第3話
僕は何者なのか。どんな物語であっても語り手というのはそれなりに重要なものだと思う。だからきっと語り手は自己紹介をするべきなのだろう。
だが僕にはそれをできない理由がある。だから、僕が彼女に初めて出会ったときの事を語ることでそれに変えさせてもらいたい。
何もわからなかった。
自分がなぜこんな場所で横たわっているのかも、なぜ目の前で少女がおぞましい怪物と戦っているのかも、自分が何者であるのかも。
響く轟音。はじける衝撃。にじり寄る殺気。戦う少女。
横倒しにうち捨てられた錆びたドラム缶や蔦にまとわりつかれた壁、穴のあいた屋根。そこから銀色の満月が顔を出していた。ここは廃工場といったところだろうか。
少女と相対していたのは、見たこともない生物だった。形はいわゆる「鼠」のそれに近い。だが、そのサイズは平均的な人間のサイズを優に超える。目測で三メートルといったところか。さらに特徴的なのは頭部についた角。まるでドリルのような形状の溝があり、先端は鋭くとがっている。間違いなく普通の生物ではない。
彼女が戦闘を終えるまで僕はただ茫然としていた。
少女はゆっくりと僕の方に歩みながら言った。
「貴方、怪我はない?」
僕は黙ってうなずいた。
いつの間に倒したのだろう。彼女の背に、先程の怪物が横たわっていた。僕には戦況を把握することもままならなかった。
ことここに至ってようやく状況を認識する。僕は自分が何者かわからない、いわゆる記憶喪失の状態だと推察される。だが、それでもあんな風な化け物が居る世界に自分が住んでいた実感はない。これが夢でなかったとすれば狂ってしまったのは、自分か世界か。
「そう。貴方の目には私が一人で暴れていたように見えたかもしれないけど気にないで頂戴」
――一人で? さっきの怪物はなんなんですか?
「貴方、『魔物』が見えるの?」
――魔物? さっきの巨大な鼠のこと?
「どうやら本当に見えているようね」
彼女はそう呟いた。
瞬間、僕は息を呑んだ。怪物の方にすっかり気を取られていて、それと戦う彼女には意識がいっていなかったのだ。
彼女は美しかった。どこかの詩人は常識を越える美しさは筆をもって表現することはできないと言っていた。彼女を見て、僕はその言葉が真実であることを知った。だが、そうやって伝える努力も放棄してしまえば、彼女の美しさは絶対に伝わらない。書き手としては未熟な僕なりに彼女の美しさを伝えてみようと思う。
肩を越えるくらいまで真っ直ぐに伸ばした黒髪は月の光を受けてきらめいていた。精緻な人形めいた顔立ち。この瞬間、僕は神の存在を信じた。そうでなければこのような整った美貌はありえないだろう。きっとこの人は神様が「美」をこの世界に体現させんがためにこの世に使わせた天使なのだ。そうとしか考えられなかった。
白のシャツに黒いネクタイ。控え目なフリルで飾られたミニスカート。その姿は彼女の美しさを際立たせていた。しかし、きっとどんな格好をしていたとしても僕にはそう感ぜられたであろう。むしろ、服など無粋かもしれない。きっと飾らない彼女そのものこそがこの世界で最も美しいものだろうと僕は思った。
よく見ると彼女の手からは血が流れていた。きっと先程の戦闘の中で受けた傷だろう。化け物を誅滅するために、血を流した手。その手からすらも美を感じた。一個の精緻な美術品のようだ。こんなにも細くたおやかな手が、化け物を撃ち滅ぼしたのだ。僕は心の奥底から浮かび上がる熱い感情を抑え得なかった。それは歓喜にも似た何かであった。憧憬だったのかもしれない。あるいは両方。または僕の中にある肯定的感情全て。僕は彼女に完全に心を奪われた。
「立てるかしら?」
血に濡れた手を彼女は僕に向けて差し出した。自分が腰を抜かして座り込んでいることに今更ながらに気付く。差し出された小さく美しい彼女の手に僕はそっと震える手を伸ばそうとした。そして、躊躇した。僕なんかが触れても良いのだろうか。それは例えるなら美術館にある素晴らしい美術品に触れようとするようなものなのかもしれない。彼女は完成されていた。流れる血ですらも美術品を構成する染料の一部に思えた。僕の薄汚い手がそれに触れることでそれを壊してしまうことを僕は恐れたのだ。
「ほら」
伸ばしかけて戻そうとした僕の右手を彼女の右手が優しく包んだ。なんと柔らかく温かい右手だろうか。僕の左手に熱が伝わっていく。それは彼女の熱だろうか。僕自身の熱だろうか。
