二章 闘争

 産まれたその瞬間から、わたしたちは闘うことを定められている

 時間に抗うことは産声であり

 己と戦うこともまた、生きるということに他ならない


 

 三月八日 午後 十三時三十八分


 陽菜との口論を終えた月江は、ゆっくりと陽菜の横を通り過ぎて居間から出ていった。そのあとに大きな溜息を吐いた陽菜。溜息を吐きたいのは自分だとでも言いたげな表情を浮かべた洋一は、陽菜に再確認をする。

「もう一度訊くが、本当に昨日、刻野 秀一と連絡をとったんだな?」

「そう。何度も云ってる」

「そうか」

 未だに信じられない心境でいる洋一。まさか昨日の今日で陽菜が刻野 秀一の有益な情報を掴むどころか、本人と連絡を取り合うとは。信じろというのが無理な話だ。そして陽菜が包み隠さず、刻野 秀一にこちらの目的を話したことにも洋一は驚いた。魔術師達が皆揃って、刻野 秀一を狙っていると陽菜は電話越しにそう伝えたのだ。

 問題は、それに対する刻野 秀一の返事にあった。

 本日、教会には緊急的な集まりとして魔術師達に顔を揃えて貰う。そうしてその場で、刻野 秀一から受け取ったメッセージを陽菜には発表してもらう手筈となっている。それは刻野 秀一の要望であったし、陽菜自身の意向でもあった。

 刻野 秀一から伝えられたメッセージの内容を洋一はまだ知らない。それもまた刻野 秀一の意志だ。魔術師達に平等に言伝を話すこと。陽菜は忠実に刻野から伝えられたことを守っていた。だからこそ洋一は聞き出すような真似をしない。内心、気にはなっていたが無理に聞き出したところで陽菜に迷惑だ。だが洋一はその話を耳にした時に、自分がどのような表情をしていたのか分からなかった。陽菜と月江がやけに自分の様子を観察していたことを彼は自覚している。

 天井の電気が点いた居間。つい先ほどまで月江を含めた三人で小笠原 雅文のことを話していた。きっと彼はもうこちら側の世界に足を踏み込むことはないだろう。もしまた問題を起こすようなことがあればその時はその時だ。

 窓から見える外は薄暗い。今日は一日くもりだと陽菜は云っていた。明日には雨が降るとも。彼女は昨日と同じようにしてカーペットの上で胡座をかいては、テーブルの上に置かれた魔導書を手に取りそのまま読み始める。彼女は至って平然としていた。最強の魔術師から言伝を受けた筈の陽菜は昨日と何ら変わりのない様子だ。

 洋一はどうだろうか。陽菜や月江の目から映る彼は普段通りの自分であるかを、洋一は気にかけた。昨日、氷堂 晃が自分に向けた言葉を彼は思い出す。曰く、刻野 秀一の情報を不動 洋一が執拗に集めている原因は攫われた子供を捜すためだと。一体どこでそんな情報が漏洩したかは洋一の知る由ではない。だが、弱味を握るのは有効な手だ。あの場でそれを握るのは即ち、情報の仕入れが自分に『だけ』回ることも有り得る、ということ。尤もそれがその人物の弱味になっているかどうかが前提だが。

 魔導における三つの命題。蘇生、悠久、転生。その内の一つ、蘇生に辿り着いたと噂される刻野 秀一がまだ蘇ったと決まった訳ではない。西口 麗奈の云っていた通り、最初から死んでいなかった可能性もある。陽菜の口振りからして、いま現在、刻野 秀一が生きていることは間違いないだろうか。

 歴代最強の魔術師、刻野 秀一。

 不明瞭な点は多いが彼の能力について洋一は既に調査済みだった。それに対する切り札も彼の手の内だ。だが刻野 秀一と対峙するなんてことは自分が生きている内、実現なんてできないと彼は思っていた。執拗に情報を集めて、現実に起こり得ないことと分かっておきながら、刻野 秀一の魔術に対する策を用意している自分は一体何なのだろうか、と彼は度々、自分のことを不気味に思っていた。

 全ては八年前の真実を知るため──

 誰が優を攫ったのか、時を遡って知るため。

 洋一にとって、魔導の命題はどうでもよかった。

 しかし、陽菜は刻野 秀一から何を聞いたのだろうか。いつの間にか考え込んでいた洋一を、魔導書から目を逸らして窺う陽菜。

「洋一」

 陽菜の声色はいつも通りだ。変化は見られない。何を考えていたのかを訊かれるのだろうと予測していた洋一は、その返事にどのような言葉を選ぶべきかを考えた。

「私、昨日の集まりで確信したことがあったんだけど」

「確信?」

「うん、確信」

 陽菜が分厚い魔導書を閉じ、テーブルの上に置いた。

「私、麗奈さんにどうも嫌われてるみたい」

 意外なことを口にした陽菜。胡座を解いては自分の膝に顔を埋める陽菜は、それでも落胆した様子は見られない。つまりは陽菜もそこまで好意的に西口 麗奈を思っていなかったのだろう。陽菜の嫌われているみたい、と根拠がないように見える言葉を、洋一はその通りだろうと断ずる。彼は何故、陽菜が西口 麗奈に嫌われているのか心当たりがあった。しかし、それを当人の前で云うのはどうか。この話は陽菜に直接関係しているわけではない。

「洋一、何か知ってるでしょ」

 少しの間、悩んでいた洋一を横目で見ては、そう問い掛けてきた陽菜。「何と答えたものか」かと思わず心情を吐露する洋一。じれったいとでも云うように洋一を睨む陽菜の目を見てから彼は、漸く語る決意をした。

「お前にとっては複雑な話になると思うんだが、それでもいいか」

「うん、別に構わない」

「分かった。まず、西口 麗奈の能力について話そう」

「何それ。いまの話に関係あるの?」

「最後まで聞けば分かる。あの教会に集まる魔術師達は、当然ながらお互いの手の内を隠しているものだ。それはいざ対立した時に魔術の対策を練られていたら、自身の立場が不利になってしまうということが明白だからな」

 陽菜は膝に埋めていた顔をあげては、洋一の話を黙って聞いていた。続けて、と彼女の瞳がそう訴えているのを見てとったた洋一は、そのまま話を続ける。

「だが俺は西口 麗奈と彼女に仕えている赤池 紗耶の能力を知っている。お前になら分かるだろう、陽菜。先程も云ったが魔術師は手の内を常、隠しているものだ。切り札を切ってはならない。それが魔術師というものだ」

 うん、と相槌を打つ陽菜。情報を整理しながら、饒舌に洋一は話す。

「刻野 秀一のように広く名が知れ渡っている魔術師なら、手の内が皆に認知されていても可笑しい話ではない。彼が何故、歴代最強の魔術師であることを謳われているか、そのことを考えれば分かることだ。ここで話を戻すが、俺は西口 麗奈と赤池 紗耶の情報をある人物から聞かされた」

「ある人物って」

 沈黙。

 意味が分からないとでも言いたげな表情で洋一を見る陽菜に、彼は遠回しな言葉を選ぶことなく率直に説明する。

「つまるところ、文隆さんに好意を寄せていた西口 麗奈は、魔術師としての立場を惜しみ無く棄てることを示したと、そういうわけだ」

「どういうわけよ」

 意味が分からないと呟きを洩らした陽菜。洋一は狼狽する陽菜を眺めながらこの話の説明をすることにした。

「まず、西口 麗奈は文隆さんに好意を向けている」

「はい、ストップ。おかしいでしょ、そこ。何で妻子持ちの人に好意を寄せるわけ」

「そういうことも世の中にはあるということだ」

 洋一の返事に当惑する陽菜は、そこから無言でいた。当然の反応だろうと洋一は思う。彼は陽菜の様子を窺い、そして「気にせずに続けて」と陽菜から催促されたことで、再び話し始めることにした。

「西口 麗奈は妻子持ちであることを知っていながら、文隆さんに接触を図った。魔術師としての立場を危うくする程にまで好きだということを示すために自身の魔術、及び、侍らせている赤池 紗耶の希少な力を詳らかに話したんだ」

「その時のお父さんの反応が気になるんだけど」

「どのような反応をとったと思う?」

「焦らさないで教えてよ」

「分かったからそう怒るな。その話を聞いた時は思わず笑ってしまったんだが、喋り終えた西口 麗奈の横を無言で通り過ぎた、と文隆さんは云っていたよ。あの人は一切、西口 麗奈と会話を交わしていない」

「うん、想像できた」

「そうだろう。魔術師として優秀な文隆さんだからこそ、手の内を簡単に明かす西口 麗奈はとても愚かな人に映ったんだろうな」

「魔術師がどうこう以前の話よ、これ。本気で呆れた。つまり、お父さんの娘だから私は嫌われてるってわけ?」

「多分、そういうことだろう」

「馬鹿馬鹿しい」

 不満そうにそう口してから、床に寝転がる陽菜。

「気になることがあるんだけど」

「どうした」

「麗奈さんの能力について。あと、紗耶ちゃんの力が希少ってことも」

「そのことか」

 寝転がる陽菜を見てまるで猫みたいだと、そんな連想をした洋一。彼は腰掛けていた椅子から立ち上がって、キッチンの方に向かいながら陽菜の疑問に答える。

「西口 麗奈の魔術は、一時的に対象を自分の意志に基づき、操作することを可能とする」

「洗脳ってこと?」

「いや、洗脳とは違う。対象の範囲は広い。適当に転がっている石や空き缶も、彼女自身は触れずに操作を可能とする」

 冷蔵庫から取り出したコーヒーのボトルを取り出す洋一。「飲むか」と彼女に尋ねる。

「ん、お願い」

「コーヒーで良かったか」

「うん」

「ホットとアイス、どっちがいい」

「いまはアイス」

「分かった」

「ありがとう、洋一」

 洋一はグラスを二つ用意してから、冷凍庫から氷を幾つか取り出す。

「西口 麗奈の魔術についてだが、裁縫の糸をイメージすれば分かりやすい。氷、入れるか」

「二個」

「ん」

 グラスの中に氷が入る音。

「あらゆる物に魔力素粒子の結晶で出来た、魔術師でも捉えることが難しい細い糸を通す、若しくは絡める。そうすることで彼女の意志に及ぶ範囲で、物質の操作を可能としているわけだ」

