episode.3 ~嫡男~
私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。
この町に家を建て、住み始めてから、それまでと変わったことの一つが、町内会に加入したことでした。
引っ越した当日、搬入した荷物の開封をするより前に、まずはご近所へのご挨拶回り。その際、伺った班長さんのお宅で、町内会への加入の打診を頂いたのです。
加入は強制ではなく住民の任意で、ごく稀に拒む方もいらっしゃるようですが、99.9%のお宅が加入されていらっしゃるとのこと、即答で『入会希望』と返答しました。
以前住んでいた集合住宅には入居者組合はなく、個別で町内会への加入資格もなかったため、地域から孤立した感が否めず、この町で町内会へ加入したことで、ようやく我が家も一つの世帯と認められた気がして、嬉しかったものです。
初めて回覧板を受け取った時は、ちょっと感動したほど。お向かいの萩澤さんから手渡された回覧板のチェック欄には、我が家の名前も記載されていて、
「回覧する順番は、うちから松武さんで、次は葛岡さんへ回してください。後、受け取ったら、このチェック欄に日付を入れて下さいね」
「はい、分かりました」
さっそく、今教えて頂いたとおりに、チェック欄に日付を入れ、また感動。そうした些細なことも、嬉しくて堪らない時期なのです。
萩澤さんはパートをされていて、その日は遅番で、我が家が回覧板を受け取ったのが夜7時過ぎ。丁度お夕食の時間帯ですし、せっかくなので、夫にも初めての回覧板を見せたいと思い、翌朝になってから、葛岡さん宅にお届けに上がりました。
インターホンを鳴らすと、すぐさまおばあちゃんが出て来られ、
「おはようございます。回覧板をお届けに参りました」
「ああ、ごくろう様」
そう言うと、手渡した回覧板のチェック欄を見て、小さく溜め息をつきました。
「あのねえ、松武さん。回覧板は受け取ったその日の内に、回してもらえないかねぇ~?」
「あ、すみません! ちょうどお夕食時だったので、失礼かと思って…」
「うちは嫁さんが働いてるから、その日のうちに届けてもらわないと、回すのが遅くなるのよね~」
確かに、おばあちゃんのおっしゃる通り。
夕べのうちに回せば、葛岡さんは今朝一番で次のお宅へ回せたものを、私が余計な気を遣ったばかりに、皆さんの回覧時間をロスしてしまったのです。
「気が付かなくて、すみませんでした。次からはすぐに回しますね」
「あなたは専業主婦だから、どうせ一日中家で暇してるだろうけど、仕事してる人はそういうはいかないんだからね~」
悪気なく、シレッと毒を吐くおばあちゃん。受け取り方によっては、葛岡さんの奥さんの発言とも取られかねず、本人不在の間に亀裂が生じる危険さえある発言です。
いちいち言葉尻に反応せず、これもおばあちゃんのキャラクターと達観し、にっこり笑ってやり過ごせるまでには、長い時間が掛かったものでした。
肝心の回覧の中身はといいますと、『○○だより』といった子供会や老人会や市区の会報、町内清掃や資源回収の日時のお知らせなど、大して重要ではないものが大半です。
ごく稀に『至急』の印鑑が押された書類が回ってくることもあり、その場合には期限内にすべてのお宅に回るように、各戸速やかに回覧しなければなりません。
とはいえ、私の班には何日も留め置くようなお宅はなく、旅行などで自宅を空ける際には、一声掛けて行くなどの配慮をされる方ばかりでしたから、これまでトラブルなどもなく。
そんな中で、唯一困っていたのが、あれこれと詮索してくるおばあちゃんでした。
余程時間を持て余しているのか、回覧板を届けに行くと必ず捕まってしまい、特に、我が家に子供がいないことが気になるらしく、3回に1回はその話題に触れては、
「松武さんとこは、お子さんまだなの~?」
「まあ、こればかりは、コウノトリのご機嫌次第ですから」
「私は男の子二人も産んで、安泰だったわよ~」
「そうですか」
「孫も男の子が二人いるから、ホントに良かったわ~。松武さんも早く産みなさいよ~」
「そうですね…」
「それにしても、何で出来ないのかねぇ~?」
