第3話 クララ、衆目に晒されるのこと
勝海舟の支援により、ようやく軌道に乗ることになった商法講習所とクララ一家の生活。
当初は森有礼の両親の住む屋敷の中の家に間借りしていた一家ですが、やがて木挽町14番地の家に引っ越すことに。
そして横浜にも出掛けるようになり、ヘボン式ローマ字綴を創設したヘップパン先生とその夫人たちと知り合いになっていきます。
明治8年9月19日 日曜日
時は矢のように飛んでいく。日ごとにこのことをひしひしと感じる。私は十五歳になったばかりだけれど、これから先の年月がますます早く見えるようになってくるのが分かる。快い朝陽を浴び、あたり一面の美しさに浸りながら、二階のベランダに寄りかかって私は考える。
フジヤマは遠くに輝いていた。多分ノアの洪水以前から今に至るまで、静かに美しく、しかも変わらぬ姿で。私の目だけでなく、他の人々の目にも、素晴らしい日没、深紅の雲、きらきら輝く雪が映ったことだろう。あらゆる人間の生の果てに口を開けて待っている恐ろしい墓の暗闇に閉ざされて、ずっと前から塵になってしまっている人々の眼にも!
今日はヘップバン夫人(旦那様は日本人向けにローマ字綴りを創設された方だ!)に連れられ横浜の祈祷会へと行った。説教師はこの国にいる半ば死んだような外国人の目を覚まそうとするために、スコットランドからやって来たダグラス師だった。
本当に在日外国人の状態は酷いものである。この国に来ている若い人たちは不行跡で、堕落していて、大人しい日本人を何かにつけて侮辱しているのだ! 既婚の商人たちは、この国の女の人たちを妾として家に置いている。水夫たちはもっと酷い。可哀想に、半分捨てられた小さな子供達が、日本人には不潔だとみなされ、父親にも構われず、ほったらかされて彷徨いているのを見ると、痛ましい限りである。
これら不品行な輩は、アメリカ本国では社会の屑そのものであるのに、アメリカ国旗のお陰と欺瞞でで成り上がった者なのだ! そして、不幸なことにこの国の人たちは、外国人というのは皆そんなものだと思っているのだ! 宣教師たちは最良だけれど、それでも大部分は綺麗な家に住み、使用人を多く使って、馬や馬車を持ち、本国の熱心な信者たちが描く宣教師の生活とはおよそかけ離れた贅沢な暮らしをしている。
ああ、この人たちには何かが必要なのだ。役に立つもの、効き目のあるものは精霊しかない。私の魂は嫌悪の念をもってこれら堕落した外国人に背を向け、日本人の中に見いだされる純粋なものの方に惹かれてゆく。
明治8年9月30日 木曜日
今日はなんと忙しい日だったことか! 私たちは木挽町14番地の新しい家に落ち着こうとしているのだ。
今朝アメリカから大箱が四つ届き、それからずっと大事な懐かしい物――故国の香りのする物―を整理したりして、あまりにもする事が多く書く暇もなかったのだ。今週になって初めて引っ越しの準備を始めたのだけれど、それは今まで森氏が少しも手を貸して下さらなかったからである。
でも森氏以外の日本人は皆親切だ。お友達になった福沢氏は大きな客間の敷物を、小野氏は寝室の置物を買って下さった。
アメリカに行ったことのある若い日本人たちは、皆しょっちゅう我が家に来て、ここを自分たちの家と呼んでくれる。そして一緒に買い物に出掛けようと誘ってくれるのだけれど、私はこのところ何も見物に外出していない。先週の月曜日、陶器が欲しくて使用人のヒロと銀座に行ったら群衆がゾロゾロついて来たので、家に戻って姿を隠すまで気が休まらなかった。母は「衆目の的」であることを気にせず、とてもよく出掛けていく。
明治8年10月4日 月曜日
日本での生活はますます面白くなってくるので、しばらくしたらきっとこの美しい島が祖国のように好きになり、離れるのが残念になるだろう。勿論どんなに美しい国でも、アメリカに対する私の愛情を移し替えることは出来そうもないのだけれど。
この間の日記では出掛けるのが厭だと書いたけれど、今日はアメリカのビリー叔母さんに送る人形の着物にする絹地を探すために、富田夫人と一緒に銀座へと出掛けることになった。旦那さんの鉄之助氏はアメリカにあった父の学校に入学した初めての日本人だ。この方が母に「聖書を読んで欲しい」と請うたことが母が伝道の志を持ち、遂にはこの美しい国にまで来させるきっかけとなったのだから、人生は何がきっかけで変わるか分からないものだ。
釆女町を通って橋を渡り、銀座の大通りをどんどん行った。
私たちは顔が白くて外国の服装をしているものだから、汚い着物を着た人がみんなじろじろ見るので、どぎまぎしてしまった。上流の人たちは礼儀正しく、チラッと見るだけで通り過ぎるのに対し、私たちの後をゾロゾロ着いて来て、立ち止まると一緒に立ち止まり、店に入ると店の前に群がるのは、最も貧しい暮らし向きの人々だけだと云うことに気付いた。