「相当な技術がないと扱えない魔術ね」

「ああ、そんなことはほぼ不可能に近い」

 彼は、二つのグラスにコーヒーを注ぎ終えた。底に沈んでいた台形の氷が浮かび上がっている。

「そもそも、魔術師でも視認が難しい程の糸で物質を操作するってのはどう考えても無理だ。けれども、無理ではないことを彼女は文隆さんの前で証明した。ほれ、コーヒー」

「ありがとう」

 寝転がっていた陽菜か洋一の足音に気づいて起き上がる。直接グラスを受け取った彼女はそのまま口をつけて冷たいコーヒーを飲む。飲んでから直ぐに苦いと口にした陽菜は顔を顰めていた。それを見た洋一が静かに微笑み、再び椅子に腰を掛ける。

「西口 麗奈は文隆さんの前で実際にその魔術を披露したんだ。適当に転がっていた空き缶を、魔力によって紡がれた十本の糸で浮遊させた」

「なんだか、よくよく考えたら嫌な光景よね、それ」

「ん?」

「お父さんが終始無言でいるのに、麗奈さんが独りでに魔術を行っているわけでしょ? 痛々しいとしか言い様がないわ」

「言われてみれば確かに」

「同情なんて絶対にしないけど」

 西口 麗奈に対して最初から良いイメージがなかったのだろう。陽菜はこの話を機に、西口 麗奈に対して『嫌い』という感情をはっきりと懐いたのかもしれない。

 陽菜がアイスコーヒーをテーブルの上に置いてから、魔導書の隣りに置かれていた携帯電話を見遣る。陽菜の視線を洋一が追えば携帯電話のディスプレイに光が一瞬、灯っていた。おそらく、着信かメールだろう。

 しかし赤池 紗耶の能力が気になっているのか、陽菜は携帯電話に手を伸ばさない。

「紗耶ちゃんの希少な力ってのは結局、何だったの?」

「え?」

 聞き返す陽菜。

「赤池 紗耶は、。西口 麗奈はそんなことを口にしたらしい」

「……お父さんの気を惹くための嘘でしょ、それ。まさか、お父さんの前で実際に予知能力を披露したわけ?」

「いや、接触してきたのは西口 麗奈一人だ。朝日 文隆と接触を図れたのも、赤池 紗耶の未来視によるものだと西口 麗奈は云ったらしい。そこに信憑性はないかもしれないが、少なくとも辻褄は合う。その日、文隆さんが自身の行き先を告げたのは恵さん一人だ。それにどうして西口 麗奈が赤池 紗耶を傍に置いていたのかがはっきりとする」

「もしそれが本当だとしたら、麗奈さんの神経を疑うわ。ストーカー目的で未来視を利用するなんて」

 彼女は携帯電話を手にとってはそのまま立ち上がる。友人と買い物をする約束を交わしていたことを洋一に告げる陽菜。陽菜はコーヒーを苦い顔で飲み干し、グラスをキッチンにまで運ぶ。

「時間になったらそのまま教会に向かうわ。じゃあ、また後で」

「ああ。行ってらっしゃい、陽菜」

「うん、行ってきます」


 居間を出た陽菜は、どうやら洋一には悟られなかったようだ、と扉を閉めたところで一息吐いた。

 陽菜の胸ポケットに収まった、一枚の紙片を。

 不動 洋一は知らない。


 三月八日 午後 一三時五十五分


 赤池 紗耶は西口 麗奈と共に喫茶店に訪れていた。麗奈のお気に入りだというこの喫茶店に、いつものように同伴していた紗耶。木目調の天井に床。調和を意識しているのだろうか、テーブルや椅子も木製だった。二階建てでもあり一階が禁煙、二階は喫煙ができるようにと分かれている。紗耶と麗奈の二人は禁煙である一階、窓側の席に腰を落ち着けていた。いま麗奈は誰かからの連絡があったようで、席を外してから五分は経とうとしている。その間、紗耶は窓から見える景色を眺めていた。

 今日は、少しばかり天気が悪い。

「何か考えごとでもしているの? 紗耶」

 席から外れていた麗奈が戻ってきた。相も変わらず彼女は綺麗だと紗耶は心底思う。いつだって優美な振る舞いを崩すことなく、彼女はゆっくりと腰を掛けてから、紗耶に微笑む。笑うことが苦手な紗耶は、けれども麗奈の前なら自然と笑うことができた。麗奈に向けて微笑む紗耶。

「少しだけ、ぼんやりとしてました」

「そう、それならよかった。何か悩みごとがあったら遠慮なく私に言ってね」

「はい」

 紗耶は西口 麗奈のことが好きだ。紗耶を利用とする魔術師達の手から、麗奈は紗耶を救ってくれた。例え麗奈が紗耶のことを利用するために救いの手を差し伸べたのだとしても、麗奈のためなら紗耶は死ぬことだって厭わない。利用されることすら本望だ。赤池 紗耶にとって西口 麗奈が全て。紗耶が生を授かった理由は麗奈のためにあるのだと、彼女は本気で信じて疑わなかった。

 未来視。

 赤池 紗耶は未来を視ることを可能とするが、それは少しばかり特殊なものだ。紗耶がその瞳に映す人物の、『未来の出逢い』を彼女は識ることができる。例えば西口 麗奈をその瞳に映しながら、或いは脳内で人物像をはっきりと捉えたまま、西口 麗奈の未来を想像すれば現在からこの先まで赤池 紗耶は彼女がこれから『擦れ違う人達』の場面を鮮明に視ることができる。出逢いは見知らぬ他人も含められる──西口 麗奈がこれから擦れ違う人達、その場面を赤池 紗耶は数秒の間、両の瞳に映す。

 出逢いを準拠とする未来視。紗耶は擦れ違う人を別の人に置き換えることで、未来の改変を起こす。タイムパラドックスによる因果律の矛盾を観測することは彼女には叶わない。何せ彼女が映す未来は僅か数秒。擦れ違う人の人数を含めれば数分には及ぶが、未来視を用いても当人が矛盾を観測できない以上、そもそもタイムパラドックスが起きていることすら不明だ。西口 麗奈の財布に収まった一枚の写真。そこに映し出された朝日 文隆を未来視の対象にし、朝日 文隆が今後、擦れ違う人の一人を昏倒させて西口 麗奈に掏り替えたとしても世界は崩壊しない。未来視を使用したところで何処かに異変が起きたのだとしても、赤池 紗耶がそれを観測できない以上、何も問題は発生していないことに変わりはない。

 当然、彼女の未来視には幾つか条件が課せられていた。一に、当日の出逢いしか映さないこと。つまりは三月八日に未来視を使用すれば、三月八日の『出逢い』しか彼女の瞳は映さない。一日先の未来に及ぶことはいままでに一度もなかった、謂わば経験則によるものだが。

 二に、対象の未来を視ることが叶うのは一日に一度だけ。一度その日に映した未来をもう一度視ることは、赤池 紗耶には不可能ということ。つまりは未来視によって映し出された映像を彼女は仔細に記憶しなければならない。擦れ違う人物の容貌、背景、電柱、建物、自動販売機、道路、標識、そういった目印になるものを記憶しなければ、擦れ違う人を置き換えることは難しくなってくる。だがその点でいえば赤池 紗耶に問題はなかった。彼女は正確にその場面を思い出すことができる。それは単に物覚えが良いというわけではない。鮮明に映し出された映像を一つ一つ把握できるのもまた、未来視の力だと紗耶は考えていた。

 そして三。これは紗耶にとって何ら問題はない事柄だと彼女は考えているのだが、未来視は一度使用すればその術者を蝕むようにして吐き気と高熱を齎す。しかし、そんなことは紗耶にとって些末なことだ。西口 麗奈のためならその程度の苦しみは我慢できた。

「紗耶」

 麗奈が神妙そうな表情で紗耶の名前を呼ぶ。彼女がテーブルに差し出したのは一枚の写真。そこに映し出された人相の悪い大柄な男の未来を、麗奈が求めていることは既に紗耶は察していた。

「凶悪な指名手配犯よ。隣町にて一家殺害を犯したこの男は、一週間経ったいまでも行方を掴むことができなかったけれども、この町に潜伏している可能性が極めて高いと目撃情報から警察は判断しているわ」

「私は、この人の未来を視ればいいのでしょうか」

「頼めるかしら、紗耶」

「はい」

 笑顔で言葉を返す紗耶。西口 麗奈は警察と密な協力関係にあることを紗耶は知っていた。紗耶も詳しいことは知らない。だが、自分の未来視で麗奈の役に立つのであれば彼女は自身が高熱に魘されようが、どうでもよかった。

「ありがとう、紗耶。貴女は本当に頼りになるわ」

 紗耶に笑いかける麗奈。この笑顔のためなら、紗耶はどんな苦しみにも耐えられる。麗奈の笑顔を見て、自然と笑顔になるのが当たり前になった紗耶。紗耶は喜んで、未来を視ることに決めた。