悪気がないのは分かるのですが、ただ、あまりにもデリカシーに欠けていると申しますか、私はそれほど気にしていませんでしたが、不妊で悩んでいる人にとっては凶器にもなりかねず、まして子供の性別など選択出来ることではありません。
おばあちゃんの時代は、男児を産んだ方が勝ち組でしたから、二人も男の子を産めば相当な優越感だったでしょうし、彼女の目には、子供のいない私が哀れに映るのでしょう。
「まあ、こればっかりは授かりものだから、今度お参りに行ったらあなたにも男の子が授かるよう、しっかりお願いしてきてあげるから~」
「はぁ、それはどうも、ありがとうございます」
正直、面倒くさいというのが本音でした。
時代の変化で、最近では孫との交流頻度や、老後の介護などを考えると、男の子よりも女の子を産んだ方が勝ち組という風潮や、あえて子供を持たないという選択もあることを、おばあちゃんはご存知ないのでしょう。
人それぞれ価値観が違いますから、おばあちゃんの考え方を否定するつもりはありませんが、少しでも意見を口にすれば嵐のように反論され、こちらが折れるまで延々と続けられる状況が苦痛なのです。
顔を合わせないように、回覧板を郵便受けに入れて戻ったところ、すぐにインターホンが鳴り、モニターには今置いてきた回覧板を抱えたおばあちゃんの姿。
「ちょっと、松武さん! 回覧板は手渡ししてもらわないと、黙って郵便受けに放り込んだら、気が付かないで回し忘れるじゃない!」
と、烈火の如く怒られる始末。
夕方には柊くん、夜には奥さんが帰宅時にチェックしますし、朝には新聞を取りに行くはず、何より私が投函したのをすぐに察知したおばあちゃんの洞察力なら、気付かずに放置することなどあり得ません。
要するに回覧板は口実で、とにかくおばあちゃんは話し相手が欲しいだけ。
一緒に楽しくお話出来るなら、喜んでお相手させて頂きますが、話し終えて自宅に戻ったときには打ちのめされたようなダメージだけが残り、うんざりしていたのです。
「すみません、今度から気を付けますね」
「そうして頂戴ね! あなたは専業主婦で子供もいないんだから、時間なんていくらでもあるでしょ~?」
だから、あなたのサンドバッグになれと? という言葉を飲み込み、いつもなら、そこからまた長い時間拘束されるところを、用事があるからと早々に切り上げました。
このままでは堪らないと、私なりに考えた末、回覧板は夜奥さんが帰宅した時間帯にお届けすることにしました。もし残業や出張で不在でも、その時間なら柊くんが出る確率が高いからです。
ご忠告通り『当日』に『直接手渡し』するのですから、気付かず放置することも、一日遅延することもありませんし、私は苦行のような拘束から解放されて、すべてが丸く収まります。
この街へ転入して間もなく3年。おばあちゃんには申し訳ないのですが、折れかかった心の修復のため、暫しの休養期間とさせて頂くことにしました。
回覧板の届け方を指摘された日、用事があると言った手前、出掛けないわけにもゆかず、3人目を出産したご近所の菅原さんに、出産祝いをお届けしようと思い立ちました。
電話で予定を尋ねると、
「色々と話したいこともあるし、是非来て!」
とのこと。渡りに船とばかり、すぐにお邪魔したのです。
長女の結菜ちゃん(6歳)、次女の果菜ちゃん(4歳)に続き、3人目での長男の斗真くんの誕生に、とても喜んでいた菅原さんご夫妻。
お姉ちゃんふたりも、小さな弟をとても可愛がっていて、出産祝いのプレゼントとは別に、ママのお手伝いを頑張っているご褒美に、彼女たちにもプレゼントを持参。
下の子が生まれると、自分のポジションの変化に戸惑い、不安定になったり赤ちゃん返りをする子も多く、そちらのケアも大切。かつては、私も『お姉ちゃん』の立場を経験している身、子供目線で少しだけお手伝いです。
「いつもありがとね。上の子たちまで、気を遣って貰って」
「どういたしまして。それより、どうなの?」
「それがね~」
菅原家にとって、今回の出産が波乱を巻き起こすだろうことは、ある程度覚悟していたことでしたが、その後の展開は予想をはるかに超えるものでした。
菅原さんご夫妻(真行さん、菜穂子さん)が結婚されたのは8年前。ご主人のご実家は電車で2時間ほどの場所にあり、父親は他界、当初は母親と長男夫婦が同居していました。
