第2話 クララ、いきなり困窮するのこと
日本に上陸したクララ家御一行。
彼女らが家族揃って来日したのは父が、日本で初めて設立される欧米の商法を学ぶ学校(商法講習所。今日の一橋大学)の所長として招聘されたからでした。
その窓口は薩摩藩出身の森有礼だったのですが……というところから始まるのが今回のお話。
明治8年8月19日 木曜日
想像して貰いたい。
一国の政府の高官の求めに応じ、地球の裏側から見知らぬ異境に来たにもかかわらず、職どころか住む家すらなく、財布の中に一ドル五十セントしか残っていない状況を。
日本に上陸してはや二週間。我がホイットニー家の憂鬱は晴れぬまま、事態は悪化の一途を辿っていた。
私たち一家を日本に招聘したのは薩摩藩出身の政府高官森有礼という人物だ。森氏は職と家を提供し、何かと助力してくれると約束していたのに、私たちが現実にやって来たと分かった途端、その約束を反故にして予定されていた地位に父は不適任だと云ったのだ。
まるで森氏は私たちに借金で恥をかかせるか、餓死させるためにここに連れてきたみたいだ。
私は考える。どうして私たちはアメリカでの不安な日々に加えて、あの退屈な何千マイルもの旅をさせられたのか。そしてその挙げ句、こんな冷たい仕打ちに遭い、固い友情と関心を持った振りをしていた人々から、こんなにも侮辱され見捨てられなければならないのだろうか。
しかし、私はこの白い頁を疑惑で汚したくはない。いいえ、そんなことはしてはいけない。神様が一番よくご存じなのだ――私がおかしいのだということを――。
何故なら、もし放縦で贅沢な暮らしをすることを許されたら、私たちは快楽に溺れて神様を忘れてしまい、世俗的な物を好むようになりがちである。汽車の中や、サンフランシスコであんなに楽しくはしゃぎ回っていた時、私は今ほど神様のことを考えなかったし、幸福で信頼の念に満ちた感情も起こらなかった。だからもしかしたら、私がこの嵐のもと、つまりヨナなのかもしれないのだ。
そう思ってもなかなか腹の虫の治まらない私に、いつも夕食をとっている精養軒の日本人従業員が最近流行の「呪いの儀式」とやらをお節介にも教えてくれた。なんでも、深夜の零時に呪いたい相手の名前を書いた「絵馬」とやらを神社に納めると、その名前を書かれた相手は地獄の流されるのだそうだ。あまりにも馬鹿馬鹿しい邪教の儀式なので「絵馬とは一体何? この近くに神社はあるの?」と聞いただけで、私はそのまま忘れてしまうことにした。
ああ、主よ、彼を赦したまえ。彼はその為すところを知らざればなり。
(後に加筆。お気の毒に、森氏は1889年に暗殺された)。
明治8年8月27日 金曜日
「斯てその苦しみのうちにてエホバを呼ばわりたれば、エホバこれを艱難より助けいだしたもう」
神様は私たちの訴えを聞き届けて下さった。神様のお力が十分よく分かったので、私たちはこれからも神様のご加護が頂けることを固く信じて疑わない。
我が一家に救いの手を差し伸べてくれたギデオンは、政府の高官である勝海舟という人物だった。勝氏は困窮については何もご存じないまでも、私たちの到着のことは耳にされていた。
先日、すべての望みが失われたとき、私たちがこの国で設立するためにやってきた商法学校への寄付として、勝氏が千ドル贈って下さったのである。これはこの国だと広大な敷地と屋敷が十分に建てられる金額だ。
ほんの僅かなそよぎでさえも、神様に対する私の信頼を傷つけることができようか。またどんなに強い反対でも、神様に対する私の信仰を揺るがすことがどうしてできるであろうか。いいえ「我らは目に見た」(ヨハネ第一の手紙一章)のである。私たちは神の子イスラエル人のようにじっと立って、主の救済を目の当たりに見たのだった。永遠に神の慈愛と慈悲を讃えて歌っても足りないだろう。
明治8年8月30日 月曜日(クララ15歳誕生日)
今日、私は十五歳になった! 十五などと書くと、とても老けたような気がする。去年の誕生日には、今年の誕生日を「日出ずる国」つまり美しい日本の国で迎えるなんて、考えもしなかった。しかし今日は私の人生で経験した誕生日の中で一番楽しく過ごした日となった。
昨晩の大雨が嘘のように太陽は日除け越しに部屋に射し込んで「お誕生日おめでとう」と云っているかのように、金色の光で私を起こした。
私の「祝賀式」は築地から出航する屋形船で開催された。舟に乗り込んだのは母、兄のウイリイ、妹のアディ、森有礼氏の甥で母と私がそれぞれ英語と歴史を教えている森有祐、そしてアメリカの我が家でお会いしたことのある中原国三郎氏と高木貞作氏、そして最近雇ったばかりの若い使用人のシズ。
「お誕生日おめでとうございます、お嬢様」
優雅にお辞儀をして「これを差し上げます」と美しい花束を差し出した「紅顔の美少年」が有祐だ。若いのにこれほど洗練されて優雅な紳士は見たことがない。背が高く、手足は形よく小さくて釣り合いがとれ、声は優しく柔らかで、茶色の瞳は澄み、髪の毛は漆黒である。真珠のような歯と鷲鼻と優美な黄色がかった肌を持っていて、アメリカ流に云えば「まさに美の典型」である。しかし魅力的なのはその貴公子らしい態度で、何かを貰うと大変低くお辞儀をするが、卑屈さはなく、自分が高官の甥であるということを意識しているかのように振る舞う。
共にアメリカへの長期留学の経験がある中原氏と高木氏の外観は本当に対照的だ。小柄でほっそりした中原氏、日本人としては大柄で体格もがっちりした高木氏。中原氏はその丁寧な立ち居振る舞いと同じく顔も優しげだけれど、高木氏の顔の半分は熊のように髭で覆われている(まだお年は三十にもなっておられないのに!)。だけど留学経験の賜物か、お二人とも私を一人前の「レディ」として扱ってくれるのがとても嬉しい。
屋形船はゴンドラのように両端、特に舳先が上に曲がった長い舟で、中央部に小さな船室があった。最初は椅子が無く、床に綺麗な畳が敷かれていたけれど、やがて船員が畳を上げて、それで座席を作ってくれた。
舟は狭い掘り割りを進んでいく。数知れぬほどの多くの橋をくぐり、沢山の艀のそばを通り過ぎ、両岸に古い大名屋敷と素朴な茶店の並んでいる、広々とした隅田川に滑り出た。
空は青く、水は空の神々しい色を映し、船頭達の気だての良さそうな顔は喜びに輝いている。
昼食は船中でゼリー、パン、卵、お菓子、果物など軽い物ですませ、私たちは東京でも指折りの観光地である浅草寺近くで舟を下りた。
浅草寺の本道は赤く塗った非常に丈の高い大建造物で、ひさしの上が反っており、とても異教的な外観を呈していた。
この国の人々は実に気持ちよく快活で、喧嘩や街路上での殴り合いは一つも見られず、すべて静かで秩序正しいように思われる。また酔っぱらいもいない。だけど神聖な筈の神を祭る祭殿の筈のこの建物の正面入口では、大勢の子供が駆けたり、きゃあきゃあ叫んだりしていた。
「あの子たちはあまり信心深いように見えませんね」
小首を傾げながら周囲の日本人たちの反応を伺ってみるけれど、有祐は「ええ、そうですね」と軽く受け流すだけだし、中原氏と高木氏に至っては曖昧に笑うばかりだ。
本堂の内部は大きな部屋になっていて、偶像や屋根から殆ど床まで届きそうな提灯など、意匠を凝らしたものが一杯あった。扉のそばには木造が蹲った格好で台座の上に坐っている。その像には目も鼻も口もなく、全体がすべすべしていた。
「これはですね」
私が不思議に思っていることを中原氏が解説してくれる。なんでもこの像は健康の神様で、頭痛のする者は像の頭を撫でてから自分の頭を撫で、足の痛い者は象の足を撫でてから自分の足を撫でると病気が治るというのだ。
呆れかえって言葉が出ない私の目の前で、可哀想な人たちが次々にやって来て、聞くことも感じることも見ることも出来ないその神に祈り、病気が癒されると思いこんで立ち去っていた。悲しいことに彼らは、哀れで無力な偶像などがとても治すことの出来ない病気、つまり罪という病気にかかっているのだ。
「あの人たちを見ていると、なんだかおかしくなるんですけど、それが当たり前でしょう?」
そう当然のことを云ってみるけれど、三人は「ええ、そうですね」と先程と同じような反応を返すだけだ。
ああ、一人一人の兄弟の手を取って、ぼろを脱がせ、無知から救い出し、聖母マリアのそばにおられるイエス様の神聖な足下に坐らせてあげたいと、どんなに熱望することか。
そのあと私たちは寺の境内のすぐ外側にある美しい庭園で行われていた人形の見世物を見に行った。等身大の人形は外国風の服装をして、皆赤い髪の毛と青い眼をしていた。燃えるように真っ赤な髪と青い目の夫人と紳士の人形が腕を組んで立っていて、今にもそこから抜け出したがっているように見えた。
速歩機に乗った赤毛の人形、松葉杖をついた人形、泣いている人形などがあり、庭師の人形は英国製のパイプを吹かしながら、花壇のそばにまるで生きた人形のように坐っており、小さな男の子の人形は風船の紐を持っていた。みんなとても上手くできていた。
見た目は不格好な赤毛の一つ一つの人形も、素晴らしいまでに生き生きとして、以前に会ったことのある人たちのように思われた。そう、この南京木綿のスボンを吊った赤髭の男の人形なんて、今にも動き出しそうで……
「本当に憎らしい程似てますなあ」
傍らの高木氏が嘆息する。
「あら、高木さん。どなたかお知り合いに似た人形でもあるのですか?」
「いえね、お父様のウィリアム先生のような立派な方がいる一方、困った外国人もおりましてな。そんな札付きの外国人たちとそっくりなのですよ、少なくともこの人形たちの一部は」
私は恐縮した。この短い期間で在日外国人たちの不行跡は数多く聞いていたからだ。
「いやいや、クララさんにそんな風に思って貰うつもりはなかったのですよ、すいません」