 三月八日 午後十四時三十分


 朝日 陽菜は中学時代の友人である如月 茜きさらぎ あかねと一緒に買い物を楽しんでいた。現在、陽菜達がいる駅周辺に建ち並ぶ店の数は結構な規模だ。陽菜は久し振りに訪れたこの通りを眺め回し、新しい発見をしては茜に報告する。そういった些細な遣り取りが陽菜は楽しくて仕方がなかった。やがて二人は一通り歩いた後、 こぢんまりとしたカラオケ店に訪れる。陽菜が日本を発つ前、茜と此処に来ていたことを陽菜は思い出していた。

 黒の長髪に白のニットワンピース。二年前と比較すれば茜は更に可愛さを増している。でも、茜と会話をしていて違和感はない。根は変わっていない、と、そういうことなのだろうと陽菜は結論付けた。そのことが何だか嬉しくて、陽菜は口元に笑みを浮かべる。

「しかし、陽菜は更に綺麗になったよねー」

「私じゃなくて、茜が、でしょ」

「まあね」

「うわ、嫌な女。即答ですか」

 笑い合う陽菜と茜。カラオケ店に訪れているというのに、二人はいつまでも歌うことなく会話を楽しんでいた。薄暗い部屋の中、テレビからは流行の音楽やアーティストのプロモーションビデオが流れている。透き通るような女性の歌声が聞こえる中、ドリンクバーから注いできたオレンジジュースを飲み干した茜が唐突に話題を変えた。

「まだ言ってなかったと思うけど、私、大学に合格しました」

「今更だけど合格おめでとう、茜。大学はどこ?」

「ここから一番近いところ」

「一番近いところ、って、凄いじゃない」

「私の才能なら何の問題もないわ」

「そんなことを言いつつも、陰でこそこそ勉強してる茜の姿が容易に想像できるけど」

「お母さんが作ってくれる夜食のおにぎり、美味しかったです」

 またしても二人は笑い合う。茜が優しい目で陽菜を見る。

「陽菜はこれからどうするの?」

「私? うーん、とりあえずは一年間、こっちにいようと思う」

 当然ながら一般人である如月 茜は朝日 陽菜が魔術師であることを知らない。二年前、通っていた高校を退学している陽菜。辞める理由をクラスメイトに話した時に、彼女は外国に留学して勉学に励むことを皆に告げた。その認識に間違いはない。現に彼女は異国の地で魔導の勉強に励んでいたのだから。

「凄いな、陽菜は」感心したように云う茜。「私、家族のもとを離れて二年間も勉強なんて、できないや。うん、いまの陽菜はかっこいい。おっぱいでかいし」

「何であんたたちは揃いも揃ってそこに触れるのかしら」

「よし、せっかく陽菜が帰国したんだから気合いいれて歌っちゃいますか! ほら、陽菜も一緒に」

 何時の間にか曲を入れていた茜が立ち上がり、マイクを握っていた。狭い室内に流れ出すこの曲に聞き覚えがあった陽菜。忘れる筈もない。茜からマイクを受け取った陽菜は、二年前のことを思い出していた。

「二年前も、この曲歌ったよね」

「覚えててくれたんだ」

「うん。だってあの時、茜、泣いてたから」

「陽菜も泣いてたけどな」

「うるさい」

 そうして二人は二年前と同じように、あの時と同じ曲を歌い始める。幸せを噛み締めながら、陽菜は友人と共にこの楽しい一時を過ごす。この先の予定さえなければ、きっと自分はもっと笑えた筈なのにと、陽菜は心底思った。


 三月八日 午後 十五時一分


 出入口のところに置かれている『ささみ』と書かれた小さな看板。小学校から近いこの店は駄菓子屋として古くからそこに建てられていた。小学生がよく訪れる駄菓子屋に夜野 月江は足を踏み入れている。小さなカウンターは入口に入って直ぐ左に見え、店内は筆記用具や駄菓子に取り囲まれていた。

 カウンターには背が低い老爺が椅子に腰を掛けている。月江が訪れたことに気付いた老爺が「来たか」と声を洩らし、そしてゆっくりと立ち上がった。そして近くで商品の埃を払っていた若い女性がその様子に気付き、カウンターに向かう。

「こんばんは、月江さん。毎度のご利用ありがとうございます」

「ああ」

 老爺の孫であるというその娘、長い前髪が目元を隠している笹木 由衣ささき ゆいは、月江に頭をさげた。月江と由衣の間に親交はない、月江が興味あるのはここにいる老爺、笹木 道重ささき みちしげという自身の銃を整備してくれる人間だけだ。老爺は緩慢な歩調で店内の奥に歩む。月江も彼の小さな背中を追って歩き出した。

 やがて階段が見えてくる。老爺と月江が登った先の廊下、一番奥の部屋が銃を整備する時に扱う作業部屋だということを月江は知っていた。

「得物を」

 言われてから、懐から取り出した銃器を老爺に差し出す月江。辿り着いた廊下に老爺が立ち尽くし、受け取ったそれを品定めするように眺めてから、部屋にはいる老爺。月江は廊下の床に腰を掛け、壁に背中を委ねた。

「特に調子が悪いところはなさそうなもんだが」

 扉の隙間から嗄れた声が聞こえた。

 月江が目を閉じながら返事を寄越す。

「点検だけでいい」

「どうした月江、誰かと決闘でもするのか」

 からかう声に対し、月江は僅かに笑う。

「そうだな。正々堂々と、一騎討ちだ」

 月江の言葉に老爺が「冗談を」と快活に笑う。老爺は気付かない。月江の口元から笑みが消えていることに。その瞳は何処か空虚なものであることに、老爺は気づいていなかった。

 無法な行為には孰れ裁きが下るなんて戯言を月江は信じていない。月江が知っている魔導の世界は醜悪そのものだ。誰もが手段を選ばず、魔術師がそれぞれに秘匿している術式を蹂躙しようと暴れ狂う世界。きっとそれが世界の本質なのだと月江は思う。それは、争いが終わらないということ。あらゆる国が、人間が、敵意をもって対立するのが世の理だということを月江は知っていた。

 幼い頃から魔術に耽溺していた月江。母や父、そして親しんでいた兄は魔力素粒子を知覚できない、謂わば一般人だった。どうして自分にこのような、普通とは異なる力を備えているのかを月江が自覚した時、彼女は家族を守るために神様から授けられた力なのだと、本気でそう思っていた。

 そうして魔導に探求していた月江に待っていたのは、家族の死だ。ただいま、と幼い月江は云った。誰もおかえりとは言ってくれない。三人とも死体になって月江を迎えていた。──魔術師がそれぞれに秘匿している術式を蹂躙する世界。幼かった月江は、魔術師としてあまりに優秀すぎた。その突き出た能力を訝る魔術師が『夜野』に襲撃をかけた結果がこれだ。夜野の名を持つ中で月江だけが魔術師であることを周囲は知らなかった。魔術に抗する力を一切持っていなかった彼等は、例えそれが魔術として弱い部類に入ろうとも、対抗できなかったのだ。

 初めて人の死を目の当たりにした月江。血の匂いは、鉄の匂いだったことを、彼女はいまでもはっきりと覚えている。家族を守るために神様から授けられた力なのだと、彼女は信じて疑わなかった。だが、家族の死を前にしてその認識は変わる。神様は既に寿命で死んでることを、月江は悟った。

 そして、彼が目の前に現れた。

 不動 洋一という、魔術師が。

「お茶を持ってきました」

 気付けば薄暗い廊下に笹木 由衣が、丸いお盆に御茶が注がれたグラスを持って、其処に立っていた。前が見えているのかどうか分からない、ぎこちない動作で月江にお茶を手渡すと、そこからカウンターに戻るため、そそくさと階段を降りていった。

 自身の銃を整備している音が薄暗い廊下に、まるで雨音のように響いている中、月江は手渡されたお茶に口をつける。

「苦い」

 顔を顰めることなく、彼女はそんなことを呟いていた。


 三月八日 午後 十九時五十五分


 魔術師達が集う教会。

 朝日 陽菜の目に映るそれは昨日と同じ光景だった。

 魔術師が一人いない、その一点を除いて。

 薄暗い雰囲気は変わらず漂ったままだ。祭壇を背に立つシスター・リオの隣りに陽菜は立っていた。誰も彼もが小笠原が此処にいないことを気にしない。皆、朝日 陽菜の言葉をただ待っていた。少しばかりの緊迫感が漂う中、聴衆側に座する魔術師達が何故此処に集ったのか。その意味を明確にするために、静寂を打ち破る凛とした声を陽菜が発する。

「急な呼び出しに応じてくれてありがとうございます」

 慇懃な態度で陽菜はその場で一礼した。

「此処に皆さんを呼び出した理由は既にご存知かと。魔術師、刻野 秀一からの伝言を私が預かりました」

「わざわざ此処に呼び出す必要が何処にあった」

 氷堂 晃が声を荒げる。陽菜は物怖じすることなく、その疑問に答えた。

「それも刻野 秀一の意志です」

「なに?」

「平等に情報を共有させること。私が刻野 秀一の言伝を皆さんに伝える意味は、ただそれだけです」

「僕達のことを刻野 秀一には話したのかい」

 リックが横から口を挟む。

「はい」

 リックの問いに答える陽菜。陽菜の態度は変わらない。彼女は与えられた役を熟している演者のようだ。事実、周囲の反応を陽菜は気に掛けていない。

「おい、こっちの情報を敵に回したってことだろ、手前」

 殺意。

 まるで鋭利な刃が首筋に向けられているかのような感覚が陽菜に訪れた。氷堂 晃の殺意を嘲笑うかのように、陽菜は無反応を突き通す。その態度が氷堂 晃の怒りを増長させていることを陽菜は知らない。

