一章 魔術師

 量より質

 烏合の衆ほど醜いものはなし



 三月七日 午後 十三時三十分


「迎えにきてくれてありがとう、洋一よういち

「背、伸びたな」

「まあね」

「胸も大きくなった」

「二年ぶりに会っていうことかしら、それ」

 黒のワゴン車、その助手席に腰を掛けた朝日 陽菜あさひ ひな。二年も顔を見ていなかった陽菜の容貌を不動 洋一ふどう よういちは眺める。赤のスカートにベージュのダッフルコートを綺麗に着こなしている彼女の背は洋一には届かないが、それでも充分に高い。艶やかな茶髪は首もとまで伸びている。洋一が陽菜を見ていたように、陽菜も自分を見ていることに気づいた洋一。

「変わってないね、洋一」

「そうか」

「うん、変わってない」何故か、嬉しそうに云う陽菜。

「あっちの生活はどうだったんだ」

「良い環境だったわ」

「そうか。それは良かった」

 陽菜は洋一と会話を交わしながら、助手席の窓を虚ろ気な目で見遣る。遠退いていく空港。日本に帰ってきたという実感が彼女の中では未だに湧かないのかもしれない。

 いまは三月。あと一ヶ月もすれば春は訪れるというのに外はまだ寒い。陽菜が二年もの間、住んでいた場所と日本を比較するとやはり気温に差があるのか、車内で身震いする程に彼女の躯は寒さを感じていた。そんな様子の陽菜を横目で見ていた洋一は、車内の温度調節を始める。

「陽菜も十八歳か」

「うん。早いね、時間が過ぎるのって。洋一はもう三十二だっけ?」

「俺は三十一だ」

「うん、知ってた」

 陽菜が暖房機の風に掌をあてながら悪戯げに笑う。

月江つきえは元気?」

 まさか陽菜から月江の話題をふってくるとは思わなかった。洋一の記憶では、陽菜と月江は二人してお互いのことを嫌っていた筈だったからだ。

「元気にやってるよ」

 洋一がそう返事をすると、

「そう」

 と、味気のない陽菜の返事。そして呟くように「くたばればいいのに」と彼女は言った。どうやら洋一の記憶は正しかったようだ、残念なことに。

 洋一は思い返す。陽菜を迎えに行く時に月江から「迎えに行かなくていい」と真顔で言われた時、彼は反応に困った。二年経ったいまでもお互いの認識が変わっていない陽菜と月江。頼むから喧嘩をする時は屋敷外にしてくれと洋一は願うばかりだ。

 陽菜と洋一が再会を果たすまで二年もの月日が流れていた。洋一の推薦で彼女が通うようになった王都。わざわざ進学校で有名な高等学校を、陽菜が中退してまで洋一の屋敷に駆け込んできた時は、何かの冗談だろうと彼は本気で思っていたが違った。陽菜の目は真剣そのもので、至って真面目に話を持ち込んできたのだ。

 あれから二年。陽菜の言う通り、確かに時間の流れは早いものだと洋一は物思いに耽る。

「ねえ、洋一」

 窓の向こう、流れ行く景色を見詰めながら陽菜は洋一の名前を呼ぶ。洋一が物思いに耽ている間、同じく陽菜も思案に没頭していたのだろうか。二年ぶりの再会、その挨拶を済ませたところで、あの話題をそろそろ切り出すだろうと洋一は考えていた。

刻野 秀一ときの しゅういちが蘇った、なんて話、聞いたことある?」

 そして彼の予想は見事、当たった。

「ああ、勿論。みんな、その話で持ち切りだ」

 ここでいうみんなとは当然ながら魔術師達のことだ。そして陽菜の隣りにいるこの男も魔導に関わりがある。そして先程、話題に出た陽菜と犬猿の仲である月江も例外ではない。

 黒のワゴン車に乗り越んでいる二人は人間でありながら、しかし、普通の人間とは確実に異なっていた。二人ともそれを自覚しては、しかしその力をひけらかすような真似はしない。 

 歯車を反対に回してはならない。

 己が力を公然で行使するのは愚かな行為。つまり人々に溶け込むことが魔導の第一前提だ。その戒律を遵守することで初めて、魔導の道に踏み込むことができる。

 陽菜は幼い頃からそれを律儀に守っていた。そのことを洋一は知っている。

「この前、お父さんにも確認をとったのよ。すごい喜んでた」

「だろうな」

「最初に聞いた時は現実味がなかったけど、いまはそうでもない。そっか。刻野おじさん、魔導の命題に辿り着いたんだ」

 刻野おじさん。親しげにそう呼ぶ陽菜の声色には感嘆の念が込められていた。

 歴代最強の魔術師、刻野 秀一が現世に蘇った──

 八年前に死んだ筈の刻野 秀一が蘇ったという情報は瞬く間に魔術師達の間で噂になった。それは直ぐ様、洋一の耳にも入った情報だ。確認をとろうと、生前の刻野 秀一の友人であった朝日 陽菜の父、朝日 文隆あさひ ふみたかに連絡をとった。朝日 文隆曰く『魔導の命題に辿り着いたことを私に自慢したいがために、彼は自分が蘇ったという情報を自ら流出した』と快活に話していたことを思い出す。真偽の程は定かではない。しかしもしそれが事実だとしたら、刻野 秀一は魔術師達の標的になることも厭わない大胆不敵な真似を仕出かしたことになる。

 彼が辿り着いたという魔導の命題の一つ、蘇生。いままで誰も辿り着くことのできなかった域に踏み込んだ刻野 秀一。歴代最強の魔術師である彼だからこそ成し得た所業だと魔術師達には言われているが、果たして死者であった彼にそれが可能だろうかと洋一は疑問に思う。術者が死んだあとに時間差で発動する魔法を使った、という推測が囁かれているが、八年もの月日が経った後に起動する魔術なんてものを洋一は聞いたことがない。

 そういった疑問を抱えているのは洋一だけではなかった。定期的に教会に集まる魔術師達もそれに関しては等しく疑念を懐いていたこと。そして魔術師達は魔導の命題を体現している刻野 秀一を只管ひたすらに求めていた。刻野 秀一に関する情報というのはそれだけで価値があるものだ。

 しかし、刻野 秀一の唯一の友人である朝日 文隆は魔術師達に好意的な態度を示さない。それもその筈、魔術師は皆、友人の命を狙っているようなもの。蘇生を体現している躯を解剖するという魔術師達の考えも、朝日 文隆は手にとるように分かっていた。そうして朝日 文隆から情報を手に入れようと諦めた彼等は、その娘を狙うことにした。

「集まり、今日よね」

「そうだな」

 黒のワゴン車は赤信号で停まっていた。

「どうしても奴等はお前と逢いたいらしい」

「刻野 秀一の友人である朝日 文隆の娘だから?」

「そういうことだ」

「私から刻野おじさんの情報なんて、何も出てこないのに」

「彼等の狙いは別のところにあるよ」

「どうせ、お父さんの部屋を調べろ、とか、そういうのでしょ。馬鹿みたい」

 信号が青に変わる。

 窓の向こうにある景色がゆっくりと流れ出す。森林を連想させるかのように、沢山の高い建物が一望できる。陽菜の様子を窺う洋一。変わらず道行く人々を陽菜は眺め見ていた。

「洋一はどうなの?」

「どう、っていうと?」

「刻野おじさんのこと。みんなと同じように、知りたい?」

 沈黙。陽菜が、聞かなければ良かった、と考えているのが洋一には分かった。

 八年前に死んだ刻野 秀一。

 八年前、不動 洋一には不幸があった。

「興味がない、といえば嘘になる」

 洋一は云う。

「魔術師である限り、魔導の命題には惹かれるものがあるからな。でも、言うなればそれだけだ」

 洋一の言葉を聞いた陽菜が、そう、と一言相槌を打つ。少しの間、二人の会話は途切れた。


 三月七日 午後 十五時一分


 外観が洋風である屋敷は蔓があらゆる箇所に見受けられ、荘厳さは何一つ醸し出していなかった。それは二年前と変わらない眺め。不動 洋一が所有する屋敷は不気味な様相を以てして朝日 陽菜を迎え容れる。

 一度、帰宅してから立ち寄ろうかと陽菜は考えていたが、どうせ当分は此処で寝泊まりをするのだから荷物を置いても構わないだろうと、そんな考えをもって屋敷に踏み込む。玄関に到るまでの細長い道はタイル張りで、その両脇には雑草が生い茂っている。庭の手入れも変わらず施されていないことに朝日 陽菜は呆れていた。

 そうして陽菜と洋一は玄関の前に立つ。洋一が銀色の取手を掴もうとしたその時、扉は開いた。勿論、これは自動的に扉が開いたわけではない。おそらく洋一の帰りを察して彼女は扉を開けたのだ。扉の隙間から見えた、切り揃えられた黒髪を目にした瞬間、陽菜の目付きが一瞬にして鋭いものになる。

「おかえり、洋一」

 この時点で朝日 陽菜は苛立ちを覚えていた。陽菜の胸の内で沸々とわき上がる感情は二年経ったいまでも変わらない。端正な顔立ち、青のジーンズに茶色のベルト、黒の長袖、体のラインがはっきりと出るボーイッシュな服装は目の前の女性にとても似合っていた。肩まである黒髪に綺麗な黒の瞳。その目はしっかりと陽菜を捉えた筈だというのに、洋一の名前しか呼んでいない。わざとらしさが鼻に付く。。

「ただいま、月江。久しぶりね、元気だった?」

 そう陽菜は月江に喋りかけた。できることなら喋りかけたくなかったというのが本音ではあったが、一応の礼節は通そうと考えた。しかし喋りかけた筈だというのに、月江は一向に視線すら向けない。言葉も返してはくれなかった。最初から其処に陽菜がいないかのような扱いだ。寛容さを示そうと考えていた陽菜は月江と出逢ってから僅か一分足らず、苛立ちを爆発させた。

「いい加減にしなさいよ。その態度、二年ぶりだっていうのに少しも変わらないわね。いい加減、大人になったらどう?」

 大声をあげる陽菜を横目で見る洋一の顔は、やれやれといった様子だ。まさか彼も出逢って一分足らずでこのような事態に陥るとは思わなかっただろう。そして月江はそこで初めて陽菜を視界に収めたとでもいうように、これまたわざとらしく声をあげる。

「ああ、驚いた。いたんだ」

「目、合ったでしょうが」

「おいおい、言い掛かりはよせ」

 男勝りな口調。けれども美人。しかも二年前よりもっと綺麗になっていることに陽菜は嫉妬を隠せなかった。これで性格が良ければ、陽菜は容姿端麗な月江に憧れを懐いたかもしれない。しかし陽菜の中で月江という人物は最悪そのものだった。

