない自分に腹が立つ。風だって神様の下僕なのだ。どうして人間性というものは、何に対しても満足することがないのだろう? そしていつも、もっといいものを欲しがるのだろう?


明治9年4月18日 火曜日

 昨日例の写真が届いたが、皆の感想は「…………」というもの以外なかった。

「これはなんということです!? 内田写真店と云えば今上陛下の写真も撮られた高名な写真家でいらしたのではないのですか!?」

 すっかり昂奮したおすみを取りなすように、富田夫人が窘められる。

「仕方ないことでしょう。前のご主人である九一氏が亡くなられ、今は親戚の人が仕事を受け継いでいるのですけれど、まだ仕事に慣れていないのですから」

「しかし、これはあんまりではありませんか! 富田夫人はすっかり曲がって坐っているように写られていますし、三浦夫人はまるで薬を飲みながらしかめっ面をしているみたいではありませんか!」

「おすみは遠い眼差しで富士山でも調べようとしているみたいですものね」

 今日も綺麗な綾織りの着物を着たおやおさんがまったりと云う。その着物は腰掛けると袖が床に届き、まるで古い東洋の絵から抜け出てきたように――風変わりで面白く、古い清国の陶器の絵そっくりだった。

「わ、私の事などどうでもいいのです。問題はおやお様に一切表情がなく、まるで『写真屋には自分の写真を撮る権利などない』と考えているように、強情な顔つきをされているように写っていることです!」

 うん、今回ばかりはおすみの云うとおりだ。実際に妹のアディは怯えて死にそうに見えるし、私は――いえ、私のことはよそう。私はいつものとおり、つまり、ちっとも美しくないのだ。写し損ねたら、実物より美しく写っていた、なんて都合の良い話はないのだろうか?

 午後の祈祷会の時、今後この会を聖書勉強会と呼んで聖書を勉強することにし、来週創世記の第一章から始めることに決めた。

後は他にとりたてて云うことはない。うちの生徒達は歌をとてもよく覚える。それから、 道の向こうの広場で軍隊の観兵式があった。

 ああ、懐かしい学友よ、今どこにいるの。あなたたちのことを思い出すと淋しくて涙が零れる。そうだ、私は怠け者になって、時間を浪費しているのではないかしら? だからもうここでやめよう。


明治9年4月22日 土曜日

 今回はとても沢山書くことがある。というのは、今日初めて日本の劇場に行ったからだ。今まで見たくてたまらなかったのに機会がなかったのだ。

 富田夫人、その叔母様と従姉妹の方たち、及び三浦夫人は今朝六時に行ってなんと夜の七時半までいた。劇場に十三時間半もいるなんて、考えただけでも卒倒しそうだ! そんなに長時間耐えられるとは、日本人は役者も観客も、驚くほど頑丈な体質を持っているに違いない! 

 しかし母と私は、そのような方法で自分たちの忍耐力を確かめようとは思わないから、十時に行って四時に帰った。富田夫人は私たちを迎えに出てきたが、すっかり夢中になって目の色が変わっていた。富田夫人がそんなに興奮したのを見たことがない。


 朝、私たちは敷物や腰掛けや室内履きや肩掛けを持って、人力車で「シバイ(芝居)町」へ急いだ。そこは築地の近くで、名前の通りの劇場や派手な色の提灯や絵を吊して看板や旗を立てた茶屋がずらりと並んでいる通りだった。

 私は日本の教会の礼拝に出るのでよくこちらの方に来ることがあるのだけれど、今初めてこの通りには大きな劇場は一つしかなく、後は皆茶屋と料理屋だと云うことを知った。たった一つの劇場のために、なんて沢山のお店が軒を連ねているのだろう。

 まず私たちは角の小さな茶屋に入って靴を室内履きに履き替え、二十ヤードばかり歩いて本館へ行った。そこでは男の人たちが入口の台に坐って拍子木を鳴らしながら、出来る限り高い声で吠えるように客寄せの口上を叫んでいた。