彼女は右手に力を込めて、僕を立ち上がらせた。
「怪我はないようね」
――は、はい。ありがとうございます。
「敬語なんて使わなくていいわ。そう歳も変わらないでしょう」
彼女の年齢は判然としない。いたいけな少女にも見えたし、完成された大人の女性にも見えた。きっと少女の瑞々しい可愛らしさと深みの生まれた大人の美しさの両方を兼ねそろえていたからだろう。彼女はそんな不思議な容姿をしていた。しかし、二十を越えているという事はないだろうと思われた。身体つきははっきり言って少女のそれだ。この小さな体躯で三メートルはあろうという化け鼠を打破したのだ。これは驚嘆に値することだろう。
「貴方、いくつ?」
――わかりま……わからないんだ。
思わず敬語で喋りかけて改める。そして、正直に自分の状況を伝えた。どうしてここで倒れているのかも、自分が何者であるのかもわからないのだということも。
「そう……。『魔物』に襲われた後遺症かもしれない。私も記憶喪失というケースは初めて出会ったけれど……」
――『魔物』というのはさっきの化け鼠のこと?
「そうよ。貴方にも見えているのよね……。この世界にはあんな化け物が潜んでいるの。私は『魔物』と呼んでいるわ。人間を喰らうもの……。放っておけば人間は『魔物』に喰らいつくされる……」
――記憶喪失の僕が言うのも難だけど、そんな化け物がこの世に居るならもっと大騒ぎになっているはずじゃないのか?
僕は記憶を失ってこそいたが、この世界の常識までは失っていないつもりだった。この世界は平和ではなくても、平穏に回っている。もしもあんな化け物がはびこっているならテレビで報道されているだろうし、世の中ももっと騒がしくなっているはずだ。記憶喪失というのは自分が何者なのかがわからなくとも常識的な事は覚えているものだという知識が頭をかすめた。おそらく僕も今、そういう状態なのだと思う。
「彼ら『魔物』が喰らった人間は記憶からも記録からも消える。なかったことにされてしまうのよ……」
――そんな……
信じられなかった。僕は自身に関する記憶を失い、もしかしたら常識までも壊れてしまったのかもしれないと思った。
「信じられないのも無理はないわ。私だって最初、『魔物』が見えるようになったときは信じられなかったもの」
――その『魔物』っていうのは普通の人間には見えないのか?
「そう……私以外に『魔物』が見えると言った人間は貴方が初めてよ。だから、世界中の人間は『魔物』の存在に気付かない」
世間が『魔物』の存在に気付かない理由に得心がいく。なるほど確かに誰にも見えず、犠牲者も消え去る。それならば、世間が騒ぎださないのも当然のことだ。
「より正確に言えば、『魔物』は普通の人間にも「見えて」はいるの。ただ、それを「『魔物』として認識すること」ができない。たぶん、見えない人間にとってはさっきの巨大な鼠も普通の鼠に見えているの。質量とか大きさとか色々矛盾は発生すると思うけど、そういった矛盾も認識できない。仕組みはわからないわ。でもそういうものなの。これは帰納的な予測にすぎないけれど」
僕は先程の化け鼠の死骸があった方に目をやる。そこに横たわっていたのは普通の鼠の死骸だった。
「倒された『魔物』は普通の動物の死骸になるの。大抵の『魔物』は動物がベースになっているような形状をしているわ。もしかしたら何らかの突然変異なのかもしれない。普通の人間に認識できない時点で相当に異常な変異であることは確かだけれど」
するとやはりあの小さな死骸が先程の怪物のなれの果てなのだろう。先程の戦闘を見ていなければ信じられなかったに違いない。
そんな風に考えながらも、僕は震えるような歓びも感じていた。彼女は彼女自身以外で『魔物』を見ることができた人間は初めてだと言った。もしかしたら僕は選ばれた人間なのかもしれない。彼女の隣に立つことを許された存在。僕はそのために生まれてきたのだ。そんな想像が生まれた。
「だから、『魔物』を見ることができる『戦士』が戦わねばならない。私は『戦士』なの……」
そう呟く彼女の表情はどこか寂しげだった。あるいは月の光の加減のせいで見間違えただけかもしれない。
できうるなら僕は彼女の隣に立ってみたいと思った。傲慢にも尊大にもそう思った。それが叶うのならば、僕の存在全てを投げ出してもいい。本心からそう思えた。
――僕も連れて行ってくれないか?
