崩れゆく世界

 ところどころ塗装が剥がれて、錆の浮いている鉄扉。それを動かす度に、蝶番の擦れる音が耳を衝く。

「セールスの方ですか? ならお断りするように言われているのですが」

「い、いや! 違うんだ。えぇと、どう切り出せばいいか……」

 崇は土壇場で迷った。前回は過去の自分も高校を卒業する間際であり、その進路選択を変えるのが目的だった事もあって、話は簡単に済んだ。しかし、今度は勝手が違う。何しろ、目の前に居る少年――つまり過去の自分だが――に危機感を抱かせて、成績アップに繋げなければならないのだ。先程のような口八丁だけでは、問題を解決するのは無理だろう。

「時間が無い、単刀直入に言う! 私は35年先の未来から来た、君自身だ」

「……春だからなぁ。おかしな人が一杯いるとは思うけど……ちょっと悪戯が酷すぎますよ、おじさん」

「待て! 疑うなら証拠を見せよう! ほら、私の運転免許証だ。名前を見たまえ、君と同じだろう? それに日付けを見て! 今は何年何月だ!?」

 必死に食い下がる崇だったが、ドアの向こうの少年は取り合おうとしなかった。免許証がそんな小さなカードである筈が無い、ヘタクソな作り物だ……と。

「性質の悪い冗談に付き合っている暇は無いんです、帰ってください」

「クッ……そうだ、君は今、隣のクラスの水野静江さんに片想いをしているね?」

 崇がふと思い出し、咄嗟に紡いだその言を聞き、少年はギクリとなった。何故、それを知っている? と。

「それから……そうだ、6年生の時には先生の車にボールをぶつけて思い切り凹ませ、犯人は自分ですと名乗り出ずにそのまま卒業したね?」

「そ、その事は僕しか知らない筈……それを、何でおじさんが知ってるんです!?」

「だから言っただろう、私は35年後の君自身だ、とね。まだまだあるぞ? 君だけしか知ら無い筈の、秘密が沢山ね」

 わ、分かった! と、少年は崇を屋内に案内した。あんな事を玄関先でベラベラ喋られたら、何処で誰が聞いているか分かったものじゃないと危惧したのだろう。それに、いま崇が口に出したのは、紛れも無く彼自身しか知ら無い筈の秘密だった。それを知っているという事は、未来から来た自分自身だと云うのも妄言では無いだろう、と信じる気になったのだ。


***


 慣れぬ手つきで、少年がお茶を注いでいる。恐らく、客に茶を出して歓待するなど、初めての事なのだろう。

「……35年後、でしたね? その時、僕は46……あれ?」

「47歳だよ。算数ぐらいは使いこなそうよ、そんなだから将来、こんな大人になってしまうんだ」

 ぐッ、と少年は言葉に詰まる。が、ややあって『確かに勉強は苦手だが、今やっている授業の内容が将来どう役に立つのかが理解できない為、ヤル気も起きない。つまり成績も伸びないのだ』と、彼は開き直った。

 そんな彼を見て、崇は『はぁ……』と溜め息を吐き、茶葉がプカプカ浮いていて渋すぎる茶をすすり、喉を潤した。そして、おもむろに語りだした。

「いいかい? 確かに買い物をする時に因数分解は使わないし、古典文法を使って会話をする訳でも無い。しかしだ、君が将来何処かに就職する時、ほぼ必ず面接を受ける事になる。その時、試験官は君の何を見るのだと思う?」

「えっ? それは……態度とか、内申書の評価とか?」

 言うと思った……と、崇は苦笑いを浮かべながらそれを否定した。残念ながら、そんな物は見もしないよ、と。

「採用されるかどうかを握る鍵は、その人が此処に至るまでにどれだけ頑張って来たか、その過程にあるんだよ。良い学校を、優秀な成績で卒業できるのは、それだけその人が頑張ったからだろう?」

「そ、そんな事……受ける会社によって、変わるかも知れないじゃないですか!」

「分かるんだよ! ……耳の穴をかっぽじって、良く聞きなさい。君がこの先、どういう人生を歩むのかを……」

 力強く声を張り上げた後、崇は穏やかな口調に戻って、ゆっくりと語りだした。

 このまま中学卒業まで成績はパッとせず、やっとの事で底辺校に滑り込み、大学への進学など夢のまた夢。挙句に体を壊して就職試験のタイミングを逸し、仕方なく専門学校へ通うも、その授業内容が仕事に活かされる事は全く無かった。そして無職となり、妻と子供を抱えて路頭に迷う、惨めな47歳となる自分の姿を。

「ま、待ってよ……じゃあ僕は、絶対に金持ちにはなれないの? まともな就職も出来ないの!?」

「……今のままではね。だが、それを何とかする為に、私が此処へ来たんだよ」

 ニコリと笑って、崇は少年の肩にポンと手を乗せた。

「勿論、私が君に勉強を教えて、良い学校に行けるよう指導できる訳では無い。頑張るのは君だ、努力次第で道は開けるんだ」

「本当だね? 今から頑張れば、将来は変わるんだね?」

 ああ、その通りだ……と、崇は黙って頷いた。


***


(真っ青になっていたなぁ。あれだけ脅かせば、きっと心を入れ替えて真面目に勉強するだろう。そうすれば名門校は無理でも、中堅校ぐらいには入れるだろう。そこからなら、大学進学だって夢ではなくなるかも知れん!)