「それだと、まるで私がお前のことを無視してたみたいな言い方だ」

「実際そうでしょうが」

「何を根拠にそんなことを云う。そんな子供みたいな真似、私がするわけないだろう。自意識過剰が過ぎるな、お前は。もう少し大人になれ」

「洋一。いまからこの家、燃えるけど別に構わないよね。ね」

「お前は帰ってきて早々、何を仕出かすつもりだ」

 二人の遣り取りは二年前と何ら変わりない。洋一からしてみれば二人ともまだ子供に映っているに違いなかった。それを微笑ましいと眺めるつもりは、彼には毛頭ないだろう。陽菜と月江ならこの屋敷を本気で全壊しかねないからだ。

 玄関での一悶着を漸く終えた陽菜達。三人は居間に入っては、それぞれが所定の位置につく。陽菜はカーペットの上で足を崩して座り込み、月江はソファーに背中を委ね、洋一はパソコンが置かれた机を前にして椅子に腰を掛けていた。

「さて、本題に入ろうか」

 洋一が陽菜と月江の顔を窺いながら話を切り出す。

「まず今日の午後八時に教会で招集がある。もちろん陽菜、お前がメインだ」

「そうはいっても、私、何にも知らないわよ」

「質問に対し、適当に答えてくれればいい」

「行っても無駄だと思うけど」

 洋一の云う招集というのは、魔術師達の間で行われるその道の情報交換の場だ。己が利潤を求めて、互いに益のある情報を共有する。都合にそぐわない価値のある情報は直ぐ様、魔術師達に流せばいい。その分、自身に見合う利益が返ってくるのだから。不動 洋一は主にこの集まりによって魔導に拘わる情報を収集し、そこに充分な程の利益を見出だしていた。それはこの屋敷が彼の利潤を証明している。

 陽菜もそれを分かっているからこそ、教会の出席を無下に断るわけにはいかなかった。気が乗らない話ではあったが、彼女が参加しなければ洋一に期待を寄せていた魔術師達の反感を買う可能性もある。魔術師達との集まりはこれからも続いていくのだから、信頼を損なうのは洋一にとっても決して良い話ではないだろう。だからこそ彼女は参加することにした。

「勘違いしない方がいい」

 月江が陽菜に目を向けることなく、言葉を放つ。

「お前が魔術師としてあの場に立つことはない。朝日 文隆の娘だからという理由だけで、今回は参加が許されている。それをちゃんと理解した方がいい」

「癪に障る物言いが得意のようね、月江。貴女も洋一の付き添いというだけで、魔術師としての実力は伴っているのかしら」

「実際にその目で見てみるか」

「上等よ」

「はい、そこまで」

 洋一が呆れた声で彼女達の間に入る。しかし陽菜の苛立ちは先程から収まっていなかった。寧ろ月江に対する怒りは膨らむ一方だ。そこで陽菜は面白いことを思い付いたかのような、弛んだ口元で月江に喋りかける。

「そういえばさ月江、聞いてよ」

「急になんだ、気持ち悪い」

「二年ぶりの再会だっていうのに、洋一、私の胸が大きくなったって、ニヤニヤしながら平気でセクハラをかましてきたのよ。ほんと、信じられない」

 ニヤニヤというのは陽菜の誇張表現だ。それこそニヤニヤしながら洋一と月江の様子を交互に眺める陽菜。洋一はそれを撤回しようと口を挟もうとしたが、それよりも早く月江が洋一に訊く。

「洋一は、胸が大きい方が、好きなの?」

 不安を浮かべた瞳でそう訊く月江の口調は、陽菜に対するものと比較すれば天と地の差があった。どうしようもない理不尽に溜息を吐いた陽菜はしかし、この事態を一番に楽しんでいた。

「俺は、胸の大きさに拘りはない」

 洋一が面白みもないことを云う。

「でも、ニヤニヤしてた、って」

「いや、してない。あれは陽菜の真っ赤な嘘だ」

「ほんと?」

「ああ、本当だ」

 そこで月江が胸を撫で下ろす。どうしてその態度を洋一にしか向けないのだろう。陽菜には理解不能であった。

「話を戻すが、もう一つ、陽菜に話しておきたいことがある」

「何の話?」

「タリスマンのことについてだ」

 タリスマン。

 防護装身具であるタリスマンの用途は主に魔術詠唱の阻害を防ぐ結界だ。集中を要する呪文の詠唱は物音一つでも組成が乱れることがある。身に付けている者の危害と見做された対象がタリスマンのデッドラインに入り込んできた時、自動的に半透明半円の結界が展開される魔導の道具。

 しかし決して万全の道具ではない。結界持続の源である水晶、それに込められた魔力が尽きればタリスマンは効果を失す。水晶に込められる魔力には限りがあり、水晶自体の耐久性を考えずに魔力を込めすぎるとタリスマンは壊れてしまう。それでいてデッドラインを張り続けているタリスマンは魔力を徐々に消費する。

 そしてタリスマンの結界は魔術よりも物理面に於いて強度な防御力を誇る。

 タリスマンの形として一般的なのが首飾りだ。細い鎖のもとに備わっている菱形のそれは対角線で十字架を形作っており、その中心に水晶が込められている。

「俺がいまから話すことは非常に馬鹿げた話で、全くもって不愉快なものだ。この街で魔力持ちの餓鬼共がタリスマンを使用した賭け事を行っている」

「なにそれ」

 陽菜が驚きを示すと、月江が「言葉通りの意味だろ」と云う。

「一対一の勝負でどちらのタリスマンが先に壊れるか、賭けをやるんだよ」

 月江がそう陽菜に説明して、陽菜が月江に質問する。

「月江、実際に見たことは?」

 かぶりを振る月江。

「ない。私も洋一も話を聞いただけだ」

「洋一、どこでその情報を?」

「招集の時に耳にしてな。皆、刻野 秀一に夢中でこの話に関与する気はないらしい。気に食わない連中だ。このまま放置を決めていたら、厄介ごとになる可能性が大きい」

「魔力持ちの餓鬼共って言ってたわね」

「ああ。素人だ、何せ魔術の痕跡を残すくらいだからな」

「馬鹿ね」

「その通りだ。それを揉み消す身にもなってほしい」

 洋一が一息吐く。

「しかし大体の目星はついている。シスターに尋ねたが、そのタリスマンはシスターが発注しては取り寄せているものということだ。さすがにそれが誰かは答えてくれなかったが」

 陽菜はこの話題について少し怒りを覚えていた。それは月江に対するものとは異なる、魔術師としての憤り。幼少の頃から現在に到るまで魔導の戒律を遵守していた彼女にとって、これほど馬鹿げた話はなかった。

「話を纏めよう。つまり、教会が発注したタリスマンを魔力持ちの素人に高く売り付けて利益にしている者がいる」

「対処はどうするの? 売り付けてる人をとっちめるのか、タリスマンを買った素人達の方か」

「両方が好ましい。しかし本当に不愉快極まりない話だ。何故、俺がシスターの尻拭いをしているのかが分からない」

「リオは天然だからね」

 そこが陽菜にとって可愛いところでもあるのだが、どうやら今回は悪い方に働いたようだ。

「天然にも限度というものがあるものだが、今回は仕方ない。シスターに悪気がないことは俺にも分かってる」

 洋一の機嫌が悪いことを月江と陽菜の二人は既に察していた。常に冷静沈着のように見える洋一だが、この話に関しては少しばかり口が荒い。陽菜と月江は自然と、互いに啀み合うことをやめていた。

「タリスマンなんてのは一度、結界が壊れてしまったら二度と修復できない代物だ。利益を得るためにこのタリスマンを売り付けている奴は、賭け事の場にいる可能性が高いと思われる。もしかしたら主催者を気取っているのかもしれない。何せ壊れたらその場で買い取りができるからな」

「タリスマンを売り付けているその人物に心当たりは?」

 洋一に質問する陽菜。しかし、すぐには答えない洋一。

「それらしい人物はいる。でも、確たる証拠というものがない」

 洋一の代わりに月江が答える。

「魔導に拘わる道具を教会で発注できるなんてことを知っている人間は限られている。その人物は多少、教会に出入りしており、且つ、餓鬼共に顔が利く」

 月江の説明を聞いた陽菜が頷き、洋一に視線を移す。

「それで、どうすればいいの」

 洋一が頼む前に陽菜はこの話を買って出た。魔導の掟に背く不届き者。その者の話を聞いて黙っているほど陽菜は寛容ではない。

「事が大きくなる前にその場を押さえる」

 簡潔に、洋一は答えた。

「おそらく俺と月江は警戒されてる。だから陽菜、お前はいまから云う人物の跡を招集後に追ってほしい」

「名前は」

小笠原 雅文おがさわら まさふみ。陽菜は貌を知らないだろう。お前が日本を発って少ししてから、招集に顔を見せるようになった謂わば新米だ」

「その小笠原って人は二年前からこんなことをやってるわけ?」

「詳しくは分からないがこのような真似をするようになったのはつい最近だと予測してる。少なくとも一ヶ月前辺りか」

「調子に乗ってるんだよ、そいつは」

 月江が吐き捨てるように云う。

「驕っているからこそ、この事態を引き起こした。思い上がりも甚だしい雑魚だ」

「でもなんだってそんな人があの集まりに出てるわけ」

「あいつは学生の身分だ。若い間の連中に顔が利くんだよ。洋一やリックさんにはその層の情報は仕入れにくい」

「そういうこと」

「学生の間で囁かれる怪奇現象が魔術に繋がっている可能性も少なからずあるわけだ。事実、あいつの情報で利益を得たこともあった。だからこそ、誰も小笠原を追い出すようなことはしない」

 懇切丁寧に月江が説明してくれたことに一種の感動を覚える陽菜であったが、いままでの彼女の態度を思い返せば月江を良い人であると断ずることは陽菜にとって有り得ないことだった。

「ありがとう、月江。分かりやすかった」

 でも一応お礼を云うことにした。月江は陽菜のお礼を気にすることなく、無反応を通す。

「月江の言った通り、小笠原 雅文の仕入れた情報によって利益を得たこともあった」

 洋一が陽菜に向かって告げる。

「しかし、それとこれとは話が別だ。邪魔は

 話を理解した陽菜は立ち上がって、傍に置いてあった自身の荷物を手に取る。

「大体、話は分かった。でも、月江と洋一が警戒されてるなら私のことも気にかけてるんじゃない?」

「そのことなら心配いらない。小笠原が教会に顔を見せるようになったのはお前が王都に行ってからだ。俺達との繋がりは知る由もないし、他の連中にも事情を説明して事前に口止めをしてある。ちなみに小笠原の移動手段は徒歩だ。追跡もしやすい」

「とりあえず、私は洋一達とは別に教会に向かった方が良いっていうことよね」

「話が早くて助かる。俺達は教会で久方ぶりに顔を合わせた、少し馴染みのある人を演じればいい」

「分かった」

「へまするなよ」

 月江が陽菜に向けて言い、それに応じる形で陽菜は余裕の笑みを浮かべて月江に視線を向け、

「そっちこそ、私と仲がよくないこと、きちんと演じなさいよ」なんて、彼女は皮肉を残す。


 三月七日 午後 十九時五十分


 洋一と月江が館を出て一時間以上は経っていた。その間、掃除を行ったこの小さな室内は魔導を学ぶ際に陽菜が長年用いてきた部屋だ。洋一も月江も踏み込むことのない陽菜専用の部屋として二人には認知されている。