「え?」
――僕にも『魔物』が見えているんだろう? なら君の味方になれるかもしれない。
「……無理よ」
彼女は悲しげな表情を浮かべている。
「『魔物』は強い……。それはさっき貴方も見たでしょう? ただ『魔物』を見る事ができるだけで戦えるとは思えないわ……」
彼女は泣きそうな顔で言った。僕は彼女にそんな顔をさせたくはなかった。だから言った。
――強くなるから……。
「え?」
――強くなる。すぐには無理かもしれないけど、強くなる。『魔物』が見えるようになったんだ。きっと次は倒せるようになる。
強がりだった。人の目に映らず、人を喰らうもの。僕にはそんな化け物と戦える力も勇気もなかった。でも、それでも。彼女にこんな悲しそうな、寂しそうな表情はさせたくなかった。
彼女は自分以外に『魔物』が見える人間に出会ったのは初めてだと言った。彼女はきっとずっと一人で戦ってきたんだ。この狂った世界を正すために、闇の中で化け物を殺してきたんだ。もし彼女が来なければ僕は喰われていただろう。自分の記憶だけでなく、誰の記憶からも何の記録からも消えて、なくなってしまっていたのだ。僕は彼女に報いたい。
でもそれすらも卑怯な言い訳なのかもしれない。本当は僕が彼女の傍にいたいのだ。それは一目惚れみたいな俗なものじゃない。一瞬で掴まれた僕の心。記憶を失う前の僕が神を信じていたかはわからない。でも今なら信じられる。彼女について行くことこそが神が僕に与えた役割なのだ。そう固く信じた。そう信じることで自身の存在を肯定したかった。これこそが僕の在り方なのだと。
彼女を一人にはしたくなかった。
――それに僕は記憶もないから帰るところもないしね。
「………………」
長い沈黙の後、彼女は僕に背を向けながら言った。
「好きにすればいいわ」
――ありがとう!
そして、彼女は歩き出そうとした。
――そう言えば、君の名前は? なんて呼べばいいの?
一瞬足を止め、彼女は振り向く。そこに浮かんでいた表情はなんであったのだろう。影に隠れよくわからなかった。しかし、どこか嬉しげに見えたのは――――僕の自惚れだろうか。
「私は――――」
僕は彼女の名前を語らない。これは僕の我がままだ。彼女の存在を世界に伝えたいと思っているけれど、一人占めにしたい自分も居る。その妥協だ。彼女の名前だけは永遠に僕の中だけにしまっておく。彼女が名もない僕を「貴方」と呼んでいたから、僕も彼女の事を「君」と呼んでいた。だから、これから先この物語を語る上で彼女の名が、君たち読者にわからなくても問題はないのだ。だから、許してほしい。彼女はこの狂った世界の中で特別な存在であるけれど、この僕にとっても特別な存在なのだ。
彼女は再び背を向けて歩き出した。
僕はそれを追いかけた。
僕を立ち上がらせるために彼女が掴んだ右手は彼女の血で濡れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます