人は習慣の中へとはまり込む。
それは本人だけではなく、関わる他人も巻き込んでいく。だからふいに訪れる、ほんのわずかな変化、”らしく”ない行動が、大きな驚きをもたらすのだ。
「え、あの……コーヒーで、宜しいですか?」
「はい。お願いします」
「かしこまりました」
私は頭を下げ、注文を通す。
マスターも不思議そうな顔でこっちを見た。
いつも窓側の席に座るその老婦人は、必ず紅茶を注文し、優雅な仕草でカップを口へと運びながら、外を眺める。
初めての来店は、半年前くらいだっただろうか。それから一週間に一度、木曜日にやってくるようになった。
高そうな着物をきっちりと着こなし、白髪の整え方にすら品を感じさせる彼女は、働かせてもらっている身であれなのだが、この喫茶店に似つかわしくない。
そもそも、ここはコーヒーがメインの店なのだ。マスターが厳選し、仕入れてきた豆を自家焙煎し、ハンドドリップで出している。紅茶は正直オマケみたいなもので、マズいとまでは言わないが、並でしかない。それなのにひたすら彼女は、紅茶だけを頼み続ける。
最初はその度に愚痴愚痴と言っていたマスターも、最近ではすっかり諦めたようで、同コストでいかに良い茶葉を手に入れるかを考えたり、淹れ方も研究し始め、おかげで味の方も並の上程度にはアップした。
淹れ立てのコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
私はそろそろかとトレイを構え、カウンターまで足を運ぶ。マスターが向けてくるイイ笑顔へ曖昧に頷き、妙な緊張感と共に席へと向かった。
「お待たせいたしました。スペシャルブレンドでございます」
「ありがとう」
コーヒーはわからないから任せると言われたので、コスパ最高とマスターが豪語するブレンドを薦めた。これでマズくても私のせいじゃないよね。メニューにもでかでかと『マスターオススメ!』って書いてあるし。
それから彼女は、ちびちびちびちびと、そりゃもうゆっくりとコーヒーを飲み続けた。顔は相変わらず外に向いていたから、どんな表情をしていたのかまではわからない。
そのうち、それなりにお客さんも増え始め、私も彼女ばかりに構ってはいられなくなった。
「ご馳走様でした」
ようやくひと段落、と息をついたころ、静かな声と一緒に伝票が差し出される。
「ありがとうございました。……いかがでしたか?」
お釣りを返しながら、どうしても気になった私は尋ねてみた。
すると彼女は少し困ったような表情で間をおく。
「……私、コーヒーが苦手でね」
でしょうね、と思わず出掛かった言葉を、慌てて飲み込んで笑顔を浮かべた。
「色が真っ黒でしょう? 焦げ臭いし」
「はぁ、そうかもしれないですね」
私なんかはあの深みのある色が好きだし、香りもアロマオイルかと思うくらいに癒されるからこそ、この店で働きたいと思ったわけだけれども。人の好みは色々だと改めて考えさせられる。
「だけど、あの人は大好きだったの」
「はぁ」
「弔いなのよ。……でもそうね、思っていたほど酷くはなかった。何でも試してみないとわからないものね」
そう言って軽く笑い、呆気にとられる私の視線を背に、彼女は店を後にした。
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