三章 邂逅
間違いを指摘するのは容易い
間違いを説明するのは難しい
三月九日 午前 六時
昨日から事前に打ち合わせていた時間の通り、リック・ガーネストは早朝の時間に来訪してきた。教会の招集が終わった後、リックに連絡を通していた洋一は自身の屋敷に訪れるよう呼び掛けていたのだ。ラフな格好で訪れたリックに、ソファーに座るよう促す洋一は、ついでにタオルを手渡していた。この時季の朝はまだ薄暗い。窓には水滴が張りつき、雨音が居間に浸透するかのように響き渡っていた。
居間の照明がリックの表情を照らす。僅かに髪を濡らしていたリックは洋一に礼を告げてから、水滴を拭き取るためにタオルを扱う。リックの視線は庭に通じる窓の方に向けられていた。
「今日一日は雨らしい」
此処に来る前に天気予報を確認したのだろう。リックはタオルで頭を拭きながらそんなことを口にした。
「昨日から天気は悪かったからな。予想はしていた」
リックにそう返事する洋一。
部屋の壁が間近なところに置かれた椅子に背中を預けていた洋一は、そろそろいいだろうと本題を切り出すことにした。
刻野 秀一について。
洋一はその話をするためだけに彼を呼び出したのだから。
洋一が本題を切り出すことを空気で察したのか、彼は懐から真っ白な封筒を取り出した。その封筒から取り出した二枚のチケットを見た洋一は、呆れたように溜息を洩らす。
「信じられない行動力だ」
「席を確実に確保するためには必要なことだろう?」
「あれからまだ半日も経っていない」
大した問題ではないとでも云うようにリックは笑み、タオルを目の前のテーブルに置いた。艶やかな金髪は照明に照らされては輝きを伴い、澄み渡るような碧眼は洋一を視界に収めている。不意に、チケットを指に挟んでいたリックが一枚のチケットをテーブルの角に置き、残りもう一枚のチケットを封筒に収めては懐に仕舞っていた。
「君の分は此処に置いておくよ」
「刻野 秀一が中にいるとは限らない」
「外にいるとも限らないだろう」
確かにその通りだ。洋一はそれ以上反論はしなかった。
「貸しが一つできたな」
「長い付き合いだ。ゆっくり返していけばいいよ」
「ああ、ありがとう」
礼を口にした洋一。そこから彼は一息吐き、しっかりと姿勢を整えた。わざわざリックを早朝に呼び出したのにはちゃんとした理由がある。月江や、もしかしたら此処に訪れるかもしれない陽菜に、聞かせるような話ではないと洋一が判断したからだ。彼女達二人は、洋一が刻野 秀一について何を思って考えているのかを窺っている節がある。洋一はそのことをあまり快く思ってはいなかった。
「今日の公演に刻野 秀一が訪れるとしよう」
洋一のそのどこか引っ掛かりのある言い方を耳にして、眉間にしわを寄せるリック。
「彼が来ない可能性はないよ、洋一」
洋一の考えていたことを的確に推察するリック。次に眉間にしわを寄せるのは洋一の番だった。
「どうしてそう言い切れる?」
「なら、どうしてそのような考えを君は持っている?」
「まず根拠がない」
「陽菜ちゃんが嘘を吐いているとでも?」
返事に窮する洋一。しかしそれも一呼吸の間だ。それでもリックの目は誤魔化せないだろう。彼は洋一が返事に困っているのをいまの遣り取りで見抜いた筈だ。それほどまでにリックとの付き合いは長い。
不動 凪と、同じくらいに。
「陽菜ちゃんが嘘を吐く理由がない」
雨音が聞こえる中、穏やかな口吻で洋一に説明するリック。
「次に刻野 秀一が嘘を吐く理由もまた、無いということ。根拠はそれだけで充分、腑に落ちない点は何一つない」
「おかしいとは思わないのか」
「何が?」
「刻野 秀一が俺達に居場所を教えたことだ。魔導の命題に辿り着いた男がリスクを犯してまでこの日、この場所に現れると俺達の前で宣言した。まさか自分の立場を理解していないわけでもないだろう」
刻野 秀一は魔術師達の間では命を狙われているに等しい存在だ。当人がそれを察していないわけがない。そう、刻野 秀一にメリットがないからこそ洋一はこの状況そのものを訝る。けれども全てを疑っているわけではなかった。それこそ陽菜と長い付き合いである洋一は、彼女が嘘を吐いていないことくらい分かっているつもりだ。昨日の招集で刻野 秀一から伝えられたメッセージを発表した陽菜。あの言葉では表現し難い、どこか威厳に満ちた言葉が偽物だとは洋一も思っていない。それでも彼は何かを疑わずにはいられなかった。陽菜が帰国してからというものの、少しばかり事が潤滑に運び過ぎている。刻野 秀一と会えるかもしれないという、一縷の望みに等しいその可能性。その情報だけで一体何人の魔術師が食い付くのだろうか。一体どれだけのお金が積まれるというのか。洋一には想像すらできない。
「自分の立場を理解しているからこその挑発だと僕は考えているけれども」
「挑発して一体何になる」
「挑発は余裕の表れだ。忘れてはないだろう、彼が最強の魔術師であることを。陽菜ちゃんは僕達の情報を刻野 秀一に回した。そうして興が乗った刻野は僕達の考えが無謀であることを手ずから示す。彼の背中を追う魔術師達に、現実というものを刻野 秀一当人が教えるというシナリオ」
馬鹿馬鹿しいと洋一には一蹴することができなかった。事実、彼には思い当たる節がある。それは朝日 文隆が明言したことだ。曰く、刻野 秀一が魔導の命題に辿り着いてからその身を隠すことなく平然と魔術師の間に現れたのは、蘇生したことを遠回しに朝日 文隆に報せるためだということ。刻野 秀一が傲っているのは間違いないだろう。それは陽菜に与えた彼のメッセージからも窺えることだ。
「君自身も分かっていることだろう、洋一」
相変わらず諭すような口調で続けるリックの言葉に、洋一が不快感を示すようなことはない。彼が何を口にしようとしているのか、洋一には分かっていた。
「陽菜ちゃんの言っていたことは真実だ。そして刻野 秀一は一度宣言した以上、僕達に背中を向けるような真似はしない。彼は誇りある立派な魔術師だ」
「それでいて最強、か」
洋一の言葉にリックが笑む。
「そう。彼は最強だからこそ、敗北を恐れない。あの大胆不敵なメッセージは、魔術師としての誇りと自信に満ちていた。だからあのメッセージは本物だ」
根拠としてはまだ足りないと洋一は考える。第一、彼らは皆、実際に刻野 秀一の姿や声を見聞きしたわけではなかった。陽菜の口を通して発されたメッセージが刻野 秀一のものであることを証明すらできない。それでもリックの言葉には確固たる自信が滲み出ていた。どうして刻野 秀一と対面したこともない人間が、刻野 秀一のメッセージが本物であると確信に至ったかのような口調で語るのか。洋一にはそれが不可解であり不気味だった。あのメッセージが刻野 秀一の言葉であることをそのまま鵜呑みにすることが、彼には理解できない。まるで刻野のメッセージそのものに何らかの魔力が籠っているかのようだ。
人を惑わせる、魔の力が。
「分かった」
リックの言葉にとりあえずは頷きを返した洋一。納得はしていなかったが話を進めるしか他にない。何もかもが罠だったとしても、それでも洋一はその罠に飛び込む以外の選択を見付けられなかった。誰かの意志に踊らされているのだとしても、洋一は刻野 秀一との邂逅を求める。誰かに取り憑かれているわけでもない、彼自身の意志で手を伸ばす。
「刻野 秀一が蘇ったという前提で話を進めていこう」
洋一の言葉に満足げに頷くリック。このまま話が逸れるのは洋一にとって本意ではなかった。それに、リックを呼び出した理由は刻野 秀一に関する情報の共有だ。──刻野のメッセージ、その信憑性を洋一は疑っていたのに、結局のところ話題は刻野 秀一のことだった。
先刻、話を逸らしていたのは明らかに洋一だ。リックを呼び出したのも、刻野 秀一が公演に訪れるという前提があるからこそ。洋一は思う。目の前の友人に刻野 秀一が訪れるという根拠をただ示してほしかったのではないか、と。疑い深いことを自覚している洋一は、そんな自分に刻野 秀一が訪れる確信を懐かせてほしかった。それは、どうしようもない甘えだ。自分を責める洋一。
自問自答を繰り返す洋一の思考は先程から滅茶苦茶だ。取り止めのない言葉が頭の中で並んでは消えてを何度も繰り返す。その度に自己嫌悪に浸る洋一。彼にはシンプルな考えができない。刻野 秀一が訪れることを陽菜は口にした。洋一はただそれを信じるだけで良かった筈だ。その信じるという行為は、即ちいままで培ってきた陽菜との信頼感を表す。そんなことは分かっているというのに、彼は疑いを払拭できない。刻野 秀一と対峙する可能性。それは不動 洋一をこれ以上ないほどに惑わす。
不動 凪の笑顔が、一瞬、洋一の目に映る。それを振り払うために彼は一度、かぶりを振る。
「刻野 秀一の能力について、と君は口にしていたが」
この先、どのように行動をとるのか話し合うことも呼び出した理由としては重要であった。しかし主に洋一がリックに伝えたかったことは刻野 秀一の魔術、その能力だ。もしリックが刻野 秀一と対峙するようなことがあれば彼は必ず敗北する。リック・ガーネストが魔術師である限り刻野 秀一には勝てない。
「時を司る、というのが魔導に於いて認知されている刻野 秀一の魔術だ」
「そうだね。曖昧な部分は多いけれども」
「その通り、刻野の能力は曖昧に認知されているのが現状だ。時を司る魔術の効果範囲も分からなければ、そもそもその魔術がどのような影響を及ぼすのかも不明だ」
時を司る魔術。その術式を正確に把握しているのもまた、刻野 秀一だけだ。秘匿しているからこそ価値が宿る魔術。それは魔導の命題も同じだ。刻野 秀一しか知らないからこそ、魔術師達はこぞって彼の跡を追う。自身もその高みへと昇るために。刻野に纏わる情報を執拗に魔術師達は追い求めていた。
「どうして正体不明である筈の魔術が『時を司る魔術』であると認知されているのか。魔導の命題に辿り着いたことを証明するのは簡単だ。刻野 秀一は死んだ人間だ。けれども現代に蘇っている。それはつまり、蘇生を実行したということだ」
死者は蘇らない。
だが、刻野 秀一は生きている。
「魔術師として頂点に君臨しているからこそ、魔導の命題に辿り着いたという情報は信憑性が高かったわけか」
「ああ、そういうことだ。そして魔導の命題よりも以前に、刻野 秀一の名と能力を広めた逸話は数え切れない程にある。それらの場面を観測した魔術師達は口を揃えて『最強の魔術師』なんて崇めたのが、そもそもの切っ掛けらしい」
「そこから刻野の魔術は公になったのか。でも、仕組みが分からなければ意味がない」
「仕組みどころか、時間を操るという表面上のことしか魔術師達には分かってなかったよ」
「でも君は、刻野の魔術がどのようなものかある程度、掴んでいる。違うかい」
「違わない。それをいまから話す」
口を噤む洋一。
沈黙は、雨音に掻き消される。
「仕組みは当然、未だに分からない。だが、時を司る魔術が一体どういったものなのかは多少理解できた」
「情報源は文隆さんかい?」
「ああ。偶然、聞いてしまった」
「意図的に、だろう?」
リックの前で誤魔化すことはできないということを洋一は知っていた。朝日 文隆が誰と会話していたかは分からない。だが彼は刻野の能力について詳細に話していた。友人だからこそ知り得た情報を、彼は会話に織り混ぜていたのだ。もしかしたらそれは利益を見出だすために朝日 文隆が刻野の情報を流していたのかもしれない。しかし、そんなことをするような男ではないことを洋一は知っている。
考えたところで仕方ない。かなり前の話だ。リックに指摘されたところで洋一は会話を止めるつもりはない。
何故、盗み聞いたのか。
いまになっても、洋一は分からないでいた。
「曰く、過去と未来の行き来が刻野 秀一にはできる」
「……過去と未来の、行き来」
「そして、魔力素粒子が干渉した事象の動作、及び、効果を一時的に停止させる。それが刻野 秀一の魔術だ」
「……魔力素粒子が干渉した事象。つまり魔術の効果を無効にするということか?」
「いや、停止ということは孰れ動き出すということだ。どう解釈してもらっても構わないが、刻野 秀一に魔術は通用しない」
故に、最強。
「酷いでたらめだ」
「だが、有力な説だ」
「まだ一般人の方が太刀打ちできる」
「刻野 秀一は魔術師だ。時を司る力だけが能じゃない」
「んー」
リックが伸びをしてから、姿勢を崩してはだらしない格好でソファーに背中を委ねていた。
「事象と君は説明したけれども、魔力が常、体内で循環している魔術師の存在は、その能力に当てはまるのかい?」
「それは分からない。だが文隆さんは事象とだけ口にしていた。その線は低い」
「成程。刻野 秀一の情報には貴重な価値が伴うものだけど、その中でも飛び抜けてるね、この話は。とても大きな貸しができたよ、洋一。チケット一枚ではとても足りない」
「なに、長い付き合いだ。ゆっくりと返していけばいい」
リックの無邪気な笑みにつられて笑う洋一。一息吐いてからリック・ガーネストは、その場から立ち上がった。
「もう帰るのか」