 横たわっていた寝台から立ち上がり、窓明かりに寄る陽菜。窓から射し込む月の光だけが唯一の部屋の光源となっていた。だがここからでは街の景色を眺めることはできない。よく見えるのは無駄に広い庭と、屋敷に続く大きな門扉だ。この洋館に訪れる前、都会とは言い難い町並みを洋一の運転する車から眺めていた陽菜。

 陽菜の生まれは此処で、そしてこの町で彼女は洋一や月江とも知り合った。洋一との出逢いは些細な切っ掛けによるもの。魔術師、朝日 文隆の知り合いとして不動 洋一と陽菜は会っていた。陽菜と洋一が初めて会った年は刻野 秀一が死んだ年でもあり、そして洋一の妻であった不動 凪ふどう なぎが意識不明に陥り、生後間もない洋一と凪の子供が攫われた年だ。幼い陽菜が八年前の洋一に会って懐いたイメージは死者であった。光を宿していない虚ろな瞳。反応も悪く、返事も遅い。だが魔術師として優秀だった不動 洋一の実力を朝日 文隆は買って一時期、彼を傍に控えさせていた。

 その師弟とも呼べる関係を羨ましいと感じていたことを陽菜は思い出す。父の魔術師としての在り方に確かな憧れを懐いていた陽菜は、その父に認められた洋一を心の底から尊敬していた。そして陽菜は忙しい父に代わって洋一から魔術の基礎を教わったのだ。やがて生気を取り戻した洋一を、見計らったかのように父が彼を解雇しても、陽菜はわざわざこの屋敷に訪ねてまで洋一に魔導の知識について教わっていた。

 そして、陽菜と洋一の謂わば師弟関係とも呼べる関係が二年経った頃。洋一が一週間近く、家を空けている時期があった。その頃から既に洋一の屋敷を自由に出入りしていた陽菜は、洋一がいるいないに拘わらず、自ら進んで魔導に関する書物を洋一の屋敷で読み漁っていた。彼女にとって洋一が所有する屋敷は魔導の図書館に等しい。学業は自宅、魔導はこの屋敷で学んでいた陽菜。その日もあらゆる魔導の書物に没頭していた陽菜は、洋一が漸く帰ってきたことを察しては部屋の窓からその様子を見ていた。そこからではこの町の景色を一望することはできない。けれども庭ならよく見えた。玄関まで続くタイル張りの道を歩く洋一は、一人ではなかった。洋一の隣りにいたのは陽菜と同い年くらいの小さな女の子。

 それが夜野 月江よるの つきえ。陽菜は何故、洋一がその子を引き取ることにしたかは訊いていない。ただ、訊いてはいけないものだと子供ながらに彼女は感じていた。その時の夜野 月江の瞳は、初めて会った時の洋一と同じであったから。

 陽菜はその茶髪をポニーテールにしては、コートを羽織り、自室と化しているこの部屋を跡にした。玄関に降りてから再び回想に浸る。洋一が生気というものを取り戻してから、彼は度々あの居間に客人を招き容れていた。だから陽菜は教会に赴く前に彼等魔術師とは一人一人、面識がある。それでいて教会のシスター・リオとは本を貸し借りする仲だ。陽菜は二年ぶりに彼女と会えることを密かに楽しみにしていた。

 そういった理由で陽菜は教会に立ち入ることが何度かあるわけだが、彼女が魔術師としてあの場に立つことはいままでにないことだ。魔術師として利益を求めることが当時の陽菜には分からなかった。ただ彼女は父の背中に憧れて上を目指していただけだ。その価値観はきっと、いまでも変わらない。けれども、今回の件に関しては自ら買って進んだ陽菜。魔導に関して一切の努力を怠らなかった彼女はこの九年間、魔導の道に背くことは一度としてなかった。だからこそ、タリスマンを高値で売り付けては賭け事なんてくだらないことを行っている人間が陽菜には許せない。

 玄関でブーツを履き終えた陽菜は教会に向かう。コートを風に靡かせながら、魔術師である彼女は魔術師の集まりに参加する。ふと、空を見上げた陽菜。今宵、月は三日月の形をしていた。


 三月七日 午後 十九時五十分


 病院の一室、ベッドの上で仰向けになっている不動 凪を洋一は見詰める。子供を攫われ、その精神的ショックで意識を失った可能性が高いと医師には云われていた。だが洋一は自身が魔術師と考えて、別の可能性を考えていた。凪が目覚めない原因、それは一つの魔術なのではないかと。そうした側面から見ても、しかし、八年経ったいまでは魔術の痕跡がもう見受けられない。八年前の洋一には、その考えに辿り着く余裕がなかった。

「洋一、時間」

 月江の言葉に遅れて「ああ」と洋一は応える。病院の廊下に立つ月江に目を向けては、再び凪の顔を見る。「行ってくるよ」

 そう言って、洋一は妻に背を向ける。魔術師が集う場所に、足を運ぶ。


 三月七日 午後 二十時十八分


 目的地に辿り着いた陽菜。外装は白を基調としていて、十字架が取り付けられた赤色の屋根の建物は、普遍の教会と何ら変わりない構造をしている。駐車場に見当たる車の中に洋一の車があることを目で確認してから、陽菜は自身の背を上回る大きな門扉の前に立ち、静かに扉を開けた。

 天井一面に天使が空で遊泳しているかのような絵が描かれている。祭壇を背にした大きなステンドグラスは虹色で、どこか幻想的な紋様をしている。その祭壇に連なる道、両脇には低く横長い腰掛けが等間隔に設置されていた。其処に居座るのは礼拝に訪れた者達ではない。

「久しぶりだね、陽菜ちゃん」

 左側の腰掛けに背中を委ねている者がゆっくりと立ち上がる。陽菜にとってそれは見知った顔だ。整えられた金髪に碧眼の彼はリック・ガーネスト。ここにいる月江と陽菜を除けば、洋一の家に訪ねることが一番に多いのが彼だ。黒のスーツを着込んだ彼は陽菜に和やかな笑顔を見せる。

「とても綺麗になった。今日、日本に帰ってきたのかい」

「ええ。相変わらずのお世辞ありがとう、リックさん。リックさんも変わらず、格好いいわ」

「こちらこそ。相変わらずのお世辞をありがとう、陽菜ちゃん」

「陽菜」

 そこでリックの近くに座っていた洋一が声をあげる。洋一の傍らには月江が控えていた。

「再会の挨拶は後に回そう。適当に掛けてくれ」

 洋一の言葉に従って、近くの椅子に腰をおろす陽菜。見れば彼女の横には二人連れの女性がいる。母娘に見えなくもない二人はしかし名字が違う。歳をとっても変わらず綺麗な西口 麗奈にしぐち れいなと、陽菜の歳より一つ下の赤池 紗耶あかいけ さやが右側の腰掛けに座っていた。

 目が合った西口 麗奈に頭をさげる陽菜。グレーのコート、チェック柄のレギンスに黒のロングブーツ。背中まである金の長髪に、切れ長の目。彼女は口元に微笑みを湛えて陽菜に向かって手をあげた。麗奈の隣りにいる紗耶も陽菜に頭をさげる。口元を隠すマフラー、紺色の上着に薄いベージュのロングスカート、赤みがかった茶髪は額を隠し、二年前と変わらず目は伏し目がちだ。

 洋一にも話していないことだが、陽菜は西口 麗奈に苦手意識を懐いている。麗奈が陽菜を見る時の視線がどこか怖かった。理由は分からない。それは傍目からしてみれば陽菜のように不快感を感じることはできないだろう。しかし当人である陽菜はそれを犇犇と感じていた。彼女も気のせいだとは思いたいが多分違う。

 おそらく西口 麗奈は陽菜のことが嫌いだ。何故かは、二年経ったいまでも分からない。

 そして陽菜は辺りを見回す。祭壇の近くに腰を掛けては足を組んで座っている、黒のレザージャケットを着た氷堂 晃ひょうどう あきらの姿が確認できた。短い黒髪が逆立っている彼は陽菜に背中を向けていて表情が窺えないが、二年前と変わらず強面だろう。性格も容貌に反映していることを陽菜は知っている。

 そして祭壇前にはシスター・リオがいた。陽菜よりも二つ歳上の彼女は今年で二十歳の筈だ。陽菜は彼女を抱き締めたい衝動に駆られていたが、この場でそれをやるのは流石に不味いだろうと思い直す。シスター・リオと目が合う陽菜。リックと同じく金髪で、しかし瞳は翠緑だ。相変わらず天使のように可愛い。二年経ったからその可愛さに磨きがかかってしまった、と陽菜は一人心中で悶えていた。リオは陽菜に微笑み小さく手を振る。それを見て自然と口元が弛む陽菜もリオに小さく手を振った。

 見知った魔術師はこれで全員だ。そして残る一人。氷堂 晃と同じようにして足を組んで座っている人物が、洋一の言っていた小笠原 雅文だろう。シャツの上にチャコールパーカーと、カーキのチノパンツ。その黒髪は目元まで届いていて。振り向いていた彼の表情は陽菜に狐を連想させた。あれが洋一の言っていた通りの人物であれば陽菜の選択は一つしかない。陽菜はこの集まり自体はどうでもいい。陽菜は洋一の肩を持っているというだけで、彼女にとって重要なのは小笠原 雅文が想像通りの人物であるかどうかだけ。

「単刀直入に話をしよう」

 リック・ガーネストが席を立ったまま、静かに声をあげる。

「陽菜ちゃん。君には、刻野 秀一の情報をお父さんから聞き出してもらいたい」

 陽菜の様子を窺うリック。そして魔術師達の視線は陽菜に注がれる。しかし陽菜は緊張することもなく、臆することもない。

「分かりました。父に一度、尋ねてみます」

 平然とリックに返事を寄越す陽菜。適当に答えていいということを洋一に言われていた陽菜だったが、当たり障りのない言葉を彼女は自然と選んでいた。

「陽菜ちゃんに質問していいかしら」

 西口 麗奈の声。見れば彼女は僅かに手を挙げていて、鋭い眼差しで陽菜を見詰める。

「何でしょう」

 平淡と答える陽菜。しかしその胸中は穏やかなものではなかった。逃れることも叶わない眼光が陽菜を貫く。

「陽菜ちゃんは刻野 秀一と面識があるのかしら」

「幼い頃に何度か」

「彼の顔を覚えてる?」

「小さい頃に会ったきりなので、曖昧です」

「曖昧、ね。ねえ、陽菜ちゃん。刻野 秀一と面識があるのはこの場で陽菜ちゃんだけなの。そもそも彼と会える確立なんて、私達からしてみれば宝くじで一等を当てることよりも難しいことじゃないかしら」

