ボールキエマスヒーロー

なつのあゆみ

第1話

 兄が私の抜けた下の乳歯を屋根に向かって投げた。小さな歯は白く発光し、空中で消えた。

 屋根にぶつかって音を立てることなく、目に見えない怪物に飲み込まれたみたいに、消えてしまった。


 見たか、今の。見た、あたしの歯消えちゃったじゃない、お兄ちゃんのばか、これじゃあ大人の歯が生えてこないじゃない。私は泣き叫んだ。兄はうろたえて、必死に乳歯を探した。


 その背中は、リトルリーグで球拾いをやっている時とまったく同じだった。兄は球を投げるより、探すほうが得意だ。どぶの中からボールを見つけ出した兄だが、親指の先ほどの乳歯は探し当てられなかった。号泣した私も一時間後にはどうでもよくなって、プリンを食べていた。


 時は過ぎ努力は人を成長させた。兄は球を投げることが巧くなった。高校野球に出場しエースピッチャーとして優勝の栄光を得た兄は、プロ野球選手となった。一軍昇格、初白星、完封とプロ野球選手として、活躍した。

 華やかな人として報じられる兄と、茶の間でみかんをむいている兄が、同じ人とは思えなかった。

 

 ある日、兄がそれは見事な美人を連れてきた。私は彼女を見たことがあった。深夜のニュース番組に出ている人だ。その純情清潔、知性溢れるアナウンサーオーラに私は完敗である。

 兄は彼女とハワイで結婚式を挙げ、私の家族はお嫁さんの信奉者となり、兄の影は薄れた。

 翌年には玉のような男の子が産まれ、兄の人生は順調快適、あっぱれであった。私は兄にそっくりな甥っ子の腹を、くすぐってやった。


 デイゲームの日だった。私は観客席でポッキーをかじっていた。

 兄がストレートの一球を投げる。不器用な兄はストレートが得意だ。

 球はまっすぐにキャッチャーグラブに向かっていた。 

 

 球はその道すがら、ふいっと姿を消した。 

 まるで、目に見えない怪物に飲み込まれみたいに。それは私の乳歯が消えたときと同じだった。

 

 キャッチャーがマスクを取った。審判は首を傾げて、ボールを探す。空振りしたバッターは転んだ。

 場内が騒然となる。球が消えた? 魔球? 監督らが兄の周りに集まり審議が行われ、新しい球が用意されて仕切り直しとなった。兄が球を投げた。


 消えた。


 ざわめきが大きくなる。奇妙な現象に、審判たちは成す術なく、兄は降板された。兄はベンチでずっと苦い顔をしていた。


 それからというもの、兄の投げた球はことごとく消えた。これでは試合にならない。

 兄は一軍を降ろされた。


 兄は二軍でも腐らず練習に励んだ。球代がバカにならないと練習をさせてもらえなくなった。

 ではバッターに転身とバッティング練習をするが、兄はまったく打てなかった。


 兄はオカルトピッチャーと後ろ指を指され、球界から追い出された。ラッキーハッピー丸印だった兄の人生が、一気に崩れた。


 お嫁さんはアナウンサーに復帰し、家計を支えた。兄は息子を抱き、縁側でぼんやりと過ごした。

 丸めた背中は、ボールを拾っていた時と同じだった。オカルト協会がおもしろ半分に来て球が消える現象を調査したが、原因はわからなかった。


 兄が投げたものは、すべて消えるようになった。

 神様助けてくださいと、投げた五百円の賽銭が消えてしまったとき、兄は泣いた。血が滲む努力でやっと得たエースピッチャーの座を、理不尽な現象で突き落とされてしまった絶望は計り知れない。

 塞ぎこんでいく兄を見ていることが、辛かった。どうしてやることもできない。


 ヘイ、ジャパニーズキュートガール、ボールキエマスマン、ゴザイタク?

