第2話 Dance of Memory


Dance of Memory - 01


 それはのちに『復権革命』 と呼ばれた。

 16年近くにわたり国を支配していた成り上がりの王が殺され、本来の王家の生き残りである王子──ヴィクトールが、その王座に返り咲いたのだ。

 前王に不満を持っていた者は数え切れないほどだったから、この革命が起こったのは何もヴィクトールの執念だけが理由ではなかったのだろう。しかし、現実はヴィクトールの望みどおりになった。

「俺の前にひざまずくんだ、女」

 前王は死んだ。──今度は俺の番だ。

「奴はあまりに呆気なく死んでしまったからな……。俺の前で命乞いをする間もなく、歩兵の剣に倒れる始末だ。仕方ない、お前がその代わりというわけだ、ローディアナ」


 歴史は繰り返す。



Dance of Memory - 02


 使い古しの汚いドレスを着せられたローディアナは、急いで回廊を渡っていた。

「まあ、見て、あの汚い格好。あれが前王の婚約者だった女よ。金に釣られて親より年上の男に擦り寄っていたそうじゃないの」

 途中、これ見よがしに陰口を言われたり、意地悪などこぞの姫に足を掛けられて転ばされることも珍しくなかったが……今は、急がなければ。

 息を切らしながら、ローディアナはヴィクトールの待つ部屋へと急いでいた。


 ヴィクトールはローディアナが遅れるのを極端に嫌う。

 もっと正確に言えば、彼はローディアナのすること全てを極端に嫌っていた。


 それでもローディアナは回廊を走っていた。これが、ヴィクトールの前に出られる唯一の機会ならば、それを受け入れるつもりだったからだ。

 前王を倒し新たな王となったヴィクトールは、ローディアナを彼の奴隷とし、いくつもの屈辱的な仕打ちをするようになっている。

 大勢の着飾った来賓客の中で床を磨かされられたり、言葉で辱められたり、腐りかけた食事を出されたり……。そうすることで、彼は前王への復讐をしている。


 あの夜に家畜小屋で出会った青年は今、王となり、過去の亡霊にとりつかれたような虚ろな瞳でローディアナを見るようになった。


「遅かったな、ローディアナ」

 重厚な部屋の扉を開けると、ローディアナの目に飛び込んできたのは、上半身を裸にして立っているヴィクトールだった。

 突然のことにローディアナは短い悲鳴を上げて、急いで彼に背を向けた。

 しかし、

「こちらを向くんだ。お前のようにふしだらな女には、珍しいものではないだろう」

 背後からヴィクトールの冷たい声がした。

 それは違う……と、ローディアナは抗議したかった。しかし、ヴィクトールがそれを信じてくれないのは、とっくに分かっている。

 震えそうになる自分を叱咤しながら、ローディアナはゆっくりとヴィクトールの方へ向き直った。彼はいつもと同じ虚ろな目をしていて、じっとローディアナの一挙一動を見ている。

 ローディアナは息を呑んだ。

 彼の肉体は逞しく、魅惑的な小麦色に日に焼けていたが、まず目に入るのは肌に走る無数の傷のほうだった。刺し傷、切り傷、火傷、焼印を押されたような黒い跡……。すべて前王の奴隷だった頃に受けた傷だ。傷のない表面を探すのが難しいくらいで、普通の人間ならすぐさま目をそらしてしまうだろう。ローディアナも一瞬うつむこうとしたが、経験からくる警告を感じて彼から目を離さなかった。──目をそらすと彼はひどく怒る。

 ヴィクトールがローディアナを見つめるとき、そこには特別な何かがあって、彼はローディアナを他の全ての人間と区別しているようだった。

 『ローディアナ』と、『ローディアナ以外』。

 それが憎しみでも恨みでも、いつもは冷静で寡黙な王として知られている彼が感情をむき出しにして見つめる唯一の相手が、ローディアナなのだ。


「まあ、どうしてこんな小汚い女をお呼びになったんです?」

 急にヴィクトールの背後から女の声がして、ローディアナは驚いて背筋を伸ばした。

 部屋の端にある衝立の陰から、紅色の華麗なドレスを身にまとった女性が現れてヴィクトールのすぐ隣に立った。艶やかな黒髪が印象的な美女で、その手には白い布が握られていている。

