第9話 『女王の輿』
さて。
皆様も、昼間はたくさんの人で溢れる場所が、夜にはその表情を変えるということを実体験されたことがあるかもしれません。
今回は、そんなお話です。
某年の春、私は都内の某私立大学を卒業したばかりで、着慣れないスーツで、花見客で溢れる公園を歩いて職場に向かう毎日をスタートさせたところでした。
新米学芸員の毎日の仕事といえば、展示ケースを拭いたり、行列の最後尾札を持ったりと、体力勝負。
幸い体力には自信がありましたので、筋肉痛になりながらも楽しい毎日を送っておりました。
入ってすぐに開催されたのは、ロマノフ王朝の展示会でした。次いで某アニメの展示会、そして問題の大型展示会が、私の毎日にどっしりと入り込んだのです。
大○博物館展です。
超大型の展示会ですので、連日多くの方で賑わっておりました。
それはもう、若干空気が薄く感じるほどです。
私は会場警備ということで、トランシーバーを持って人の波を縫うように歩きながら、カメラや飲食といったNG事項の周知徹底を命じられておりました。
不穏な空気は開催前からありました。
夜勤明けの同僚から
「監視カメラの角度が、変えても変えても下がっちゃうんだよね」
と言われていたのです。
ネジの緩みかと思い、力任せに締め上げても、金具のせいかと取り替えても直りません。
仕方なく、壁と同素材のテープを会場設営をしてくださった○通さんにいただいて、テープ留めで会期初日を迎えました。
会場は地下1階地上2階の三層です。問題のカメラは地下一階の真ん中あたりにありました。
地下一階は入り口から続く導入展示室、10×40メートルほどの展示室、そして吹き抜けという順路です。
ソレは、吹き抜けと展示室の間、ちょうど40メートルの展示室の最後を飾る資料でした。
両側に天秤棒のような持ち手のついた、豪奢な作りの赤い輿です。
外側には細やかな彫刻と、輝きこそ年月を感じさせるものの、値段など考えたくもない大きな貴石が埋め込まれ、落ち着いた色合いも素晴らしい輿。
日本風に言えば、時代劇でよく見る、お殿様が乗ってそうなカゴです。
ソレは悲劇の女王の名がついた、真っ赤な輿でした。
会期が進み、数週間がたった頃でしょうか、私のトランシーバーが急を告げたのです。
「子供が泣いてしまった」ということでした。
もう、お気づきでしょう。
そう、あの輿の眼の前で、子供が泣いているというのです。
「外に出してあげなさいな」と思いながら、なるべく急いで現場に向かいました。
確かに、階段を下りている時から鳴き声が聞こえます。
到着すると、5歳くらいの子供が、泣いておりました。
「どうした? 転んじゃったかな?」
子供の扱いを知らぬ夏目の精一杯の笑顔にも、彼は一向に泣きやんでくれません。
祖母であろうご婦人の手を掴み、両足を踏ん張って、泣いています。
ちらちらとあげられた視線をたどると
「輿? あれがどうかしたの?」
そう聞くと、やっと彼は私の顔を見てくれました。
まわりのお客様も、反応を示してくれた子供にホッとしている様子です。
ですが、次の瞬間大人たちは凍りつきました。
「怖いお姉ちゃんがいる」
い、いやいや。
えらい。
お姉ちゃんって言ってるのがえらい。
おばさんって言ってたら殺られてた気がする。
女王の輿は、相変わらず艶然とそこにあります。
子供よりも、まわりの大人がぎこちなく輿を見ました。
妙齢のお姉さまは、慌てた様子で輿の前から後ずさります。
そしてその場の意見は合致しました。
「おまえ、確認しろよ」
で、ございます。
ええ、ええ。もちろんですとも。
万が一どなたかがお茶目をかましておられやがりましても大問題ですし、何よりこの場で
ノープロブレムね、モーマンタイねってのをアピールしなくてはなりません。
協賛の読○新聞さんも困っちゃう。
念のため輿に近づいて中を見ましたが、もちろん何もありません。
レは中々に高難易度のミッションです。
かつて立像の、よりによって局所に埃がたまってしまい(混雑すると昼頃でもたまる)、そいつに息を吹きかけてくれたイケメンDKのおかげで、テロっとそこから絶妙な感じに埃が垂れ下がってしまったのを、衆人環視のもとで取り去った時と同じか、いや、それ以上の期待を背負って、
私は輿の中に顔を突っ込みました。
何もおりません。
ちょっと黴くさいだけ。
「ほら、誰もいないよ」
私は努めて明るくそう言いました。
「いるもん。チューした!」
チ、チュー!!