 だから、と西口 麗奈が付け加える。

「私達にとって陽菜ちゃんだけが頼りだわ。貴女のお父さん。魔術師である朝日 文隆さんから、些細な情報でもいいの、刻野 秀一に関することを聞き出してほしい。お父さんと一緒に映っている刻野 秀一の写真だげてもいいわ。勿論、情報によってはそれ相応の報酬を弾む」

 陽菜は西口 麗奈の視線を逸らしたい心境であった。その美貌、口元に湛えている笑み。しかし、目は一切笑っていなかった。そのことに気付いているのはきっと、この場には陽菜しかいないだろう。どう返事をすればいいかと少しばかり思案する陽菜。分かりました、と素直に答えればいいかと考えていたが、それでは駄目のように思えた。何が具体的に駄目であるのか。陽菜自身はそれを分かっていた。

「私から皆さんに質問していいですか」

 座ったまま全体を見渡して、そう声をあげた陽菜。洋一と月江が驚くことなく、陽菜の様子を見詰めていた。あの二人は陽菜がどのような反応をとるのか、予想していたように思える。

「朝日 文隆の娘、ただそれだけの理由で私を呼んだのは紛れもないあなた達です。どうして刻野 秀一の情報をそこまで欲しがるのか、」

「面倒な餓鬼だ」

 苛立ちを隠すこともなく口を挟んだのは氷堂 晃だ。陽菜の方に振り向いた彼は二年前と変わらず、鋭い目付きで陽菜を睨んでいた。

「そんなことを知って何の意味がある。時間の無駄だ。てめえは黙って父親から情報を盗めばいい」

「いや、待ってくれ氷堂」リックが氷堂 晃に視線を向ける。「彼女を招き寄せたのは確かに僕達だ。朝日 陽菜には何故、僕達が刻野 秀一の情報を欲しがっているのか知る権利がある」

「そうだな」

 洋一がリックの意見に同意する形で頷いた。明らかに不愉快な様子の氷堂はしかし、次第に口元が緩んでいく。

 歪な、笑み。

「はっ、知る権利ね。なら教えてやれよ、不動。お前が執拗に刻野 秀一の情報を集めているのは、手前の子供を捜すためだってな」

 沈黙が降りた。そして静かな殺意が氷堂 晃に向けられる。それは洋一から発せられているものではなく、傍で控えていた月江のものだ。だが氷堂はその殺意を嘲笑う。宛ら挑発するかのように、氷堂は月江の殺意に応じる気でいた。

「乗せられるな、月江」

 殺意を宿した瞳を氷堂に向け続ける月江に対して、洋一は注意をする。月江は洋一の表情を窺い、数秒後、氷堂から視線を外すことにした。結果が面白い方に転ばなかったことで氷堂は一人、舌打ちをする。

「先に俺が陽菜の問いに答えよう。俺は蘇ったとされる刻野 秀一が本物であるかどうかを知りたい。それを確かめない限りは魔導の命題に辿り着いたなんて話は全て嘘に変わる」

 洋一の話を聞いていたリックが周囲に視線を向け、一拍の間を置いて喋り出す。

「僕も洋一と似たような意見になってしまうが、事の真偽をまず確かめたい。僕の場合は、あらゆる目撃情報から刻野 秀一は生存していると思っている。僕が刻野 秀一に直接会って確かめたいことは、果たして刻野 秀一当人が蘇生に辿り着いたかどうかという話だ」

「第三者が彼を蘇らせた。そう考えてるのね、貴方は」

 西口 麗奈がリックの考えを読み取る。リックは彼女の言葉に頷く。

「ああ。幾ら彼が時間を司る魔術師だとは言っても、死者に可能なこととはとても思えない」

 時間を司る。

 その効果の範囲がどこまでは分からない。どのような影響を現在に齎すのかも不明瞭だ。しかし、刻野 秀一が魔術師の中で最強と呼ばれる所以はその時間を司る力であることはまず間違いなかった。だが、その力は魔導の命題に及ばない。そう定めたのは他でもない刻野 秀一自身。

 陽菜に伝えたいことを言い終えたリック・ガーネストは氷堂に目を向ける。その意図を汲み取った氷堂は大層不愉快そうな面持ちで陽菜に視線を向けた。

「俺は刻野の実力を確かめたい。それだけだ」

 単純な理由。その理由を月江が嘲笑する。

「確かめてどうする、最強相手に。死にたいのか、お前」

「黙れ餓鬼。実物を目にしてないのに最強も糞もあるか。此処にいる奴らは噂に踊らされてるだけにしか、俺には見えない」

「確かに氷堂の云うことにも一理あるわ」

 氷堂に続いて西口 麗奈が毅然とした態度で話を続ける。

「私はそもそも、八年前に刻野 秀一が死んだことさえ疑わしいと思ってる。死んだという事実は広まっていても、八年もの間、死因すらはっきりしていなかった。それもはっきりさせたいわね」

 西口 麗奈が喋り終えた。陽菜は自然と、まだ理由を喋っていない月江と赤池 紗耶に視線を移すのではなく、小笠原 雅文の姿を視界に入れる。陽菜は彼の意見を求めていた。

「皆が刻野 秀一の真偽を確かめることについて話しましたから、俺はその後について話しますね」

 陽菜の意志に応じるかたちで小笠原 雅文が言葉を繋げる。

「それとも皆が皆、口に出していないだけかもしれませんが。俺が刻野 秀一に求めているのは彼に纏わる情報、ただそれだけです。刻野 秀一の情報というだけで充分な利益が得られる。魔導の命題なんてどうでもいいんですよ、俺は」

 これで満足ですか、とても言いたげな小笠原 雅文の表情に陽菜は頷きを返す。陽菜はこの時点で小笠原 雅文が洋一の言っていた通りの人物であることに一種の確信を懐いていた。魔導の命題なんてどうでもいい、と吐き捨てた彼。とても魔術師が云うようなことではない。

 陽菜が全員の顔を眺めてから、一度、目を閉じる。この場にいる全員が全員、陽菜の言葉を待っていた。魔術師達の視線が彼女一人に注がれる。

「分かりました」

 陽菜が、ゆっくりと目を開ける。

「今日にでも父に尋ねてみます。その報告は、シスター・リオに」

 陽菜がリオに視線を向ける。修道女の格好をした彼女は笑顔で陽菜に言葉を返す。

「はい、承知いたしました。朝日 陽菜さんの言葉は直ぐ様、皆様にお伝えします」

 リオの言葉を聞いてから、魔術師達が僅かに言葉を交わし、そしてこの場を解散することにした。散り散りになっていく魔術師。だが陽菜にとってはここからが重要だ。小笠原 雅文の動向を横目で見る陽菜。

 彼は徒歩でここまで来ていることを陽菜は聞き及んでいた。一度警戒されてしまったらおそらく、彼の跡を追うのは難しい。洋一達がそれを照明している。

 彼は洋一と月江が出ていった後に、ここから出ていった。そして後に取り残されたのは陽菜とリック、そしてシスター・リオの三人だけだ。

「陽菜」

 そこでシスター・リオが二年ぶりに、彼女に言葉を掛けた。胸の前で祈るように手を重ねているリオ。

「私のせいで、陽菜が危険な目に遭うかもしれない。それはとても嫌なことです」

 洋一から既に事情を聞いていたリオ。彼女は俯いたまま心配そうな声で、陽菜にそう告げた。彼女に悪気があったわけではない、と陽菜と洋一は知っている。まさか自分が取り寄せた商品がそんな悪事に使われているなんてリオも想像していなかっただろう。だからこれは仕方のないこと。陽菜はリオに心配を掛けさせたくないと思い、満面の笑みで返事をする。

「大丈夫だよ、リオ」

「でも、」

「だいじょーぶ。商売なんだから仕方ない。ね? とにかく心配しないで。話したいこといっぱいいっぱいあるんだけど、また今度」

「陽菜ちゃん、あまり無理はするなよ」

 背中を向けて小笠原 雅文の跡を追う陽菜に向けてリックが言葉を掛ける。

「もし何かあったら僕か洋一に連絡してくれ。直ぐに駆け付ける」

「ありがとう」

 陽菜はお礼の言葉を残して、リックとリオに見送られながら教会を跡にする。そして直ぐに携帯電話の振動が陽菜のコートから伝わってきた。携帯電話をコートのポケットから取り出し、そのまま通話のボタンを押してから耳にあてる。着信の表示が誰かなんて見るまでもない。

『教会から出て右の道に小笠原は出ていった』

 しかし予想とは異なった。男の声ではなく、女性の声。洋一の声だと思っていたら、通話に出たのは月江だ。

「何であんたが」

『洋一は仕事で忙しい。だから私が洋一の代わりだ』

「洋一は何処に」

『小笠原 雅文が左右どちらの道に出るかを確認してから、車を発進させた』

「左の道に出ていったわけね」

『そういうことだ。そこで洋一は私を降ろした』

 怪しまれないために敢えて逆の道を選んだのだろう。もし小笠原 雅文がそれを見届けていたとしたら警戒心が多少和らいだかもしれない。

『私はお前から充分な距離をとって、跡をついている。いいか、決して奴を見失うな』

「途中で車に乗って移動するかもしれないでしょ。無茶言わないで」

 そう喋っている途中に通話が切れた。そのまま自分の携帯電話を地面に叩き付けたい衝動に駆られる陽菜。どうしてこの女は全面的に洋一の言葉に従っておきながら、私の言葉には一切耳を傾けないのだろうか。憤慨する彼女は苛立ちを収めようと深呼吸をし、そして掌に収まった携帯電話をコートのポケットに仕舞う。

 とにかくいまは小笠原 雅文の跡を追うことに専念しよう、と考えた陽菜。誰かを追跡するなんてこと、陽菜には一度もない経験だ。失敗する恐れがあることを踏まえておきながら、彼女は駆け足を始める。小笠原 雅文の背中が見え始めるまで、慎重に。

 どうして日本に帰ってきて早々このような真似をしているのか。王都で認められた功績で一年間もの滞在を許された陽菜。休暇ではない、その間にも当然、魔導の研究を王都に提出しなければならなかった。陽菜は同年代の中でも抜きん出て多忙な毎日を送っている。それだというのに、どうしてこのようなことをと彼女は顔を顰めるが、でも仕方のないことだと、結局は開き直る。見過ごすなんて考えを最初から彼女は持ち合わせていなかった。つまりはそういうことなのだろう。きっと陽菜が魔導の道に立っている限り仕方のないことなんだと、夜の街を駆けながら一人、魔術師は納得するのであった。


 三月七日 午後 二十時五十三分


 陽菜は驚くくらいに追跡が順調であることを自覚していた。時折、小笠原はその細い瞳で辺りを見回すが陽菜を視界に捉えることはない。また、彼が途中で車を拾うようなこともなかった。追跡があまりに上手くいきすぎて怖いくらいだ。電柱を陰にして歩くのを陽菜は基本としている。自身の行動が周囲に不審がられないか陽菜は心配していたが、小笠原 雅文が進む道はどうやら人混みからは離れた場所にあるらしい。陽菜の心配は杞憂に終わる。

 そこで、小笠原があまりにも意外な行動をとったので、陽菜は声を出しそうになる。

 が、小笠原の足元に、一瞬。

 魔術を行使したのだと、一目で分かった。

 即座に小笠原の頭上に羽ばたいたのは一匹の鳥類。よるに溶け込む漆黒の鳥は鴉にも似ていたが、その図体は二倍程違う。小笠原は懐から何かを取り出し、それを魔の鳥に見せる。主の命に従ったのか、陽菜の真上で魔物は旋回し続ける。

 冷や汗をかく陽菜。だが、見付からないだろうと予測はしていた。推測に過ぎないが、小笠原が懐から出したものは写真だ。月江と洋一が写っている、若しくは先程集まっていた陽菜を除く魔術師全員を写しているのかもしれない。あの魔物が旋回している範囲もそんなに広くはない、月江がこっちに近づいてこない限りは決して見付からないだろう。月江に連絡はまだしなくていいと判断した。

 携帯電話も追跡を始める前からマナーモードに設定していた陽菜。抜かりはないが、人を追跡するなんてことが初めての陽菜には一つだけ不安があった。それは足音だ。暗闇の中、人混みから避けて路地を歩み出す小笠原 雅文の足音はよく聞こえる。喧騒から遠ざかるのだから必然、陽菜の足音も彼に捉えられやすい。現時点で陽菜と小笠原 雅文の距離は徐々に離れていく。このままでは見失ってしまうかもしれないと危惧していた陽菜だったが、その不安を解消してくれたのは皮肉なことに小笠原 雅文であった。

 倉庫、若しくは工場のような古びた場所に彼は足を踏み入れる。陽菜も彼の跡を慎重に追う、のは、やめた。小笠原の気配が途絶えたと確信した瞬間に陽菜は急いでその敷地内に踏みこんでいた。出入口は一つしか見当たらず、駐車場には数台、車が停まっている。出入り口の辺りにはバイクも数台、停まっていた。その錆び付いた建物は等間隔に窓が設置されており、そこから光が洩れていて、窓の位置は陽菜の背では少し届かない場所にある。

 ポケットから携帯電話を取り出し、月江に連絡をしようと通話ボタンに手を掛ける。陽菜の片手は既に扉の把っ手に掛けられていた。

 直ぐに月江が電話に出たと同時に、陽菜は扉を開ける。それは当然、狙ってやったことだ。視界に飛び込んできた光景は陽菜の想像していた通りのものであった。

『お前いま何処にいる』

 開口一番、怒声を飛ばす月江。陽菜を見失ったのだろう、そう仕向けたのは陽菜自身だ。月江の実力は認めている陽菜。小笠原が召喚した魔物には気付いたことだろう。月江は警戒して、陽菜のあとを慎重に追っていたに違いなかった、だからこそ陽菜は急いで敷地内に踏み込んだ。

 陽菜は目の前に見える光景を悠然と眺めながら、緩んだ口元を見知らぬ連中に晒したまま受け答えをする。

「当たりよ、月江。小笠原 雅文は私達の予想通りの人物だった」

『そんなことは訊いていない。いまお前は何処に』

 上機嫌に笑いながら通話を切る陽菜。それはさっきのお返しだった。

 携帯電話を元の位置に収めた陽菜は現状を一度、確認する。とても寂れた場所の中心にて、二人の男が首飾りをして対峙している。タリスマンで間違いないだろう。

 その二人から少し距離をとっている人達。ソファーに腰を掛けては観客として眺めていたのだろう。円いテーブルの上には現金が置かれていた。それは二階も同様。小さな階段を昇った先には、ここからでも見える小さな広場がある。そこには一階と同じく、ソファーとテーブルが置かれていた。勿論、現金も。

 まるで賭場だ、此処は。人目から忍んでやっている、とてもとてもくだらないこと。目の前の光景が意味すること、それは彼等が魔導を冒涜したということ。それ以上も以下もない。陽菜を除いてこの場にいるのは十一人。だが、陽菜が見据えている人物は一人に限られていた。対峙している二人の間にいる小笠原 雅文の姿が目一杯、彼女の視界には収まっている。彼は驚いていて、何が何だか分からない様子だった。まさか自分が会って間もない人物に跡を尾けられているなんて思ってもいなかったのだろう。いや、自分の迂闊さに呆れ返っているのかもしれない。

 陽菜が此処に来てから誰一人、言葉を発していなかった。皆が皆、突然の来訪者に戸惑っている様子だ。それもそうだろう。一般人にこのようなところを見られたら、ややこしいことになること請け合いだ。だが生憎、陽菜は魔術師だった。一般人よりも魔術師にこのようなところを見られたことの方が問題であることを、一体、陽菜と小笠原 雅文を除いて何人の人間が気付けただろうか。

 自分の反応を窺っている十一人もの人間を前にして一切動じることなく、朝日 陽菜は一歩を踏み出す。爪先は、小笠原 雅文の方に向けられていた。

「突然の来訪、ごめんなさい」

 陽菜が恭しく一礼をする。わざとらしさが鼻につく、態度。

「事情を説明すると、あなた達のやっていることが魔導を本業としている人達の迷惑になってるの」

 顔をあげた陽菜はこの場にいる全員の表情を眺め回す。

「だから大人しくその原因を置いてほしい。それで魔術は人目に触れないよう、」

「何だ、お前」

 一階の広場にて対峙していた、体格のよい男一人が陽菜に向かってそう云った。そこから堰を切ったかのように、陽菜に向かって周りから罵詈雑言が浴びせられる。予想していた反応に思わず溜息を吐く陽菜。そんな彼女に近付いてくる者が一人いた。彼が動き出した瞬間に周りの者が陽菜に罵声を飛ばすことをやめる。生まれた静寂、さびれた場所に響く足音。その正体はこのような事態を招いた小笠原 雅文、当人であった。

「先程はどうも」

 彼は動揺を押し殺し、先の集まりと変わらない調子で、初めて陽菜に声を掛けた。

「どうしてこのようなところに君がいるのかな。不動の差し金かい」

 近くで見ても狐を連想させる目と口元だ、と陽菜は思う。陽菜は冷静さを装って、彼の対話に応じることにした。

「そんなことはどうでもいいでしょ」

 冷静を装っているだけで、明らかに苛立っていた陽菜。慇懃無礼な態度は飽きたのか、すぐさま本性を表す。陽菜は先程の罵詈雑言によって苛立ちを徐々に募らせていた。それがあからさまに態度になって表れていることを陽菜は自覚していない。

「此処以外でも、街の通りでこんな馬鹿な真似をやってるらしいわね。魔術の秘匿は魔導に於いての基本よ。小さな痕跡は魔術師達の存在を世間に仄めかす。このままでは他の魔術師達を敵に回して、貴方の身にも危険が降りかかるわ」

「歯車を反対に回してはならない」

 不意に、小笠原 雅文が魔導の戒律、その一文を口にする。彼の口角がつり上がる様を、陽菜は辛うじて見守っていた。

「危険なんて俺には降りかからない。俺が歯車を反対に回したら、勝手にそれを調整して元に戻す奴がいる。その作業もまた、魔術師達の仕事の内だ」

「それが魔術師達の迷惑になってる、って私は云ってるんだけど」

「そんなことは俺の知るところではないよ。商売とはそういうものだ。自身の利益のために他者を顧みない」

「貴方に対する信頼は地の底に落ちるわけだけど」

「別に構わない。奴等は俺という世代の情報源を重宝している。下手に手は出してこないさ」

 なにこのばか。陽菜は頭を抱えたい気持ちになったが我慢をする。

 小笠原 雅文はあの場にいる魔術師達を完全に見縊っていた。それがどれほど誤った認識であるか、陽菜は目の前にいる男を密かに憐れむ。

「朝日 陽菜」

 小笠原 雅文は彼女の名前を呼ぶ。不快な思いに駆られる陽菜を余所に彼は気軽に喋りかける。

「交渉をしよう」

「交渉って、なに」

「そのままの意味さ。君とて魔術師だ、この場を看過するなんて真似はできないだろう。だからこそ、

「は?」

「分からなかったかい。見過ごしてくれ、と俺は君に頼んでいるんだ。勿論、ただでとは言わない」小笠原の視線は陽菜から逸れ、近くにあったテーブルの上に移る。そこに置いてあった現金を彼は指しているのだろう。

「悪い話ではないだろう。ここまで嗅ぎ付けたその労りを込めて、報酬を与える。だからこの場は、」

「あー」

 小笠原 雅文が滔滔と饒舌に喋りかけている途中、陽菜が間の抜けた声をあげる。彼女は小笠原 雅文の話を聞いている最中、何時の間にか自分が俯いていたことに気付く。

「うん、交渉ね。成程、うん、うん」

 頻りに頷く陽菜。そして何かを考え込むかのように俯き続けていた彼女は漸く顔をあげた。その表情に苛立ちはない、口元には笑みを湛えている。

「分かった」

 そして、魔術師である朝日 陽菜は小笠原 雅文の交渉を承諾した。小笠原は彼女の返事に対して満足げに頷き、話を進めようと口を開こうとするが、その前に陽菜が彼に尋ねる。

「ねぇ、タリスマンはいまも持ってる?」

 普段と代わり映えのない口調で陽菜は小笠原に訊く。彼は何かを察したかのように「勿論」と笑顔で告げてから、懐から幾つものタリスマンを取り出し、その鎖を手で掴んでは陽菜に見せびらかすようにしてさげる。

「商売道具だからね。いつでも所持してるよ」

「そう」

「これがどうかしたかい」

「報酬のことなんだけど。お金の代わりにそのタリスマンを一つ、貰えないかしら」

 小笠原はその返事に困惑していたが、右腕にさげているタリスマンとは別のタリスマンをそのまま陽菜に手渡す。「こんなのでいいのかい」

 受け取った陽菜の口元は変わらず笑みを浮かべたままだ。

「ありがとう。これで私は今日、何も見ていないし何も聞いていない。それでいいかしら」

「話が早くて助かる。素晴らしいよ、朝日 陽菜。いまの魔術師はこうでなければならない」

 陽菜は小笠原から視線を逸らし、装身具の鎖を適当に左手に巻き付けていた。そうして手にさげられた菱形の飾り、その中央に埋められた透明色の水晶に鎖を伝って魔力を込める。すると一瞬にして水晶の色合いは透明から水色に変化していた。それを横目で見ていた小笠原は驚きを隠せずにいる。

 タリスマンの魔力補充は繊細だ。魔力を込め過ぎると水晶が耐えきれなくなり、破損する場合もある。だというのに、朝日 陽菜はまるで呼吸をするかのように数秒でその過程を終えていた。

 陽菜は一度、辺りを見回す。皆が黙って小笠原と陽菜の会話、その様子を見詰めていた。不気味なこの光景に慣れつつあった陽菜はその場から歩を進めて、小笠原の横を通り過ぎる。

「ねぇ、折角だから勝負しましょうよ」

 左手にタリスマンをぶら下げたまま、魔術師は其処に立ち尽くす二人の男に呼び掛ける。

「何を言って、」

 陽菜の突然の提案に男は戸惑う。だが陽菜は構わず話を続ける。

「タリスマンの結界が割れたら負け、ということで」

 文句なんてないでしょう、いつもやってることなんだから、と陽菜は毅然たる態度でコンクリートの床を歩む。

 身に付けている者の危害と見做された対象から守る防護装身具。その対象は小石や銃弾、或いは火や水。魔術だけでなく物理的な面にも効果を発揮するタリスマンは、勢いのある拳を揮えば当然、自動的に結界を展開する。陽菜は恐れを知らない無垢な子供のように、二人の男に近付いていく。不敵な笑みを浮かべながら、拳が届く距離にまで彼女は近付き、

 朝日 陽菜は、云う。

 その言葉の意味を陽菜の目の前にいる男が捉える前に、この寂れた場所に硝子の割れる音が響き渡る。

 陽菜が男に向かい、拳を思い切り突き出していた。それによって男の身を守っていた透明色の結界は罅割れを生じ、亀裂が走っては粉々に砕け散る。硝子の破片が舞っている様はしかし、細かな光の粒子となってこの世から消失した。地面に硝子の落ちる音は響かない。

「次」

 ただ、硝子が割れた音に紛れて聞こえた陽菜の声が、この場にいる人間の耳にしっかりと届いていた。──連続して同じ音が響き渡る。陽菜の敏捷な身のこなしは見惚れる程に鮮やかで、気付いた時には男の後ろにいたもう一人の男に向かって、宛ら手の甲でノックをするかのように結界を破壊していた。

 しかし、タリスマンを破壊されてしまった男達も黙って陽菜の行動を見過ごすつもりは毛頭ない。無言で陽菜に殴りかかってきたのは一番最初にタリスマンを破壊された体格の良い男であった。

 そして陽菜の身に付けているタリスマンが、迫りくる拳を危害と見做すよりも速く彼女は対応する。あろうことか彼女は拳を拳で弾いては、そのまま勢いに乗って振り上げた右足の爪先を男の腹に打ち込む。反撃を食らうことを予想していなかった男は、その場に屈んでは蹲り、腹を手でおさえていた。「もっと速く動かないと、これ、反応しないから」自身のタリスマンを、屈んだ男に向けて見せつける。

 そうして背中を向けている彼女に殴りかかろうとしていたもう一人の男の動きを察知していた陽菜は、振り向いたと同時に先と同じ要領で腹に素早い蹴りをお見舞いする。陽菜を挟んで跪く男達二人の様を眺める九人。誰もがこの事態についていけず、呆気にとられている中、小笠原 雅文が逸早く反応した。

「何を馬鹿な真似をしているんだ、君は」

 小笠原は取り乱すことはなくとも、その声にはどうしようもない赫怒の念が伴っていた。陽菜はそれを一笑に付する。「馬鹿な真似って、その馬鹿なことを考えたのは誰」

 嘲笑を浮かべる陽菜。先程からずっと口元に笑みを湛えている朝日 陽菜を、この場にいる誰もが異様な目で見続けていた。

「それよりも次、次。来ないようなら、こっちから行くけど」

 先程まで一階のソファーに腰を掛けていた三人の人物を陽菜は見据える。男性が二人と女性が一人。三人は反射的に立ち上がっては形だけの臨戦態勢をとっていた。陽菜は真っ直ぐに三人のもとへと歩き出す。そんな彼女を迎え撃つようにして掌を陽菜に向け、翳している者が二人いた。目の前にいる露出の高い衣服を着込んだ女性と、二階の広場にいる身長の高い男性。陽菜に向けた掌を翳し続けながら二人は静かに魔術の詠唱を始める。

 魔術を唱えている二人の身が自然と竦む。魔導に於いて素人の彼等から見る朝日 陽菜は常識から外れた存在に他ならなかった。それから、その認識が間違っていなかったことを彼等は改めて痛感する。

 陽菜が疾走を開始した。身を低くして走るその姿を正確に捉える者は誰一人としていない。恰も水面の上をすれすれに飛行する鳥類のよう。陽菜の走りはそのような光景を連想させ、直後、硝子の割れたような音が連続して三回響いた。魔術の詠唱は一人、そこで途切れる。見える者にしか捉えることのできない硝子の破片が舞う中心にいる陽菜が、未だに掌を翳し続けて呪文を必死に唱えている男を見上げた。男は気付いているだろうか。陽菜の右手に魔力が収束していることに。

 陽菜の右手を囲むその光は、魔術師でなければ認知できない、魔力を構成し空気に分散された元素の一つ、魔力素粒子。僅かに漂う空気中の魔力素粒子を引き付けていたそれを解放しようと、脚を広げては右腕を後ろに引く陽菜。魔術というものは計算に近い。頭の中で式を書き連ねては、その解を脳内で示す。詠唱など、魔術師は基本的にしない。詠唱で魔術の効果が割れてしまうのは痛手だ。素人と魔術師の違いはそこにある。暗算か、指で数字を数えるかの違い。

 そして、頭の中で解を示した陽菜の行動は、アンダースロー。野球のボールを放ったかのようにして陽菜は掌を振り上げる。そこにはもう先の淡い輝きは見当たらなかった。魔力を消費した分に相応する指定範囲内で、気流操作を行うことにより、魔力素粒子が干渉した烈風で対象に傷を負わせる刃と為すことを可能とした一種の魔術を、陽菜は解放した。最早、聞き慣れてしまった割れる音が再び響き渡る。陽菜の消費した魔力は少量だ。本来なら魔術の対象を二階の広場にいる五人全員に向けても良かったが、陽菜にはどうしても確かめたいことがあった。

 陽菜は一階にいる全員を置き去りにしては、階段を駆け上がる。魔術の詠唱が途切れ効果が失ったにも拘わらず、無闇に呪文を唱えている男が陽菜に向かって掌を翳し続けていた。陽菜は残りの四人を威嚇するために、意味もない詠唱をしている男の口元を掌で押さえて地面に叩き込む。

 その様子を見ていた四人の内、一人が何かを否定するように両手を横に何度も振る。

「違う、違うんだっ」

「違うって、何が」

「俺達四人はタリスマンを持ってない。ただ、お金を賭けていただけなんだ! だから、」

 押さつけることをやめていた陽菜はその男が喋り終える前に、凡そ脚の爪先が鼻と目につく距離、顔に触れる手前で右脚を停止していた。

 タリスマンの反応は、ない。

「本当ね」

 そう呟いてから同様に、残りの三人にも蹴りを手前で止める行いをした陽菜。この場にいる五人全員が陽菜を怯えた様子で見続けていた。

「これに懲りたらもう拘わらないことね、

 そんな言葉を残して、二階の広場を跡にする陽菜。階段を降りる度に軋みをあげる音が、小笠原 雅文の耳を捉えて離さない。だが、彼の狐を連想させる細い目に怯えの色は宿っていなかった。

「俺には分かってるよ、朝日 陽菜。君がどうしてそのような動きを可能にしているのか」

 どこか自信に満ちたその声。小笠原 雅文は魔術師だ。あの教会に参加する資格を彼が持ち合わせていることを陽菜は当然、忘れていなかった。それでも彼女はただ、緩慢に道を歩む。まるで小笠原の言葉に興味がないことを示すように。小笠原はそんな彼女の様子を観察しながら言葉を繋げる。

「エンチャント。君は四肢に魔力を纏うことによって、常人では不可能な速度、及び、力を身に付けた。──俺には視えるよ、朝日 陽菜。お前の躯に纏わりつく、青い光の揺らめきが」

 立ち止まった陽菜。彼女は小笠原の正面に堂々と立ち、ある程度の距離を保ってその場に立つ。動き続けていた彼女が立ち止まることによって、辛うじてその魔術は確認できる。魔術師であったとしても視認するのは難しい、青き光の揺らめきが陽炎のように、陽菜の四肢を不鮮明にしていた。それを見抜いたのは十一人の中でただ一人、小笠原だけだ。見抜かれることを予期していた彼女には別段、驚く様子もない。そこまで小笠原の力を陽菜は軽視していなかった。

 エンチャント。物質に干渉を起こし、その能力を一時的に飛躍させる、または、新たな効果を付け加えることを可能とした基礎的な魔術。主に武具に向けてエンチャントを発動し、効果を附与するのが魔導の中に於ける基本的な扱い方だ。だが陽菜はそれを自身の躯に用いる。人間の躯に過度な魔力を注ぎ込めば、耐えきれなくなった肉体が損壊する恐れがあることを、陽菜と小笠原の二人は知っていた。

 陽菜がその恐れを回避している要因は魔力の消費量にある。彼女は躯に負荷がかからないよう魔力の調整を事細かに行い、エンチャントを活用しては自身の膂力、脚力を数倍に引き上げていた。理不尽を覆す魔術だからこそ出来る芸当。

「でも、その速さなら目で追えるよ」

「ふーん」

 小笠原の挑発に対し、つまらなさそうに返事をする陽菜。──返事をした瞬間に、エンチャントを纏う彼女の脚の爪先が跳躍するようにして地面を蹴っていた。たった一歩。それだけで朝日 陽菜と小笠原 雅文の距離は縮まった。エンチャントの附与がかかった拳を突き出す陽菜。ここで小笠原が即座に魔術を解放する。

 陽菜の突き出した拳が捉えたのは、彼女と小笠原の間に阻む楕円形の楯。小笠原が翳した右掌の寸分先、術者の身長に見合う環状とした薄い紫色の膜が、陽菜の拳を防いでいた。掌を翳している先にしか対応できないその魔術は、四方から身を守るタリスマンよりも一点に集中している分、そう簡単に割れないことを陽菜は知っている。

 罅すら生じない、透明に近い紫色の膜はいつの間にか青色に変化していた。不規則に色合いが変化するわけではない。あれは楯の耐久度がどれだけのものか術者に報せるものだ。紫、青、水色、緑、黄色、橙、赤。上から順に辿っていけば、楯の耐久力が尽きることを示す。紫を破壊して次は青。もう一度、陽菜が同じようにして拳を叩き込めば次は水色に変化するだろう。

 しかし陽菜は連続で拳を叩き込むことはなく、小笠原と距離をとるために後退する。タリスマンによる結界の発動ではなく、わざわざ魔術を使用したということは、小笠原はタリスマンを使用していないということだ。

「タリスマン、使ったほうがいいよ」忠告する陽菜。「勝負が成立しないうえに、あんたが死なないよう、加減もしないといけないのは面倒だし」

 侮辱を受けた小笠原 雅文は魔術師だ。彼にも魔術師としての誇りというものがあれば、陽菜の言葉を黙って見過ごすほど、寛容ではない筈た。だから彼は怒声を飛ばすよりも先に、陽菜の嘗めた態度に報いるため行動を起こした。