そんなやりとりをしていると、いつの間にか私は周囲の注目を一心に浴びることになっていた。人形の周りに群がっていた日本人が、突然喋り出した私を見てもっと吃驚した様子だった。どうやら私を人形だと思ったらしい。高木氏と目を合わせると、無性におかしくなってしまって、二人して笑い出してしまった。
全てのことが楽しく過ぎ去り、このようにして私の誕生日は終わった。本当に神様は私に情けをかけて下さる。私が生涯お仕えしても、このご恩にお報いすることはできないだろう。来年も最上のお恵みをお与え下さい。
何処でこの次の誕生日を過ごそうとも構わない。それは神様のご意志のままなのだ。全能なる神様、親しい友や両親に長寿を与え下さい。
愛する主が天の恵みを私に注いで下さいますように。肉体的にはたとえ何処で新しい年を迎えようとも、私の精神的信頼はやはり強く「ちとせの岩」に固く打ち付けられていることが神様に分かっていただけますように。そして神の召命のしるしを得ようと常に努力してゆく私が、人生の試練に勇敢に耐えられるようにして下さい。
【クララの明治日記 超訳版第2回解説】
「解説役を仰せつかった勝海舟の三女、逸子です。お逸と呼んで頂けると嬉しいです」
「……キン・ユウメイ。メイで結構ですわ」
「さて、本格的に始まったクララ一家の日本での生活。ここでまずクララの日記の“基本”として押さえておくポイントとして、全編を通じて記述される森有礼への恨み・辛みがあります」
「だからと云って“地獄流し”にしちゃマズイでしょ!」
「勿論その点はネタですが(後に加筆)のところは本当です。クララの日記で後に加筆されたシーンは数カ所のみで、いずれも日記に記述した人が後年亡くなった時に書き足されています。もっとも、森有礼以外はいずれもその亡くなった人物の“良い点”を書き記した部分に加筆があるのに、森有礼については何故か“餓死させる気か!?”の後ですが。しかも“お気の毒に”の言葉すら原本の日記にはありません」
「その割に実際には世話になっていることが多いと思うのだけれど。一度ロンドンにクララ一家が行った時にも駐英公使だった森氏がわざわざ出迎えているくらいなんだし。最終的に世話になった順から云えば、勝家>>森家>>>福沢諭吉くらいの順番でしょう?」
「森家と福沢家の間に何家か入るけどね。そちらの話は今後またするとして。
どうにもクララのイメージ的には、森有礼そして森家は『最初は面倒見てくれるけど途中で放り出す』『散々揉めた末にやっと面倒を見てくれる』という感じだったみたい」
「世話になったことに変わりはないのに、困った子だこと。あと日記の原文を読んでみると、なんとなくだけど、クララの父親にも少々問題があったように感じるのだけど?」
「前回の解説でも喋ったけれど、教師としてはそれなりに優秀だったものの、経営者としては問題があって、ということね。これもまたおいおい語ることになるとして。
あと解説しておくべき事は何かあったかしら?」
「お逸の父親である海舟氏の寄附した金額ですわね。当時のレートだと円とドルが殆ど等価として扱われていたわけで、当時の千ドルだと現在の価格だと大体一億円くらいかしら? いくら参議でもこんな金額を簡単に右から左に動かせるとは思えないのだけど、何処から出資されましたの?」
「それが正直よく分からないのよ。うちにもお金を無心にくる幕臣が毎日のように来ていたのだけれど、父様はどうやってお金を工面されていたのか。書を書いて渡したりしていたのは知ってるのだけど、それで大した金額になったとは思えないし。と云うわけで、何か詳しいことをお知りの方は是非ご一報を」
「なんて他力本願……」
「最後の誕生日の話ですが、私とクララは同い年で、私の誕生日が8月3日と極近いので知り合った後は一緒に誕生日パーティーを開いてたりしています。これもまた後日。
あとこの日に登場した人物で、今後も頻繁に登場するのは高木貞作氏ですねー。商法講習所ではクララの父親の右腕となって学生を教えることになります」
「その高木氏との会話がある人形の件、日記の記述に付け加えた部分があるみたいだけど?」
「それは今後明かされる高木氏の経歴から推察して貰うことにして。この人形たちはいわゆる“生き人形”だったのかしら? だとしたら壮観だったろうねー」
「全員西洋人ですものね。しかも英国製のパイプだの、速歩機だの、ああこれは原始的な自転車のことですけれど、小道具も凝っていますし。本当に日本人は速いスピードで西洋の文物を取り入れたようですね」
「それにしても築地からの川上りコースってもうこの時期から普通にあったのね。というか、江戸時代からあったんでしょうねー。皆さんも一度是非試してみて下さい。コミケから撤収する時にでも」
「結局イヤでもそっち系のネタで終わらせるんですのね……」
「それでは次回も当コーナーを宜しくお願いしま~す」
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