私が彼女を好きになったので
あわあわしていたら、中等部の校門をくぐりぬけていた。やばいやばい。もうじき自分が彼女に出会ってしまう。再会してしまう。
何を言えばいいのだろうか。どんな話をすればいいのか。最初に、なんと声をかけるべきか。
何も思いつかなかった。
そうこうしているうちに、前を歩いている黒い子は階段に足をかけていた。
「まって」
ふらむは手を伸ばし、黒い子の肩に手をかけた。
びくりと黒い子の身体がはねる。
「は、はい……なんでしょうか」
「えっと……」
なんでしょうかと言われても、何も考えていない。とにかく、落ち着きたかった。再会の時を遅延させ、少しでも何か話をしたかった。しゃべり方を思い出すためだ。
「あなた」
「わ、私ですか」
「そう……ええと……」
そういえば、名前を聞いていなかった。あの子に会えると聞いて、それどころではなかったのだった。
まず基本的なところからはじめよう。そうすれば、すらすらと話題も出てくるかもしれない……。
「あなた、名前は?」
「え……」
なぜか少女はためらった。名前を聞いただけなのに、なぜそんなにおびえた顔をするのだろうか。なにか、自分の名前に対する複雑な事情を抱えているのかもしれない。
……だとしても、とりあえず呼び名がないのはやりづらい。ふらむはもう一度、質問を繰り返す。
「あなたの、名前は?」
「…………く、黒藤……観夜(くろふじ・みや)、です……」
「そう」
クロフジ=ミヤ。ミヤ=クロフジ。なるほど。ふらむは頷いた。
「くろふじみや。覚えたわ」
「ひっ……あの、うち、お金とかはなくて……」
「……? お金なんかいらないけど」
「ご、ごめんなさい……殴ったりしないでください……」
観夜は今にも拳が打ち込まれるのではないか、とでも言うかのように、顔の前まで両腕をおずおずと上げた。早く動かすと、それだけで相手を刺激しそうで怖いのだ。
ふらむはここでやっと、自分がひどく怖がられていることに気づく。
普通に名前を聞いただけなのに、暴力的にお金を奪おうとしていると思われている。
どうも想像力が悪い方向にたくましいようだ。そんなことをする人は、この街に一人二人いるかどうかも怪しいというのに。
それよりも、だ。自分が怖がられているようなのが問題だった。自分が怖がられているということは、これから会うフカミミナミにも、そういう印象を与えてしまうかもしれない。
自分のどこが彼女に恐怖を与えているのか、確かめる必要がある。
「何をビクビクしてるの?」
「す、すみません……」
「私は、何をビクビクしているのかと聞いているんだけど」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
クロフジミヤは、今にも泣き出してしまいそうで話にならない。
ちょっと落ち着いてほしい。
「何もしないから、落ち着いて」
「はい、すみませんすみませんすみませんすみませんすみ」
「落ち着け」
「はい」
肩に両手を置くと、クロフジミヤは固まったように動きを止めた。
もしも逃げられると困るので、そのまま壁に押し付けて動きを封じた。
クロフジミヤの顔はもはや蒼白を通り越して純白だったが、ふらむはそこはどうでもよく、これでやっと話ができると思っていた。
「それで、私のどこがそんなに怖いのかしら」
「え、その、それは……」
「怒らないから教えて」
「は、はい……あの、目とか……」
「目」
「ひっ……」
軽く目を向けただけで、クロフジミヤは脅えて両腕を身体にくっつけてちぢこまった。
自分がそんなに怖い目をしていたなんて、全く気づいてなかった。他にも何か、気づいていない部分があるのかも。
「それで。他には」
「あの……」
「他にはないの」
「す、すみ」
「ないのか、と聞いているの」
「ごめ……あ……その……圧力、が……」
「……どういう意味」
「あ、あ、わ、わ……わたし、わたし、ほんとうに、よんできてっていわれただけで」