 私たちは控えの間まで行き、そこから劇場へと入っていった。外国の劇場と設備は似ているようだけれど、それでも変わったところがある。平戸間の左右に高土間があり、二階桟敷や天井桟敷や舞台前のかぶりつきもあった。

 舞台はL字型で、基部は例の如く観客の目の前にあり、花道が劇場の端から端まで続いていて、脇の楽屋に通じていた。

 扉のそばにしばらく立っていると、近くの幕が押しのけられ、恐ろしい形相の役者が叫びを上げながら花道を駆けて本舞台へ上がっていった。

 観客は皆、床に坐っており、周りに寄りかかる手摺があったけれど、故国ではこのような場所にそんな席はなかった。そしてその幅八インチほどの手摺の上を、人が歩いているのであった。実はこれがここの通路だったのだ。

 給仕の女性が食べ物の盆を頭の上に積み上げて、この細いところをすいすいと歩いているのはなんとも不思議な光景だった。

 そんな風に私が物珍しげに見ていると、ゆるやかな着物に帯を締めた素足の案内人がやってきて、急いで私たちを席に連れて行ってくれた。そこには、杉田夫人、若夫人、盛とお祖母様、それから三浦夫人が膝を折り曲げて坐っていた。

 私たちはこの二本の危険な手摺の上を命懸けで、また近くに坐っている人たちを危険に曝しながら、歩かなくてはならなかった。しかし、私たちが無事に席に着くと、そこでは十二本の親切な手が差し伸べられて、私たちが下りるのを手伝ってくれた。

 私たちの枡は、丁度日曜学校の用事学級のように段々と高くなっていくところにあって、一般席より少し高いという利点があり、前の人の頭に妨げられずに、役者を楽に見ることができる。

 席に座って少し寛いでから、舞台に注意を移した。すると途端に演技に気を取られて、周囲のことなど目に入らなくなった。


 舞台上には素晴らしく豪華な絹の古風な衣装を纏った人が数人いた。彼らの目尻はとても吊り上がっていて、口は恐ろしく引き下がり、そのため顔が獰猛な感じを帯びていた。日本人を表しているなと思う絵を扇子や屏風や陶器や髪や本で見かけることがよくあるけれど、実際そういう絵にそっくりだった。

 高いところに殿様が坐り、その両側に太刀持ちと猿(に扮した役者の人)がいた。

一人一人の役者の後ろに黒衣を着て厚い頭巾を被った人影があって、そっと動いたり隅に蹲ったりしている。

「あの人たちは黒子と云って、役者の後見役で、不要な物をなどを片付ける人たちですよ」

 六人の華麗な衣装を着たサムライが殿様より低い床に坐っており、二人は太刀を差して、古風な肩幅の広い服装をしていた。例の如く、前を剃って後ろで結い上げられた髪は、幅広の白い紐できつく縛ってあり、絵筆のように頭からまっすぐ突っ立っていた。


 そうそう、髪型といえば、以前富田夫人にこんな話を聞いたことがあったっけ。

「戦いの時に便利なので、武士はいつもこのような髪型をしているのですけれど、九年前、薩摩の武士と幕府の武士との間に戦いがあった時には恐ろしい思いをしたのですよ」

夫人によると、薩摩と幕府の戦いの最中、一人の武士が富田夫人の叔父様であり、幕府の学問所の教授である杉田玄瑞氏(普段杉田家で迎えて下さるお爺さまのことだ)の家に来て、叔父様を戦場だった上野に連れて行き、負傷者の手当をさせようとしたという。

 その侍はとても剛毅な人で、履き物を履いたまま家に入ってくるなり「髪を梳かすために櫛を貸してくれぬか」と云ったそうだ。

 そしてその人は後に、味方が負けたので、敵に捕らえられるより死を選び、他の六人と共にハラキリをして、獰猛な薩摩のサムライに介錯して貰ったということだ。そう云えば、この人たちの石碑が上野にあって私も見たことがある。