「うん。あのメッセージには、いつ刻野 秀一が現れるかは明言されていない。念のため、早めに出るとするよ」
「用心深いことだ」
「でも、それだけだ。何処に現れるのか分からない。顔も分からない。正直、無謀な話だ。それでも向かわずにいられないのはきっと、僕が魔術師だからだろう」
立ち上がっていたリックが居間から出ようと歩き出す。
「また後で会おう」
洋一がそう告げるとリックが頷きを返す。そして彼は出入り口の扉、その把手に指を掛けてから立ち止まった。
「洋一」
それは、どこか翳りのある声。
「君は一人で問題を抱え込むところがある」
「そんなことはない」
洋一のその言葉にゆっくりとかぶりを振ったリック。
洋一の言葉を、彼は否定する。
「何か悩みがあれば僕に相談してほしい。必ず力になる。それと、一度、鏡を見た方がいいよ。目元の隈が酷い」
目元の隈が酷いのは、どこかの二人が馬鹿な騒動を起こして、片付けが長引いたからだ。そう口にしようとしたが、洋一は何も言わないことにした。それが言い訳であることを、彼自身が気付いたからだ。先程から欠伸を噛み殺していたことも相手は察しているだろう。それに言い訳じみた言葉が通用する相手ではない。陽菜が刻野のメッセージを読み上げる前、否、彼女がメッセージを預かったと洋一の前で告げた時から洋一はあまり睡眠をとっていなかった。
「ありがとう、リック」
洋一は素直な気持ちを告げる。自分のことを気に掛けてくれるこの友人に、彼は感謝をしていた。しかし、ありのままの気持ちを言葉にするわけにはいかない。
「でも、大丈夫だ。お前が心配するようなことは何もない」
意識して、洋一は微笑む。その笑みがリックを騙し通せるものではないことを洋一は知っていた。それでも洋一は意識して笑う。それを見たリックが諦めたかのように、額に手をあててはわざとらしい溜息を吐いた。
「……それならいいけど。じゃあ、また後で落ち合おう、洋一」
「ああ。また後で」
そしてリックは扉を開けた。廊下に出てから、彼が僅かに立ち止まるのが目に見えた。そうして、リックの手によって扉が締まる前に、洋一は声をあげる。
「出てこい、月江」
三月九日 午前 六時五分
ベッドから身を起こす陽菜。なかなか寝付くことはできないだろうと予想していたがそんなことはなかった。盛大な欠伸を一度だけ洩らし、まだ暗い部屋の中、壁時計を見遣る。朝の六時。充分な睡眠時間だ。王都から帰ってきた彼女は若干、時差ボケの心配をしていたが、それは杞憂に終わっていた。体は町の空気にすぐさま馴染んだ。
ベッドから降りてはカーテンをスライドさせる陽菜。窓から朝の日射しが差し込むことはない。水滴が付着した窓、雨音が陽菜の部屋に響き渡る。窓に付着した水滴を指先で拭うように陽菜は縦に線を引いていた。そんな意味もないことをしてから、寝間着姿のまま彼女は一階のリビングに足を運ぶ。廊下に出てから、誰かが起きてリビングにいることを察した陽菜。廊下にまで届いていた照明、その光を辿っていけばリビングにて恵と文隆が向かいあって椅子に腰を掛けていた。
「おはよう、陽菜ちゃん」
「おはよう、陽菜」
二人が口を揃えて挨拶をしてきた。それを見た陽菜の表情には、自然と笑顔が浮かぶ。
「おはよう、お父さん、お母さん」
「うん、おはよう。朝ごはん、用意するね」
椅子から立ち上がった恵がキッチンに向かう。コーヒーが注がれた小さなカップに口をつけている文隆に陽菜は視線を移す。その視線に気付いた文隆がコーヒーのカップをテーブルに置いてから、陽菜に微笑む。
「座ったらどうだ、陽菜」
「うん」
その場に立ち尽くしていた陽菜は、文隆に促されてから恵が空けた席の隣りに腰を掛けた。陽菜は斜め前に居座る、自身が理想とする魔術師の表情を窺う。いつもと変わらないように見える父ではあったが、些細な違和感に陽菜は気付いていた。そして、それは恵も気付いているであろう。
陽菜には、文隆が何処か悲しみに暮れている気がした。
「雨、降ってるね」
どうでもいいことを、陽菜は言葉にした。何を口にしていいのか彼女には思い付かなかった。
「明日も、雨らしい」
文隆がそう答える。
「そうなんだ」
「ああ。ここ最近、天気が悪かったから、予想はしていたことだが」
そう答えた文隆が、コーヒーカップの把手に指をかけては、そのまま口元に運ぶ。父のいつもと変わらない筈の動作が、見せかけのように思えて仕方がない。陽菜には目の前にいる父がどこか無理しているように思えた。しかしそれを指摘するのは父にとってあまり好ましい話ではないだろう。コーヒーに一口つけていた文隆がカップをテーブルに置いてから話題を切り出す。
「嫌な雨だ」
「何が嫌なの?」
「予報通りに降っていることが、私には嫌なんだよ、陽菜」
父が何を言いたいのかが陽菜にはよく分からない。陽菜を見詰める文隆の視線は哀しみを帯びている気がした。どうして自分をそのような目で見るのか陽菜には分からない。
いつの間にか、文隆の視線は窓に移っていた。陽菜は、文隆が何を言いたいのかが結局、分からないままだ。文隆の視線を辿るように、窓を見遣る。降りやまない雨。しかし本日の公演に、天候は関係がなかった。
三月九日 午前 六時十五分
洋一に名前を呼ばれて僅かに肩が震えた月江。廊下で盗み聞きしていたことを洋一は気配で察していたのだろう。月江は静かに吐息を洩らす。
「呼んでるよ」
気さくに声を掛けてきたリックに頷いた月江。リック・ガーネストは洋一に次いで月江が本音を交えて会話ができる数少ない知人だ。きっと彼も自分が此処にいることに気付いていたのだろうと月江は予想する。
「じゃあね、月江ちゃん。また後で」
「ちゃん付けはやめてください」
「考えておくよ」
何回も交わした内容の遣り取りだ。しかし何度注意したところでリックは月江の呼び方を変えない。月江は半ば諦めていた。
玄関でリックを見送ってから居間に踏み込む月江。すぐさま洋一と目が合う。リックの云う通り、確かに目の隈がいつも以上に酷い。
「ごめんなさい」
なにか言われる前に、素直に謝る月江。昨日の今日だ。さすがに言い訳が通じないことを月江は痛感していた。謝ったところで許されるとは思っていなかったが、それでも構わない。だが洋一はいつまでたっても月江を咎めないでいた。少し彼はぼんやりしている様だ。
最近の洋一は様子がおかしいことを常、彼の傍らに控えていた月江はひしひしと感じとっていた。その原因には心当たりがある。
刻野 秀一。
正確に云うならば、刻野 秀一の魔術に洋一は執着している。本人は執着していることをおそらく自覚していない。刻野 秀一の情報を何故、執拗に追っているのか。その理由が洋一の中では不明瞭なままであることを月江は分かっていた。洋一は只、自分自身から目を逸らしているだけだ。彼の願望は昔から何一つ色褪せていない。
氷堂 晃の云う通りだ。
不動 洋一が刻野 秀一の情報を集めている理由は只一つ。その事実が、月江にはどうしようもないくらいに悲しかった。
「どこまで、聞いていたんだ」
疲れた様子で洋一は月江に訊く。責めているわけではないことを月江は声色で分かった。
「大抵のことは」
「考えが聞きたい。刻野は今日、公演会場に来ると思うか?」
「正直なところ、分からない」
そんなこと、誰にだって分かるものではないと月江は思う。もしかしたら気分が優れないという理由だけで刻野 秀一は来ないかもしれない。もしかしたらあのメッセージは刻野 秀一の嘘で塗り固められているのかもしれない。様々な推測をしたところで手元に情報がないのだから、憶測の域を出ることはやはりない。
「でも、行かないよりは行った方がいい」
情報が少ないからこそ、行かない方がいいと月江は断言しようかと思った。けれどもそれは洋一が求めている言葉ではない。
「刻野 秀一は公演に訪れるかもしれない。でも、もしかしたら来ないかもしれない。結局のところ、行かないと何も分からないままだよ、洋一」
「罠の可能性がある」
「それだって、罠に引っ掛からないと分からないことだ」
「確かに、道理だ。つまり、何もしないでいるよりは動いた方が良い。そういうことか、月江」
「うん」
彼の言葉に頷きを返すのが、月江には苦痛だった。洋一はそのことに気付かない。
酷いひとだ、本当に。
三月九日 午前 六時四十五分
三月八日の午後九時から現在の時間に至るまで氷堂 晃は、一人無言で作業を続けていた。
人目に付かないよう彼が続けていた作業というものは、魔術師にしか分からないものだ。尤も、分かったところで彼が何をしようとしているのかは理解できないだろう。繊細さが求められるその作業は氷堂が嫌いなものだ。しかし、嫌いではあっても苦手ではない。普遍の魔術師なら、一日掛かりでも完成するか分からないそれを、彼は半日もかからない内に終えていた。
そして雨の中、髪を掻き上げ、氷堂は一時帰宅することにした。それは疲労を回復するためではない。そもそも、この作業に彼は疲れというものを感じ取ってはいなかった。まるで旧友に会うことを楽しみにしているかのような面持ちで帰路を辿る氷堂。彼の口元には変わらず歪な笑みが刻まれていた。
三月九日 午前 八時十三分
西口 麗奈が刻野 秀一を追う理由は極めてシンプルだ。魔導の命題に辿り着いた彼の情報にはいつだって価値が伴う。麗奈が刻野を追っている理由は、刻野の情報で利益を見出だすこと、ただそれだけだ。
紗耶の未来視を使ったのは三月九日の午前零時前後。三月九日の午前零時から午後二十三時五十九分の間に、未来視の対象になった人間の出逢いを紗耶はその瞳に映す。
麗奈はもし刻野 秀一が訪れるのであれば、必ずや朝日 陽菜に接触を図るだろうと踏んでいた。紗耶の未来視は絶対的なものだ。知り合いと出逢う場面と、擦れ違う他者の場面をはっきりと紗耶は区別できる。その場の空気、人物の機微な表情の動きを紗耶は見逃さない。だからこそ、紗耶の未来視で二十三時間五十九分の間、陽菜が知り合いと出逢う場面の中から刻野 秀一を見つけ出すために紗耶の未来視を利用した。
不動 洋一、夜野 月江、リック・ガーネスト、氷堂 晃を未来視の対象にしたのは謂わば保険だ。陽菜が三月九日の間、あの公演会場で出逢う知り合いを仮にAとする。先程挙げた四人の内、誰か一人がAに接触を図る可能性があった。麗奈は教会にいたメンバーをあまり信用していない。四人は、刻野 秀一の容貌を既に掴んでいるかもしれないのだ。四人の内、誰か一人がAと接触を図っていれば、A=刻野 秀一で間違いないだろう。先駆けをさせるつもりはない。
もし四人が刻野 秀一について何も情報を掴んでいないのであれば、それはそれで構わなかった。陽菜の未来で現れたAという人物と擦れ違っている場面を四人の未来から探し出すだけだ。
問題は一つ。これらは朝日 陽菜が刻野 秀一と接触を図っていることが前提だ。しかし、そんなことは最早、麗奈にとって問題ではない。
西口 麗奈は、刻野 秀一の顔を知っている。
そして、未来に刻野 秀一はいた。誰の未来にも、刻野 秀一は存在した。
西口 麗奈が刻野 秀一を追う理由は極めてシンプルだ。だがそのシンプルな理由は、夜野 月江の未来を西口 麗奈が確認したことで大きな変化を齎す。
月江は、刻野 秀一に銃器を向けていた。それが、刻野 秀一と月江のファーストコンタクト。
夜野 月江の未来を確認した麗奈は、思考を巡らせては様々な結論を導き出す。導き出した結果、麗奈は最後に自身の未来を視るよう紗耶に頼んだ。そうして自身の未来を知った彼女は歓喜する。この結論に間違いはない。麗奈は確信した。いまや、麗奈の頭の中には朝日 文隆のことしか存在しない。その口元は、誰よりも醜悪に歪む。ベッドで高熱に魘されている紗耶の存在を気にも留めないまま、麗奈の瞳には変わらず朝日 文隆の存在だけがちらついていた。
三月七日 午後 十七時五十分
朝日 文隆には刻野 秀一という一人の友人がいた。彼との付き合いは二十年以上にもなる。魔導の道を歩む同士として互いに競い合っては研磨する謂わば好敵手でもあった。逼迫した競い合いは互いにとって良い刺激となり、二人の魔術師はより高い場所を目指そうと魔導に励む。
結果、文隆は刻野に敗北した。刻野は、文隆には辿り着けなかった『時間干渉』の魔術をその身に修得していたのだ。しかし、二人の関係は永遠に変わらない。どれだけの時間が過ぎ去ろうとも、文隆は刻野の友人だ。彼が魔術師として最強であることは文隆も認めていた。自身に勝利した男だ、最強であって当然だろうというのが文隆の考えだ。
そんな最強の魔術師にも愛する人がいた。その愛する人は、魔術師でもあった。刻野がその人と寄り添う頃には、既に文隆には子供がいた。名前は、陽菜。恵との間に授かった、とても、大切な娘だ。
朝日 文隆は魔導に拘わりのない人と結婚を遂げることに不安があった。こちら側の都合に、一般人の恵を巻き込むかもしれない。文隆にはそれが何よりも恐怖だった。だが、そんな文隆を後押ししてくれたのが友人の刻野だ。彼の後押しに勇気を貰った文隆は、こうして恵と寄り添うことができた。刻野には感謝してもしきれない。文隆は、もしも刻野が何か困るようなことがあれば必ずや彼の期待に応えようと思った。それは何も後押しをしてくれたから、という理由ではない。好敵手と認めたその日から、彼が何か助けを求めるようなことがあれば迷わず手を差し伸べることはできた。