彼らを追い払おうと気を遣う店主もいた。だけど、ついて来られるのはとても煩わしいことだけれど、彼らは大人しいようだ。笑いもせず、殆ど喋りもしないで、辺りが黒いガラス玉のような目で一杯になってしまうのではないかと思われるまで、その黒い小さな目でただじろじろ見つめるだけなのだ。
それでもうんざりすることには違いなかった。だから、私は何か別の物の周りに人が群がっているのを見たとき、嬉しくなってしまった。
「きっと誰か不幸な外国人がいるんだわ!」
ところがそれは外国人ではなく――なんと猿だったのだ! そして明らかに、私たちと同じく無数の目に見つめられてどぎまぎしていた。
私はその時、心から猿に同情することが出来た。母はこの国に来てから、群衆がぞろぞろついて来る手回しオルガン弾きの気持ちがよく理解できるようになったと云う。
富田夫人は宝石のように素晴らしい方で、まだあまり時が経っていないのに私はとても惹かれている。もしご主人がアメリカに奥様をお呼びになったらどんなに寂しい思いがすることだろう。富田夫人はなさることすべてに良いセンスをお見せになるので、一緒にいるのはとても楽しい。
【クララの明治日記 超訳版第3回解説】
「前回に引き続きまして解説を仰せつかりました勝逸子です」
「………………………………」
「……あのー、もう始まっているんですけど……ユウメイ、さん?」
「今回は解説することなんてありませんわ。以上」
「いや、以上、って云われても困るんだけど……」
「こんな更新では、ただの日記の抄訳でしょう? そもそもタイトルに反していますわ」
「……その辺は今後の“改善対象”ってことで。とりあえず話を進めてくれないかな?
わたし、細かいこと整理して話すの苦手だから」
「……ふん、仕方ありませんわね。でも貴女がお父様の勝提督ほど周囲の人物とその業績について書物に書き残していたなら、きっと後世の歴史家も貴女の“未来の旦那様”の功績をより正確に知れたでしょうに。いえ、それでもやっぱり“捏造”もしくは“抹殺”されたのでしょうね。なにせ“あの国”のやる事ですから。“私たち”の躾が悪かったのかしら?」
「??? どういうこと?」
「まあ、いいですわ、今は分からなくて。いずれ超訳主が詳しく調べて書くでしょ? ネットレベルだと、超訳主が以前個人ブログであげていた記録が検索トップに上がってしまう程に情報不足のようですから。それともアップすると、いつぞやのようにF5連打でもされるのかしら?」
「??? メイが何を云ってるのか、全然分かんないんだけど???」
「……分からないなら気にしないでおきなさい。きっとその方が幸せだから。
とりあえず今回解説すべき点、明言しておくべきはこの一点だけでしょうね。『森氏以外の日本人は皆親切だ』。これは本当にクララの日記にそのまま書いてありますわ。あの子のこういうところだけは友人ながら本当に理解不能ですわね。最初に入った家は森氏の両親の住む屋敷の敷地内の家で『木挽町14番地の新しい家』というのも森氏の貸家ですのに」
「……うっ、その指摘はちょっとだけ私も耳に痛いかも」
「……まったく、これだから恵まれた家に生まれた人たちは!
有為転変はあるとはいえ、貴女達は基本的に恵まれた環境で育ってきたからでしょうね。貴女達二人が“親友”になれたのは、それも要因の一つかしら?
あと付け加えるとすると、福沢諭吉とクララたちが知り合った経緯は書いていないのだけれど、推測はつきますわ。ここでお逸に質問。この舞台の二年前に森有礼が福沢諭吉、加藤弘之らと一緒に創った文化団体の名前は?」
「ええと、その……」
「結成されたのが明治六年だから?」
「ああ! なるほどー。明六……社?」
「なんで疑問形ですの!? ええ、明六社で正解よ。つまり福沢氏と知り合いになったのも、森氏の仲介があったから、と考えるのが妥当ですわ。
更に付け加えると、先週紹介した勝提督が商法講習所の設立を条件にクララたち一家に多額の寄附をする際に同意を得たのは、旧幕臣で函館戦争まで戦った大鳥圭介氏と福沢氏だったようよ。つまり、勝提督と知り合ったのも元を正せば森氏が口を利いたからと容易に導き出せますわ」
「……絶対にそこまで考えてないよね、クララは」
「それでいて、前回も書いたのだけれど、長年森氏ご夫妻と友人づきあい出来るのだから本当に不思議だわ、あの子」
「ま、森氏も“契約結婚”なんてものを大々的にやられた最初の政府高官だしね」
「奥様も一風変わった方であることは、今後のクララの日記でも出てきますのでお確かめになって下さいませ」
「では、今回は内容も薄味なので、とりあえずこんなところかな? なお、今回は振れるネタがなかったため、オタネタも結果的に自粛することに」
「イヤでも続ける気ですの、あなたたちは……」
「そうそう、当作品ではその回の内容についての質問も受け付けていますのでお気軽に。超訳主の知識の及ぶ範囲でお答えするそうなので。
それではまた次回もお付き合い下さいませ」
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