問題はこの母親です。戦前の『家制度』をそのまま踏襲しているような『男尊女卑』に固執したお姑さんで、同居嫁の恵さんを奴隷のように扱い、熱を出そうが、妊娠中だろうがお構いなし。
まだ安定期に入らない妊娠初期に、妊娠は病気じゃないと言い、重い物を運ばせるなどの過度な作業を強要し、その結果、流産した恵さんに『この役立たず!』と言い放ったのです。
さらに子供が男の子だと聞き、『大事な跡取りを殺した、ろくでなし嫁!』と罵り、ご近所中に触れ回る始末。その後二度目の妊娠をしたものの、再び流産してしまい、今度は女の子だったと知ると、『女なんか流れて良かった』発言。
自分が原因で招いた流産に対し、反省や謝罪をするどころか、人としてあり得ない暴言に、恵さんやご両親、さらには実の息子である敏孝さんまでもキレてしまい、強制的に同居を解消して出て行ったのだそうです。
その頃、結婚したばかりだった真行さん夫妻は、当時の勤務先が実家から近かったことや、一人になった母親を心配して、兄夫婦と入れ替わる形で同居を始めました。
が、長男嫁同様、次男嫁の菜穂子さんに対しても酷い扱いは相変わらず。菜穂子さん自身、体育会系女子だったので、恵さんよりは持ち堪えていたのですが、暫くして妊娠が発覚しました。
すると、それを待っていましたとばかり、その日を境にそれまでとは比較にならないほど、姑の仕打ちがエスカレートしたといいます。
必要もないのに、二階の天井裏の荷物を全部外に出して虫干しをしろと命じたり、庭にゴミを埋めるための大きな穴を今すぐ掘れと強要したり、等々。
母親とは絶縁していた長男夫婦ですが、兄弟同士は交流があり、そのことを知った敏孝さんが激怒して、すぐに馬鹿げたことはやめるよう忠告したのですが、逆に菜穂子さんへの風当たりが強くなっただけでした。
里帰り出産を希望していた菜穂子さんですが、それも許可せず、あまりのストレスから8か月での早産に至り、何とか無事出産したものの、生まれた長女は出生体重が1800gで、少しの間、保育器に入ることになりました。
病院へやって来た姑が菜穂子さんに言ったのは、御祝いの言葉ではなく、
「女なんか産んで、この役立たず。さっさと退院して、次は男を産め!」
そして、自分は男の子を2人も産んだだの、女なんか産んでも何の役にも立たないだの、産後間もない菜穂子さんの病室に居座り、自慢と嫌味のオンパレード。
見かねた看護師さんが、うまく病室から追い出してくれたのですが、生まれた長女の顔も見ずに帰って行ったそうで、いったい何をしに来たのか意味不明です。
これには真行さんも相当頭にきたらしく、菜穂子さんと生まれたばかりの結菜ちゃんに謝罪するよう求めましたが、自分が悪いとは微塵も思っていない母親は、
「謝れだ? 菜穂子がそう言わせているんだろ?」
と、反省するどころか、ことさら菜穂子さんを悪者扱いです。
それどころか、病気でもないのに入院など必要ない、今すぐ退院させて家のことをやらせろと言い、女なんか育てるのは金の無駄だからさっさと養子に出して、次は必ず男の子を産めと言うのです。
母親の異常さを身をもって体感した真行さんは、退院した妻子をひとまず菜穂子さんの実家へ里帰りさせ、すぐさま荷物をまとめ社宅へ引っ越し、そのまま同居は解消になりました。
翌年度の移動で今住んでいるこの町に転勤になり、実家とはさらに疎遠になりましたが、その翌年、次女の果菜ちゃんが誕生。
子供にとっては『おばあちゃん』ですから、知らせないのも気が引けるので、一応電話で知らせたところ、
「また女か!! お前といい恵といい、ホントに『女腹』の役立たずだな!!」
少し前に、長男夫婦にも長女の萌絵ちゃんが生まれていたのですが、恵さんいわく、
「どうせ、女の子だと聞けば必ず暴言を吐くだろうから、はがきで連絡しておいたわ」
だそうで、彼女の選択が正解だったと納得した次第です。
よく世間一般では、口の悪い人は裏表がないと言われますが、彼女に限っては、裏も表も悪意の塊にしか感じられず。
考えてみれば、長女も次女も血を分けた孫なのに、生まれてから一度も顔を見たこともなければ、会いたいと言ったことすらなく、いくら男孫を切望していたとしても、なぜそこまで女の子を嫌うのかが理解出来ません。
自分が罵倒されるだけならまだしも、物心ついたとき、娘たちを傷つけるような言動をされるくらいなら、このまま疎遠にしている方がお互いに平和かも知れないと考えるようになったのです。