 まず小笠原は先の魔術を解除していた。一度、発動した魔術は効果が持続している内は再利用できるもの。術者を危険から守る魔術は大抵、これに当てはまっていた。

 小笠原が左の掌を陽菜に向けて翳した。

 この場にいる鴨の、自身に対する信頼を地の底に落とした女に裁きを下すために。

 小笠原の翳した左掌、その寸分先に突如現れたのは、親指と人差し指で作った穴よりも小さな円だった。その赤い縁をした円が急速に回転を始め、徐々に拡大していく。やがて赤い円の内に奇怪な文字と線が独りでに幾多も刻まれる。

 小笠原はその魔法陣に向かって拳を叩き付けた。中心から外に向かって罅割れが生じる魔法陣。そうして赤き魔法陣が何かを抑え込むことが限界に達したかのように破砕した。そこから幾つもの球体を模した炎が陽菜に目掛けて襲いかかるように飛ぶ。

 そして陽菜は直ぐ様、小笠原と同じ魔術を解放する。

 タリスマンが火の球を危害と見做す前に彼女は対応を始めていた。右手を頭の位置で翳した寸分先、拡大するという過程を飛ばした巨大な魔法陣が陽菜の前に突如、現れた。それを見て驚きの声を洩らす小笠原。その反応は当然と言えた。何せ彼が発動していた魔法陣のサイズを何倍も上回っていたのだから。

 彼女が振り上げた右足の爪先が魔法陣の中心を見事に捉えた。歪な、幾重にも刻まれた線や奇怪な文字をなぞるようにして罅割れが起き、そして陽菜の目前で魔法陣が粉々に砕け散る。赤い破片が煌びやかに舞い散っては、そこから紅蓮の炎が薙刀のように小笠原に襲い掛かっていた。小笠原が発動した火の球を全て呑み込む炎の波。小笠原には驚嘆する暇すら与えられなかった。

 咄嗟に右掌を翳し、効果が持続している魔術を解放した小笠原。そのまま炎の波に呑まれた小笠原の躯は無事、魔術の楯によってしっかりと守られていた。これ以上ない程の熱気が漂う中、それでも小笠原が取り乱すことはない。自身に冷静さを求めているのだろうと陽菜は勝手に予測した。水分を欲する躯、自身を囲むように燃え盛る火、魔術の耐久力は辛うじて赤──このような状況で彼が冷静になれるわけもないのだが。息を切らしている彼は、ここにきて初めて朝日 陽菜を怯えた目で見た。そうして炎が燃え盛る中にて蒼き光を纏う陽菜の拳がいつの間にか小笠原の視界に迫っていた。

 尋常ではない速度の接近に、反射的に魔術の楯を翳した小笠原。そのまま陽菜の突き出した拳が壁を捉える。──そうして両者は今日という一日で何回聞いたかも覚えていない硝子の割れる音を耳にし、頬に減り込む衝撃を小笠原は受け容れていた。

 コンクリートの床に背中から倒れる小笠原。魔力で構成された燃え盛る炎の勢いが弱まっていく中、陽菜はその場に立ち尽くし、小笠原の様子を見遣る。彼が立ち上がる様子は見られなかった。それを確認した後、左手に巻き付いたままのタリスマンの鎖を解き、そのまま地面に落としては足の裏で小さな水晶を踏み砕く。先から怯えた目で自身を眺めている十人の視線を陽菜は見渡す。彼等は皆、二人の闘争に巻き込まれないよう距離をとっていた。嫣然と笑う彼女は周囲に云う。

「つぎは?」

 魔術師の言葉に、沈黙が返事となっていた。消え行く炎を背に、陽菜は何事もなかったかのようにその場を跡にする。寂れた場所に相応しい静謐さだけが、彼女が去ったあとに漂っていた。

 

 三月七日 午後 二十一時三十五分


 少しばかり独断行動が過ぎたことを朝日 陽菜は夜道を歩きながら反省していた。暗闇の中、街灯に照らされた道を歩む陽菜は月江に事態の報告を一方的に話し、通話を切っていた。つぎ月江と会ったとき、言い合いになることは目に見えている。

 いま現在。彼女が辿っている帰路は朝日の家だ。本来なら洋一の家に泊まることを考えでいた陽菜は、けれども月江と顔を合わせることを避けたいがために、自宅で睡眠をとることに決めた。

 日本に帰ってきて早々、魔術を使用することになるとは彼女自身、予想していなかったことだ。魔導専門の王都に二年間、滞在していた陽菜にとって腕を試すにはいい機会だったが如何せん、実力を発揮できないまま事を終えてしまった。朝日 陽菜と小笠原 雅文との間にある力の差が歴然としていることは、魔術師の視点からしてみれば一目で判断できるものだ。少しばかりの不満を感じていた陽菜だったが、歩いている内にその感情も消え失せていた。

 陽菜が目の前にしているのはこの二年間、一回も訪れていなかった朝日の家。家の外装は洋風、玄関前にある駐車場には車が二台ある。魔導に長けている父と、魔導とは無縁の母が愛用している車だ。彼女は玄関前に立ち、コートから家の鍵を取り出す。二年間必要とされていなかったそれを鍵穴に差し込み、回した。

「ただいま」

 久しく云っていなかった言葉を発して彼女は玄関に踏み込む。

「おかえりなさい、陽菜ちゃん」

 踏み込んだと同時に驚く陽菜。顔をあげれば、まるで彼女の帰りを待ち構えていたかのように陽菜の母、朝日 恵が目の前に立っていた。背中まで届いた、明るい色の茶髪。陽菜が何か言葉を発する前に、勢いよく自身の娘に向かって抱き付く恵。突然の母の抱擁を、受け容れる準備をしていなかった陽菜はその勢いに負けては背中から思い切り扉にぶつかった。

「おかあ、さん」

「寂しかった。陽菜ちゃん、今日帰ってくるっていうのにいつになっても帰ってこないんだもん。何回も何回も電話しようとしたんだけど、我慢したわ。だって電話越しの声よりも陽菜ちゃんの声がちゃんと聞きたかったから」

 娘に頬擦りをする母。それを苦笑いしながら受け止める陽菜はどこか恥ずかしがっている様子だ。朝日 恵あさひ めぐみの娘に対する溺愛っぷりは陽菜自身も異常だと思っている。幼い頃からその寵愛を受けていた陽菜は若干、うんざりしていたが、母のことを嫌いになるなんてことは有り得なかった。陽菜は両親のことを誰よりも尊敬している。

「ひゃっ! ちょ、ちょっとお母さん!」

「陽菜ちゃん、胸大きくなったねー」

「だからって揉まないでよっ」

 自身に伸びる魔の手を陽菜は振り払う。「陽菜ちゃん冷たい」と母が口を尖らせるが、いまのはどう考えても母が悪い。陽菜は恵の相変わらずな親馬鹿ぶりを目の当たりにして、でも、うんざりすることはなかった。寧ろ安心している。もし母の自分に接する態度が変わっていたなら落ち込むことは分かっていた。

「父さんは?」

「書斎よ」

「そう」

 父も相変わらずのようだ。それを聞いて陽菜は安堵の息を洩らす。そんな安心感に満ちた陽菜の表情を見守る恵はにこやかに笑む。朝日家は二年経ったいまでも、大して変わりはなかった。陽菜はそのことが、何だか嬉しい。

「それよりもお母さん」

「なーに?」

「いい加減、胸揉むのをやめて」あら、と云って胸から手を放す恵。本当に、相変わらずの母だった。


 三月七日 午後 二十一時三十六分


 目が醒めた時、小笠原 雅文は仰向けに倒れていた。躯を起こす。傷みはない、さいごに見た魔術の炎は知らぬ間に消えている。辺りを見回しても、誰も見当たらなかった。この寂れた場所にはもう、自分以外に人の気配はない。十人もの人間がいたというのに誰一人、気絶していた小笠原を助け起こそうとはしなかった。その事実にどうしようもない苛立ちを覚えるが、所詮は鴨だと彼は思い直す。助けなど求めるだけ無駄だ。そんな関係性を築くつもりは端からなかったのだから。

 それよりも小笠原 雅文はどうして自身がこのような目に遭っているのかが理解不能だった。突然の魔術師による襲撃。いつかは予想していたことだ。だが、抵抗すら踏み躙る力を前にして小笠原は、自身がどれだけ魔導を疎かにしていたのかを自覚した。

 魔術師、朝日 陽菜。

 どうやって彼女がこの場所を嗅ぎ付けたのか。様々な疑問が頭の中で巡るが、考えたところで結果に変化はない。自身は敗北した。魔術師、朝日 陽菜に。

 立ち上がった彼は、一つしかない出入口の扉に向かって、機械のようにゆっくりと歩き出す。大学生である彼は利潤だけを求めている。将来、どのような職に就くのかなんて考えが消え失せてしまう程に、祖父が遺した魔導書を読み耽る時期が彼にはあった。幼い頃から、自身は他者と何かが違うのだと小笠原 雅文は分かっていた。親にもそのことを訴えた。病院にも行った。でも、結局は何も分からなかった。時折、胸の内から沸き上がる何か。言葉にできないそれを、小笠原は常識の外にあることを推測した。そういった理由で彼は祖父の魔導書を読み始め、そして漸く理解したのだ。

 魔力。

 不条理を理にする、魔術の源。

 小笠原は自身の胸の内に蟠るそれを魔力と認識した時、飛び上がるくらいに喜びを感じていた。幼い頃から、自分は他の人と何かが違うことを理解していた小笠原。やがて彼はこの力を如何に活用できるかを考えた。

 そうして現在に至る。教会に参加するようになってから、二年もの歳月が過ぎていた。学生である彼は十代や二十代の間で噂される怪奇現象、その情報を魔術師に回していた。結果、学生ながらにして彼が稼いだお金は充分過ぎるものだ。魔術師は羽振りが良い。それでも小笠原は満足していなかった。だから、つい最近のことだ。彼が魔術師として、一人でお金を稼ごうと思い至ったのは。

 携帯電話の振動がズボンのポケットから伝わってきた。それを取り出した彼はディスプレイに表示された名前を確認する。見知った名前だ。他にも五件のメールを確認する。どれもこれもが彼を遊びに誘うための連絡だ。

 小笠原 雅文は人との繋がりを大切にしていた。そうすることで情報というのは自然と耳に入ってきたから。自身が魔術師という立場であることを受け容れたその日から、誰もが好まれるような性格を演じていた彼。いつもは律儀にメールを返信していた小笠原だが、いまはとてもそのような気にはなれなかった。

 小笠原は扉の把手に指をかける。過去に浸りながら彼は、どうして自分がこのような目に遭ったのか理解できないまま、扉を開けた。月の光が射し込む敷地内、彼の目に飛び込んだのは自身の使い魔、地面に横たわるその死骸。小笠原は扉を背に立ち尽くす。