「話を進めてくれ」

 洋一が陽菜にそう促す。

「こちら側の情報を提供することで刻野 秀一の言伝を得られるなら安いものだ。何せ俺達は刻野 秀一の手掛かりに触れることすら叶わなかった」

「確かにどんな情報であれ、陽菜ちゃんを介して刻野 秀一と接点が持てたのは大きい」

「馬鹿が。敵の警戒を買ったうえで接点も糞もあるか」

「ここで言い合っても仕方ないわ」

 西口 麗奈が区切りをつけるために言葉を発した。気のせいだろうか、と陽菜は思う。隣りにいる赤池 紗耶の顔色が少し悪いように見えるのは。

 麗奈の制止による沈黙。陽菜は一度、魔術師達の表情を見渡す。洋一の隣りに腰掛けていた月江と目が合う。感情が読めない瞳。陽菜は彼女から目を逸らし、本題に入ることにした。

「刻野 秀一から受け取ったメッセージをいまから伝えます」

 簡潔に、一言一句、誤ることなく、陽菜は刻野 秀一の言葉を思い出す。

「三月九日、この町のコンサートホールに、私は顔を出す」

 声に詰まったのは、陽菜以外の魔術師全員だ。

 唖然として言葉を失う彼等に目を向けることなく、陽菜は与えられた言葉を淡々と繋げる。

「私が魔導の命題に辿り着いたのは紛れもない事実だ。私は蘇生の術式をただ一人、完全に把握している」

 陽菜の言葉に口を挟む者は誰一人としていない。恰も、其処に刻野 秀一がいるかのような錯覚を彼等は懐いていた。その言葉には確かな威厳が満ちている。逆らう意志を剥奪する、異なる次元の意志。

。もし蘇生の術式を求めるのであれば、

 その言葉にはどうしようもない程の自信が汪溢していた。誰もが陽菜の言葉に耳を傾け、刻野 秀一の姿をその瞳に映す。しかし、その中で月江の目だけは朝日 陽菜という一人の魔術師を視界に収めていることを陽菜自身が自覚していた。

「尤も、お前たちは私に触れることすら叶わないが。話は以上だ。私を見付け出すことを祈っているよ、

 沈黙を尊ぶかのように、陽菜はそこから黙り込む。まるでそれに倣うかのように口を噤む魔術師達。

「以上が、刻野 秀一の言伝です。──私も、彼と同じ考えです」

 先に口を開いたのは陽菜だ。その言葉に対して「どういう意味?」と優しく尋ねたリック・ガーネスト。陽菜は彼に返事をするのではなく、此処にいる魔術師全員に向けて言い放つ。

「あなた達の力では刻野おじさんに触れることはおろか、見付けることすら叶わない。私はそう確信してる」

 挑発をするかのように陽菜はそう告げた。その言葉を聞いて逸早く反応したのは氷堂 晃だ。彼は心底愉快だとでも言いたげに笑い声をあげていた。獰猛な笑みを口元に湛えたまま氷堂は云う。

。この世の魔術師から命を狙われているような奴が、あろうことか挑発をかましてくるとは。

 狂ってる。そう氷堂は刻野 秀一のことを褒め称えた。

「それは確かに刻野 秀一の言葉なのか」

 洋一が陽菜に確認をする。

 その言葉に頷く陽菜。

「そうか」

 不動 洋一はそう口にしてから一度、俯いた。陽菜の場所からでは洋一の表情は窺えない。「陽菜ちゃん。場所を確認するけど、刻野 秀一が現れるのはこの町のコンサートホールで間違いない?」

「はい、その通りです」

「刻野 秀一の容貌を知りたいな。それと、コンサートホールにも一応連絡をした方がいいか。席を確保するのはもう難しいかもしれないが」

 思案するリック。ここで陽菜は気付いた。先刻から麗奈の視線が絡み付くようにじっと自分を見ていることに。

 目が合えば、彼女は微笑む。笑い返すことがいまの陽菜にはできなかった。

、ということは刻野 秀一の声を耳にしている筈だわ。陽菜ちゃん、彼の声の高さはどれくらいかしら」

「許可を貰ってないので、お教えすることはできません」

 麗奈は陽菜の返事に対し「成程、忠実ね」と言葉を洩らす。彼女の口元に浮かぶ微笑は余裕というものを陽菜に感じさせていた。圧倒的に刻野 秀一の情報が不足しているというのに西口 麗奈は焦る様子を見せない。その自信はきっと、隣りにいる赤池 紗耶の能力が関係していると陽菜は勘繰っていた。

 刻野 秀一の言伝を口にした陽菜。もう彼女が此処にいる意味はなかった。隣りにいたシスター・リオに別れの挨拶を告げた陽菜は教会を跡にする。刻野 秀一の伝言のことで魔術師達の話題が尽きない中、誰も陽菜を引き留める者はいない。陽菜が協力関係にないことは麗奈との遣り取りで皆、察している。魔術師達は皆、刻野 秀一に関する情報を陽菜から聞き出すことは無理だと判断していた。

 魔術師達に背を向けては悠然と歩き出す陽菜。



 その背中を、夜野 月江の瞳は捉えて離さない。



 三月八日 午後 二十一時五分


 ソファーに腰を掛けては、ただ何をするでもなく呆然としている陽菜。其処は昨日、小笠原 雅文が拠点にしてたであろう工場内だ。当然ながら彼等はいない。天井の照明が点けられている下、コンクリートの床には煙草の吸殻に紛れ、効力の失せたタリスマンが棄てられている。

 静寂が漂う薄暗い場所で陽菜の視線は虚空を捉え続けていた。やがてその目が、軋みをあげる扉に向けられる。

 夜野 月江が足音を立てて、陽菜の前に現れた。

「待たせたか」

 ゆっくりと歩を進める月江。ソファーから立ち上がった陽菜は、月江の言葉にかぶりをふる。「特に。で、何の用よ」

 月江、陽菜、洋一が居合わせていた昼間のときだ。

 居間を出る際に月江が陽菜の横を通り過ぎ、一枚の紙片を洋一に悟られないようこっそりと手渡していた。招集が終わった直後、この場所へ赴くようにとの旨が記述されていた小さな紙。その内容に従って陽菜は此処に訪れていた。

 寂れた場所の中心にて漸く立ち止まった月江。履き心地を確かめるように、彼女は靴の爪先で地面を二回叩いていた。淡い光が月江の口元を照らす。不敵な笑みが陽菜の視界に映し出された。

「手を出せ」

「は?」

 月江の脈絡もない言葉に訳が分からないといった様子の陽菜。懐から何かを取り出した月江は、それをそのまま陽菜に向かって放る。

「わっ」

 少しだけ驚きながらもちゃんと受け取った陽菜。彼女の手に収まったのは、足元に棄てられた物と同じタリスマンだった。それだけで陽菜は自分の想像していた事態が現実になることを知る。

「簡単なルールだ」

 月江の片手に収められたタリスマンの水晶が淡い光を宿す。彼女はそれを首に掛けた。

「タリスマンが割れた方の負け。力の関係を示すいい機会だろう、私にも、お前にも」

 返事を寄越さない陽菜。ただ黙って手元のタリスマンを見詰めているだけ。

、騒ぎが起こることもない。なあ、分かってるんだろう? これは挑発だ。乗るか、逸るか。そこに疑問は必要ない。『何故』『どうして』なんて言葉は要らない。答えはシンプルだ、

 イエス。

 ノー。

 月江が提示した二つの選択肢。それを前にして陽菜は、一つの決断を下す。

「成程。確かにシンプルね」

 気にいったわ、と口にした陽菜。陽菜の手元にあるタリスマン。自身の意志が反映するように、陽菜は水晶に魔力を宿し、昨日と同じようにして左手に巻き付けた。陽菜がそこから一歩、前に進む。

 ──この状況の中、朝日 陽菜は夜野 月江に感謝をしていた。

 小笠原 雅文との争いを不満に思っていた彼女。陽菜はもしかしたら、あの一枚の紙片を手渡された時点で期待していたのかもしれない。このような展開が訪れることを密かに。そうでなければ洋一に見えないよう紙片を隠していた理由が見当たらない。魔術師としての闘いを、陽菜は何処かで願っていた。

 天井の証明に照らされた二人の表情。もう二人に会話は必要ない。互いに不敵な笑みを口元に刻み、静寂に包まれた空間内にて歩を刻んでいた陽菜が、突如、月江との距離を一秒にも満たない時間で詰め終えていた。陽菜の踵が月江の頭部に目掛け襲い掛かる。

 それは陽菜の巧妙なフェイントだ。何でもないように歩む動作を見せてからの瞬間的な移動による不意討ち。しかし月江の笑みは崩れない。エンチャントを纏う陽菜の踵を月江はあしらうかのように掌で払った。先手必勝の一撃をいなしたという事実、その有り得ない反射神経に思わず戸惑う陽菜。体勢を崩された陽菜は月江の足元に着地しては、そこから追撃を加えようと躯を動かす。だが、陽菜は月江から距離をとった。その原因は月江が懐から取り出した黒い銃器。それを目の当たりにした陽菜は即座に月江から後退した。

「月江」

 驚きを見せた陽菜。タリスマンの守護がなければ恐怖で身動きがとれなかったかもしれない。銃口から覗く深淵。人の命を簡単に奪い去る銃器を前に、魔術師である陽菜は声色に赫怒の念を宿す。