長男夫婦に倣い、それ以降菜穂子さん母娘は一度も帰省せず、冠婚葬祭や同窓会などかある時にだけ、真行さん一人で帰省するようになっていました。
その後、真行さんの部署移動で、今後転勤の可能性がなくなったことから、この新興住宅地にマイホームを建てることを決めた菅原家。
転入が我が家とほぼ同時期で、菜穂子さんとは同い年、お話ししてみるととても会話が弾み、あっという間に親しくなったのです。
この町は、宅地開発と並行して、子供の教育や医療、サービスも充実し、子育て世帯にとって住みやすい環境ということもあり、3人目以降を計画されるお宅も多く、『少子化ってどこの国の話?』と言いたくなるほど、たくさんの子供たちで溢れていました。
そうして、菅原家に3羽目のコウノトリが運んできたのが、初めての男の子、斗真君でした。
前回のこともあり、義母にははがきで誕生をお知らせした菜穂子さん。すると翌日、早速電話がかかって来たのです。
すっかり苦手意識が定着していたものの、今回は男の子ですから暴言はないだろうと思い、恐る恐る電話に出ると、
「おお、男の子が生まれたか! でかした! よくやった! ご苦労さんだったな!」
「は? あの…」
「いい、いい! 昔のことなんか気にするな! ああ、良かった良かった、これでやっとお前も一人前だな! じゃあ、また電話するから!」
そう言って、一方的に電話は切られました。
義母のテンションに圧倒され、すぐには理解出来ませんでしたが、冷静になるにつれ、だんだん腹が立って来た菜穂子さん。
『昔のことは気にするな』は、暴言を受けた側が言う言葉で、義母に言われる筋合いなどなく、まして『男の子を産んだから一人前』など、娘たちの存在を否定されたようで、怒りが込み上げます。
直行さんが帰宅した頃合いに、再び義母から電話があり、ぶっきらぼうに応対するご主人に何を話したのか聞いたところ、
「今度、斗真を連れて遊びに来いって」
「連れて行くつもり?」
「菜穂子が嫌だったら、無理して行くことないから」
正直言って、菜穂子さん自身、複雑な気持ちでした。
娘たちの件で暴言を吐かれたとはいえ、夫にとっては実母であり、子供たちにとってはおばあちゃんです。本心では、夫も子供たちを会わせたいと思っているのではないのか、と。
ですが、あの義母のことですから、娘たちと息子とで、あからさまな差別をし兼ねず、それで子供たちが傷ついたらと思うと、会わせることを躊躇してしまうのです。
それからというもの、毎日電話を掛けて来ては『孫を連れて来い』と言い、直行さんが乗り気でないことを察知すると、今度は菜穂子さんに、
「いつこっちに来るの~? 早く孫に会いたくて、楽しみに待ってるんだよ~。私もこの歳だろ~? 一人暮らしが心細くてね~、また一緒に住めないかね~?」
と、淋しい独居老人を強調し、情に訴える作戦に出る始末。ですが、
「前は私も言い過ぎたかも知れないけどさ~、あんたも、いつまでもくだらないことを気にしてないで、さらっと水に流したらどうだい? ね、もう怒ってないからさ~」
その言葉に、やはり義母は何も変わっていないと確信したのです。
ただ、実の母親の執拗なアプローチに、徐々に直行さんの気持ちが揺らぎ始めていることも、電話口での会話の様子から感じ取っていました。
今の時代、菅原さんほど極端な方は少なくなりましたが、『旧・家制度』が存在した時代、跡取りの男子=『嫡男』の誕生はとても重要なことでした。
旧制度では、家長(戸籍筆頭者)になれるのは男性のみで、男の子がいなければ、最悪は家系が途絶えてしまうこともあり、女児しか生まれなかったり、子供に恵まれないケースの救済策として『養子縁組』や『婿養子制度』があったほど。
但し、これらは現在の戸籍法ものとは、まったく意味合いが異なるもので、男女平等の現代では、戸籍筆頭者は男女どちらでも可能です。
その一方で、現代でも家元などの名家・旧家では普通に踏襲されており、一般の家庭でも一定以上の年代の方々や、一部の地方などで、その考え方が根強く生き続けているのも事実。
菅原家の場合は『一部の地方』に分類されるケースで、伝統的な節句やお祭りの風習が、それを物語っていました。