 さて、本題から遠く離れてしまった。

 舞台上の殿様とその家老が対話した後、間もなく、もう一人の殿様が舞台に大股で上がってきた。その人は綺麗な顔立ちの人で、深くお辞儀をしてから坐り、最初に「高貴な人」と、それから家老と対話を交わした。

 しばらくしてから彼が飲食を命令すると、六人の人がめいめい、酒の入った銅の器を、もう一人が赤い漆器の杯を三つ乗せた台を持ってきた。

 彼は一番大きい杯を選び、横柄な笑いを浮かべて側仕えの者にそれを満たすように差し出した(勿論それは見せかけに過ぎない――本物の酒ではないということは分かっている)。一杯飲み干すともう一杯、また更に一杯と要求し、とうとう側仕えの者はもう一本補給しなくてはならなくなった。他の連中は殿様がかなり酔っぱらうまで厳かに見守っている。

 その時、一人の家臣が舞台に上がってきて、坐って彼と話を始めた。

 しかし不幸にも<?>彼はいい人だが、もう一方の人はあまりいい人ではないらしく、喧嘩になって二人は刀を抜く。しかし利口な小悪党は、この殿様に酒を沢山飲ませていたので彼は打つことができない。それで彼は立ち上がって、ひどい酔っぱらいのように、頭をのけぞらせながら、ややよろめいた大股で横柄に歩み去った。

 彼が丁度私たちの枡の反対側に来た時、猿――ついでに云うとそれは小さな男の子が扮しているのだが――その猿が飛び上がり、棍棒を持って殿様の後を追い、彼に向かって叫び立てる。

 酔っぱらった殿様は初めは振り向かないが、とうとう猿が十ヤードばかりのところに来た時、静かにいかめしく立ち止まって耳を傾ける。猿が彼を打とうとして、棍棒を頭上に上げた途端、彼はゆっくりと振り向いた。

 殿様が恐ろしい眼差しではたと睨みつけると、眼光に射抜かれて猿はばたりと倒れて死んでしまった! そして、勇敢な小さな敵が打ち倒されるのを見ると、彼は大股で立ち去った。二人の人が来て、死体を運び出した。

 それから、最後に来た家臣はそれを非常な感謝をこめて扇子で受け、額に押し当てて開き、読み始める。読むうちに顔色が変わり、手紙は手から落ちる。家老はそれを取り出して声を上げて読む。それは殿様から、その善良な家臣に対する死刑執行命令書だったのだ。理由は謀反の疑いである。

 丁度その時、数名の武装した人たちが駆け込んで来て、刀を抜きながらその不幸な人を捕らえた。その人はじっと静かに坐っていたが、顔を厳しい勢いで上下左右に動かした。それは心の動きを表しているのだろう。するとそこで舞台が動き始め、回転して幕が下りるとともに消えていった。

 この時、杉田武氏が席に来られた。幕間なので、御菓子が回され、建物全体が急に食堂に変わった。日本人たちは妖精のように歩き回り、靴音はしないが、ざわめきと端の音が広がった。


 もう少し見た後で、私たちは別の用事があったし、また帰りたくもなったので、親切な友人たちにさよならを云って帰った。この劇場について気が付いた特色が幾つかあるが、一つは観客の喝采の叫びである。彼らは気に入ったことがあると、鋭く早い調子で「オー! ヤー!」と叫ぶのだ。それから女の役者がいず、男が女のように装うことである。また新しい芝居が始まるたびに、一人の男が現れて、題名と役者の名前を読む。

 この演劇は初めは六百年前に演じられたもので、純粋に歴史的なものである。最高の役者は月に二ドル二十セント稼ぐのだそうだ! 衣装と鎧の豪華さでは、これに匹敵するものを今まで私は見たことがない。