この時の夏目の頭の中は
(殺される!)
で、満たされました。女王にか、その旦那にかはわかりませんが。
タイトルは、女王とチューした話、にしておけばよかったかな。
気を取り直し、
「どのあたりにいるの?」
と聞いてみました。
「あの中に座ってて、こっちを見てる」
どうやら私は、首をかしげるようにして輿に顔を突っ込んだので、正面から彼女の顔に顔を近づけたようです。
大変申し訳ない。
「き、きっと、みんなのことを見てるだけだよ。ね」
とにかく泣き止んでもらって、この場から離れてもらったほうがよさそうです。
熱とかでそう。
「でも、でも……」
「大丈夫だよ! お姉さんはあの中にいるんでしょ! ぱって通っちゃおう」
「あ、でも……出て、きそう」
いや、ソレはルール違反です。
全然そんな前兆なかったぞ。
私は目の前いらっしゃったおばあさまに目配せをしました。
おばあさまは力強くうなずきます。
私たちの心は決まりました。
私はビビりまくってる少年を、抱えて一気に展示室を進み、輿の前をズンズン通過して、非常ルートからお二人を外へお連れしました。
少年は私のスーツをしわくちゃにしてくれましたが、小さな手から力が抜けたのを見たときはちょっと心が揺れました。
「もう、大丈夫かな」
少年は辺りを見回してから、そっとおばあさんの後ろに隠れます。
お二人に二階の展示室へのルートをご案内し、私は輿の前に戻りました。
いつもと変わらぬ風景です。
人もいない、もちろん女性などどこにもいない。
騒ぎを聞きつけてやってきた先輩が、そのばをおさめてくれていたようで、私は簡単に場を清掃し持ち場に戻りました。
私は女王様とキスをしたのでしょうか。
だとしたらめっちゃ怒ってないでしょうか。
見えもしないし、聞こえもしませんが、なんだか申し訳なくなって
心の中で謝りました。
だって、宿直室はこの輿の真裏なんですもん。
ここで、1つ問題が生じました。
輿の前での騒動から暫くたったある日の事です。
冒頭の監視カメラを覚えておいででしょうか。
あのカメラが設置されていたのは、一回の真ん中。輿とその前にあるミイラが映るように設置されていたのですが、このカメラがよく落ちた。
最初は
「さすがミイラ」
と言っていたのですが、輿の件があってからはそっちが話のメインに。
そして、夜の見回りの際に一度だけ。
「あれ。 もう福山が見回ってる?」
同僚の声に監視カメラを見ると、小さな光源が揺れるようにカメラに近づいてくるのが見えました。
時間を確認すると、見回りには数分早いだけ。私も慌ててブースをでます。
上と下から見回って、中間点で報告し合うのがルールだったからです。
「いつの間に!」
そう愚痴りながら部屋を出たところ、中にいた同僚に勢いよく部屋に連れ戻されました。
「福山じゃ、ないかもしれない」
そういった同僚の顔は強張っていたような気がします。
私も監視カメラを見ましたが、いつもと変わりがありません。
それでも不思議なことに先ほどの光源が消えているのです。常夜灯を見間違えたのかと凝視していたら、ポンと手のひらで画面を隠されました。
「……あ、福山? 次の見回り差し支えね」
同僚はそういってトランシーバーの電源を切りました。
ちなみに福山くんは外の詰所にいます。
この対応、聞いたことはありました。
実は泥棒が出たりしたら、見回りは中止し、警察に連絡し、警備は自動の人感センサーに切り替えるのです。
監視カメラは、中央のセンター制御になります。
「たまに、たまーに、あるんだよね」
そういった同僚は、警備主体の業務をこなす2年ほど先輩の男です。
「次の見回りからシフト戻すから」
同僚は何事もなかったかのように週刊雑誌を読み始めました。
小さな、輿の真裏の宿直室での出来事です。
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