私の母にもそういうところがあり、妹のゆりも甘やかされてはいましたが、末っ子長男の弟、桃太郎への溺愛ぶりは、傍目で見ていても異様に感じられるほどでした。
その原因が、大叔父(母にとって義叔父)の一言。私と妹、ふたり続けて女の子を産んだことで、『あんたは女腹だな』と言われたことが悔しくて悔しくて、意地でも男の子を産んでやる! と決心したのだとか。
ゆりと桃太郎は年子で、誕生月から計算すると、出産してそう時間を空けず妊娠したことが分かります。たまたま生まれたのが男の子ですが、もし女の子だったらどうしたのか尋ねると、
「またすぐに産むに決まってるでしょ。あんなこと言われて、黙ってなんかいられないもの。男の子が生まれるまで、何人でも産んだわよ」
悪びれもなくそう答える母。それを聞かされた私は、不快な気分になりました。
母がそうであるように、私もゆりも、女の子に生まれたのは偶然であって、意思や努力でどうにかなることではありません。母親に『男の子しか要らない』と言われれば、自分の存在を否定されたような気にもなります。
まして、その理由が『プライドを傷つけられたから』では、デリカシーのない発言をした大叔父と変わらず、それをわざわざ自分の娘に話すこと自体、人間性を疑いますし、どうしてもカミングアウトしたいのなら、桃太郎だけにするべきです。
その発言を裏付けるように、大人になってからも過剰なまでの溺愛ぶり。挙句、それが原因で、父が祖父から受け継いだ会社の経営にまで影響を及ぼすことになるのですが、それはまた、別のお話。
母に暴言を吐いた大叔父には、息子が2人いましたが、その後どちらにも女の子ばかりが誕生しました。それに対し、母は、
「本当に、いい気味! よっぽど『お宅のお嫁さん、ふたりとも女腹ですね~』って言ってやろうと思ったわよ」
実際には言わなかったようですが、その異様なまでの粘着質な性格は、我が母親ながら気味悪く感じるほどです。
当の大叔父はというと、可愛い孫娘たちにメロメロになり、むしろ『女の子で良かった』くらいの変貌ぶり。ですが母は、
「どうせ、負け惜しみに決まってるでしょ! おじさんも、私にああ言った手前、引っ込みがつかないんじゃない?」
言われた母は忘れなくても、言った大叔父は、覚えていないでしょう。
いずれにしても、母の陰湿な思考より、孫の存在そのものを愛しいと思える大叔父のほうが、ずっと健全だと私には思えました。
さて、菅原さんのお話に戻りますと。
「3日前に義母から電話があって、主人の地元では男の子が生まれると、初節句に親戚やご近所中に赤ちゃんのお披露目を兼ねて、お赤飯や引き出物を配る風習があるらしいのね」
「へえ~」
「その打ち合わせをしたいから、子供の顔を見せついでに、お正月に帰って来いって」
「ご主人は、何て?」
「それがね~」
孫息子の誕生に、嬉しそうに電話を掛けてくる母親の様子に、一度、顔を見せに行ってもいいかな、と思い始めていた真行さん。
そのことを打ち明けられ、菜穂子さんは悩んだ末に、義母に対する不安感や不信感を話したのですが、子供に対する父親と母親での配慮の違いからか、すでに母親に洗脳されつつあった真行さんは、想像以上に軽く考えているようでした。
「菜穂子が心配する気持ちも分かるけど、おふくろも歳だし、前よりは丸くなったんじゃないかな?」
「でもね、あなたに言うのもなんだけど、お義母さん、自分が悪いなんてこれっぽっちも思ってないから心配なの。私が言われる分にはスルーすれば良いよ、大人だもん。でも、結菜や果菜が、斗真と比べてあまりにも酷い差別を受けて、傷つくのが怖いのよ」
「今更、差別なんかするかな? 話し方聞いてると、孫にメロメロって感じだし」
「それは、あくまで斗真だけだと思うよ」
「そんなことないと思うけどな~」
そこへ敏孝さんから電話が入り、来年の端午の節句に、実家で斗真くんのお披露目をするので、夫婦揃って出席するように、と母親から連絡があったとのこと。
「悪いけど、俺も恵も実家へ行くつもりはないから、お披露目は欠席させてもらうな。菜穂子さんにも、宜しく伝えといて」
兄夫婦とは、実家と疎遠になってからも交流は続いていて、関係はとても良好でしたが、母親が絡むとなると話は別。