そうして、八年前。
刻野は、文隆にある告白をした。刻野が何でもないように話すそれは、文隆にはどうしようもないことだった。
近い内に、刻野 秀一が死ぬ。
時間干渉を起こす刻野 秀一は一定の範囲内、日を跨がって自身を過去、未来に移動させることができた。一般にタイムトラベルと呼ばれるそれは、どちらかといえば魔術よりも科学寄りの現象だろう。しかし、タイムトラベルを科学は実現していない。理不尽、不条理を齎す魔術だからこそ実現可能な話ではあった。尤も、魔導の世界に於いてもそれは究極の域にはあったのだが。
だが、彼が未来へ移動するために指定したその日。刻野 秀一は未来に移動することができなかった。それが意味するところを、刻野は死と表現した。自身の未来が視えないことを、つまりそれは死だと刻野は判断したのだ。
刻野 秀一が死ぬ。彼がそのことを文隆に告げた日、刻野は自身の死を当たり前のように受け容れていた。けれども当然ながら彼は人並みに死を恐れていたのだ。掠れた彼の声を文隆は鮮明に覚えている。文隆に自分が近い内に死ぬと口にした刻野。それは彼が死ぬ三日前の話だった。
刻野 秀一の時間干渉には幾つかのルールがある。指定した日にちに移動でき、未来の滞在時間は一時間前後、刻野 秀一がその日その場面にいた視点から始まり、それに伴う魔力は大幅に消費すること。そして未来に於いては、過程を変えることはできても結果を覆すことはできない。つまり刻野の死は回避不可能な一つの結果だ。医学に頼っても魔術を行使しても、何も意味を為さない。死は、避けることのできないものだからだ。
友人の命の危機を前にして必死に思考するものの文隆には何も思い付かなかった。とにかく行動に走ろうする文隆を見兼ねた刻野は優しい声で諦観の念を言葉で示す。
もういい、と。
刻野 秀一には二つの後悔があった。一つは最愛の人を遺して死に逝くこと。刻野は彼女に自分が死ぬことを一切告げていない。彼はありのままを受け容れるつもりでいた。
そしてもう一つが、魔導の命題に辿り着くための研究だ。魔導の命題の一つ、蘇生。未だ誰も成し遂げていない偉業を、魔術師である彼は只、純粋に求めていた。夢半ば諦めることを彼は悔いていたが、それでも自身が死ぬ最期の時まで彼は只管に夢を追い掛ける。そんな、揺るぎない決意を電話越しで文隆に語った刻野。時間干渉を繰り返し、どれだけ憔悴しようとも疲労が増そうとも刻野は諦めなかった。
そして、刻野 秀一は死んだ。
彼は、魔導の命題に辿り着く事ができなかった。
葬儀は盛大に執り行われ、多くの魔術師が彼を見送るために集まった。誰も彼もが刻野 秀一に憧憬の念を懐き、周囲の慟哭がどれだけ深いものであるか。文隆には分からない。ふと、文隆は刻野の遺影の前に立つ彼女の貌を窺っていた。生前、刻野と生活を共にしていた彼女。
その彼女は皆の前でやはり、涙を流していた。でも、その瞳には何か決意を宿したかのような強い意志が見られた。どうしてあの時、その意味を読み取ることができなかったのかと文隆は後悔をする。
数年後、刻野 秀一は蘇った。
刻野が魔導の命題に辿り着くために様々な資料、筆跡を残していた未完成の術式を魔術師である彼女は数年かけて完成に至らせたのだ。刻野が蘇ったその時、不可解な情報に頭を苛まれつつも刻野は周囲を見渡す。隣りに彼の愛する人は存在していなかった。わけが分からない事態に混乱を起こしていた刻野は現在が何年であるかを正確に把握し、過去に自身を移動させるために時間干渉の魔術を起こす。
彼女は何処にもいなかった。
刻野 秀一と一緒にいた筈の時期にも、彼女は何処にもいない。でも、痕跡がないわけではなかった。現に朝日 文隆は彼女のことを覚えている。刻野が彼女と過ごした証はところどころに散見された。そして刻野 秀一はこれらの事態を理解していた。身を苛み続けていた不可解な情報が音を立ててはしっかりと組み立てられ、刻野 秀一に解答を示す。
蘇生の代償は術者の生命、及び存在。だがその範囲は彼女の存在を記憶から消すわけではない。それが意味するところは、蘇生を行使した者は如何なる魔術を用いても蘇らせることができないということだった。そして、蘇生で蘇った者は蘇生の術式を引き継ぐ。刻野は蘇生の術式を完全に把握していた。刻野 秀一が蘇ったと同時に、不可解な情報が彼を苛み続けていたのはそれが原因だ。
そうして。
朝日 文隆は容赦ない絶望を知ることになった。
『三月九日には、雨が降る』
三月七日。
午後二十二時手前、現在。
悲壮な面持ちで、文隆は刻野と電話で会話をしていた。
いまから、凡そ三日後。
刻野 秀一は、再び死ぬ。
『私が蘇ったあの日。あの日も、雨が降っていた』
電話越しの刻野の声音はいつものそれと変わらない。文隆にはそれが余計辛かった。
「……私は、君に何もしていない」
悲嘆に暮れた表情のまま、文隆は云う。
「私は、最低だ。私は、君の命を利用しているに過ぎないのだから」
『何を言ってるんだ、文隆』
刻野が笑い声をあげた。
文隆が自身を責めることから解放させる、慈しみに満ちた優しい声。
『私は、君にとても感謝してる。君は、私に生きる意味を、希望を与えてくれたのだから』
「秀一、私は、……」
『だからそんな声を出すな。あの朝日 文隆がそんな弱気でどうする。君は私の友であり、ライバルだ。そうだろう、文隆』
文隆は返事に詰まる。
しかし、彼はそんな臆病な自分と会話がしたいのではないこと文隆は知っていた。文隆は、無理に笑む。
「……ああ、そうだな」
それが、いまの文隆の精一杯の返答だ。言葉を返したところで、陽菜が階段を昇る音が聞こえてきた。
全てが、予定通りだ。
『安心しろ、文隆』
電話の向こうで、表情を見ずとも友人が微笑んでいるのが文隆には分かった。
陽菜のノックが二回聞こえた直後、刻野 秀一は云う。
『陽菜ちゃんは、私が死なせない』
三月九日 午後 十四時三十五分
一階、十六列三十二番。其処が洋一の指定された座席であった。一階は一列につき三十二席用意された広いホール内。左から番号に従っている座席は整然とされ、洋一の居る位置は廊下に通ずる右側の出入口から近い。ステージには既に人の集まりが形成され、荘厳な雰囲気を放つパイプオルガンが設置されていた。そのステージを囲むように二階席、三階席があり、座席が大抵埋まっていることから、このオーケストラがどれだけ人の心を惹き付けてやまないものかが窺い知れる。
「集まってきたね」
一階、十六列三十一番に居座るリックが洋一に声を掛けた。淡い橙の照明の下、洋一が頷きを返す。席は確かに人で埋まってはいたが、それだけで一般人と魔術師の区別ができる筈もなかった。そして何よりも刻野 秀一に関する情報が少ない。
「刻野が何か派手なアクションを起こすことを期待するしかないね」
陽気に云うリック。左隣りにいる洋一がリックに視線を向けた。
「刻野が俺達の出方を窺っている可能性があると思うか?」
「ないとは言い切れない。でも、その可能性は低いだろうね」
リックの碧眼はステージの方に向けられていた。
「少なくとも刻野は此処にいるよ」
「大した自信だ」
「最初からいないと思ってしまうよりかは、いた方がいいという想いが選ばれるものさ」
「結果が駄目な方に出たら、その想いの分、裏切られた気持ちが強いだろう。それなら、最初からいないと考えた方がいい。無駄な期待は自分を傷付けるだけだ」
「まるで自分に言い聞かせてるみたいだよ、洋一」
その言葉に黙る洋一。リックは洋一の反応を気にせずに言葉を繋げる。
「そこは価値観の違いだ。それでも、想いというのは大切さ。想いが言葉となり、言葉は口にするだけで何らかの影響を及ぼす。僕達が扱う魔術も同じようなものだろう」
魔導に於いて言葉は神秘性を宿す。しかしそれが想いと直結しているなんて考えを洋一が持ち合わせたことはなかった。
「想いは言葉にしなければ叶わない。だから、刻野は此処にいるよ、洋一」
その持論を前に言葉を返すことができない洋一。リックの言いたいことは分かる。それでも洋一は、確証もないというのに刻野が此処に訪れるとは思えなかった。いや、洋一は根拠が揃っていても刻野 秀一が此処に来るという確信を懐くことはできなかっただろう。期待を裏切られるくらいなら最初から期待しない方がいい。洋一はその考えを貫き通す。
そんな洋一の考えを隣にいるリックは理解しているだろう。それを頑なに否定するような真似を彼はしない。人の価値観は無理に覆すものではない、時間を掛けて自然と変化を齎すものだ。だからこそリックはそれ以上、何も言わない。
開演時間は三時。コンサートが始まるまでまだ時間はあった。
ここからでは外の様子を窺うことはできない。外で待機している月江に思いを馳せながら、洋一は、時間の流れに身を委せた。
左腕に巻かれた腕時計を彼は見遣る。
開演時間まで、後二十分。
三月九日 午後 十四時四十分
雨の中、洋一の指示通りに月江はエントランスに繋がる通りの付近で、傘を差しながら彷徨いていた。朝日 陽菜の動向を見るためにはこの位置が最適であると月江自身が判断を下していた。
刻野 秀一と朝日 陽菜が接触する可能性は十二分にある。朝日 陽菜がこのコンサートホールに訪れた理由、それは刻野からメッセージを受け取った責任からきているのかもしれない。けれども、どんなに勘繰ったところで彼女が此処に来る理由はなかった筈だ。陽菜は刻野と連絡をとっている時点で、刻野を探し出す意味がない。陽菜の立場からすれば刻野とはいつだって会えるようなものだ。
刻野はこうも明言している。自身に触れることすら叶わない、と。そして陽菜は刻野を見付けることすらできないと断言していた。
言葉に潜む真意を月江は探る。誰もが刻野は陽菜に接触を図るという考えに至るだろう。その可能性を匂わせておきながら陽菜が安易に刻野と会うとは考え難い。
薄暗い天候、勢いの増す雨。コンサートホールの通り、その端にある池の付近には時計台が建てられていた。時計台の下に、先程から陽菜は赤い傘を差して立ち尽くしている。周囲に人影は見当たらない。朝日 陽菜があの場に立ち尽くしている意味は何か。それを考えたところで答えが出ることはないと結論を出した月江は思考を断ち切る。
自身の差している黒い傘が雨を防ぐ。もしかしたら刻野 秀一は魔術師達を欺いて姿を現さないかもしれない。しかし、刻野が朝日 陽菜の前に現れるとすれば──月江は懐に仕舞った銃のグリップ、その感触を確かめる。
そのついで、彼女は携帯電話を取り出す。位置の関係上、時計台の時刻は確認できなかった。携帯電話のディスプレイを眺める月江。
開演まであと十五分。
三月九日 午後 十四時四十五分
西口 麗奈は回顧する。胸に焼き付いた、朝日 文隆の魔術師としての在り方を。
曾て異国の地で魔導を探究していた麗奈。過去、日本人が魔導の歴史に名を連ねたことは数える程だ。周囲の視線は自身が日本人というだけで蔑みの対象として捉えては、魔術に対する論文も一笑に伏されることが当たり前だった。日本は魔導という神秘からは程遠い国だ。空気に漂う魔力素粒子の濃度も他国と比較すれば余りに低い。
麗奈は軽蔑の視に臆することはなかった。煩わしいとは思っていても、辛いとは感じなかった。心が折れるとは即ち敗北に他ならない。そんな麗奈が必死に魔導の研究を積み重ねている中、魔術を専門とする学院内である噂が広まっていた。若い魔術師が二人、優秀な功績を挙げていると。麗奈にとって問題はそこではない。その二人の魔術師が日本人であるという点だ。
朝日 文隆と刻野 秀一。
二人の名は直ぐ様、狭い学院内に行き渡っていた。同じ魔術師である筈なのに何処か別次元にいるような二人は、魔導で様々な功績を挙げていた。麗奈は自身と同じ日本人の二人を一目見ようと、野外で行われていた二人の魔術戦を覗いたことがある。
それは異様な光景だった。彼等が揮う魔術はどれもが常軌を逸するものばかりだ。一歩間違えたら確実に相手の命を獲る壮絶な魔術戦を、二人は繰り広げていた。辺りに漂う膨大なマナ、それら全てが彼等二人の魔術が霧散した結果だ。互いが互いの魔術を呑み込んでは、それでも二人は只管に魔術を唱える。その光景に麗奈は心奪われていた。皆が二人の内の一人、刻野 秀一に注目していた中、麗奈の視線は朝日 文隆に向けられていた。文隆が発する詠唱は地を震わせているかのような錯覚を麗奈に齎し、彼が揮う魔術の美しい軌跡に彼女は思わず見惚れてしまう。
日本人というだけで麗奈は他の魔術師から軽蔑されていた。しかし、二人はどうだろうか。彼等二人を見る魔術師達の視線は妬み、羨み、そして憧れに満ちていたのだ。その光景に、麗奈は尊いものを感じ取った。