「俺を、待っていたのか」

 いつから其処にいたのか。

 真夜中の駐車場。

 三日月を背後に、夜野 月江の姿が、小笠原 雅文の視界に収まっていた。

「そんなことはどうでもいい」

 小笠原の問いに対し、苛立たしげに答えた彼女。

「どうしてこの場所が分かった」

 小笠原の問いに月江は答えない。小笠原は不動 洋一と夜野 月江。この二人を特に警戒していた。少し前の話だ。偶然にも自分の跡を尾けている洋一の存在に気付いた小笠原は、それから用意周到に辺りを見回しながら行動をするようになっていた。今日の集まりでも、確かにこの二人は自身とは反対の道に車で出ていったことを小笠原は確認している、用心を兼ねて使い魔も遣った。だというのに夜野 月江は其処にいた。

「朝日 陽菜か」

 彼は月江が答える前に自ずと解答を導き出す。そう。思い返せばあの魔術師が此処に訪れた時、彼女は誰かと通話していたことを小笠原は思い出す。しかし、増援にしては遅い到着だ。浮かない顔をしている月江に気付いた小笠原は何故、彼女がそのような表情をしているのか察することはできない。

「どうしてこの場所が分かったのか、と訊いたな。お前の予想通りだよ。あの馬鹿が無断で暴れては、後始末を私に委せたわけだ。明日になったらあいつは殺す」

 冗談ともとれない言葉を口にしてから月江は一息吐いた。後始末。小笠原の頭の中に反芻するその一言は、漠然と不吉なものであることを自身に報せていた。月江の鋭い目付きが小笠原に向けられる。そして彼の不吉な予感は、月江が懐から取り出したものを目の当たりにしたことによって現実となった。

 テレビや映画で目にするような質感は、小笠原の躯を硬直させるには充分なものだ。小笠原に向けられたものは黒塗りの銃。いまの小笠原には脅威以外の何物でもない。何せ彼は商売道具用に携帯しているタリスマンに一切の魔力を込めていないのだから。

 驚きはそれだけではない。魔導に於いて銃は背徳を意味する。人の命を一瞬にして奪い取る道具を、夜野 月江は魔術師でありながらその手に収めていた。けれどもそのような疑問を挟む余地を許さない月江の冷たい眼差しが、小笠原を捉え続ける。彼は陽菜に懐いていた恐怖よりも尚、上回る怖れに身を苛まれていた。銃口から覗ける深淵の闇が、ゆっくりと近付いていることに彼は気付いているだろうか。月江がゆっくりと一歩を踏み出す。

「実を云うと、私は個人的にお前が気に入らなかったんだ」

 銃を向けながら、淡々と喋る月江。その歩みは止まらず、小笠原はただ脅威を前にして立ち尽くすだけ。

「実力が伴っていないにも拘わらず、あの場に参加しているお前の存在が気に食わなかった。お前が魔術師の迷惑を顧みない真似をしたのも驕った結果だ。弱者がしていいことではないんだよ」

 銃を構えたまま、月江は小笠原との距離を詰め終える。小笠原は自分でも信じ難いことに、銃口が近付いているというのに身動きがとれないままでいた。本物の銃を目の前にした彼はその場に立ち尽くすだけ。怖いという感情だけが、長い間、彼の躯を硬直させていた。──夜野 月江は銃を撃てる。確信にも似た直感が彼に危機を報せた。彼女は無慈悲に人を殺せるのだと。気に食わないという理由だけで、自分を、小笠原 雅文という人間を本当に撃ち殺す。その事実に躯が竦む、足が震える。だが気付いた時にはもう遅い。銃口は彼の目前にまで迫っていた。月江は彼の反応に意を介さず、銃口を小笠原の額に突き付ける。

「この距離でご自慢のタリスマンが発動するか、試してみるか」

 既に引き金に指をかけている月江。この距離では幾ら何でもタリスマンの発動が間に合わない。小笠原が怯えた目で彼女の表情を窺う。

 嗜虐の色に満ちた黒い瞳。

「や、やめてくれ」

 懇願する小笠原。

 それを無表情で眺める月江。

「撃たないでくれ、お願いだ」

「そのお願いとやらを受け容れるのは無理だ」

 額に突き付けられた銃の感触はあまりに冷たい。この女は勘違いしている。撃っても、タリスマンが発動するから問題ないと思っているに違いなかった。だからこそ小笠原は必死に懇願する。

 命を、乞う。

「もう俺はお前らに関わらない。約束する。だから撃たないでくれ。たの、」

 突如、引き金を引いた月江。情けない声を洩らし、背中から倒れる小笠原。しかし銃弾は小笠原の眉間を貫いていない。その銃には最初から弾が込められていなかった。

 小笠原が安心したのも束の間、月江の容赦ない蹴りが彼の顔を捉える。立ち上がりかけていた彼は再び背中から倒れ込み、その勢いで商売道具のタリスマンが懐から地面に飛び出していた。

「何だ、タリスマンに魔力を込めていなかったのか」

 もう一度、路傍の石を蹴り飛ばすかのように小笠原の顔を爪先で蹴る月江。呻き声を洩らす小笠原に構わず、続いて腹を蹴りあげた。無表情のまま彼女は魔術師を嬲る。ただ気に食わないという理由だけで、彼女は小笠原を蹴り続けた。ほどなくして、小笠原に抵抗の意志がないことに気付いた月江は蹴ることをやめて屈む。そのまま小笠原の髪を、自身の顔の位置まで引っ張りあげた。

 彼の瞳を覗き込むように見詰める彼女の瞳は、小笠原に銃口から窺える暗闇を彷彿とさせた。月江は返事を寄越さない小笠原の顔を地面に叩き付けては、そのまま言葉を繋げる。

「お前がまだこちら側にいる覚悟があるなら私はもう一度、お前に逢いに行こう。

 醜悪に歪む口元を小笠原は見ることも叶わない。彼が見詰めるのは、それこそ自身と同じように転がっている小石と、冷たい地面だけだ。小笠原の返事を耳にする前に彼の髪から手を離す月江。まるで玩具を弄ぶことに飽きたかのような面持ちで立ち上がった彼女は、再び屈んでは地面に転がっていたタリスマンを二つ手に取り、懐に収めた。

「お前にはもう必要ないだろう、この玩具は」

 そう言い残して彼女はこの場から夜風と共に去った。利潤だけを只管に求めてきた彼よりも遥かに横暴。小笠原にとって夜野 月江が揮う暴力は理不尽そのものだった。

 静まった敷地内にて、再び仰向けに倒れる小笠原。冷たい風が腫れた箇所に染みる。立ち上がる気力も彼にはない。今日は厄日だ、と彼は心底思った。どうしてこのような目に遭っているのか、小笠原 雅文は未だに理解できていない。

 不意にポケットから振動が伝わる。彼は携帯電話を取り出し、ディスプレイに表示された名前をその腫れた目で確認した。これまた見知った名前だ。彼は迷うことなく通話ボタンを押し、そのまま耳に充てる。その用件はまたもや遊びの誘い。どう考えてもそんな気分ではなかった。暫く考えたあとに彼は、しかし、遊びの誘いを了承する。

 ──小笠原 雅文は人との繋がりを大切にしていた。自身が魔術師という立場を受け容れたその日から。彼は、小笠原 雅文という誰からも好かれる人間を演じていた。情報収集のために。自身の魔術師という立場を築くためだけに彼は友好関係を大切にしていた。

「それよりも、聞いてくれよ」

 普段なら人が喋り終えるまで口を割らない彼が口を挟む。気力を振り絞って立ち上がった彼は静かに歩き出す。

「今日さ、酷い目に遭ったんだ俺。ほんと、女は怖い」

 歩いている最中、殴られた勢いで懐から出ていったタリスマンが落ちていることに気付いた。彼はそれらを全て踏み潰してから前に進む。他者と自分は何かが違うのだと分かっていた。そのことに優越感を覚えていた。けれども、それはきっと錯覚だったんだ。

 馬鹿馬鹿しいほどに、見知った人間からの連絡が鳴り止まない携帯電話。本当に馬鹿馬鹿しかった。今夜の出来事がまるで夢に思えてしまう程に。この時、小笠原は、朝日 陽菜に倒されてから助け起こしてくれなかった鴨達にどうして苛立ちを覚えたのかを聢と理解する。三日月を背景に、彼は自然と笑みを零す。

 小笠原 雅文は人との繋がりを大切にしていた。魔術師であることを受け容れた、その日から。

 そして小笠原 雅文は人との繋がりを大切にしていこうと思った。自分という人間を包み隠さないことを信条に。これからを生きていこうと思った。

 魔術師であることをやめた、その日から。

 今夜は、遊び果てようと思ったのだ。


 三月七日 午後 二十二時


 母との会話を居間で楽しんだ陽菜は、父の書斎に訪れることにした。陽菜が帰ってきたことに気付かなかったのか、一向に居間に降りてこなかった父。いや、彼はきっと陽菜が帰ってきたと知っていても、物事に没頭しているに違いなかった。朝日 文隆がそういう人間であることを、物心ついた時から彼女は知っている。けれども彼は、陽菜に向ける愛情を欠いたことは一度たりともなかった。そのことを陽菜は誰よりも分かっている。家族と仕事を両立し、それでいて魔導の道を悠然と歩むその背中に尊敬の念を懐いていた陽菜。朝日 文隆が父親であることは彼女の誇りだ。

 二年間、魔導に没頭していた陽菜が彼の背中に手を伸ばしたところで未だ掠りもしないことを彼女は自覚している。父の背中はいつまでも遠い。だからこそ彼女は父の横に並び、孰れは追い越すことを夢見ていた。父の在り方は陽菜にとっての理想だ。いつか陽菜も父のように万事、潤滑に事を運ぶように成長していきたいと、そう願っている。

 二階にある父の書斎にまで足を運んだ陽菜は、深呼吸をしてから目前の扉にノックをした。手の甲で、二回。暫くしてゆっくりと開かれる扉の隙間から父の顔が覗かれる。陽菜を見る優しい目付き、短い茶髪。二年経っても父の容貌にそう変わりはなかった。二年という歳月はどうやら、陽菜が思っていた以上に短いものらしい。グレーのカーディガンを着た父の口元は笑みを湛えていて、耳に携帯電話を充てていた。誰かと通話している様子だ。

「久し振りだね、陽菜」

 父が空いた手で、陽菜の頭を撫でる。この年になって頭を撫でられるのは少しばかり照れ臭いが、そのことに触れず黙って彼女は受け容れた。恥ずかしいという気持ちよりも、嬉しいという気持ちが彼女の中で勝っていたかもしれない。

「逢いたかった。無事で何よりだ」

「うん、ありがとう。私もお父さんに逢いたかった」

 陽菜の返事に微笑む文隆。彼は陽菜から視線を逸らすことなく、電話の相手と会話を続ける。

「待たせて悪かった。ああ、陽菜が帰ってきたんだ。二年振りにね。陽菜に代わるかい?」

 父は陽菜の様子を窺うことなく、携帯電話を陽菜に差し出す。当然ながら「誰?」と訊く陽菜。隆文は莞爾として笑い、親しみを込めた声で陽菜に云う。


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