今後、実家との交流が頻繁になれば、兄家族との間に亀裂が生じるのは目に見えており、子供たちにとっても、萌絵ちゃんは大好きな従姉だけに、失いたくないという不安もありました。
「どうしよう? 松武さんなら、どうすれば良いと思う?」
「お返事は、いつまでにするの?」
「とりあえず、今晩もう一度、主人とよく話し合って決めるつもりだけど、多分、平行線だろうな~」
すっかり落ち込んでいる様子の菅原さん。男の子ばかりを溺愛する彼女の義母に、私の母が重なります。
問題は、義母がふたりの孫娘をどこまで受け入れているのか、ということ。もしご主人がおっしゃる通り改心していれば、すべては杞憂に終わるのですが、どうにかしてそれを確かめる必要がありました。
「じゃあ、こういう方法はどうかな?」
まず義母に電話して、斗真くんはまだ首も座っておらず、長距離の移動で体調を崩したり、季節柄、インフルエンザなどの怖いウィルスに感染する危険もあるので、年末の帰省は、真行さんと娘ふたりだけで行くことにした、と伝えます。
初節句のお披露目に関して、菜穂子さんには風習やしきたりが分からないので、ご主人と義母に一任し、御節句の頃には斗真くんも生後6か月になり、気候も良いので、その時に伺います、と。
結菜ちゃんと果菜ちゃんは6歳と4歳ですから、パパ一人でもお泊りも出来る年齢ですし、もし義母がふたりを傷つける言動をしたとしても、斗真くんと差別されたという記憶(体験)ではなく、『おばあちゃんは、そういう人』という印象で済みます。
そして、娘たちへの態度次第では、斗真くんには会わせないという選択肢もあり。
「結果は、お義母さん次第だから、これならご主人も納得してくれないかな?」
「それ、頂き!! 今夜、さっそくやってみるよ!」
「とにかく冷静に、ね」
「ありがとね! 相談して、良かった~!」
ちょうど幼稚園バスのお迎えの時間になり、一緒に菅原さんのお宅を出て、我が家の前でお別れしました。
その様子を、自宅の門の脇から見ていた、葛岡さんのおばあちゃん。私が玄関に入るより、一瞬早く声を掛けて来ました。
「あれ、今、お戻り?」
「あ、葛岡さん、こんにちは」
「そういえば、先週の不燃ごみのことなんだけど~」
すかさず、私は手に持っていた紙袋を翳し、申し訳なさそうな声で言いました。
「すみません、冷凍物があるので、急いで入れないといけないんです」
「ああ、じゃあ、早く冷蔵庫に入れてらっしゃい」
「そうしますね。それじゃ、さようなら」
あえて『さようなら』と別れの挨拶をした私に、おばあちゃんは少し困惑の表情をしていましたが、私が出てくる様子がないと分かると、そのまま自宅へ戻って行きました。
これは、菅原さんからのアドバイス。ポイントは『問答無用』だといいます。
「あのタイプは、相手が留まる限り喋り続けるから、その場から立ち去ることだよ」
「でも、待ってられたりするとプレッシャーだよ?」
「そこなんだよ。問答無用に、『さよなら~』って言って、そのままフェードアウトすれば、諦めるから」
菅原さんのおっしゃる通り、あっけないほど簡単にクリアすることが出来ました。菅原さん曰く、
「他人事だと的確にアドバイス出来るのに、自分のことになると、なかなか思い通りにならないものだよね」
まさしく、おっしゃる通りでございます。
さて、その後の菅原家はと申しますと。
その夜、仕事から帰宅した真行さんに話したところ、それならと快諾し、早速母親に電話で伝えると、それまでの猫なで声から一転、横暴な口調で言ったのです。
「はあ? 何で娘を連れて来る必要がある? 長男だけ連れて来ればいい!」
「ちょっと待てよ! 娘も息子も同じ孫じゃないのかよ?」
「何度も同じことを言わせるな。男以外、孫とは認めん! つべこべ言わずに、さっさと長男を連れて来い!」
耳を疑うような母親の言葉に、ようやく目が覚めた真行さん。結局それが本心だったと知り、怒りに満ちた声で言いました。
「よく分かった! そういう料簡なら、子供は連れて行かないから!」
「菜穂子がそう言わせてるのか!? 情けない男だな、お前も!」
「も、って何だよ!?」
「敏孝にも節句には祝いに来いといったが、断りよった。男も産めん嫁が、偉そうに指図しとるんだろうと言ってやったら、勝手に電話を切りよった」