それから麗奈は知らず内に二人の情報を常に追い掛けていた。文隆の魔術師としての功績が挙げられる度に麗奈も喜んだ。情報を追い掛け続けていた麗奈は、当然ながら刻野 秀一が死に至ったことを知った。しかし、彼女自身が思っているよりも胸中に佇む悲しみはそこまで大きいものではない。そこで麗奈は自覚した。心の何処かで、彼じゃなくて良かったと、安心している自分に。
そうして文隆が日本に帰国したことを知った麗奈は彼を追い掛け、この町に住むことになった。文隆に妻がいることを知っていた麗奈。それでも、同じ市内に住んでいることから、彼の家庭がどのようなものかを窺うことは、麗奈にとってそんなに難しい話ではなかった。
──朝日 文隆は幸せな家庭を築いていた。魔術師でありながら、彼は一般的な日常に溶け込み、日々を過ごしていたのだ。
彼の隣りで笑う妻と娘。それを麗奈が盗み見た時、言葉では形容し難い程の憎しみが沸沸と内からわき上がっていた。それでも彼の幸せを壊すような真似は〝今まで〟してこなかったのだ。彼を悲しませることが本望ではない。魔術師としての西口 麗奈に、少しでもいい、彼女は目を向けてほしかったのだ。けれども、麗奈は文隆に会うことを恐れていた。別次元の存在である彼に、あの学院にて麗奈が一身に受けていた蔑視を、あの魔術師達と同じように向けられてしまったら、きっと立ち直ることはできない。
この町に住み始めてから紗耶と出逢い、そこから勇気を以てして漸く麗奈は文隆と作為的な出逢いを果たす。しかし文隆は蔑視を向けるどころか、麗奈に視線を向けなかった。それからだろう。麗奈の内で膨らんでいた憎しみが殺意に移り変わったのは。
回顧に浸っていた自分を麗奈は現実に引き戻す。
麗奈は洋一達と同じく、ホール内の座席に腰を掛けていた。様々なコネクションを持つ麗奈にとってコンサートホールのチケットを手にするのは容易だ。中に入れるのなら、席の位置はどうでもいい。ステージに立つ演奏者から見て正面、二階側に位置する場所に麗奈はいた。ここからなら一階にいる洋一とリックの姿を確認することができる。
麗奈の隣りに紗耶はいない。彼女の隣りに座っているのは見知らぬ他人だ。未来視の酷使で体調を崩してから寝たきりの紗耶。それはとても辛いことだ。紗耶が苦しんでいる姿を見るのは、麗奈にとってとても悲しいこと。それでも仕方のないことだと麗奈は思う。最良の選択を導き出すためには紗耶の未来視が必要になるのだから。
だから仕方のないことだ。とても、胸が苦しいけれども、麗奈は仕方のないことだと割り切って、紗耶のことを考えるのはやめた。
代わりに麗奈は、未来に思いを馳せる。紗耶の未来視は絶対的。麗奈が麗奈の意志に従う限り、紗耶が視た未来の出逢いは必ず実現する。いま現在、麗奈が何をせずとも未来は決まっているのだ。だから彼女は何もしない。時間が流れるのを、あの場面が訪れるのを只、待っているだけだ。
ステージでは既に演奏の準備が行われている。ふと、麗奈はオレンジの電光時計を見詰めた。
開演時間まで、あと十分。
三月九日 午後 二時五十分
コンサートホール内の狭い喫煙室で氷堂 晃は一人、煙草を吸っていた。喫煙室は一面ガラス張りで、ホールの出入口、及びカウンターがここから窺える。
煙草の煙は棚引き、その様は雲を連想させた。彼に眠気は訪れない。昨夜から早朝に及ぶ作業の疲労も、やはり彼には関係がなかった。
刻野 秀一が此処に訪れることを確信している氷堂。あれだけ挑発的なメッセージを魔術師達の前で噛ましたのだ。最強と謳われている魔術師が逃げ出すような真似をするわけがないと氷堂は笑う。必ず此処に来る。故に氷堂の時間は昨夜の作業、そのためだけに割けられたのだ。
対峙することは叶わないと思っていた相手、刻野 秀一。魔術師の誰もが認めた最強を相手に自身の実力がどこまで及ぶか。氷堂はそれが楽しみで仕方がなかった。
氷堂 晃は自身が敗北するイメージを一切持たない。
渇望するは、勝利のみ。
吸い殻に煙草を押し付けた彼はズボンのポケットから煙草を取り出そうとして、いま吸っていたのが最後の一本だということに気付いた。喫煙室を跡にし、煙草を自販機で購入してから、コンサートホールの出入り口に向かう。
人は充分に集まった。あの喫煙室で、ホールに足を運ぶ客を何度も一瞥していた氷堂。中には教会にいたいつものメンバーもいた。しかし、氷堂にとってそんなことはどうでもいい。誰が訪れようとも彼には関係なかった。魔術師の誰かが、彼がいまから成し遂げようとしていることに注意しようが気にかけるつもりはない。
誰にも邪魔をさせるつもりはない氷堂。彼は、ホールのカウンターに設置されていたデジタル時計の時刻を確認した。
開演時間まで、あと五分。
三月九日 午後 十四時五十五分
聳え立つ時計台の下。そこで朝日 陽菜は一人、豪雨と呼ぶにはまだ至らない雨の中に立ち尽くす。雨音にどこか心地よさを感じながら、彼女は待ち人のことを考えていた。
刻野 秀一。
陽菜は彼の指示通りに昨日、魔術師達の前で刻野からのメッセージを伝えた。それはあからさまな挑発だ。魔術師としての確固たる自信が滲み出ていた刻野の言伝は、結果、あの場にいた魔術師達を此処に集める切っ掛けとなった。
父と同じくらいに敬愛の念を懐いている刻野 秀一の言葉に、陽菜が逆らうわけもなかった。逆らう理由もない。でも、疑問だけが胸の内で蟠っていた。どうして刻野がこのような行動に出たのか。確かに刻野の実力ならば、あの場にいた魔術師全員が総掛かりで攻撃を仕掛けても、何の問題もないだろう。確かな実力が備わっているのだから、彼の挑発的なメッセージを魔術師達は受け容れられる。でも、わざわざこのような真似をする必要はなかった筈だ。
赤色の傘を差している陽菜。その視線は大きなコンサートホールに注がれた。今日という日を楽しみにしてどれだけの人があの場所に訪れたのだろう。胸の内に蟠る疑問が膨張を起こす。どうして沢山の一般人がいるこの場所を、刻野 秀一が指定したのか。万が一彼等を巻き込むような事態に陥ったら──陽菜はかぶりを振る。そんなことは有り得ない、杞憂だ。刻野 秀一がそのような失態を犯す人物ではないことを陽菜は知っていた。
刻野 秀一と連絡をとった二日前、三月七日の夜。陽菜は刻野からメッセージ以外に、ある約束を交わしていた。それは魔術師達にも、洋一にも告げていないこと。三月九日、オーケストラの開演時刻、時計台の下で落ち合うことを陽菜は刻野と約束していた。
どう考えても不用心な約束だ。陽菜と刻野の関連性に目を付けた魔術師が、陽菜の行動を見張る可能性は充分にあった。陽菜がこうやって刻野を待っている間にも、魔術師の一人が彼女を監視しているかもしれない。
一体彼が何を考えているのか。雨音に耳を傾けながら思考していた陽菜に、水溜まりを踏んだかのような、そんな軽快な音が近付いていた。聞き違いではない確かな足音。音が聞こえた方に顔を向ければ背の高い一人の若い男が陽菜の方向に歩を刻んでいた。
刻野 秀一ではない。刻野の年齢は朝日 文隆と同年代であることを陽菜は知っている。自身に近寄ること自体、些細な違和感はあったが、それでも陽菜の方向に足を運ぶその男は陽菜と同年齢くらいに見えた。
水溜まりを弾く足音。大きなビニール傘を差した若い男は、黒の短髪に縁なしの眼鏡を掛けていた。男と視線が合う陽菜。その目付きは何処か優しさを帯びていて、そんな彼の口がゆっくりと開かれた。
「久しぶりだね、陽菜」
「……え?」
若い男の容貌には似つかわしくない、少し掠れた声。思わず陽菜は驚きの声を洩らす。何故、初対面であるこの男が陽菜の名前を呼ぶのか。けれども、その声には聞き覚えがあった。
男は微笑みながら、空いていた左の掌を貌にあてる。
「分からなかったか。正体を隠すために、少し若作りしてたんだよ。ほら」
男の顔を隠していた掌がスライドするかのように逸れた。「あ」と再び驚きの声を洩らした陽菜。そこには先の若い男の面影が残った、皺が刻まれた中年の男性が毅然と立っていたのだ。信じ難い現象を前に陽菜は言葉に詰まる。これは魔術だ。頭では理解している。でも、こんなにも近くにいるというのに魔力素粒子の乱れを陽菜は感じ取ることができなかった。魔術の発動を一分も察知できなかった陽菜。それだけで目の前にいる男が、自身を上回る魔術師だと即座に判断できた。
それも当然だ。陽菜にはその貌に見覚えがあった。最初は貌と声の不相応さに戸惑ったが、いまなら分かる。彼女は目の前に立つ、心の底から敬愛している人物に微笑む。
「うんっ、久しぶり。刻野おじさん」
陽菜の返事に口角をあげる刻野。こうして二人の間に交わされていた約束は果たされ、そして、
三月九日 午後 十五時
時計台が時刻十五時を指し示したと同時に、それを報せる鐘の音色が陽菜の真上に響き渡った。オーケストラの開演時刻。時計台から、雨音に紛れた鈍重な音色が耳朶に鳴り響いている中、陽菜は目の前の偉大な魔術師に何か言葉を掛けようとしたところで、大地を揺るがす震動が、前触れもなしに訪れた。
三月九日 午後 十五時一分
まず目にしたのは赤色の光。そして、いまから公演が始まるというタイミングで小さな揺れがホール内に起きていた。──この日、この場に限ってこんな都合のいい地震があるわけもない。その場から立ち上がった洋一の考えは的中していた。ホール内の床、天井、壁から赤色の光が滲み出ている。そして震動と同時に、何故か急な頭痛を洋一は催していた。辺りを見回せば自身と同じように、頭の痛みを訴えるかのように頭部に手をあてている。前後を見渡せば、まるでドミノ倒しのように客人が気絶していく。
「洋一、大丈夫か」
「大丈夫だ」
隣りにいたリックも洋一と同じように立ち上がっては、辺りを見回す。魔術に抗する術を持たない一般人が倒れていく様を洋一達は黙って見ることしかできない。
「これは魔法陣か?」
「おそらくな」
大規模な昏倒専用の魔法陣を、誰かが仕掛けていた線が高い。
「まさか、刻野 秀一か」
リックの声にかぶりを振る洋一。
「いや、これは、」
リックの疑問に答えようとしていた洋一がポケットから携帯電話を取り出す。
月江だ。
「もしもし」
『洋一、大丈夫?』
「とりあえずは問題ない。月江は?」
『魔法陣の範囲外にいる、心配いらない』
「そうか。そこから魔法陣の範囲は分かるか?」
『見たところ、コンサートホール全体を囲んでいるみたい。それよりも、朝日が誰かと接触している』
「刻野か」
『……分からない。見掛けた時、私と同じくらいの齢に見えた』
刻野 秀一の齢は朝日 文隆と同年齢だ。洋一の記憶が正しければ四十の後半。しかし、陽菜と一緒にいるのは刻野 秀一と考えていいだろう。魔術を用いてこちらの目を欺く策を弄したつもりだったろうが、生憎それはこの魔法陣で無意味になった。きっと、この現象を起こした魔術師はそれが目的の筈だ。
「月江。そいつの姿はそこから見えるか」
『うん。あいつと一緒にいる』
「倒れてはいないな?」
『倒れていない』
なら、陽菜と一緒にいるのは魔術師だ。
「いまからそっちに向かう。月江、いま何処に──」
『──氷堂』
「なに?」
聞き返す洋一。
聞き返した時点で、洋一はある程度の予測を立てていた。
『氷堂が、朝日とそいつの前に現れた』
洋一にとって、それは予想通りの返事だった。
三月九日 午後 十五時三分
「刻野 秀一だろ、お前」
陽菜と刻野の前に現れたのは、傘も差さずに雨の中、身を晒している氷堂 晃だった。獰猛な笑みを口元に刻んだ氷堂が、剥き出しの殺意を刻野に向ける。
このコンサートホールを囲む魔法陣が発動してから、奇妙な頭痛に襲われていた陽菜は僅かに貌を顰めていた。魔術の耐性がついていない一般人には、この痛みを魔力で中和することができない。ホール内では皆、気を失っているに違いないと、そう考えが及んだ陽菜は氷堂を思い切り睨み付けた。
「この魔法陣、あんたでしょ、仕掛けたの」
「それがどうした」
「一般人を巻き込むなんて、魔術師として底辺よ」
「もう魔法陣は止まってる。少し黙ってろ、餓鬼。雑魚に興味はない」
苛立ちが限界に達した陽菜。我慢ならずに魔術を仕掛けようと構えたが、その動作を一瞬で見抜いた刻野が彼女の肩に手を置いた。
「私に任せなさい」
穏やかな声には静止の意が込められていた。肩から手を離しては、陽菜の前に歩み出た刻野。
「まず君の問いに答えよう。私が刻野 秀一だ」
場違いにも程がある優しい声色。氷堂を前にしても刻野の態度に変わりはない。余裕を醸し出す彼の雰囲気に、陽菜はどこか安心感を覚えていた。
「そうか、安心したよ。人違いだったら、どうしようかと思ってたところだ」
「勝手に安心してくれて構わないが、それにしても驚いたよ。魔法陣で一般人を昏倒させ、炙り出すように魔術師の私を見付け出す。見事な手腕だ。些かやり過ぎではあるが」
「はっ、説教でも始めるか?」
「いや、口で何を言っても君には通じないだろう。君は獣だ。餓えに忠実な獣に、言葉は通じまい。だから、」
刻野は悠然と佇み、そして緩慢とした動作で傘をたたみ、そのまま傘の先端を氷堂に向けた。
「だから、実力行使だ」