明治9年4月28日 金曜日

 昨日私たちは晩餐会を催した。そう、本物の晩餐会だ! この国では二、三ヶ月前には考えられなかったことだろう。

 午前も午後もずっと休む間もなく忙しかったけれど、夜までにはすっかり準備が整い、雨降りだったけれども、田舎へお出かけの大鳥夫妻以外は、招待した方全員が集まった。

 お客はビンガム夫妻、シンプソン夫妻、シャンド氏、前神奈川県令中島伸行氏、そして中原氏だった。

 シャンド氏は本当に気持ちよく剽軽なところもある方だ。全て快適だったので、接待の至らぬ所はそれで帳消しにされた。

 だけど、使用人のセイキチがデサート直前に富田夫人に囁いた言葉で、最後の最後に大笑いをしてしまった。

「ホイットニー夫人は何処に歯ブラシを置いているのか知りませんか? 歯を磨くための、“ふぃんがーぼーる”ですか? 折角用意したのに、歯ブラシが見つからないのです」

 可哀想に、彼はフィンガーボールを歯を磨くためのものだと思ったのだ! なんて、とんでもないことだろう!


【クララの明治日記 超訳版第13回解説】

「さて、今日はお詫びから始めないと」

「お詫び? 何か事実誤認がありましたの? それとも更新時間が遅れたこと?」

「いやいや、自分的に課してきた『一回につき最低一回のオタネタを混ぜること』という誓いを果たせなかったことに対して」

「真面目におやりなさい! 真面目に! だいたい今回の紹介分は、非常に貴重な話でなくって?」

「あー、日本の写真史的にはそうらしいねー。日本の写真家の先元祖である上野彦馬門下にして、明治初期、二度にわたって明治天皇の写真を撮った内田九一氏の写真店の、九一氏亡き後の様子を記した数少ない記録……だっけ?」

「そうですわ。この記録を他の記録と照らし合わせることで……」

「でも間もなく廃業しちゃうことになるんでしょ? だったら意味ないじゃない!」

「……確かにそうですわね。ですが、クララの日記から、経済的理由から廃業したんじゃなくて腕の悪さが原因だった、と推察されるだけでも貴重だと思いますわよ」

「ま、難しく考えることはないって。それよりも私、よくわからないことがあって、今回の冒頭のクララの『日本に来て風土に慣れてくると、清国つまり花の王国に近づいてくるので、もう他の人間とは違ってくるのだ』というのが全然分からないんだけど? ユウメイ、清国人なら分かるでしょう?」

「何度も繰り返しますけれど、わたくしはあくまで米国籍です! ……と言い訳をしても仕方ありませんわね。正直分かりかねますけれど、わたくしの生まれた国のことを“花の王国”と表現している文献は読んだことありますわね、どの文献だか失念してしまいましたけれど。そもそも祖国が日本ほど花の多い国とは思えませんけれど」

「というわけで、情報募集中たそうでーす!<超訳主」

「あと貴重な記録と云えば、芝居小屋の様子は素晴らしいですわね」

「芝居の内容も詳しく書いてあるけど、こっちはこれっぽっちも演題が分からなくって」

「あら? お逸でも分かりませんの?」

「『私にだって……わからないことぐらい……ある……』。云ってやった! 云ってやった!!」

「分からないからって、ネタに走るんじゃありませんことよ!!

話を戻しますけれど、舞台の構造については本当に詳しいわね。実際の建物と比較照合しても、簡潔にかつ的確に特徴を捉えていますもの」

「あれ? メイ、なんだか見てきたような?」

「以前愛知県犬山市にあります明治村を見てきましたもの。名前は呉服(くれは)座。明治二十五年の建築物ですけれど、原型は明治初年の建物の移築だそうですから、ほぼ江戸末期の芝居小屋の構造を引き継いでいると思われますわ」

「でも、なんか外見はクララが実際に見たのより地味っぽいよね。派手なのが見たかったら、東京近隣の人だったら両国の大江戸博物館に行ってみるといいと思うよ。芝居小屋の正面が実物大で再現されているから」

「……なんだか観光案内みたいになってきましたから、今回はこれでお開きに致しましょうか?」

「待った! 念のために確認するけど……フィンガーボールとビデに関する勘違いは誰もが通る道だよね? ね?」

「あなた、間違えたことがありますの!?」

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