「そんなこと言ったのか!」
「とにかく、節句には必ず来い! もう、赤飯も引き出物も手配してあるんだからな!」
「んなこと、知るか! そっちには行かんからな!!」
電話を切ってからも、しばらく肩で息をしていた真行さんでしたが、菜穂子さんの顔を見て深々と頭を下げると、謝罪をされたそうです。
菜穂子さんが言った通り、母親は何一つ変わっておらず、自分の考えの甘さで、危うく娘たちを傷つけるところだった、見抜けなかった自分が馬鹿だった、と。
そういうわけで、お正月も初節句も、実家には帰らないということで決着したのです。
「ただね、本当に初節句に行かなくていいのかな? お祝い事だし、もう引き出物とかの手配もしてあるって言ってるし…」
「来年の五月の話でしょ? 今なら、余裕でキャンセル出来るんじゃない?」
「あ、確かに」
「それに、お祝いを強行して、満足するのはお義母さんだけで、下手すれば、お義兄さん家族と亀裂が入りそう」
「うん、その通り!」
「初節句って、子供の成長や幸せを願う行事なのに、大人の事情でドロドロしたら、何のためのお祝いなんだか分からなくなるよね」
少しの沈黙の後、菅原さんはにっこりと笑って、いつもの元気な声で言いました。
「そうだよね。松武さんの言う通りだよ。おかげで踏ん切りがついた。今晩主人と私から、はっきりとお断りの電話を入れるわ」
案の定、義母は激怒したそうですが、次男夫婦の意思が固いと分かると、『勝手にしろ!』と捨て台詞を吐き、電話を切られたそう。以後、実家との交流は、これまで通り必要最小限に留めることになりました。
子供たちへの面会は、幼い間は基本的にNGとしました。子供たちにはこれまでの経緯は伝えず、『遠くにいてなかなか会えない』という設定。
やがて、彼らが現実を受け止められる年齢になり、自らの意志で『おばあちゃんに会いたい』と希望したときは、自由にさせようと決めたそうです。
このことを兄夫婦に伝えると、ことのほか喜んだのは兄嫁の恵さんでした。
斗真くんが生まれてからというもの、義母から嫌味の手紙やはがきがエスカレートし、そのうち次男夫婦も攻撃してくるのではと、疑心暗鬼になっていたといいます。
斗真くんの誕生が、そんなところにまで影響を与えていたなど思いもよらず、傷つけていたことを謝罪し、『悪いのは義母』ということで意気投合したふたり。
ご縁あって親戚になった者同士、今後とも仲良くして行こうと約束し、五月のゴールデンウィークには、初節句のお祝いを兼ねて、お泊りに来る計画をしているのだとか。
勿論、そこに義母は入っておりません。
結局、なぜ菅原さんの母親がそれほどまでに男の子を溺愛し、女の子を嫌悪するのかは、分からないままです。
私の母の場合、プライドを傷つけられたことが引き金でしたが、ただ単に古くからの風潮を踏襲しているだけとは考えにくく、あるいは自分が女の子に生まれたことで、何かとても嫌な経験をしたのかも知れません。
たまたま生まれた子供は二人とも男の子でしたが、もし、女の子が生ならどうしていたのでしょう。変わらず嫌悪しながら育てたのか、それとも私の大叔父のように心変わりしたのか、あるいは…
ふと頭を過る疑問。彼女の子供は、本当に敏孝さんと真行さんだけだったのでしょうか。
あくまで可能性ですが、生まれてすぐ里子に出したとも考えられます。現に結菜ちゃんが生まれた時、『女なんか育てるのは金の無駄だから養子に出せ』と言っていたのですから。
戸籍謄本を見れば分かることですが、もし非合法に里子に出していたら、永遠に分からないままです。ただその場合、先方にも知られたくない事情があってのことでしょうし、あえて詮索しないことも大人の選択。
真実を知るのは母親のみ。今更どうすることも出来ませんし、これからも、彼女の人間性が変わることはないでしょう。
多分、生きている限り。
朝から降り始めた雨は、時々弱まったり激しくなったりしながら、一日中降り続けていました。
珍しく、夜9時を回ってからインターホンが鳴り、雨の中、お向かいの萩澤さんが回覧板を持っていらっしゃいました。
「こんな時間にごめんね。うちにもさっき届いたとこで、これ『大至急』で回して欲しいんだって」
「雨の中ありがとう。すぐに回すね」
「宜しく。それじゃ、お休みなさい」