「それを私に向けることがどういう意味なのか、分かってるの」

「そんなのどうでもいいよ」

 気怠げに声を出す月江。

「御託はいい、興が冷める。そういうのは全部終わってからにしろ」

 迷わず発砲。

 その音が響き渡るよりも先に陽菜は銃口から逃れるために、エンチャントを駆使して躯を動かしていた。見事、タリスマンのデッドラインに銃弾は触れていない。

「そう」

 陽菜の口から洩れた呟きに怒りはもう籠っていない。一時の感情が躯の動きを鈍らせることを陽菜は知っていた。

「なら、それを私に向けたこと、後悔させてやる」

 月江を中心点に、円を描くように高速で走り回る陽菜。月江は右足を軸に陽菜を銃口で捉えたままだ。

 瞬時、陽菜の右手が淡い水色の光に包まれた。自身の内に蟠る魔力を引き出す陽菜。

 急激に立ち止まった彼女は、発光現象を起こした掌を月江に向けて翳す。陽菜の掌を纏う淡い光が宛ら膨張し、そこから爆発したかのように一瞬の眩い光が月江の視界を封じていた。

 基礎的な魔術、閃光。

 月江に接近する陽菜。だが目が眩んでいる筈の月江の銃口はそれでも陽菜という対象から逸れない。銃声が二。二つの内、一つの弾丸が陽菜の脇腹に放たれていた。デッドラインに触れたタリスマンはしかし、それだけでは割れない。物理面に於いて強度な結界であることを知っていたからこそ、陽菜は攻撃を仕掛けたのだから。

 エンチャントを纏う陽菜の拳が月江の腹部に向かって放たれた。勝った、と陽菜は勝利を確信する。視界を封じた月江に、高速で移動する自身の位置を正確に把握できるのは不可能だと信じて疑わない陽菜。おそらく月江は目前に迫る自身の拳に気付いてすらいないと陽菜は考えていた。──陽菜のその考えは僅か数秒の間に、容易く打ち砕かれる。

 右足を軸に。月江は陽菜の拳を容易に躱した。目を閉じたまま、陽菜の動きをまるで見切っていたとでも云うように、月江は陽菜の攻撃を回避する。拳に衝突する対象が失ったいま、陽菜は勢いのまま体勢を崩す。

 そして発砲。

 陽菜のタリスマン、その耐久度がまた月江の銃弾によって下がった。

 有り得ない、と陽菜は小さな声を洩らす。

 だが、彼女の目の前で起きたことは紛れもない現実だった。驚愕を振り払い、先と同じようにして走り回る陽菜。走りながらも陽菜は思考する。月江は足音だけで自身の位置を完全に把握していた。異常な反応速度、それが夜野 月江の一つの武器だろう。

「良かったな」

 快活な声で、視界が回復した月江が陽菜に言葉を投げる。

「タリスマンがなかったら、二発とも致命傷だ」

 与えられた屈辱に舌打ちする陽菜。月江は無闇に撃つのではなく、照準を定めることに徹底としている。身を隠す物が置かれていないこの場では陽菜の位置は把握されたままだ。遠距離の攻撃を仕掛ける月江にとってこれ以上好都合なことはないと考えた陽菜。それでいて視界を封じたところで月江の聴覚を誤魔化すことはできない。

 自分の足音だけが寂れた場所に響いている中、考えろ、と自分自身に言い聞かせる陽菜。数秒を用いて浮かび上がった一つの単純な考え。──視界も聴覚も同時に無力化すればいい。導き出されたそれを実行するのに、彼女の中で躊躇いはなかった。

 陽菜は目の前の階段に向かって疾走する。

 それを追う銃口。

 陽菜が階段を駆け上がる。銃声が二回。だが、陽菜の階段を駆け上がる速度はそれまで月江が目にしてきたものよりも格段に速い。二発の銃弾が陽菜の横手にあった窓を貫き、硝子の割れる音が響き渡った。

 陽菜の両脚に纏う蒼の光。エンチャントが視覚で完全に捉えきれる程にその光は色濃い。陽菜が魔力を上乗せしたことにより起きた現象。それが意味するところは現在、発動しようとしている魔術を無駄に終わらせるつもりはないという意志表示に他ならなかった。陽菜が階段を昇った先に見えた二階の広場は吹き抜けで、けれども月江がいる位置からでは狙い撃つことは不可能だ。月江が此処に訪れる、若しくは魔術を使用するよりも先に陽菜にはどうしても成すべきことがあった。

 屈んでは掌を床につけた陽菜。掌を中心に、淀みない円が床に浮かぶ。徐々に、鮮明に浮かび上がる白い線から赤き光が発されていた。円の内に浮かぶ幾多の文字、線。それら全ての要因がこの場に喚ぶための通路を構成する必要不可欠なもの。

 召喚するは六つの眷属、その一角。

「来い」

 使い魔と術者の間に繋がれた通路が一際強い光を放つ。そうして、発光現象を終えた魔法陣から姿を現した朝日 陽菜の使い魔。

 銀の毛並みが照明の下で輝きを見せる。耳の先は尖っており、口から覗く牙の鋭さは刃を連想させ、躯の大きさはまるで馬のよう。陽菜の呼び掛けに対して応じたのは、一匹の狼。威容を誇る狼の足元に屈む陽菜を、その金色の瞳が聢と捉えた。

『久し振りだな、陽菜嬢。相変わらず良い女だ』

 陽菜の耳に男の声が届いた。この場に人間の男はいない。端から見れば混乱するその光景、声の正体は静かに口を開いたワーウルフのものだ。

 使い魔。

 言葉の通り、魔導に携わる者が使役する魔物のことを指す。魔力素粒子が干渉した生物を魔物と呼称する魔術師達は、魔物と契約を結ぶことで自身の力が及ばない障害を乗り越える。使い魔との契約を成立させるためには必ず、魔物との意志疎通ができなければ意味がない。故にワーウルフと会話できるのは、陽菜からしてみれば当然のことだった。それは昨日の小笠原 雅文も同じだ。

 魔力素粒子が生物、物質に及ぼす影響は絶大だ。人語の理解、力の増加、様々な要素がマナによって引き上げられる。魔力素粒子が濃い空間にて出現する魔物との契約方法は、魔物側が提示する条件を一つ、その場で魔術師側が呑まなければいけないということ。契約した後も召喚する場合は必ず条件を守らなければならない。

「お世辞はいいわ、ウルフ。私と共に戦って」

『構わないが、俺様の手を借りる程、下の階にいる奴は強いのか』

 二階にいるにも拘わらず、嗅覚でもう一人、此処に人間がいることを捉えていたワーウルフ。そんな自身の使い魔に向かって陽菜は断言をする。

「強い」

『最高だ』

 朝日 陽菜の使い魔、ワーウルフが提示した条件。それは『強い生物との闘い』だ。魔物との契約を結ぶ際にその場で条件を守らなければいけないという規則に陽菜は従い、過去、彼女はワーウルフと戦闘を行って勝利を収めていた。それ以来、陽菜は一度としてワーウルフと戦闘を行っていない。ワーウルフが戦闘を行うのはいつだって、陽菜が強いと判断した生物だ。

「ウルフ」

『何だ、陽菜嬢』

 ここで陽菜は現状を掻い摘まんで説明した。タリスマンという道具を用いて真剣勝負を行っていること。陽菜のエンチャントを纏う脚の速さに、視覚を魔術によって封じても月江の反射神経の前では無意味と為す、など。

 そして相手の手には、銃器。

『銃か。これはまた珍しい。魔術師との闘いでそんな物騒な道具を用いるとは、はっ、悪人の面しか想像できねえ』

「不愉快な話だけど、いまのところ月江は魔術を一切使用していない。反応と銃器。その二つで私を追い詰めてる」

『なら、どうするよ』

「まず、魔術でこの場に霧を齎す。互いの視界が潰れるけど、あんたはその自慢の鼻があるから問題なし。先に視界を封じてから、あとはウルフ、私を背中に乗せて走り回りながら指示に従って」

『無茶を云う。相手は銃を持っているというのに、このご主人様は俺様が死ぬかもしれないという心配が一切ないらしい』

「あんたなら大丈夫でしょ」

『間違いねえ』

 宛ら騎馬のように、ワーウルフの背中に乗り上がる陽菜。そこでワーウルフが一度、咆哮を発した。反響するその遠吠えは敵を威圧するのに充分なものだ。尤も、月江に通用するものではないことを陽菜は知っていたが。

 ワーウルフの背中に跨がった陽菜の姿勢はとても低い。艶やかな銀の毛並みに埋もれたその躯が振り落とされないようしがみついた彼女は平静にワーウルフに命令を下す。

「走って」

『おうよ』

 鋭い鉤爪を備えた手足が地を蹴っては、そのまま二階から飛び降りた。二階の広場と一階の床の距離は短いものだ。難なく着地したワーウルフに待ち受けていたものは、こちらに照準を定めた銃器と月江の殺意にも似た眼光だった。既に臨戦態勢に入っていた月江は即刻狙いを定めては、ワーウルフに目掛け、その引き金を引いていた。

 ワーウルフの俊敏な動きは先刻の陽菜の動きを凌駕する。その巨体には似つかわしくない迅速な動きで、月江が放った一発の銃弾を見事に躱したワーウルフ。このまま反撃に出るのが王道だが、ワーウルフはその鋭い爪を月江に向かって振り翳すことはなかった。ワーウルフの背中に跨がる陽菜の口から、旋回するように走れとの命令が下されていたから。

『悪人の面どころか、これはこれは。可愛い女の子じゃねえかよ』

 そんな呟きを銀狼は洩らす。

 ワーウルフは戦闘狂だ。その鋭き爪は容赦なく敵対するものを切り裂き、その牙は一度噛み付いたが最後、敵の肉片を抉るまで離さない。過去、ワーウルフを使い魔にしようと目論んでいた魔術師達は悉く致命傷を負い、二度も銀狼に挑戦する者はいなかった。だがワーウルフに敗北を齎した陽菜は一度の戦闘で圧倒的な実力差を見せつけたのだ。

 自身には見えないものが陽菜には見えていると、ワーウルフは契約を交わした時にそう口にしていた。だからだろう、戦闘の面に於いてワーウルフは陽菜の指示に一切の不満を言葉にしないのは。それは一つの信頼だ。朝日 陽菜という魔術師の実力をワーウルフは心の底から認めているという、一種の絆。