刻野 秀一を纏う空気が明らかに変化した。それは、傍にいた陽菜が思わず足が竦む程の威圧。
その中で、氷堂が先手を仕掛けた。
威圧に怯むどころか悦びを見出だしていた氷堂。陽菜よりも遥かに身体に負荷をかけたエンチャントを氷堂は纏い、刻野 秀一との距離を一瞬にして詰め終えていた。雨を薙いだ彼の速度を前に刻野は何の反応も示さない。勢いのまま拳を揮う氷堂。
その時、魔術師としての直感が陽菜に告げていた。あれは、不味い。氷堂が放つ一撃はエンチャントを得意とする陽菜からしてみれば、掠めただけでも躯の一部が欠けてしまうのではないかと思わせる程、凶暴なものだ。けれども、不覚をとられたのか刻野は避ける素振りすら見せない。陽菜が「避けて」と叫ぶ直前、氷堂 晃の動きが停まった。
まるで再生していた映像を停止したかのような、氷堂の突き出した拳は刻野の顔を前に動きを停めている。氷堂の表情は驚愕に満ちていた。巨大なエンチャントを纏う彼の拳は不鮮明で、それが手であるのか判別できない程だ。その危険に満ちた一種の凶器を前に、それでも刻野は悠然としていた。やがて彼は掲げていた傘の先端を、動きを停めた氷堂の腹部に打ち込む。
勝負は一瞬だった。
氷堂は膝から崩れ落ち、雨の中、刻野の前に倒れては無言を突き通す。否、それが勝負として成立していたのかすら一部始終を眺めていた陽菜には分からない。氷堂の動きが完全に停止したのは、刻野が最強の魔術師である所以、時間を司る魔術以外に有り得ないだろう。陽菜は目の前で起きた出来事に頭が付いていけなかった。
「陽菜に与えたメッセージで伝えていた筈だったが、獣の君には、言葉の意味が分からなかったらしい。それでももう一度だけ、口にしておこう」
刻野の魔術を目の当たりにした陽菜は呆然とその場に立ち尽くす。
これが、刻野 秀一。
「君は、私に触れることすら叶わない」
あれが、最強の魔術師。
「動くな、刻野 秀一」
雨音に溶け込む冷たい声。あまりに聞き覚えのあった声に、刻野よりも先に陽菜はそちらに目を向けた。いつの間に其処にいたのだろうか。月江が雨の中、傘を差さずに刻野と陽菜の前に立っていた。
その右手に、魔導の背徳を収めながら。
夜野 月江が、ここに現れた。
三月九日 午後 十五時五分
西口 麗奈は漸く座席から立ち上がった。大規模な魔法陣を仕掛けたのだろう。一般人をここまで巻き込むような真似を仕出かすのは氷堂 晃以外に考えられない。麗奈の周囲には床に倒れ込み、気を失っている客人がいた。しかし彼女の視線はそちらに向けられていない。麗奈の視界に映るは一階にいた不動 洋一とリック・ガーネストの姿。
不動 洋一が誰かと通話しているのを見ていた麗奈。考えるまでもない、夜野 月江と連携を取っているに違いなかった。リックと洋一がそのまま廊下に通ずる出入口に向かって走り出すのを確認した麗奈は、彼等の跡に続いて廊下に出ては同じように走り出そうと――そのとき、ひとの気配を麗奈は感じた。しかし、辺りを見回しても、全員が全員、氷党の仕掛けで倒れている。気のせいだと思いなおし、麗奈は廊下に向かう。
そうして、魔術師達はあの時計台に集結する。
その未来は最初から定められていたことだ。全てが麗奈の思惑通りに進んでいる。
未来は自身の手の内に在ることを、麗奈は実感していた。
三月九日 午後 十五時六分
夜野 月江が構えた銃器、その照準は刻野の心臓に定められていた。けれども、刻野は口元に微少を湛えたままだ。対峙して、月江は初めて理解した。目の前にいる魔術師は魔導の常識が通用する相手ではない、と。遠目から見ても氷堂の先手は隙というものがなかった。だが、そんなものは刻野に関係ない。彼の前では如何なる魔術であろうと無力と化す。
刻野がたたんでいた傘を広げた。彼の足元に倒れていた氷堂の躯が、空から降る雨に濡れないよう、屈んでは地面に傘を立て掛ける刻野。どこか挑発的に見えたその行動に、月江は引き金に指をかけることで自身の明確な殺意を示す。
「月江。銃を仕舞いなさい」
諫める声。刻野の後ろに立っていた陽菜が、敵意を宿した瞳で月江を見据えていた。月江は陽菜に一瞥を寄越すも言葉を返さない。その態度を前に、陽菜が何か言葉を口にしようとした時、屈んでいた刻野が立ち上がった。
「銃か」
雨の中でもはっきりと、刻野の掠れた低い声が月江の耳朶に届いていた。銃器を前にしても一切の怯えを見せない刻野の反応が、月江の目には異様に映る。雨に身を晒していた刻野が一度、位置を調整するよう眼鏡に指を掛けていた。
「その銃を仕舞いなさい」
陽菜と同じようにそう促す刻野。
「それは、君の魔術師としての尊厳を傷付けるものだ。魔導の背徳は孰れ、君が培ってきた誇りを徐々に蝕む。君とて分かっているだろう。さあ、その銃を、」
悠然と、刻野が一歩月江に踏み出した瞬間。
銃声。
月江が構えていた銃器から放たれた弾丸は、彼女の狙い通り、刻野の左腕を掠めていた。左腕の袖は僅かに裂け、そこから血が滲み出ている。弾丸の行方は、そのまま刻野と陽菜の背後にあった時計台に当たったのだろう。派手な金属音が一瞬だけ雨音を掻き消した。
「刻野おじさんっ!」
陽菜の悲鳴。
月江は陽菜の反応に意識を向けない。月江の瞳に映るのは、自身が対峙する刻野 秀一だけだ。
「私は動くなと言ったんだ、刻野 秀一。ご高説結構。私には魔術師としての尊厳なんてものは最初から持ち合わせていない」
いまの銃撃は威嚇の意味も備えていたが、それは月江にとって然程重要なことではない。確認したかったのは、刻野 秀一がタリスマンを所持しているかどうかだ。
刻野の左腕から流れ出る血が、彼の足元の水溜まりに溶け込む。これで彼がタリスマンを持っていないことは明らかになった。
そして確信を懐いた月江。刻野 秀一は銃器の前ではあまりに無力な存在だということに、彼女は多少の優越感を覚える。洋一が話していた通り、刻野の魔術は魔力素粒子が干渉した事象にしか効果を発揮しない。昨日、陽菜が見せたエンチャントによる瞬間的な移動を氷堂は刻野に仕掛けた。完璧に不覚を突いたと思われたその行動が急停止したのは、当然ながら刻野が魔術を発動したことにより起こり得た結果だ。
陽菜や氷堂が扱うエンチャントは、魔力素粒子が人体に干渉を起こすことでその力を発揮し、本来の膂力、脚力を上回ることを目的とした魔術だ。魔力素粒子の干渉を躯に受けていた氷堂の動きが停まったのは、そういった理由からきている。あらゆる魔術に干渉を起こすのが、刻野 秀一を最強たらしめる魔術の正体。それに対抗する力を、月江は既に構えていた。
刻野 秀一は最強だ。但しそれは、対峙した相手が魔術師という前提でなければ意味がない。魔力素粒子の干渉を受けていない弾丸の前では、刻野の魔術は無力──
「成程」
流血しておきながらも刻野の様子に変わりはない。それどころか、月江には目の前の男から敵意というものが感じ取れないでいた。
「君は、私と対峙するためだけに魔術師としての誇りはおろか、力を棄てたわけか」
刻野の言葉に不適な笑みを見せた月江。刻野の魔術には不明な点が多い。どれだけ憶測を並べ立てようが、事実を確認できない以上、それを立証することは不可能だ。
魔力素粒子が干渉した事象。この『事象』という表現が果たして正しいものであるかどうかを月江は疑っていた。観測できない事柄──魔術師であれば誰もが躯の内に流れる魔力。謂わば魔力素粒子の結晶である魔力を抱え込む躯は、刻野の魔術、その効果範囲に及ぶかどうか月江は考えていた。しかし、刻野のいまの言葉から察するに、彼は『魔力素粒子が全身に流れ込む魔術師』の動きを停止しようとしていたのだ。だが、刻野 秀一の思惑は失敗に終わる。いまや夜野 月江の魔力はこの日、この時のために、魔力を無駄に消費しては、完全に空となっていた。
「抵抗するな」
逸れることのない、照準。
「魔術発動の素振りが見えたら再び撃つ。引き金にかかってる私の指は、あんたが握っているも同然だ」
「月江」
陽菜が月江の名前を呼ぶ。陽菜と目が合う月江。傘の陰りから窺えた陽菜の瞳は赫怒に染まり、敵意が殺意に移り変わる一歩手前でもあった。しかし、それでは月江が照準を逸らす要因にはならない。
タリスマンのような物理面に於いて強い結界が魔術で張られる前に、月江には刻野の行動を阻止できる自信があった。優位な立場にいる筈の月江はそれでも気が抜けない。刻野の態度に焦燥が見られないことから、まだ何かこの場を覆す手段を隠し持っているかもしれないが、そんなことは関係がなかった。
後方から聞こえた、水溜まりを踏む足音。
不動 洋一とリック・ガーネストが、この場に訪れた。
三月九日 午後 三時九分
傘も差さずに、不動 洋一とリック・ガーネストがこの場に訪れたことを陽菜は確認した。普段は乱れている洋一の髪が雨に濡れ、目を隠すくらいに垂れ下がっている。月江が刻野に銃器を向けている光景を目の当たりにしたリックは唖然として言葉を失っていた。それを余所に、洋一の反応は至って平静だ。そんな洋一の様子を目にした陽菜は、昨夜のことを思い出す。
月江との騒動、その事後を前に洋一は弾痕や薬莢、硝煙など銃器に拘わる要因に触れなかった。どうして、という疑問はあったものの、二年間の溝がそうさせたのか、あの時陽菜は訊けずにいたが、もう訊く必要はない。
彼は、望んでいたのだ、きっと。この日、このときを。
月江の持つ銃器が刻野 秀一の脅威に成り得ることを予測していた。まるでこの事態を想定していたかのように洋一はどこまでも冷静だ。魔導の背徳を許容してしまう程、彼は──
「刻野 秀一、なのか」
困惑に満ちたリックの声に、月江が刻野を見据えたまま頷きを返す。
「そうだよ。あれが、刻野 秀一」
月江の言葉に、驚きを隠せないリック。そんなリックの反応を意に介さず、彼の隣りにいた洋一は此処に来てから刻野 秀一だけを見据えていた。
やがて西口 麗奈が雨に身を濡らしながらこの場に駆け、洋一達の後方に立ち尽くす。いつも隣りにいる筈の赤池 紗耶がいないことに陽菜は気が付いた。
「手荒な真似をして済まない」
静かな声で、洋一が刻野に向かってそう謝罪した。どこか冷淡な洋一の態度に、しかし刻野は表情を崩さない。不利な状況下で流血しているにも拘わらず、やはり彼はいつだって微笑みを返す。それが虚勢でないことは、この場にいた魔術師全員が理解していた。
「構わないよ。こういった襲撃には慣れている」
油断をすれば、意識を失ってしまいそうな緊迫感の中、洋一と刻野が会話を交わす。そしてそんな二人に構わず、陽菜の視線は西口 麗奈に向けられていた。
それは、些細な違和感。何故、いつも付きっきりでいた紗耶がこの日に限って、麗奈の隣りにいないのか。
未来視。
紗耶の未来視がどこまでのものか陽菜には分からない。だが、紗耶の未来視を麗奈が使用したのであれば、麗奈にはこの未来が視えていたということだ。それがどういった意味を持つのか。些細だった筈の違和感が、陽菜の胸の内で大きさを増す。
「単刀直入に云う。八年前の九月四日に行って、確かめてほしいことがある」
「そんなことをして、どうする」
「識りたいことがある、数分でいい」
刻野と洋一の遣り取りに陽菜は殆ど意識を向けていない。視界は西口 麗奈だけを捉えていた。
何かが、引っ掛かる。
「刻野 秀一。悪いが、会話をしている暇はないんだ。当然、交渉の余地もない。これは脅迫だ。できることなら抵抗はしないでほしい。この場を血で汚すのは、不本意だ」
「洋一」
それまで黙っていたリックが、洋一を呼ぶ。
「これはどういうことだ。何故、月江ちゃんがあんなものを手にしている。……君は。君は、こんなことをしてまで、」
「分かってる」
洋一を咎めていたリックが、口を噤む。
「お前の言いたいことは分かる。お願いだ、いまは黙ってこの場を見過ごしてほしい。この機会を、俺は逃すわけにはいかないんだ」
「洋一……」
「幾らでも、俺を責めてくれて構わない。だからいまだけは、俺を許してくれ、リック」
それ以降、リックは何も言葉を発さない。洋一の覚悟を汲み取ったのだろう、彼がそれ以上洋一を咎めることはなかった。
止まない雨。刻野は、銃口を前に恐怖を見せるどころか、微笑ましいとでもいうように優しさを帯びた瞳で二人の様子を眺めていた。
静寂を掻き消す雨音の強さが増すように、麗奈が訪れてから、陽菜の胸の内に蟠るざわめきが音を増していく。一体自分が何を見落としているのか陽菜には分からない。どうして胸の内のざわめぎが不安に直結するのか。落ち着けと自身に命ずる陽菜。自身が不安を感じているということは、決して良い意味を持たないのだ。
麗奈が訪れてから陽菜は違和感に気付いた。そこに間違いはない。なら、原因は西口 麗奈からきている。いつもは隣りにいる筈の赤池 紗耶がいない。それが何故かは分からないが、只一つ分かることは西口 麗奈はこの未来を知っていた。強さを増す雨音。傘を差す陽菜だけが濡れていない。呼吸のリズムが乱れてしまう程の緊迫感に満ちた状況の中、西口 麗奈の表情を陽菜は窺う。未来を把握していた彼女が一体、何故──
──何故、一番最後に訪れたのだろう?