「わたくし、陛下のお身体を清める光栄に与ったのですわ」

 疑問に思うより先に、女がローディアナの問いに答えた。「あなたの助けは必要なくてよ。そんな不潔な格好では、逆にこちらまで汚れてしまうもの」

 ローディアナは自分が何を着ているのかよく分かっていた。

 洗濯女が着古したドレス──彼女らでさえ、もう着れないと判断された、古い黄ばんだ麻袋のようなドレス。それも、幅も丈も大きすぎて、華奢なローディアナにはまったく合っていない。

「この女は窓を磨かせるために呼んだだけだ」

 と、ヴィクトールが女に答えた。

「貴女がかまう必要はない。そうだろう……さあ、お前は窓を磨いていろ」

「かしこまりました、陛下」

 頭を深く下げ、ローディアナは答えた。

 くすくすという女の嘲笑を背後に聞きながら、ローディアナは窓に向かう。しかし、腰に下げてあった雑巾を手にとって窓を拭こうとすると、いきなり背後から勢いよく水をかけられて、ローディアナは止まった。

 振り向くと、小さな水桶を持った女が、唇に残忍な笑みを浮かべて立っていた。「あらあら、ごめんなさいね。水を取り替えたかっただけなのに、手が滑ってしまったわ」

 ぽた、ぽた、ぽた。

 ローディアナの髪から、服から、水が落ちる。

「許してちょうだいな。許してくれるでしょう?」

 女は猫なで声で言った。しかし、その瞳には挑戦の色がある。ローディアナは悔しくて、すぐには答えられなかった。

「もちろんだ、俺が許そう」

 と、ヴィクトールが答えたので、女二人は彼の方を振り返った。

 三人は見つめ合った。ヴィクトールの視線は明らかに黒髪の女性よりもローディアナの方を向いていたが、それはローディアナが勝者であるという意味ではない。

「その女に敬意を払う必要はない。それは奴隷だ……俺がそうだったように」


 窓のガラス越しに夜景が見えた。

 王宮の庭は夜でもかがり火が焚かれていて、まるで動かない蛍のようにちらちらと輝いている。窓ガラスは冷えていて、すでにあかぎれのあるローディアナの指をさらに痛めつけたが、それも背後から聞こえる女の嬌声ほど痛くはなかった。

 ローディアナが冷たい窓を拭いている間中、ヴィクトールと女は楽しげな声を上げて絡み合っていた。

 ──ひどい傷ですわね、痛みますか?

 ──ああ、そこで窓を磨いている女と、その婚約者が笑いながら俺につけた傷さ。

 ──なんて恐ろしい女でしょう。窓磨きがお似合いだわ。いっそ殺してしまってもよかったのではありませんか?

 手を止めると泣いてしまうから、こんな会話が背後で繰り広げられていても、ローディアナは一心に窓を拭き続けていた。

 ──考えなかった訳ではない。

 ヴィクトールは答えた。

 それを聞きながら、ローディアナは目を閉じた。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう? ローディアナは地方の下級貴族の娘で、あまりにも可愛い顔をしていたせいで前王の目に留まり、自分の意思とは関係なく彼の婚約者にされてしまっただけだった。

 初めて王宮に連れてこられた夜。

 父親よりも年上の王と結婚することが怖くなって、警備の目をかいくぐって庭園をさまよっていた。そこで出会ったのがヴィクトールだった。

 『運が悪かったのね、兵隊さん』

 そうよ、私も運が悪かっただけ……。

 家族を人質に取られていたローディアナに逆らう術はなかったから、王と一緒にヴィクトールをあざ笑うふりをした。あの残忍で心のない寂しい王は、ヴィクトールの高貴さに嫉妬していたのだろう。若さにも。