 いつの間にか目元を掌で覆っていた陽菜は魔術の解放を終える。そうして目元から手を離した陽菜。ゆっくりと開かれたその瞳には燃えるような深紅の色が宿っていた。──魔眼。一時的な視力の飛躍、及び、魔術による幻影、障壁を見抜くことをその深紅の瞳は可能にする。この魔眼は陽菜にとっての勝利の布石だ。月江を中心に高速で旋回するワーウルフに振り落とされないよう気を回しながら、陽菜は再び魔術を展開しようと右掌を真上に翳す。途端、真上に翳していた掌の寸分先に、手のサイズに見合った小さな魔法陣が紫の光を発しながら浮かんでいた。ワーウルフを召喚した魔法陣よりも、幾分か内に刻まれた線が少ないその円。独りでに円の内で線が走るその光景は、まるで稚児が上から筆を走らせているかのようだ。ワーウルフの疾走に干渉を受けることなく掌の真上にて浮かんでいる魔法陣。そこで何かを察したかのように月江が銃撃を行った。しかしワーウルフの俊足は容易に銃弾を躱す。

 紫色の魔法陣の内から、罅が生じ、そして何かが砕けるような音がこの場に反響を齎した。

 陽菜が発動した魔術によって、辺りを覆うかのように霧が漂い始める。月江が油断したとでもいうように「ちっ」と舌打ちをする。発生した霧の濃度は、互いが互いの姿を視界に収めることを不可能にした。だが魔術によって発生した霧は、陽菜の魔眼の前では無意味と為す。深紅の瞳には夜野 月江の姿がしっかりと見えていた。銀狼もその自慢の嗅覚で月江の位置を把握している。月江を中心点として走っているワーウルフに霧の影響はないに等しかった。

 確実に優位に立った陽菜。しかしここで突撃を仕掛けても閃光で視界を封じたのと同様に月江が異常な反応速度を用いて回避することを、陽菜は考慮に入れていた。跨がっていた陽菜が低い姿勢のまま、ワーウルフの背中に足を乗せる。両足に収束したエンチャントが吸引の役を示し、彼女を振り落とすことはなかった。

『何をやらかすつもりだ』

 陽菜の行動が読めないワーウルフ。その問いに対し、陽菜は不敵に答えた。

「ウルフ」

『何だ、陽菜嬢』

「私が跳んだあとも走り続けて」

 その遣り取りで陽菜が何をしようとしているか察したワーウルフは唸り声をあげた。

『期待してるぜ、陽菜嬢』

「ええ」

 機を窺う陽菜。魔術が起こした霧の中、先程から何週も月江を中心にワーウルフは旋回していた。陽菜の深紅の瞳は変わらず月江の機微な動作を捉え続けている。そこで月江が何か我慢を切らしたかのように連続として発砲を続けた。だがその銃弾全てが的外れ、月江はただ闇雲に撃っているだけだ。

 鳴り続けていた銃声が止む。陽菜の視界に映る月江は引き金を引いていたが、あの耳朶に劈くような音は鳴らない。──弾切れだ。そう判断した陽菜は僅かに腰をあげ、低い姿勢のまま月江に狙いを定めていた。神経を最大限に研ぎ澄ましては、彼女は魔力を自身の内から引き出す。エンチャントを纏う陽菜の四肢、その蒼き陽炎が淡い光を放ち始め、ワーウルフの疾走によって光が線となっては軌跡を描き出す。その軌跡が半周もする前に陽菜はワーウルフの背中を蹴りあげ、月江に向かって真っ直ぐに跳躍した。

 恰もその背中に両翼を拡げているかのような、空中を走っているかのような姿を観測できる者は誰一人としていない。霧を裂いては月江に接近する陽菜、彼女は拳を放つために既に腕を引いていた。

 月江の躯、その横合いに陽菜は直進している。月江はこちらに一瞥すら寄越さない。当然だ。足音もしなければ、視覚は封じられたも同然。無闇に発砲することしかできない月江に、もう抵抗の余地はない。

 陽菜の接近にすら気付かない月江の敗北は必定だ。やがて魔眼を使わずとも肉眼に収まる程の距離になって、陽菜は月江に目掛けその蒼き光を纏う拳を放つ。空中にいる陽菜は今度こそ捉えた、と。二度目になる勝利の確信を懐いた。

 拳が月江の側頭部に向かって当たる寸前、視界の端に映っていた月江の口元。──醜悪に歪んでいたその笑みに、陽菜はどうしようもない寒気を背筋に感じていた。

 そうして先と何ら変わりのない再現が陽菜の目の前で行われた。右足を軸に。それでいてこちらに一瞥も寄越さないまま、月江は陽菜の横手からきた拳を回避し、尚且つ手に収まっていた銃を鈍器のように揮った月江。反応するデッドライン、辛うじて割れない水晶。驚きで呼吸すら忘れてしまいそうだった陽菜は無様に着地しては、何とかして体勢を整えた。立ち上がった陽菜に降り注ぐは嘲笑。

「運がいいな」

 霧の向こうにいる月江と目が合う陽菜。何故、月江と目が合うのか陽菜には理解できなかった。

 銃口を陽菜に向ける月江。照準に、間違いはない。

「っ──ウルフ!」

 陽菜が駆ける。その先には陽菜の指示に従って疾走を続けていたワーウルフが彼女の横を通り過ぎる直前だった。疾走している銀狼の背中に跨がった陽菜は思惟に耽る。見たところ月江は魔眼を使用していない。なら、どうして自身の位置が捉えられているというのか。

『失敗か』

 ワーウルフが声を潜めて陽菜に声を掛けた。躯の体勢を低くしては、陽菜の視界は月江の姿を収めたまま。

「失敗した」

 表情を顰めていた陽菜がワーウルフに言葉を返す。

 苦苦しい、声。

「躱されたうえに反撃された。タリスマンが割れてないのはきっと情けに近い」

 この闘いが始まってからというもの、月江には常、余裕というものが備わっていた。それに比較して自分はどうだろうかと、陽菜は客観的に自分自身を見詰める。霧の魔術が発動した時に月江が舌打ちをしたこと、闇雲に撃っては弾切れを起こしたことも、冷静になったいまなら分かった。全ては敵を誘うための演技なのだと。銃器に弾を一発も残さなかったのは、陽菜がそれを見抜くと知っての行動であったのだと彼女は理解した。それを隙だと断定して突撃を仕掛けた自分はどこまで浅はかだったのかと陽菜は猛省する。

 対峙している敵を前にして陽菜が懐いた感情は、僅かな屈辱と純粋な敬意だった。月江の手に背徳の象徴がなければ、きっと陽菜は素直に尊敬できたのだろう。

『だがよ、陽菜嬢』

 ワーウルフが鼻を鳴らす。

『まだ敗けていない。

 ワーウルフの言葉に「そうね」と頷きを返す陽菜。顰め面はもうそこにはない。徐々に薄れていく霧の中、真剣な面持ちで彼女はワーウルフに新たな命令を下す。

「考える時間を頂戴。それまで耐えてほしい」

『御安い御用だ』

 霧の向こう側にいる月江が銃器に弾を詰めていて、尚且つ、空いたその左手に魔力が収束している。後少しもすれば霧は晴れるだろう。それまでの間に最善の選択を導き出したい陽菜ではあったが、そんなに都合よく事が運ぶわけもない。

 そうして霧は晴れ、月江の視界には陽菜の姿が収まっていた。未だ魔眼が持続している陽菜からすれば、今さら魔術の効果が終わったところで特に意味はない。右手の銃器を提げては、まるで電気を纏っているかのような左手を、月江は陽菜に向けて翳していた。

 途端に、雷鳴。

 月江の掌を纏う雷がまるで意志を伴ったかのように、不規則な動きでワーウルフに襲い掛かっていた。あの魔術は術者が掌を翳した先、その対象に向かい電撃が走る簡易なもの。その回数は、自身の魔力の量と比例し、一度解放すれば何度でも撃てる。

 電撃は枝分かれしてワーウルフに目掛け放たれていた。銃弾は定まった方向からくるのに対し、その電撃は不規則な動きでワーウルフを襲う。ワーウルフが全力で駆けては雷の槍を次々と回避する。先程から疾走を続けている銀狼の体力を削り取るかのように、月江は魔術を連発していた。

 銀狼が息を切らす。だが弱音は一切洩らさなかった。陽菜の思案を邪魔しないためにもワーウルフは電撃を回避し続け、走る速度を落とさない。目を閉じていた陽菜はそんなワーウルフの思いに応えたいが為に活路を探る。

 月江の反射神経は異常だ。常軌を逸した反応速度、果たしてそれは元から備わっているものだろうか。視覚が封じられた中、こちらに一瞥すら寄越さず攻撃を躱した月江の動きを陽菜は思い返す。まるで未来を予知していたとでもいうように彼女は陽菜の攻撃を容易に躱した。そこで陽菜は一つの疑問と向き合う。それだけの反応速度がありながら何故、事前に閃光と霧の発生を止めることはしなかったのか。

 まるで本を読み返すかのように、閃光を発動した場面を詳細に思い出す陽菜。あの時、月江はただ黙って眩い光を直視しては視界の機能を一時的に失っていた。問題はその後だ。陽菜が接近を仕掛けては銃弾を一発貰い、それでいて放った拳は見事に避けられてしまったあの場面。月江が陽菜の攻撃を払った回数は一回、躱した回数は凡そ二回だ。その計三つの攻撃は全て接近戦によるもの。──月江の有り得ない反応速度は、ある一定の距離でしか効力を発揮しない。その仮説の根拠は閃光だけではなく、霧の魔術を月江が防がなかったのも要因の一つ。そして何よりも近距離で的確に弾丸を自身に浴びせた月江が、先程から旋回するワーウルフに銃弾、及び、電撃を一撃も当てていないことが一番不可解だった。