疑問点に気付いた陽菜。未来を知っていたならば、一番最初に訪れても良かった筈だ。
傘を叩く雨音。
陽菜は、麗奈と目が合った。
徐々に強さを増す雨音。
──ゆっくりと歪む、口元。
「────」
陽菜は、傘を投げ出してその場から駆け出す。何の確証もないのに、嫌な予感に促されるがまま、陽菜は何かから庇うようにして敬愛する人物の前に、楯となって現れた。
そうして、乾いた音。
多分、きっと、銃声。
三月九日 午後 十五時十三分
どうしてこのような行動を起こしたのか彼女には分からなかった。躯が反射的に動いてしまった結果、自分は死ぬことになるのだから、彼女にとっては全くもって笑えない話だ。
頽れるかのように倒れる自分はまるで茎が折れた花みたいだと、他人事のように死に逝く彼女は思う。呼吸することさえままならない中、自身の胸から流れ出る赤い血を見詰めて彼女は絶命した。
魔術師達に、最期を看取られながら。
朝日 陽菜は、息を引き取った。
三月九日 午後 十五時十四分
不動 洋一の目に映ったその光景は、あまりにも現実味を帯びていなかった。誰かが魔術で幻影を見せているのではないか。魔術師である彼は本気でそう疑っていた。先程まで一人傘を差していた彼女がどうして水溜まりの中に横たわっているというのか。
これは、何かの間違い。
きっと、悪い夢。
「ちが、う」
呻き。
月江の手が、躯が、震えていた。
「私は、……私は撃ってない……!」
月江の震えた声に、誰も返事を寄越す者はいなかった。月江が手にした魔導の背徳、その銃口から漂う硝煙。洋一の隣りにいたリックは、洋一と同様、何が起きたか分からない様子だ。刻野 秀一がいまどのような表情をしているのか洋一には分からない。洋一の瞳には、陽菜だけが収まっていた。冷たい雨に全身を濡らしては、それでも動く気配が見られない彼女に、洋一は、思わず一歩を踏み出す。
「陽菜」
か細い声。自分の喉からこんなにも弱々しい声が出たのは、きっと、八年振りだった。誰かに背中をそっと押されてしまったら、そのまま地面に倒れてしまうのではないか。洋一の足取りは、それほどまでに弱々しいものだった。
「陽菜」
洋一が、彼女の名前を呼ぶ。返事はない。雨に打たれ、尚、微動だにしない陽菜。彼女の胸から赤い血が流れ出ているように見えるのは自身の錯覚だろうか、と洋一は思う。
「陽菜」
呼び慣れた、名前。
昨夜の出来事を、洋一は思い出す。あの時、銃の痕跡をさも当然のように受け容れていた洋一。魔導を二年間、探究していた陽菜からしてみれば不愉快極まりない話だっただろう。二年もの歳月は、二人の間に確かな溝を生んでいたのかもしれない。けれども、それは時間が解決する話だと思っていた。互いが互いの名前を呼び合う内に、二年前と同じような、当たり前の日常が訪れるものだと、洋一は心の底から信じていたというのに。
何だ、これは。
何故、こんな雨の中、陽菜は横たわっているのだろうか。どうして彼女は名前を呼んでも返事を寄越さないのだろう。水に溶け込む赤が、やけに生々しいのは何故。まるで彼女が、死んでいるみたいだ。
「ぁ、」
不動 洋一の目に映ったその光景は、あまりにも現実味を帯びていなかった。
「ぁぁ、あ、あ、」
いつまで経っても、ゆめから醒めない。
咆哮。
果たしてその雄叫びが人間の口から発せられたものなのかどうか、この場にいた魔術師全員が耳を疑った。雨水を踏む足が絡まっては、地面に倒れ込む洋一。擦りむいた膝から血が滲み出ているにも拘わらず、彼は必死に、何かから藻掻くようにして陽菜のもとへと立ち上がっては再び駆け出す。尾を引く叫びは未だ鳴り止まない。洋一は目の前の現実を否定するかのように声を絞り出しては、叫び声をあげていた。冷静沈着に物事を対処していた彼の面影はそこにはない。一体誰が想像できただろうか。不動 洋一が人間の死に対し、人目を憚らずここまで取り乱すことなど。
理性を失った獣が、屈んでは、地面に倒れていた陽菜の冷たい躯を抱え込む。
「陽菜! おい、陽菜!」
洋一の必死な呼び掛けに彼女はやはり返事をしない。頻りに名前を呼んだところで陽菜が目を醒ますことはなかった。胸から流れ出る血が溢れては、しかし陽菜に痛がる様子は見られない。彼女は一切の反応を示さなかった。そんなどうしようもない事実を否定しようと洋一は何度も陽菜の躯を揺らす。次第にこのような事態に陥ったのは何故か洋一は考えていた。一瞬だけ、月江を責めようとした洋一だったが、彼女が誤って撃つ可能性は低いと考え直す。そうとなれば洋一には一つしか思い当たりがなかった。
洋一はその場に立ち尽くしていた西口 麗奈を睨む。彼女の口元はこの状況を前にして笑っていた。
「西口……! 貴様、自分が何をしたのか分かってるのか!」
「あら、何のこと?」
麗奈の白々しい態度に「とぼけるな」と憎悪を込めて返事をした洋一。
「赤池 紗耶の未来視で、お前は月江が銃を扱うことを事前に知っていた。お前はそれを利用して、自身の魔術で月江を一時的に操作し、発砲させた。貴様は計画的に陽菜を殺したんだ!」
「何を言ってるのかさっぱり。未来視って一体何のことかしら」
それに、と麗奈が付け加える。
「もし私に未来が把握できていたとして、一体私にどのような非があるというのかしら、不動。そもそも、魔導の背徳である銃を夜野 月江が携帯していなければこのような事態にはならなかった。違う?」
艶然と笑う麗奈に、洋一は言葉を返せない。
「魔導の背徳に触れ、そして、その引き金を引いたのは正真正銘、彼女よ。そこに誰の意図が絡もうとも、夜野 月江が、朝日 陽菜を殺した」
「違うっ!」
月江が叫ぶ。
振り向いた月江は、銃口をリックの背後にいた麗奈に向ける。
「私は殺していない、お前がっ……!」
「責任転嫁も甚だしい。話にならないわ」
麗奈の挑発によって、引き金にかけた月江の指はとても軽いものになった。
「やめるんだ」
そのまま勢いで撃ってしまいそうだった月江に、諫める声が飛んだ。麗奈と月江の間に立ちはだかるはリック・ガーネスト、その人だった。
「洋一の云う通りだったとしても、駄目だ、月江ちゃん。これ以上、罪を重ねてはいけない」
「罪……? 私はあいつを殺してなんかいない! 私は、」
「その手に、それを収めていること自体が罪だ。それは魔導に於いても、そして、この国の法律でも定まっていることだよ。──西口 麗奈」
月江に向けていた碧眼を、麗奈に移したリック。
「なに?」
「君が警察と親しい間柄であることは、耳にしているよ」
「どこでそんな情報を耳にしたのかしら」
「そんなことはどうでもいい。君の力で、この場を綺麗に収めてほしい。勿論、氷堂が引き起こした昏倒も、全部」
「その条件を私が呑むとでも?」
「なら、いまから君は僕の敵だ。この場から無事、退けることを君は望んでいるかと思ったけれど」
「──狡猾ね。いいわ。あなた達が何も問題を起こさなければ、綺麗にこの場を収めることを私は約束する。それでいいかしら」
「頼む」
その遣り取りを終えた麗奈が、目の前の惨状から背を向けた。待て、と制止をかけた洋一の叫びに麗奈は振り向かない。変わらず麗奈の前に立ち尽くすリックの、苦渋に満ちた表情を見てとった洋一。自分の所為でそのような顔をさせていることを洋一は分かっていた。それでも納得できる筈がない。陽菜が死んだ原因は確実に西口 麗奈が関与しているのだから。麗奈の非道を黙って見過ごすわけにはいかない。洋一がそんな簡単に陽菜の死を受け容れられるわけがなかった。
陽菜の冷たい躯を抱き締めながら彼はリックを見据える。リックはその視線を真っ直ぐに受け止めた。どんな非難も覚悟している碧き瞳。
「済まない、洋一」
何故、リックが謝るのか。洋一には分からない。
「西口 麗奈が魔術で月江ちゃんを操作したとしても、そこに魔術の痕跡がない。もしこれが君の云う通り、計画的なものだとすれば、彼女は痕跡を残すようなミスを決して犯さないだろう」
口を噤む、洋一。
俯いては、黙って陽菜の貌を見詰めていた。
「警察と協力関係にある彼女は、君達を殺人の容疑者に仕立てるかもしれない。だから、……済まない。僕には、この程度しか、」
「謝るな」
リックには何故、洋一の謝罪が短い一言だったのかが分かっていたのだろう。それ以上彼は何も言わなかった。
嗚咽。雨に紛れた涙が、地面に一滴、落ちていた。強く、強く、洋一は陽菜を抱き締める。雨の冷たさで陽菜の温もりが洋一には伝わらない。心臓の音も聞こえないだろう。それでも、彼女はそこにいたのだ。朝日 陽菜は生きていた。洋一、と陽菜の自分を呼ぶ声が聞こえても、それが幻聴であると彼には判断できないだろう。咽び泣いては声にならない、悲鳴にも似た叫びを洋一はあげる。この感覚を、自身がとても無力だと思うこの瞬間を彼は知っていた。胸が引き裂かれるような感覚を彼はずっと覚えている。
人はとても無力だ。こんなにも自分は脆いのだということを再び実感した洋一。いまや彼に誇りはない。目の前に立つ偉大な魔術師を洋一は見上げる。
最強の魔術師、刻野 秀一。
会話すら望めないと思っていた相手が、現に、洋一の前に存在していた。先程まで自分が刻野と会話していたという実感が洋一にはない。雨の中に身を晒す彼がいま何を考えているのか、表情では察することができなかった。しかし、刻野が一体この事態をどう見ているのか洋一には興味がない。
「お願いだ」
神に慈悲を乞う咎人のように、彼は、涙声で刻野に云う。
「陽菜を、蘇らせてくれ。そのためなら何でもする。だから頼む、お願いだ」
いまにも発狂してしまいそうな彼の懇願に、刻野は無反応を突き通す。それは異様だった。人の死を、友人の娘の死を前にしても刻野の様子に変化は見られないのだ。まるでそれは、彼がこの未来を知っていたかのようだった。冷たい雨から陽菜を守るように抱え込む洋一に、刻野は視線を寄越す。
「蘇生は、」
刻野は云う。
「一人しか蘇らせることができない。そしてその代償は自身の命だ。君は、命を賭してまで陽菜を助けたいのかい」
優しい声で述べられた言葉は紛うことなき事実だろう。代償は、自分自身の命。洋一は、一体何のためにここまできたのかを振り返る。
目を醒まさない妻、攫われた子供。彼の日常は、何をしている時も、空虚なものだった。自分の名前を呼ぶ声が、幻聴として毎日のように聞こえていた。それをどこか心地よいと感じている自分がいた。狂っていたのだ、自分は。
そうして何度も何度もこの場面を洋一は夢見てきた。刻野 秀一と不動 洋一が対峙する場面。この場面こそが自分の夢見てきた光景だった筈だ。何故、刻野 秀一の情報を不動 洋一が追い求めていたのか。その理由はもう明らかだ。彼はただ単純に、この狂った日々に突き落としたものを殺したかった。
腕の中にいる陽菜を洋一は見た。そこで彼は陽菜と一緒にいた日常の記憶を引き出す。子供を失ってまだ間もない頃、心を塞いでいた彼の前に現れた陽菜はまだ小学生だった。毅然とした態度を損なわずに、どこか大人ぶっていた彼女はいつだって自分に付き纏っていたことを洋一は思い出す。最初は鬱陶しいとすら思っていた。けれど、彼女の魔導に対する熱心な姿勢を見て洋一の考えは一変する。直向きに努力を続ける彼女の姿は、幼いながらもどこか眩しいものがあった。一体いつからだろう。そんな彼女の背中を洋一が支えてあげようと思ったのは。一体いつからだろう。そんな彼女の笑顔を見て、笑うことを思い出せたのは。きっと自分は、幼い彼女に救われていたのだ。
洋一、と。
朝日 陽菜と、不動 凪の重なった声が洋一の耳に届いた。それは幻聴だ。洋一はかぶりを振ることで現実に意識を取り戻す。そして脳内で反芻する刻野 秀一の言葉。蘇生の代償は、自身の命。
陽菜の顔に、そっと、洋一は触れる。
過去、朝日 陽菜は不動 洋一の心を救い出した。なら、今度は洋一が救う番──
どれだけ沈黙していたのか洋一には分からなかった。それは数秒か、或いは数分か。
彼は、答えを導き出す。
「済まない、月江」洋一は月江の反応に構わず、続けて云う。「凪を、頼む」
そして、洋一は刻野を見る。
「俺は、陽菜を助けたいんだ」
声を、絞り出す。
「命を賭けても構わない。だから頼む。陽菜を、陽菜を蘇らせてくれ……!」
「本当に、いいのかい。自分が死ぬことになっても」
その問いを前に、洋一は顔をあげた。
彼の瞳に、迷いは何処にもない。
「構わない。だから陽菜を助けてくれ!」
洋一の覚悟を見極めるかのように、刻野は沈黙を尊ぶ。やがて刻野が洋一と目線がしっかりと合うように屈み、
「分かった」
彼は、そう返事をした。その言葉が洋一にとってどれだけの救いを齎すのか。
そうして洋一は目を閉じた。ありがとう、と、刻野に無上の感謝を告げ、自身の命を差し出す。月江が「やめて」と悲鳴をあげた。
しかし、洋一の覚悟を前に刻野は、その場にはとてもそぐわない言葉を発した。
「陽菜は、良い魔術師に巡り会えたようだ」
閉じていた目を開けた洋一。
そして、刻野の視線を追う。
自分を視界に入れていた筈の刻野は、どこか遠い目をしていた。
三月九日 午後 十五時二十一分
陽菜の遺体を不動 洋一から受け取った刻野 秀一。一見、未来視を利用した西口 麗奈の思惑通りに事が運んでいるように見えたが、それは大きな間違いだ。この現状全てが、刻野の掌の内にあった。
三月九日に朝日 陽菜は死ぬ。
そして、三月十日に刻野 秀一は死ぬ。
三月九日以降に時間干渉を起こすことができなかった刻野は、自身の死期が三月十日であることを知った。死は不可避なものだ。どれだけ時間干渉を起こし、あらゆる時間軸に移動しようとも決定付けられた死期を刻野 秀一には伸ばすことができない。
愛する人の手によって蘇生を遂げた刻野。彼の隣りにいた彼女は、とても優秀な魔術師だった。自身が遺した未完成の蘇生の術式、それに関する資料から彼女は完成に至る解答を導き出したのだ。結果、刻野 秀一は蘇生を果たした。
愛する人の生命を代償にして。
刻野は、生を授かった。
その躯に違和感はない、完璧な蘇生だ。魔導の命題に辿り着いた彼女の名は生涯、歴史に刻まれてもよかっただろう。しかし、彼女はこの世に存在しない。幾ら刻野が時間干渉を起こし、過去、未来に移動したところで愛した人の姿はもう何処にもいなかった。そして彼の中に遺されたものは、自身が死を遂げたが故に未完成のままだった蘇生の術式、その完成形だ。そこに何か深い意味があるような気もしたが、蘇生を果たした時の彼にはどうでもいいことだった。
彼は幾度も時間干渉を起こし、あらゆる時間軸に移動しては彷徨う亡霊と化していた。刻野 秀一の目撃情報が少しずつ広まっていった原因もそれだ。過去に移動していた彼がその場を適当に彷徨っていたところを偶然、魔術師が目撃したのだろう。刻野が魔導の命題に辿り着いたという噂は、その頃から僅かに広まっていた。しかし、彼にとっては何もかもがどうでもいいことだ。
刻野 秀一は自身を責めた。蘇生の研究資料を遺さなければ彼女は死ななかった筈だと、彼は自身を責め続けた。自分を殺したいくらいに自身を憎んだ刻野。しかし、自殺だけはできなかった。どうして彼女が死を遂げてまで蘇らせてくれたこの命を、擲つことができようか。それは彼女に対する侮辱に他ならない。
そうして死ぬことができない刻野は過去、未来を彷徨い尽くす。それは、生ける屍も同然の存在だった。彼の瞳に生気というものはない。ただ、意味もなく無闇に時間干渉を起こしては魔力を消費するだけの行為を繰り返す。
そして彼は自身が死ぬ前日、三月九日に移動した。自身がこの授かった生を終える時、一体どのような場所にいるのかを確認するために。尤も最期に自分が何処で眠るのか、彼は最初から分かっていたのだが。
其処は永眠から目醒めた場所。曾て刻野が愛した人と共にいた場所だった。其処で何をするでもなく無為に時間を過ごしていた彼にやがて、一本の電話が届く。親愛なる友、朝日 文隆からの連絡。
その一本の電話が、刻野 秀一の運命を捩じ曲げては、愛した人が与えてくれた命に意味を齎す。
蘇っても、彼女がいない世界に価値を見出だすことができなかった刻野。けれども、そのたった一本の電話が彼に生きる意味というものを与えてくれた。無意味に時間干渉を起こしては、三月九日に辿り着いた刻野にとって、それは奇跡以外の何物でもない。
三月九日に朝日 陽菜は必ず死ぬ。その不可避の未来が刻野 秀一を救った。
そうして三月九日現在。地面に陽菜の遺体を横たわらせては刻野は詠唱を開始した。まるでそれは神に祈りを捧げる唄。水溜まりに沈んでいた陽菜の躯が僅かに浮遊しては、その状況を維持していた。それは一目見ただけでは到底理解できない現象、魔導の神髄。刻野が詠唱を始めてから暫くして、幾つもの淡き光の粒子が何処からともなく出現しては、陽菜と刻野の躯を纏うように飛び交っていた。その間、陽菜を見詰めていた刻野。重荷を背負わせることに罪悪感はあった。もしかしたら自身と同じように、与えられた生に意味を見出だすことができないまま彷徨してしまうのかもしれない。けれども、彼女なら大丈夫だろう。そんな確信が刻野にはあった。
ふいに、不動 洋一に視線を送った刻野。委せる、と。果たしてその言葉が声になっていたのかは分からない。躯が薄れては、この世から刻野 秀一の存在は消えかかっていたのだから。けれども、洋一が頷いたことで心配はやはり無用だったのだと刻野は安心した。
雨。あの日、刻野が蘇生によって生を授かった日も雨が降っていた。一昨日でも、この場面を再現することはそんなに難しいことではない。けれども、刻野は雨が降っているこの日を選んだ。愛した人のことを想う刻野。同時に、決定された死期を伸ばすことは不可能でも、覆すことはこんなにも容易だ、と刻野は笑う。刻野 秀一は運命に勝利を下す。敗北を知らないからこそ、彼の名は魔導に於いての伝説となっていた。
最強の魔術師、刻野 秀一。
飛び交っていた細かな光の粒子はその場から消滅し、陽菜の浮遊は終わった。詠唱を終えた彼は、ゆっくりと空に手を伸ばす。恰も其処に、雨の中、愛した人が自身に向かって手を差し出しているかのような──
刻野 秀一は、空に微笑む。透明の掌に確かな温もりを感じながら。
こうして過去、現在、未来。
刻野 秀一の存在は、この世から静かに消滅した。
三月九日 午後 三時三十分
朝日 陽菜は目を醒ました。
不可解な情報に頭を苛まれながら。
朝日 陽菜は、蘇った。
三月九日 午後 十八時五分
西口 麗奈はいまかいまかと彼の来訪を待ち侘びていた。帰宅後、冷えた躯をシャワーで温めた麗奈。物音がしない静寂とした居間、ソファーに背中を委ねては壁に掛けた円い時計盤を麗奈は見詰めていた。時折、ソファーから立ち上がっては、頭痛に魘されている紗耶の様子を見に、紗耶の部屋を窺う。暗い室内、どうしようもない痛みを前に紗耶は呻き声をあげていた。だが麗奈が部屋に訪れる度、紗耶は自身の声を圧し殺す。麗奈に無駄な心配をさせないためだろう。無理して作った笑みを麗奈に向け「大丈夫です」と紗耶は口にする。麗奈はそんな紗耶を慈しむように、紗耶の頭を優しい手つきで撫でた。
「ありがとう、紗耶」
全ては紗耶の未来視があってこそ。
三月九日にあの場にいた魔術師の『未来の出逢い』を確認した西口 麗奈。未来視の使用以前に、既にコンサートのチケットが懐に収まる経路を麗奈は手にしていた。だから彼女にとっては、どの場所にいようとも関係ない。刻野 秀一を中心に魔術師達は集う。
時計台の下で刻野 秀一と朝日 陽菜が邂逅を果たす未来。それを知っておきながら麗奈が刻野と会うために先回りをしなかったのは、ただ単にその必要がなかったからだ。
刻野 秀一と邂逅を果たす順は、朝日 陽菜、氷堂 晃、夜野 月江、不動 洋一とリック・ガーネスト、最後に西口 麗奈。魔術師達が見知らぬ人間を中心に囲む未来を紗耶から聞いた麗奈は、その見知らぬ人間=刻野 秀一と簡単に結び付けることができた。容貌が当時と変わっていようが関係ない。
しかし、そんなことはとても些末な事だ。衝撃的だったのは夜野 月江の未来、刻野 秀一を前に銃器を向けていたこと。魔導の背徳に月江が触れていることにまず驚いたが、それよりも麗奈は、西口 麗奈が訪れた時にも月江が刻野 秀一に向けて銃器を構えているか紗耶に尋ねた。淡泊な「はい」という返答。
そこから自身が刻野 秀一と邂逅を果たした時の光景を紗耶から仔細に聞いた。刻野の腕から血が流れ出ているという情報を麗奈が耳にした時、その未来を実際に見ていないにも拘わらず麗奈は盲信的にも、刻野 秀一に銃器は通用するのだと判断を下す。そうでなければ不動の従順な雌狗が魔導の背徳に触れてまで刻野 秀一に銃器を向ける意味がないからだ。
それが麗奈にとってどれだけ恵まれた状況だったか。西口 麗奈が得意とする魔術は、五指の先から紡がれた魔力素粒子の結晶で出来た細い長い糸を、対象に絡めることで意志に反映する形で操作を可能とする。常人に視えることは叶わず、魔術師にすら視認が難しいその糸を用いることで、人体の動作を一時的に操ることも麗奈には容易いことだ。自身の魔術と月江の銃器。その銃口は確実に刻野を捉えていただろう。しかし、麗奈の瞳が捉えていたのは朝日 陽菜の存在に他ならない。
恋い焦がれていた朝日 文隆の、娘。陽菜の貌を見る度に麗奈はその瞳に憎しみの色を宿す。二年もの壁があったというのに、それが色褪せることはない。呪詛のように、麗奈はあの教会の天井、そこに描かれた天使に祈ったものだ。
朝日 陽菜に、災いを。
朝日 文隆が有名な魔術師と婚姻を交わしたならまだ納得できた。その娘の将来を期待し、密かに応援していたかもしれない。だがあれは一般人との間に授かった子供だ。当然ながら魔術師が子供を授かるとすれば、男女共に魔術師であれば産まれた子供が備え持つ魔力、その質と量に反映する。しかし、文隆の隣りにいるのは魔術師ではない。特別でも何でもない、何処にでもいそうなただの女性だ。朝日 文隆に寄り添う恵の存在を心の底から麗奈は憎み、妬んでいた。
朝日 文隆は魔術師として堕落したのだ。自身の魔術を後世に遺すためなら彼は魔術師である女性と婚姻を交わすべきだった。だというのに、一般人の女性と添い遂げている文隆。彼はどうしようもない間違いを犯した。自身が憧憬を懐いた魔術師がそのような間違いを犯していい筈がない。
朝日 陽菜の存在は、魔術師、朝日 文隆の堕落の象徴だ。なら、その間違いは正さなければならない。文隆の魔術師としての名誉に傷を負わせるわけにはいかないだろう。優秀な文隆の威厳を損なうわけにはいかない。
だから、朝日 陽菜は死んで当然だ。あの雨の中、刻野 秀一の傍に控えていた陽菜の瞳をじっと麗奈は見詰めていた。醜悪に口元を歪ませ、陽菜に不安を懐かせたのも、掌をわざと翳したのも、刻野を庇うように催促するための演技に過ぎない。そう。麗奈は最初から刻野 秀一を狙っていない。麗奈が魔術で月江の引き金にかけた指を一時的に操作したのは、陽菜が刻野の前に現れたのを視認した後だったのだから。
自身の魔術が解析されたところで麗奈に罪を被せることは不可能だ。刻野 秀一を狙って撃ったら偶然にも陽菜に当たってしまった、そもそも、銃器を携帯していた月江に問題があるのではないか――様々な反駁が麗奈の無罪を示す。銃器は日本の法律に触れ、且つ、それは魔導の背徳でもある。その事実を看過していた不動 洋一も同罪だろう。良識を携えたリック・ガーネストの存在はあの場には必要不可欠なものだった。もし彼がいなければ不動 洋一は冷静さを取り戻すことなく、西口 麗奈を殺しにかかっていたかもしれない。それは夜野 月江にも言えたことだ。だからこそ麗奈は、あの時計台に最後に訪れる必要があった。
唯一の痛手といえばリックが出してきた条件だろう。それを麗奈が守る必要性は何処にもないのだが、あの場でリックを相手にするのは面倒だったのと、陽菜を殺した高揚感に酔っていた彼女は条件を呑んでしまった。別段、構わない。一般人の集団昏倒は世間に騒がれるだろうが、魔術の痕跡は完全に消せるだろう。警察と強い繋がりを持った麗奈が、事故現場に訪れることを不満に持つ者は誰一人いない。
何もかもが順調だ。三月九日の午前に未来視を使用した時点で、朝日 陽菜が死ぬことを麗奈は半ば確信していた。夜野 月江の未来を確認したことで胸の内にわき上がった狂気的な感情を自覚していた麗奈。そして三月九日に麗奈がどのような人物と出逢うのかを紗耶の未来視で確認した時、陽菜が死ぬことに麗奈が疑問を持つことはなくなった。
そうして必然的にインターホンが鳴る。
麗奈は嬉々としてその場から立ち上がった。以前、勇気をもってこちらから彼に会いに行った時、まるで彼には麗奈の姿が見えていないかのような反応をとられたが、今回は違う。彼は、自らの足で西口 麗奈の前に現れる。自分の意志で此処に来るという未来が、麗奈には嬉しかった。どうやって彼が麗奈の家を突き止めたのかは分からない。だが、自身の居場所を調べたということは、少なからず関心があるということ。それは麗奈にとっての喜びだ。
軽やかな足取りで廊下に出た麗奈は、そのまま玄関にまで辿り着き、ノブに手を掛けた。扉を開かずとも麗奈には分かる。扉越しでも麗奈にはその圧倒的な存在感が伝わっていた。恍惚とした笑みを口元に浮かべては、緩慢な動作で、麗奈は扉を押す。待ち焦がれていた未来が漸く訪れた瞬間。紗耶の未来視に、間違いはない。
魔術師、朝日 文隆が其処にいた。
三月九日 午後 十八時九分
三月九日に自分の愛娘が死ぬ。
二年ぶりに再会を果たし、その僅か数日後に陽菜の死を前にした自分がどのような行動を起こすのか、文隆は何度も何度も想像した。そんな状況に陥った自分は一体何を想うのか。
幾度その未来を想像しても、結局、朝日 文隆は刻野 秀一に助けを求めてしまうのだろう。魔導の命題『蘇生』、その奇跡に自身が縋るのは目に見えていた。それが刻野 秀一の運命を確実に歪めたのだ。蘇生が齎す代償を知らなかった文隆は、自身がどれだけ浅はかなことをしたのか悔やみ、嘆いた。死んだ人間を蘇らせるという奇跡がどれだけ重い代償を術者に求めるのか。陽菜の死を前に狼狽していた文隆はそんなことも分からないまま刻野に助けを求めたのだ。
あろうことか、刻野はそれを了承した。まるで救われたのは刻野の方だとでもいうように、安心に満ちた声で文隆の言葉に了承し、躊躇うことなく彼は救いの手を差し伸べる。結果、文隆はその手を掴んでしまった。
何の悪戯か、陽菜が死ぬ日の翌日、三月十日に刻野は息を引き取る。それが一日でもずれていたらきっとこのような事態にはならなかった。
死は絶対だ。それが例え事故死だろうとも、時間干渉を起こして『事故』を回避しようとしたところで必ず死は訪れる。それは病死、或いは災害。
死は不可避だ。刻野 秀一が魔術師として最強と呼ばれる由縁、時間干渉の魔術、その限界というものを彼が見誤ることは有り得ない。だからこそ刻野は自身の覆しようもない死を受け容れた。どれだけ足掻いたところで未来が変わらないことを彼は知っていたから。
時間干渉を幾度も起こしては、陽菜が蘇生を果たす結末に至る過程を作り上げた刻野 秀一。生きる意味を喪っては自身の価値を見出だすことができなかった刻野の希望が、陽菜の存在だった。一体何のために蘇ったのか。その答えに触れたのだと、刻野 秀一は口にした。陽菜が死に至る過程を作り上げた彼の行動は執念の一言に過ぎた。自身が蘇生を遂げたという噂を拡大させては、文隆に時間干渉の魔術、その術式の一部をさもそれが全部とでもいうように不動 洋一の前で情報を流すよう手配したのだ。そうして細かに魔術師達の役を配置しては、陽菜が殺されるように彼は仕向けた。
夜野 月江の銃器を持つ程までに厚い忠誠心も。
不動 洋一の手段を選ばない非情さも。
リック・ガーネストの魔導における良識的な平等性も。
氷堂 晃の異常な戦闘意欲も。
西口 麗奈の愛憎も。
赤池 紗耶の未来視も。
これらの何もかもが朝日 陽菜を救うための要因。これが仕組まれたものではないということを陽菜に勘付かれないために。何故、このような労力をしてまで、陽菜が殺されるような状況を自然に作り上げたのか。
刻野は云った。陽菜に罪悪感を背負わせたくない、と。陽菜が死んだとして、刻野の手でそのまま蘇ったとしたら陽菜は一生自分を責め続けるだろうと刻野は口にした。そんな未来は容易く想像できる。自分がそうだったから、と、刻野は言葉にした。
だから刻野は『刻野 秀一を庇って朝日 陽菜が死ぬ』という状況を作り上げた。それは、刻野が命を懸けるには充分な場面だ。陽菜の罪悪感を少しでも和らげるために。その状況を作り上げるために一体どれだけの時間干渉を起こし、一体どれだけ彼は未来や過去を彷徨い歩いたのだろう。それは誰にも分からない。彼と同じ域に到らなければ、きっと、永遠に分からないことだ。
最強の魔術師、刻野 秀一。
やはり及ばない、と、朝日 文隆は呟きを洩らす。いつまで経っても隣りに立つことは叶わないのだと、文隆はそう思いながら、高層マンションの一室に訪れていた。
西口 麗奈と赤池 紗耶が住まう部屋の居間に足を踏み入れた文隆は、ソファーに座ることを麗奈に促される。文隆はその言葉にかぶりを振った。
「赤池 紗耶は何処だ」
居間の出入り口に立ち尽くした文隆がそう訊けば、露骨に嫌そうな貌をした麗奈。興味の対象が自分ではなく紗耶であることに不満を持っているかのような反応に、文隆は一切目を向けない。一度、居間を見渡した文隆は廊下に引き返す。待って、と、後ろから聞こえた麗奈の怒声を無視して廊下に出た文隆は、そのまま廊下に通ずる部屋の扉を開けては無断で踏み込む。
乱れた呼吸。暗い室内、紗耶は寝台の上で大量に汗をかき、苦痛に表情を歪ませていた。紗耶は、文隆が部屋に入ったという認識すらできていない。無言でその様子を眺めていた文隆の背後に麗奈は立つ。
「どうして、」
麗奈の声は僅かに掠れ、そこからは怒りが滲み出ていた。
「どうして貴方は私を見てくれないの!? あの時も、あの時も、あの時も! 貴方はいつだってそう、私を見ない、私を認めない! 私は、」
「西口 麗奈」
名前を呼んだ。ただそれだけのことで西口 麗奈は黙った。
「君には感謝をしていると同時に謝らなければならない」
「え?」
「君の気持ちを利用してこのような事態を招いたのは、全て、私の責任だ。申し訳ない。それと、ありがとう。陽菜は無事、蘇った。私の娘は生きているよ」
振り返った文隆。文隆の発した言葉の意味が理解できていないのか、麗奈は、震えた声で文隆に問う。
「蘇った……? 意味が、分からないわ」
「なら、無理に分かる必要はない」
突き放すようにそう云った文隆は再び、紗耶に視線を落とす。目の前で苦痛に表情を歪めている紗耶を、文隆は見詰める。
未来視の酷使による発熱。以前、未来視の力を事細かに麗奈が文隆の前で勝手に説明していた時、その代償を文隆は聞き及んでいた。
「未来視はもう使わない方がいい」
それは刻野 秀一の言伝でもある。
「未来視は術者にかかる負担が異様だ。これ以上使えば、孰れ」
文隆はそれ以上言葉にしなかった。西口 麗奈も魔術師だ。その辺りは理解しているだろう。だが、麗奈は文隆の言葉に耳を傾けない。麗奈の乾いた笑い声が、廊下の照明が僅かに射し込む薄闇に響き渡った。
「陽菜ちゃんが、あの娘が蘇った?」
麗奈は笑う。
「自分の娘が死んで、頭が狂ったのかしら。そんなのは貴方らしくないわ。しっかりと現実を見詰めなさい。貴方の娘は死んだっていうことを!」
文隆が持ち出した紗耶の話題はまるで聞こえていなかったかのような反応だ。事実、聞こえていないのだろう、いまの麗奈には。一種狂気的な彼女を前にしかし文隆は動じない。無言を貫いては、あの時と同じように麗奈を見ていた。紗耶の未来視を利用して文隆と接近したあの時と、何もかもが同じだ。それに気付いたのか、麗奈は息を呑む。視界に収めている筈なのに、西口 麗奈を見ていない文隆。そこに存在を認めていないかのような瞳で文隆は静かに麗奈を見ていた。その凝視に慄き、一歩、麗奈は後退る。だが、意を決したかのように後退したその脚を無理矢理前に踏み出しては、文隆の横を通り過ぎ、希望に縋るような面持ちで紗耶に駆け寄った。屈んでは、目を閉じて苦しそうにしている紗耶の躯を麗奈は思い切り揺らす。
「ねえ起きて紗耶、お願い。起きて」
悲鳴に近いそれを耳元で聴いた紗耶は、けれども目を開けない。ただただ苦しそうに呻いているだけだ。それに構わず紗耶の躯を揺らす麗奈。
「お願い、あの人の未来を視て、紗耶」
麗奈の言葉に返事が寄越せない紗耶。
「あの人の未来に、あの娘が生きているのかどうかを私に教えて!」
「無駄だ」
文隆は断言する。
「未来を見ずとも、陽菜は生きている。それは揺るぎない事実だ」
疑うことなく、文隆の言葉を麗奈はそのまま呑み込む。信頼なんてものは築いていないというのに、文隆の言葉は真実なのだと麗奈は悟ったのだろう。そもそも二人の間で会話というものは成立していなかった。一方的な感情を押し付ける麗奈に狼狽した様子はもう見られない。
麗奈は云う。
「また殺せばいい」
嫣然と、笑う。
「あれは、貴方の間違い。魔術師、朝日 文隆の、誤りよ。だから、殺さなきゃ。私が正してあげる。ついでにあの女も──」
一瞬にして麗奈の首を掴んだ文隆が、そのまま彼女を部屋の壁に押し付ける。壁に背中がぶつかった衝撃で声を洩らす麗奈。文隆の表情に変化は見られない。だがその瞳は明確な殺意を宿していた。
「私の意志が招いたような事態だ。だから一度目は赦す。だが、二度目があると思ったらそれは大きな間違いだ」
麗奈には返事ができない。首を絞められては、言葉を紡ぎ出すことができないでいた。
「君の命を摘むことは容易い。まさか、警察と強い繋がりを持つのが自分だけだとは思っていないだろうな」
文隆は、更に強く首を絞める。麗奈は逆らわない。否、彼女に抵抗はできなかった。精神が不安定な状況で彼女は得意な魔術を扱うことができない。詠唱を紡ごうにも、言葉を発することが麗奈には許されなかった。
「君がもう一度、私の家族に手を出すというのなら、私がこの場で君を、」
「や……めて……」
文隆は、声のした方に振り向いた。その場に立つことすら不可能だと思っていた赤池 紗耶が、虚ろな目で文隆の背後に近付く。
「や、……て、……はな、して」
その立つことすら不安定な少女の懇願に文隆は、仕方なしに麗奈の首から手を離した。背中からずるずるとその場に倒れた麗奈は咳き込み、必死に呼吸を繰り返す。
その間に文隆は問う。
「何故」
意識すら保っていることがやっとの紗耶に言葉が聞こえているのかどうかは分からない。
「何故、助ける。君の力を利用しただけの魔術師だ。それなのに、君は、」
「……たし、の、」
紗耶は云う。
消え入りそうな、声で。
「……たい、せつな、……ひと、……だか……」
そう口にした紗耶は、ゆっくりとその場に倒れる。
「紗耶!」
麗奈が叫んでは、這いずるように紗耶のもとへ駆け付け、彼女の躯を抱え込む。先程のように躯を揺らすこともない。宛ら母のように彼女は紗耶を抱き締めていた。
文隆は、紗耶を見てから麗奈に視線を向ける。そこで目が合うことはない。麗奈の目は紗耶の寝顔だけを見詰めていた。
「苦しい中、意識を保っているのもやっとの中、彼女は私の方に向かって歩いてきた。その意味が分かるか、西口 麗奈」
「…………」
「君を、私から護ろうとしたんだ」
「……紗耶」
文隆に視線を向けることなく、紗耶の躯を抱き締めている麗奈。起こさないように、優しく、彼女は抱き締めていた。そんな二人に背中を向けて文隆は廊下に出る。
途中、啜り泣きが聞こえた。文隆が玄関の扉を開ければ、それは、雨音に掻き消された。
雨はやまない。
そのことを、文隆は誰よりも知っていた。コンクリートの床に足音をたてながら文隆は祈る。彼が愛した人と同じ場所に辿り着けたことを。
雨の日に。
文隆は、亡き友人の幸せを、どうしようもなく願った。
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