 そんな事を考えながら、最初に出現した児童公園で呆けていると、またも崇の視界は真っ白な靄の中へとなだれ込んでいった。流石にその感覚にも慣れて来たと見えて、思わず『来た来た!』と呟いてしまう程だった。


 その靄が晴れると、やはりと云うか。崇は占い師の目前で目を覚ました。

「お帰りなさい。如何でしたか? 今回のトラベルは」

「さぁな? 説教はして来たけど、結果は分からないからね。っと……おお、何だか仕立ての良いスーツじゃないか!」

 先刻までとはガラッと変わり、キレイな身なりになっていた崇は、どうやら今度は成功したみたいだなと浮き足立って、現状を確認しないまま自宅へと向かった。これだけ良い身なりが出来るのだ、きっと豊かな生活を送っているに違いない。家族も……と、真っ先にそれを考えたのだ。


 しかし、崇は自宅の……いや、自宅である筈の建屋の前で、思わず絶句していた。

「な、何だと……? 井上、だってぇ? ここは俺の家の筈だ、井上ってのは何者だ!!」

 いきり立つ崇ではあったが、流石にそのまま怒鳴り込むほど無鉄砲ではない。此処はあの占い師に問い質し、いま自分がどのような立場で、どんな生活をしているのかを確かめる必要があると考え至り、踵を返して元来た道を戻って行った。


***


 肩で息をしながら、崇が占い師に何かを訴えようとしている。しかし、呼吸が荒すぎて自分の意志が言葉にならない。

「何を慌てて……またご不満なんですか? さっきはあんなに喜んでいたのに」

「いっ、家が……俺の家が、無いんだよ! 俺は一体、何処に住んでるんだ!」

 他にも訊きたい事は沢山あっただろう。微妙に変わっている街並み、見覚えのない看板や建物。酷い所では、道が消えている場所さえあるのだ。が、いま彼の口から出せたのは、その一言だけであった。

「過去を弄ったんです、その未来にあたる今の状況が多少変わったって、不思議ではないでしょう。第一、貴方はそれをやりに過去へ飛んで来たのではないのですか?」

 痛いところを、占い師は衝いて来る。だが、崇とてこのままでは居られない。何しろ、自分が帰るべき自宅の場所さえ分からないのだ。

「あ、あれから俺は……ど、どうなったんだ?」

「御覧になりますか? えぇと……1981年6月……あ、居ましたよ。どうやら学校帰りに、どこかへ寄っているようですね」

 占い師の掌の間に映し出される映像の中に、中学生時代の崇が居た。成る程、それまでは放課後になるとブラブラと退屈そうな足を引き摺りながら家へ帰るだけだったのが、きびきびした足取りで何処ぞのビルへと入っていく様子が映し出されていた。

「……学習塾? そうか、成績を上げて、少しでも良い学校に行くようアドバイスをしたからか!」

「そのようですね。そして……おお、これは合格発表ですかね?」

「……!! ちょ、ちょっと待て! 此処は……K大付属高校じゃないか!?」

「良かったじゃないですか、エリートコースに乗りましたよ」

 そう、崇はあれから自分に活を入れて猛勉強に励み、下から数えた方が早かった席次を2年時に中の上まで引き上げ、3年の春にはベスト20に入る成績上位者になっていたのだ。そして超難関と言われる名門大学の付属高校に合格。その後もトントン拍子に実績を作り、大手電機メーカーに入社し企画部に所属。瞬く間に出世して、現在は常務取締役にまで登り詰めていた。

「順風満帆な人生ですね、お手本のようですよ」

「ああ……だが、ちょっと待て? 確かに良い学校を出て良い会社に入り、出世をして……でも、結婚する場面が無かったぞ?」

「そのようですね。47歳の今、貴方は独身でいらっしゃいます」

 何だと!? と、崇は目が零れ落ちんばかりに瞼を開き、そんな馬鹿な! と占い師に詰め寄った。

 何故、どうして結婚していないんだ? 俺には妻と、子供が二人いた筈だ……と。

「奥様と何処で知り合ったか、それを思い出してみては?」

「妻と? ……あ! そうか、高校の軽音楽部でバンドを組んで、ライブのギャラリーにアイツが居て……!」

「成る程。知り合う切っ掛けが消えてしまったので、彼女と出会う事も無く……と云う訳でしたか」

 どうやら、今度は進学先が変わった事で、将来妻となる女性との出会いを逸してしまっているらしかった。

「冗談じゃないぞ! 幾ら金持ちになったって、地位が上がったって! アイツが居ないんじゃ意味が無いんだよ!!」


 あちらを立てれば、こちらが立たない……そのシーソーゲームに、崇は眩暈を覚え始めていた。

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