 黒人男性が、ガムをくっちゃらくっちゃら噛みながら、家の前で話しかけてきた。

 私は目の前にある胸筋の盛り上がりに驚愕した。 

 シツレイシマシタ、ワタシのナマエはマークデス。ワタクシドモ、コウイウモノデース。

 差し出された名刺は英語だ。


 さっぱりわからないでいると、市松人形みたいな小柄な女性が男性の後ろから出てきて、私どもはAFH協会です。お兄様いらっしゃいますか、と尋ねてきた。


 家にいる兄に会ってもらった。

 二人組は、ブラボーブラボー、ヒーローと兄を称え泣き出した。兄は目を白黒させた。

 

 市松人形の通訳曰く、AFH協会(エイリアン怖い協会の略)は、日々エイリアンからの攻撃に立ち向かっていたが、我々では解決できない危機に直面した。「ボールキエマスマン」である兄の力が必要である。ぜひ君の力を貸してくれ、君の力がないと世界が滅んでしまう。

 

 物騒なことを言う。私は新手の詐欺かと疑ったが、家でくすぶっていた兄は必要とされてハートに火がついてしまい、私に息子を任せてすぐ渡米してしまった。

 

 一週間後、騙されたのではと心配する私を兄がAFH協会の本部に呼んだ。

 四角い無機質な建物の内部に入ると、巨大なコンピューターがあり、床では無数のコードが絡まっていた。


 もうすぐ来る、と兄が言う。

 何が、問うといきなり天井がぱっかり開き、それまで私を歓迎してにこにこ笑っていたマークがファッキュー! と叫びだした。


 UFOが着陸した。

 中から、タコみたいなエイリアンが出てきた。

 ピンク色の八本ある足をうねらせ、突き出した口を縮めては伸ばし、黒い目を回す。エイリアンは口から墨を吐き出した。床をべったりと黒く汚し、UFOに戻った。

 

 エイリアンがいた場所には灰色の、拳大のボールがあった。

 これを処理する仕事をしている、と兄がボールを私に見せた。ボール表面には「24」と赤い文字が浮かんでいる。

 これは何かと尋ねると、このカウントが0になったら爆発して地球が滅びる、という。

 二十四時間以内にこの爆弾ボールをどうにかしないと、世界は滅びる。しかしエイリアンが生み出す爆弾は人類には未知のもの、下手に触れられない。

 

 そこで、兄が爆弾ボールを空に投げる。

 爆弾ボールは消える。これで一件落着という訳だ。兄は語る。この仕事が俺を生かしてくれた、と。

 

 兄は嫁さんにもこの仕事場を見せた。ファンタジック。嫁さんはただ一言だけ言い、きっぱりとアナウンサーの仕事を辞めてアメリカ移住を決意した。兄と嫁と息子は、AFH協会の近くに豪邸を建てて、裕福に暮らした。


 AFH協会はエイリアン対策本部として多額の「協力費」を得ている。その金がどこから出ているのかマークに尋ねると、あいどんとのーん、としらばっくれた。


 兄は一日に一個、律儀にエイリアンが産みに来る爆弾ボールを華麗に処理する。爆弾ボールの元凶であるエイリアンには手が出せない。少しでも傷つければ宇宙戦争が始まるらしい。よくわからん。


 兄は世界を救い、多額の報酬を得る。いくらお金があっても使命のためバカンスができないから、豪邸にプールとミニ遊園地を作った。兄は庭に作った観覧車から、夕日を見ることを楽しみとする。

 今日も平和は守られた、と悦に入る。


 年末。帰省した兄家族が、コタツに入りみかんの皮をむいている。二十四時間未満しか滞在できない慌しい帰省と感じさせないぐらい、のんびりしている。


 母に買い物を頼まれ、兄と二人で堤防を歩き、緋に染まる川を見た。

 時々、思うんだ。もし、俺のこの力が消えてしまったら、世界はどうなるのかと。

 兄がぽつりと言った。それは、わからないと私は答える。兄はうん、と答えて目を細める。縫い目の真新しい白球が、足元に転がってきた。すいませーん、投げてくださいと少年が川辺で叫んでいる。


 兄がボールを拾い、投げた。ボールの行方を、私は目で追った。


               終

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