 何度、ああ、何度。

 彼を助けてあげられたらと願っただろう。何度も何度も、王に懇願した。そんな酷いことをする必要はないではないですか。もっと楽しいことがあるわ。ヴィクトールは放っておきましょう。

 しかし、そう願うたび、王は余計にヴィクトールを恨ましく思うようだった。もしかしたら、ローディアナの淡い恋心に気付いていたのかもしれない。


 どれだけ酷い仕打ちを受けても、ヴィクトールは、涙はおろか弱音さえ一言も発さなかった。それなのにローディアナは泣いてばかりだ。

 今もヴィクトール達に気付かれないように、こっそりと目じりに溜まった涙を指で拭く。

 窓を拭く手が震えた。


 あなたはこれに耐えたのね、ヴィクトール。

 あなたが私を恨む理由は、よく分かるわ。よく分かるの……。心が裂けてしまいそうなほど痛いから。痛いから。痛いから。



Dance of Memory - 03


 時が経つにしたがって、ヴィクトールの執念は、納まるどころか膨れ上がっていくようだった。ローディアナに対して声を荒げることが増えた。

「お前はまともに酒を注ぐこともできないのか! それとも未だに俺がお前に仕えるとでも思っているのか、メス豚が!」

 ある小さな晩餐会の夜、ヴィクトールの杯にぶどう酒を注ごうとして、こぼしてしまったローディアナに彼の雷が落ちた。金の杯から滴り落ちた赤い液体は、ヴィクトールの白い衣装に染みを作っている。ローディアナは蒼白になった。

「申し訳ありません、陛下、今すぐ拭きます」

「そんなものはいい! 一体お前がどういうつもりでいるのか、言ってみろ!」

「それは……」

 疲れている。

 ローディアナは、疲れている。その一言に尽きた。

 最近のヴィクトールの暴言は度が過ぎていた。ローディアナが何をしても気に食わない。何もしなくても気に食わない。その度にこうして声を上げてローディアナを罵って、周囲の人々はそれを笑う。

 ヴィクトールは冷戦沈着な王として知られていた。

 滅多に声を荒げることはない。

 それが──この、汚い服を着せられて奴隷として働く小さな少女に対してのみ、激しい癇癪を見せるのだ。醜聞は王宮中、果ては国中にまで広がりはじめていた。『何かがおかしい』、と。彼らの間には何かがあるのではないかと。

 答えはローディアナ自身が知りたいくらいだった。

 それほど憎いなら、ヴィクトールにはローディアナの命を終わらせるだけの権力があるのに、彼はそれを行使しない。いつも彼女を側において、怒りを爆発させている。

 終わらない憤怒。終わらない悲しみ。

 それでも終わらない……想い。


 王に粗相をしたとして、ローディアナは晩餐会の広間を追い出された。

 寒い夜だった。

 風が吹いていて、空気が重く湿っている。しかし静かな夜。

 皮肉なことに、たとえ広間を追い出されても、ローディアナはあまり遠くにはいけなかった。どうせまた、しばらくすればヴィクトールは彼女を呼ぶのだ。そしてまた似たような場面が繰り返される。

 泣きたくても泣けない夜、ローディアナはいつも昔のヴィクトールを思い出すことにしていた。どんな屈辱にも眉一つ動かさずに耐えていた、傷だらけの、しかし誇り高い彼の姿を。そして願う──自分にも、あの頃の彼と同じだけの強さがあったらと。

 ローディアナは時々彼を理解できなかったが、許すことはできた。


 寒い夜だったから、ローディアナは身体を腕で抱きながら夜風に耐えていた。

 回廊は半分が野外に開いている形で、白い円柱がいくつも並んでいる。各々の円柱には槍を持った近衛兵が銅像のように立っていて、王が食事をする広間を護っていた。

 ヴィクトールは賢王として誉れ高い。前王が酷すぎたこともあるが、ヴィクトールは国民から愛される安定した王だった。

 彼の唯一の芳しくない噂の種は──まだ王妃がいないことと、ローディアナとの不可解な関係だけだ。


 大きな窓ガラスから漏れる豪華な光を浴びながら、ローディアナは待ち続けていた。

 逃亡を考えたこともあった。しかし、幾百もの兵に護られた王宮から女一人が逃げ出すのは容易なことではなく、たとえ成功したとしても、ローディアナには行く当てがない。田舎に帰れば家族がいるが、それではすぐに探し当てられてしまう。

 それに……ローディアナは、ヴィクトールのことが……。

「また陛下のお怒りを買ったのね、可哀想なお嬢さん」

 くすくす、という嘲笑と共に、そんな若い女性の声が後ろからして、ローディアナは振り返った。

 黒髪の美しい女性が、豪華なドレスに身をまとって立っていた。いつか窓拭きをさせられた時に水をかけてきたのと同じ女だ。反射的にローディアナは警戒心を強くして、口をきゅっと閉じた。

 しかし女はするするとローディアナに近付き、続ける。

「ああ、可哀想な、可哀想な、とても可哀想なお嬢さん。あの醜い前王に見初められたばっかりに、こんな酷い目にあって。ねえ、私も女よ、あなたの気持ちはよく分かるわ」

 ねっとりとした嫌な声だと、ローディアナは思った。どこか信用のならない媚びるような声。ローディアナは答えなかった。

「そんなに警戒しないでちょうだい。私はね、少しあなたに救いの手を差し伸べてあげようと思っているのよ。だって同じ女同士でしょう、協力しなくちゃ……」

 白い象牙のような手を、女はローディアナに差し出してきた。

 ローディアナが動かないでいると、女は聞こえないくらい小さな舌打ちをして、強引にローディアナの腕を掴んで引っ張った。

「来なさい」

「嫌です。私は陛下を……」

「陛下はあなたを呼んだりしないわ! 来るのよ、小娘!」

 女は、閉じた歯の間からうなる野犬のような恐ろしい顔を、ローディアナの目の前に突きつけてきた。当然、ローディアナは抵抗しようとした。掴まれた腕を振り解こうとしたが、疲れが邪魔をして思うように力が出ない。ローディアナの身体は無理やり野外の方へ引きずられていった。

「いや、離して!」

 ローディアナは声を上げたが、それに答える声は一つもなかった。

 彼女は奴隷なのだ。誰が彼女を助ける必要がある? 誰も。誰も、汚い洗濯女の古着を着た前王の婚約者を助けたりはしない。

 誰も。

 誰も、ローディアナの叫びには答えなかったが、黒髪の美女の命令には四人の兵士が嬉々として従った。


 ──この小娘を痛めつけてやりなさい。その後はあなた達の好きにするといいわ。顔だけはお綺麗だもの、可愛いがり甲斐があるでしょう。


 女の命令は確実に実行に移されつつあった。

 庭園のどこか暗いところへ連れてこられたローディアナは、大柄な四人の兵士に殴られ、蹴られ、鞭むちを受け、棍棒を受け、剣で脅され……ついに傷だらけになって意識が遠のいてくると、兵士達はローディアナの粗末な服を引き裂き始めた。

「やめ……て」

 蚊の鳴くような小さな声の懇願は、もちろん無視された。

 ヴィクトール……。薄れていく意識の中で、ローディアナは彼の名前を呼んだ。彼の姿を思い浮かべた。彼の声を想像した。彼の存在に祈った。

 前王の婚約者だった間もローディアナは清いままだったから、こんな屈辱ははじめてで、どんな痛みが待っているのか想像もつかない。誰も──ヴィクトールも──知らないだろう、前王は不能だった。だからこそローディアナのような年端もいかない少女を側に置きたがったのかもしれない。

「いや……いや……」

 ローディアナは非力に胸を隠そうとしたが、武器を持った鍛えられた男達の前では無意味だった。ローディアナの身体は若く、細身ながらも豊かに熟れていた。今しがた受けた暴力で肌は傷付いているが、その美しさは暗闇の中でさえ隠しようがない。

 ヴィクトール! ヴィクトール!

 瞳に涙を浮かべながら、ローディアナは心の中で叫んだ。

 そして、祈りは通じた──最悪の形で。


「こちらですわ、陛下、来てください! 確かにあの小娘があえぐ声を聞いたんです!」

 興奮した女の声と、それに続く何人かの足音。

 ローディアナを陵辱しようとしていた兵士達は慌てて動きを止めた。が、それは遅すぎた。両脇に松明を持った近衛兵を従えたヴィクトールが彼らの前に現れたとき。彼らはまさに服を引き裂かれたローディアナの上に覆い被さろうとしているところだった。

「見てくださいな!」

 ヴィクトールの背後から、聞きなれた女の声がした。「私の言った通りですわ! この小娘は、兵をたぶらかして楽しもうとしていたんです!」

 傷だらけで土の上に横たわるローディアナには、もう反論するだけの力はなかった。

 ヴィクトールは驚愕といっていいような顔をして、長い間無言でいた。


 運命を呪うのは簡単だった。ただそれは、救いとはなんの関係もなくて、ローディアナはずっと目をつぶってきたのだ。そして、土の上に横たわり、ヴィクトールの怒りに満ちた瞳を受けるとき、まだ、心のどこかで希望が疼いている。──彼は分かってくれる。いつか、いつか。今ではないけれど、いつかきっと。

 そうでしょう? ヴィクトール。

 あの夜、ランタンの灯火ひとつで見つけた、美しい男性(ひと)。


 長い沈黙のあと、王の声がゆっくりと、深く響いた。

「何をしている」

 それは質問の響きを持っていなかったが、ローディアナを襲おうとしていた兵士達は震えながら答えだした。

「こ……この娘が突然、言い寄ってきまして……」

「そうです! 少しの間だからと誘われ……」

「任務中だと忠告したのです。ただ、あまりしつこく言われたので……」

 滑らかな嘘の連続が、男たちの口から紡がれる。それでもローディアナはまだ希望を捨てていなかった。ヴィクトールは分かってくれる。身体中の傷を見れば、ローディアナが自分の意思でここにいるのではないことくらい、一目瞭然だ……。

 しかし、松明の明かりは、ローディアナの怪我を照らしてはいなかった。

 ──それとも、ヴィクトールの怒りの前に、明かりなど存在しなかったのか。

「下がれ」

 ヴィクトールは静かに言った。「全員だ。ここにいる全員、今すぐ下がるんだ」


 一人、松明を持つ無口な近衛兵を残して、全員がその場を去っていった。

 ローディアナは地面に倒れたまま、動けなかった。

 服は破れ、白い肌が大きく露出している。もともと華奢だった身体は厳しい環境のせいでますます痩せて、土の上に横たわる姿は、傷付いた小鹿のように頼りなげだった。

 肋骨のあたりが火がついたように痛み、ローディアナは浅い息を繰り返していた。

 苦しくて、声が、出せない。

 違うの、ヴィクトール。兵士達は嘘を言っているわ。彼らを信じないで。

 そんな単純な懇願をしたいだけなのに、胸が痛くて声にならない。ヴィクトールは険しい表情で立ったまま、倒れたローディアナを見下ろしている。

「いいざまだな、ローディアナ」

 と、ヴィクトールが言うのを聞いたとき、ローディアナは何を言われたのか全く信じられなかった。

「俺が邪魔に来なければもっと楽しめたものを、汚く地面に横たわっている。どうした? どうして起き上がらない? 俺に奴らの続きをして欲しいのか?」

 ローディアナは答えられなかった。

 力なく首を振って否定してみせるものの、それは炎に油を注ぐだけだったようで、ヴィクトールは苛立たしげに歯軋りをしながらローディアナの横に膝をついた。そして乱暴に彼女の身体を起こす。激痛がローディアナの全身に走り、彼女は肩を震わせた。

「どうしてお前はあの王の婚約者になどなった! それだけでは飽き足らず、俺の兵達にまで手を出すか! 一体どこまで俺を侮辱すれば気が済む? どこまで、」

「あ……っ」

 いったん叫ぶのを止めたヴィクトールは、強くローディアナの傷付いた身体を揺さぶっていた。痛みに耐え切れず、ローディアナはすすり泣きをもらす。

「どこまで、俺を傷つければ気が済む!」

 ヴィクトールは叫んでいた。


 どこまで、どこまで……。

 どこまで私たちは行くの……。

 あなたは誇り高く、わたしは臆病だった。あなたは殺された王の息子で、わたしは家族を人質に取られていた。

 運命は私たちに厳しく、二人の間には、一つの王家の滅亡と復興が横たわっていた。

 夜空の星を数えるほど長く、砂漠の砂を数えるほど遠く、私たちは沢山の誤解を抱えている。それでも希望を捨てたことはなかった……今、この瞬間まで。

 星が煌めく夜に出会った傷付いたあなたは、それでもとても美しくて、愛することを止められなかった。

 ヴィクトール、殺された王の息子。

 それでも、誰よりも誇り高く、一番星のように輝いていた。


 冷たい風が重苦しく吹きすさんで、庭園の片隅にしゃがみこんでいるヴィクトールの黒髪を揺らした。

 ヴィクトールはローディアナを抱く手にさらに力を込めた。

 すると、彼女がうっと苦痛の声を漏らしたのを聞いて、ヴィクトールは異変に気がついた──。ローディアナの身体が異常に冷たい。まるで地下庫から出したばかりの氷のように冷え切っていた。

「ローディア……?」

 思わず、ヴィクトールは彼女の愛称を呼んでいた。

 彼女は答えず、かわりにぐったりと首を逸らして震えると、動かなくなった。

「ローディア」

 もう一度、ヴィクトールは彼女の愛称を呼んだ。

 いつもは可憐な桃色だった小さな唇は、よく見れば暗闇に松明の明かりだけでも分かるほど、はっきりとした紫色に蝕まれている。ヴィクトールの顔から血の気が引いた。

 背筋が冷えるのを感じて、ヴィクトールはごくりと息を呑んだ。

 ローディアナの華奢な身体が、急に重くなっていく。

 長くカールした睫毛に飾られた瞳は静かに閉ざされ、まるで糸が切れた吊り人形のように力を失った彼女は、ぴくりとも動かず、声一つ漏らさなかった。

 息一つさえも。

「ローディア、ふざけるな!」

 ヴィクトールは恐怖に叫びを上げ、ローディアナの頬を何度もさすった。「こんなことは許さない……許さない! お前は俺の前で……俺の前で……ローディア!」

 後ろを振り返ったヴィクトールは、控えていた近衛兵から松明を受け取ってローディアナを照らした。片腕で彼女の身体を支え、もう片方の腕に持った松明を近づける。すると、彼女の全身についた痛々しい痣と傷の連続がくっきりと照らし出される。そこには、剣を受けた傷さえあった。

「ロー……」

 息がつまり、眩暈がしてきた。

 同時に、ヴィクトールは自分を支えていた何かが崩れていくのを感じた。


 ──ローディアナ、君を愛せないのならば、君を憎むことで俺は生き延びよう。血の滲む苦痛も、胸を裂かれる屈辱も、君への憎しみで生き残り、王へと返り咲いてみせる。


「違う……」

 ヴィクトールは首を振った。

「違う……ローディア……」

 彼女をかき抱きながら、ヴィクトールは首を振り続けた。

 屈辱は、誇りによって愛さえも歪めた。多くの人間が運命に溺れるように、ヴィクトールもその激流の中で正しい道を見失っていただけだった。時が二人を癒し、いつか、なにかの奇跡が起きて、再びあの家畜小屋での夜からやり直せるはずだった。

 ずっとそんな気がしていた。ずっとそんな夢を見ていた。


 ローディア……もし俺が王だったら、君を王妃にしよう……。


 ヴィクトールの漆黒の瞳から涙が溢れた。

 止められなかった。

 止めることなど、考えられなかった。



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