……そういえば、なぜフカミミナミは、このクロフジミヤに自分を呼びに来させたのだろうか。そんな疑問が浮かんだ。
何か高校の敷地に入りたくない理由がある? 自分で行くのが面倒だった? それとも、もっと別の……。
「あ、あの……」
「……何?」
「いえ……その……」
「……ああ、ごめんなさい」
クロフジミヤの目が潤みきっていたのに気づいて、ふらむは彼女の両肩から手を離した。少し話し込んで、さらに考え込んでしまってもいる。フカミミナミを待たせてしまっているのもよくない。
そうだ、思えばこのクロフジミヤもかわいそうな子だ。教室での言葉から察するに、したくもない送迎役をさせられた上に、恐ろしい(らしい)自分に脅えさせられている。
「ありがとう。もういいわ。行きましょう」
「は、はい……。はあ……。あの、こちらです」
心底ほっとした顔をしてから、クロフジミヤは再び、ふらむの前を歩き出した。
ふらむもその後をついていきながら、手鏡を取り出して自分の顔を見た。そんなに怖い目をしているようには見えないのだけど。表情筋がこわばっていたのかもしれない。手でぐにゅぐにゅと自分の顔をもんでみる。
……よし。怖い顔になっているかどうかはよくわからなかったけれど、とりあえず落ち着いた。
ちなみにふらむは気がつかなかったが、クロフジミヤは一度ふらむの方を窺うために視線を向けて、顔をもみほぐすふらむが目に入った瞬間に前を向いていた。変な顔をしているところを見てしまったことに気づかれたら、殺されると思ったからだ。
中等部後者の三階。中学二年生の教室が並ぶ廊下だ。窓から差し込む夕日が、じわじわと弱くなっていく。
ほとんど人気は無い。部活動も、それぞれの担当する美術室や音楽室などで行われている。
気まぐれに、わずかに残った生徒たちもいて、彼女らはなぜか自分達の教室の前を歩く、高等部の有名人であるふらむを興味深げに見やっていた。ただ、観夜もふらむも、それどころではなかったので、その視線には気づかなかった。
やがて、観夜が、ひとつの教室の前で立ち止まった。中等部二年F組の教室だ。
「こ、ここが水美のクラスです」
「……そう」
ふらむは手鏡を覗き込み、少し乱れた髪を直して、深呼吸をする。
廊下に面した教室の壁には窓はなく、ドアについた小さな窓からも、中の様子ははっきりとは見えなかった。
このドアの奥に、(おそらく)あの水色の女の子がいる……。なぜ彼女は自分を呼んだのか。……そして、なぜ自分は彼女にこれほどに会いたがっているのか。今、全てが明らかになる、はず、だ。
ふらむは決然と顔を上げて、こう言った。
「ドアを開けて」
「え、でもすぐ目の前で」
ふらむはドア前20センチに立ち、そして観夜はそんなふらむの後ろ側に立っている。
なぜふらむが自分でドアを開けなかったのかというと、いまさらになってわずかに怖気づいたからだった。
「早く」
「は、はいっ!!!」
ふらむの肩越しの視線の針に、観夜ははじけた風船のごとく動き、両手でドアを思いきり開ける。
ドアが勢いよく壁にぶつかり、大きな音を立てた。
これにはふらむも、開けた観夜も驚き、身体をびくっと震わせた。
「もっと静かに開けなさい」
「ごごごご、ごめんなさい……」
「いいわ。じゃ、入って」
「え、でもわたしはもう帰」
「早く」
「はい」
クロフジミヤは、とても素直に教室へと入っていく。何もかも諦めたような顔をしていた。
そして、教室の中から声がした。したのだ。したぞ!
「あっ、みやちゃん! 先輩、呼んできてくれたの?」
この……声は!!
「みっ、水美!」
ふらむが声色の可愛らしさに衝撃を受けた瞬間、観夜は声の主に向かって走り出した。
ふらむは、そんな観夜の姿につられるようにして、教室の中をおそるおそる覗く。いる……のか。
いた。いてしまった。教室の窓際の席、一番前に座っている、水色の女の子が。
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