 一定の距離、つまり、陽菜が接近戦を仕掛けない限り月江が攻撃を容易に回避することはない。何か見落としがあるかもしれないが、先ずはその推測が正しいものであるかどうかを確認するために、陽菜は遠距離から攻撃を仕掛けるという考えに至った。

 それは昨日に使用した魔術。

 雷鳴が鳴り止んだ直後に、陽菜は後ろに引いていた腕を屈んだ姿勢から揮う。

 視界に捉えることが難しい風の刃が一直線に月江に向かっていった。そのまま直撃するかと思われた風の刃は月江がその場で身を屈んだことで壁に衝突し、横一文字に大きな傷跡を壁に刻んだ。

「殴る蹴るだけが脳かと思ってたが、たまには魔術師らしい戦法もとるのか」

 月江の軽い挑発に陽菜は何の反応も示さない。どこまでも集中力を高めていた陽菜、未だに持続している魔眼の視力によって月江の動きが彼女には鮮明に見えていた。

 屈んで攻撃を回避した月江。その動きに陽菜は違和感を覚えていた。魔術を正確に視認していたことは最早、疑問でも何でもない。

 屈んで、攻撃を躱す。

 右足を軸に、攻撃を躱す。

 それら二つの要因が示す意味に陽菜は気付いた。闘いが始まってから、月江はあの場から一歩も動いていないという事実に。そう、ワーウルフの召喚のとき、月江が追撃しなかったことには意味があった。

 夜野 月江だけを視界に収めていた深紅の瞳、その狭まっていた視界が徐々に広まっていくのを陽菜は感じた。

 見えていなかったものが、彼女の瞳に映る。

「……そういうこと。見事にやられた」

『何か分かったのか』

 雷鳴が響き渡る中、陽菜の私語にも似た呟きを耳にしたワーウルフ。電撃を回避し続けるワーウルフに陽菜は頷きを返す。

「あの有り得ない反応速度は魔術が関与しているという証明よ。──冷静さを失ってた。この魔眼を用いたうえで目を凝らせば、はっきりと視える。月江を中心に描かれた魔法陣が」

 陽菜の瞳に映るその魔法陣は、おそらく自身が纏うエンチャントと同等の淡い光を、円周の部分のみ発し続けていた。それは目を凝らさければ捉えることは難しいものだ。淡い光を放つその魔法陣の外側を旋回するワーウルフ。月江を視界に捉え続けていた陽菜にそれを視認するのは不可能に近い。だが、そうはならなかった。下手をすれば決着がつくまでに気付かなかった可能性も充分にあっただろう。けれども、そうはならなかったのだ。

 気を引き締め直す陽菜。

 まだ、敗けてはいない。

「ありがとう、ウルフ」

 労るような声色で銀狼に感謝の言葉を告げた陽菜。自身の思案を邪魔しないために攻撃を避け続けていたワーウルフ。

 戦闘狂である筈の使い魔が召喚されてから一度もその牙を剥いていない。使い魔が提示する条件に背いたとも言える今回の呼び出しに、しかしワーウルフは不平不満を口にはしなかった。

『もういいのか』

「うん。私が最後に魔術を解放したら、いつ帰っても大丈夫だから。ごめん、ウルフ」

『謝るな。俺様は確かに、お前と共に闘っていた』

 銀狼は云う。

『俺様を折角この場に呼び出したんだ。勝てよ、陽菜嬢』

「もちろん」

 笑顔を見せる陽菜。そこで安心したようにワーウルフは一息吐いた。

 銀狼の背中に跨がる陽菜はじっと魔法陣の円周を見詰めている。魔法陣にも様々な種類があるが、月江が扱うそれ自体は簡易な魔法陣であり、その構成に陽菜は見覚えがあった。円の内側に踏み込んだ事象の動き、及び、位置を正確に術者に報せる魔法陣だ。月江は陽菜の動きを正確に把握していたからこそ、あのような回避を可能とした。円周の外で発動する陽菜の魔術を防げなかったのはそういった理由からきている。円の外で旋回するワーウルフを仕留めることができなかったのは、魔法陣の効果が及んでいない銀狼の疾走に月江の腕が追い付かなかっただけだ。

 だが、魔法陣の効果を持続できる条件はあまりに厳しい。それは魔法陣の中心点に必ず術者がいなければ、魔法陣の効果は発揮されないということだ。だが月江はあろうことか条件を満たしたうえに、陽菜に魔法陣の存在を悟らせなかった。もしかしたら月江の悪態や挑発も自身に視線を向けさせることで、魔法陣の存在を気付かせないための演技だったのかもしれない。尤もその言葉に籠った感情は本物に違いなかったが。

 陽菜がその気になればいつだって魔法陣は破壊できるだろう。月江の位置をずらして無力化することだってそう難しい話ではない。しかし陽菜にとって問題は別のところにあった。それはいつ魔法陣を月江が構成したのかということだ。闘っている最中、そのような挙動は一切見られなかった。唯一考えられたのは陽菜がワーウルフを召喚する際に二階の広場に向かった時、密かに魔法陣を構成したのではないだろうか。しかしそれでは最初の襲撃とエンチャントを纏う拳を回避した理由が当てはまらない。

 そもそもこのような思考自体が無意味だ。それでも考えを巡らせてしまうのは、魔術師の性だろうか。陽菜は何一つ納得していなかった。だからこそ彼女は思考をやめない。考えを放棄するつもりなど毛頭なかった。

 一体いつ如何なる時に魔法陣を組み立てたのか。最初から用意していた筈もない。此処に訪れた際に多少の警戒を張っていた陽菜に気付かれないのは無理な話だ。

 陽菜は一つ一つの場面を再び思い返す。陽菜の目を欺いて魔法陣を組み立てたのだろうが、それをいつ行ったのか。──最初の襲撃。月江との距離を一瞬にして詰め終えた陽菜が頭部に目掛けて踵を落とした場面を思い出す。常軌を逸した反応速度はその時点で月江は見せていた。月江が魔法陣を組み立てたのは、陽菜が不意討ちを仕掛けた以前ということになる。

 魔法陣の中心に立ち尽くす月江。魔法陣の中心点から動いてしまえば効力は発揮しない。陽菜の記憶は月江が此処に訪れた時にまで遡る。この寂れた場所に訪れた月江が魔法陣の中心点となる位置に立ち止まった時、彼女は履き心地を確かめるように、

 

「あ」

 一言で魔術を発動できるよう待機させた直後に、思わず驚きの声を洩らす陽菜。コンクリートの床を二回爪先で叩いたという、何でもないような動作を陽菜はすっかり見落としていた。おそらく爪先に僅かな魔力を収束させては、一度目の衝撃で魔法陣の中心点を定め、二度目の衝撃で魔法陣を構成する円周を描いたのだろう。

 その考えで漸く納得した陽菜の口元には笑みが刻まれていた。陽菜はもう一度だけ、夜野 月江に感謝をする。日本に帰国して早々このような闘いができたことに。ワーウルフの背中から飛び降りた陽菜は、床に両手をつけ、敬意の念を込めて、一つの魔術を、解放した。

 陽菜の眼前に、自身の身長を容易に上回る火柱が立つ。その火柱が陽菜の意志に基づき、月江が展開した魔法陣の円周をなぞるように旋回する。背後で銀狼がこの場から消失するのを感じながら、陽菜は魔術によって生じた炎の壁、その向こう側にいる月江の姿を聢と魔眼に収めていた。魔法陣を焼き尽くす炎の円が出来上がる直前に月江は脱け出すことに成功したが、陽菜の視線から逃れることは叶わない。月江のもとに疾走する陽菜。炎の円を沿うようにして走るその姿は、先と何ら変わりのない光景のように思えたが違う。陽菜の両脚を纏うエンチャントが煌煌としては揺らめき、それは燃え上がっているようにも見えた。蒼の軌跡を描くその疾走はワーウルフの走りよりも尚、上回る速度。月江に迫る陽菜は馬鹿の一つ覚えとでも云うように再び接近戦を仕掛けた。

 そして、共に闘った銀狼の消失を確認した陽菜。

 本来なら陽菜には遠距離で攻撃をする手段なんてものは幾らでもあったのだ。けれども敢えてその選択を避けたのは、月江に接近戦を仕掛けてからただの一度も攻撃を当てることができずに躱され続けてきた屈辱を解消するためだった。陽菜にとってそれは下らないプライドだ。勝負に誇りを持ち込めば孰れ痛い目を見るかもしれないということを陽菜は分かっているつもりだった。

 でも彼女はそれを否定するような真似はしない。分かっているつもりでも、理解をしようとしなかった。陽菜は自身の誇りに従って全力で駆ける。下らないプライドでも構わない。後悔するくらいなら、彼女は馬鹿のままで構わなかった。

 目前に迫っていた月江を見据える陽菜。陽菜に向かい連続として射撃を行う月江に先程の余裕はもう何処にもなかった。銃弾を躱し続けては月江に詰め寄る陽菜。魔眼による視力向上により、銃口の向きがこちらに向いた瞬間に走る位置を変え続ける陽菜の動きを捉えることは至難の業だろう。肉眼なら尚更だ。現に月江は一発たりとも陽菜に当てることができていない、タリスマンのデッドラインに触れていない。

 鳴り続けていた発砲音が遂に止む。銃声が止んでからも引き金を引いていた月江を、深紅の瞳に映していた陽菜。銃口から弾丸が放たれなかったことから陽菜は弾切れだと判断を下す。しかし油断はできない。神経を張り詰めたまま陽菜は距離を詰め終え、腕を後ろに引いては、月江の頭部に目掛け思い切り拳を放つ。

 陽菜の目に映る月江の口元に笑みはない。懐から何か煌めくものを取り出した月江は陽菜と同じようにして頭部に目掛けて、それを突き出す。

 寂れた場所に訪れた音は、震動をこの場に齎したのではないかと錯覚させる程のものだ。魔術師にしか視認できない結界の破片が照明の下、小さな輝きを見せては花弁のように舞い落ちる。そんな一種幻想的な光景の中、陽菜と月江は不動の姿勢でいた。

 陽菜の放った右拳は月江の頭部の横手に、月江が突き出したナイフは陽菜の頭部の横手に。互いが同じ姿勢のまま動きを止めていた。エンチャントを纏う陽菜の拳は一撃で月江のタリスマンを壊し、同時に、銃弾で結界の耐久力を減らしていた月江はナイフを用いた刺突で陽菜のタリスマンを破壊した。

 勝負の行方は引き分け。だが両者ともその結果に納得がいく筈もなかった。

「私の方が割るの早かったわね」

 拳を静かに引っ込めては腰に両手をあて、自信に満ちた表情でそう告げた陽菜。その瞳はもう深紅に染まっていない。

「ということで、はい、私の勝ち」

「馬鹿が」

 ナイフを引っ込めた月江が鼻で笑う。それは明らかな嘲笑だった。

「魔眼の効果が切れたから目が悪くなったのか? どう考えても私の方が早かった」

「あんたの目は節穴? 私の魔眼は殴った直後も僅かに効果を維持してたわ。完璧に私の方が早かった」

「往生際が悪いな。お前が何を云おうが事実は変わらない。素直に敗北を受け容れろ、言い訳は醜いだけだ」

「あー、本当に可哀想。自分の敗けを素直に認められないなんて。いい加減、諦めたら? 勝ちは勝ち。敗けは敗けよ」

「諦めるのはお前だ。その強情なところ、どうやら二年の間に学んだものは魔術だけらしい。少しは大人になったらどうだ」

「大人? ええ、身長も伸びたし胸も大きくなりましたけど? あれ、月江さんの胸のサイズはいくつかしら? 二年経った筈なのにな、あれ、どこか変わった?」

「──どうやらお前は本気で私を怒らせたらしい。そこまで勝ち敗けに拘るのなら、いいだろう。もう一度相手してやる」

「望むところよ」

 二人の口論が一段落ついた後に、大きな音が響き渡った。陽菜と月江、二人が同時に蹴破られた扉の方に視線を向ける。とてもにこやかな笑みを口元に刻んだ不動 洋一が、其処に立ち尽くしていた。

「ち、違うんだ、洋一。これは、その」

 まるで子供が悪いことをしてる場面を親に見付けられてしまったような、慌てた様子で必死に言い訳の言葉を口にする月江。そんな月江の様子を見遣った洋一が「月江」と優しい声で名前を呼んでから、優しい目付きのまま一言。

「黙れ」

「……………………はい」

 項垂れる月江。ここにきて異常な程の危機感を察した陽菜は、何とかしてこの場から脱出しようと考えるが、直ぐに絶望に陥る。

 出入口は、一つしかない。

「魔術の痕跡を消すために俺は忙しい中、わざわざ睡眠を削ってまで此処に訪れたんだが」

 洋一が辺りを見回す。無数の弾痕、薬莢、魔術の風によって壁に刻まれた横一文字の痕、魔術の炎によるサークルの焦げ痕。空気に散漫する魔力素粒子が乱れている原因、その二人を洋一はどこか虚ろな瞳で見据えていた。

「これは大変だ。どうやら俺に寝る時間はないらしい。ま、原因はお前ら二人にもあることだし、勿論、手伝ってくれるよな?」

「…………」

「…………」

「返事」

「「…………はい」」

 どこか息がぴったりな陽菜と月江。仮初の笑みを崩した洋一が呆れたように大きな溜息を吐いた。

 そこで陽菜が違和感に気付く。

 不動 洋一は魔術師だ。陽菜の理想、朝日 文隆が認める程の優秀な魔術師。そんな彼がどうして床に散らばる薬莢や、無数の弾痕を見て何の反応も示さないのだろうか。硝煙の匂いに気付いていながらどうして洋一が黙認しているのか陽菜には分からない。ただ一つ分かることは、洋一は月江が銃器を所持していることを知っていた。知った上で彼はそれを看過している。陽菜にとってそれは信じ難い話だった。月江はともかく、あの洋一が魔導の背徳を許容していることが陽菜には信じられない。

 洋一を見遣る陽菜。しかし、陽菜はそのことについて洋一に問い詰めることができない。きっと洋一は陽菜が自分の様子を窺っていることに気付いている。だというのに彼は何も言わないままだ。魔導の背徳に触れる話題を洋一が持ち出すことはない。

 それは陽菜にとって許されないことだ。九年もの間、魔導の道に一度として背いたことはなかった陽菜。目の前に散在する銃器の痕跡は見るだけでも汚らわしいものだ。

 なのに、陽菜は洋一を咎めない。

 小笠原 雅文を許さなかった彼女は、洋一を責めることができないでいた。

 なんて贔屓だろう、と陽菜は自分で自分が嫌になる。身内だからといって罪は罪だ。二年前の陽菜ならここで容赦なく洋一と月江を罵倒していた。二人に拘わることすら嫌気が差していたかもしれない。でもいまは違う。

 二年という時間があまりにも長いことを、陽菜は実感していた。

 洋一は何も言わない。

 陽菜も何も言えない。

 そのことが、何だか陽菜には悲しかった。


 三月九日 午前零時


 この町の中でも一際目立つ高層マンション、その一室。絢爛とした室内、豪奢なソファーに西口 麗奈は腰を掛けていた。隣りにはこぢんまりとした様子で紗耶が座っている。十九階に位置するこの部屋の窓から見える眺めを西口 麗奈は気に入っていた。だが、いまそんなことは彼女にとってどうでもいいことだ。

 口元に微笑を湛えた麗奈が横にいる紗耶を間近で見詰めていた。紗耶の頬にはほんのりと赤みが差している。昼時、捜索願いが出されていた犯罪者の未来を、紗耶が直視したことにより生じた後遺症だろう。警察と協力関係にある西口 麗奈の仕事は、紗耶の能力があって始めて成立するものだ。紗耶が未来視を使用した結果、一家殺害を行った犯罪者は警察の手によって呆気なく捕まった。犯罪者が今日という一日で出逢う人の数、他人も含められるその出逢いの光景を仔細に覚えている紗耶からしてみれば、犯人の居所など簡単に割れる。

 犯罪者に確実な裁きを与える紗耶の未来視。警察に協力した見返りとしてそれ相応の金額が麗奈の懐に入り込んでいた。部屋も服も食事も、いまとなっては大抵が紗耶の未来視によって得られた物。麗奈は赤池 紗耶に心の底から感謝をしていた。紗耶の未来視があってこそ、得られたお金なのだからその所有権は紗耶にあることを麗奈は紗耶に何度も説明した。だが、決まって彼女は欲しいものなんてないと口にし、麗奈に微笑む。

 西口 麗奈は赤池 紗耶のことが好きだ。未来視を使う度に紗耶は体調を崩し、吐き気を催すことを麗奈は知っていた。未来視を自身の都合で使用し、紗耶の体調に悪影響を齎す度に麗奈は確かな罪悪感を懐く。それでも紗耶は麗奈の命令に何一つ文句を口にしない。それどころか、未来視を使うことに紗耶が喜びを見出だしていることに麗奈は気付いていた。全ては西口 麗奈のために。紗耶は高熱に魘されても麗奈のためなら未来視を使うことを躊躇わない。そのことを麗奈は誰よりも理解していた。例え麗奈の恋慕のために未来視を使うのだとしても。

 紗耶は、厭わない。

「紗耶」

 麗奈が目の前にいる紗耶を呼ぶ。どこか胡乱げな視点は、けれども確かに麗奈を捉えていた。

「はい」

 相変わらず小さな声で返事をする紗耶を見てから、人差し指を立てた麗奈。ソファーの間に挟まれている長方形のガラステーブル、そこに並ぶ写真を麗奈は指し示す。紗耶の視線が写真に移ったことをその眼で確認してから、麗奈もまた写真に視線を移した。その写真に映る人物らは先程、教会に集まっていたメンバー全員だ。当然ながらこの場にいる二人とシスター・リオは除かれている。明らかに隠し撮りされたそれらの写真を見て、しかし紗耶が何も口にすることはない。

「紗耶、お願いがあるの」

 麗奈のその言葉に「はい」と答える紗耶。写真から視線を外した麗奈は再び紗耶に視線を移す。

「この写真に映っている人達全員の未来を視てほしい」

 麗奈の懇願に、紗耶は表情を変えた。自然と綻ぶ口元。麗奈の視界には、紗耶の笑みが映っていた。

「はい、分かりました」

 紗耶の返事を聞いてから「ありがとう」と口にした麗奈は、紗耶の小さな頭をその胸に抱き寄せた。赤池 紗耶の未来視は、魔術師達がどんな卑劣な手段を用いてもその手中に収めたい程、価値あるものだ。そんな魔術師達の手から紗耶を匿った麗奈。だからこそ紗耶は、その恩に報いるため多少の無理をしてでも麗奈の力になりたい。そのことを麗奈が一番に分かっていた。

 幸せそうに、麗奈の胸に顔を埋める紗耶。紗耶は気付かない。それも当然だ。それは麗奈自身も気付いていないこと。紗耶を抱き締める麗奈の口元は、歪んでいた。

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