『至急』という赤い印鑑文字の前に、わざわざ手書きで『大』が書き足されたその書類は、近々開通する地下鉄の駅に隣接するショッピングモールの建設に関し、明日の夜7時から、緊急で説明会が開かれるという内容のものでした。
しばらく前から、それらしい噂があったのですが、その立地場所に関していくつか候補があがる中、最終的に私たちが住むエリアの最寄り駅に決定し、地域住民に向け、一度きちんと説明会をして欲しい旨、自治会側から申し入れをしていたのです。
便利になるのは良いことですが、駅前の渋滞など、これまでになかった問題も出てくることから、多くの方が関心を持っている事案でした。
すぐに閲覧し、日付を記入しようとして、回覧板が湿っていることに気づきました。この雨の中、どこかのお宅の郵便受けに入っている間に濡れてしまったのでしょう。
とりあえずボールペンで記入し、急いで葛岡さん宅へ持って伺うと、遅い時間にも関わらず、応対されたのはおばあちゃんでした。車庫に奥さんの車はなく、洗面所の明かりが点いていたので、おそらく、柊くんは入浴中なのでしょう。
「何、こんな時間に? 嫁さんが残業で、まだ帰ってないんだけど」
「遅くにすみません。これ『大至急』だそうですから、見たら、急いで回してほしいそうです」
「回覧板?」
そう言うと、おばあちゃんは何か言いたげにしげしげと回覧板を眺めていたのですが、時間も遅く、雨脚も強くなっていましたので、『では、お願いします』と言い残し、その場を切り上げました。
翌日の夕方、郵便物を見に行くと、愛犬の愛子ちゃんとお散歩中の百合原さんが通り掛かり、今夜の説明会の話をしていたときでした。
斜め向かいの葛岡さんのおばあちゃんが、怒りに満ちた表情でこちらに向かって歩いて来たのです。その手には、昨晩回したはずの回覧板…
「ちょっと、松武さん! 昨日もらった回覧板、何あれ!? よくまあ、あんなびしょびしょで渡せたもんだわねぇ~!」
「回覧板って、昨日持って行ったのですか!?」
「そうよ! 嫁さんに、朝一番で回すように言われたけど、あんなんじゃ渡せないから、今まで乾かしてたのよ! ホントに今どきの人は、どういう神経してるんだか!」
思わず百合原さんと顔を見合わせた私。時刻はすでに5時半。説明会の開始まで、一時間半しかありません。
「ちょっと、回覧板かしてください!!」
「もう、乱暴ねぇ~! 何する…!」
「だから、『大至急』なんですってばっ!」
すぐに自宅のプリンターでコピーを撮り、百合原さんと手分けして、未回覧のお宅に配布して回りました。
幸いどのお宅もご在宅で、何とか時間前に連絡する事が出来、ふたりしてホッと胸を撫で下ろしていると、よく事情が呑み込めていないおばあちゃんが、鬼の形相で怒り出したのです。
「いったい、どういうこと!? 説明はしないわ、回覧板を奪い取るわ、ちゃんと分かるように言いなさい!!」
丁度そこへ、7時からの説明会に参加するため、いつもより早めに退社された葛岡さんの奥さんが、車で戻って来られました。
ただならぬ状況に何事かと駆け寄り、事の次第を知るや、おばあちゃんを叱りつける葛岡さん。
「何でそういう勝手なことをするの!? 朝一番で、回すように言ったじゃない!!」
「だって、濡れてるんだから、乾かさないと駄目じゃない!」
「物事には、優先順位ってものがあるでしょ! 夕方までに回し終えなきゃいけない回覧を、夕方まで掛かって乾かすほうが、よっぽど駄目じゃないの!?」
「だったら、先にそう言ってくれれば…」
「松武さんが、『大至急』って言ってたって、私に渡すとき言ったよね!? 私が持って行こうとしたら、おばあちゃん、自分で持って行くって言うから、必ず朝一番で回すようにとも言ったよね!?」
お嫁さんの糾弾に、ぐうの音も出ないおばあちゃん。
すると突然、くるりと向きを変えて歩き出したかと思うと、まるで何もなかったかのように、シレッと自宅の中へ消えて行ったのです。
「…ってか、無視かいっ!!」
白々しくも鮮やかなフェードアウトに、思わずズッコケそうになる私たち3人と、意味が分からず、首を傾げ尻尾を振っているわんこ。
我が家と葛岡家から、外の騒ぎを窓に張り付いてガン見している男子高校生1名と計5にゃん。さらに、他のお宅の窓という窓から、ご近所の皆さんがこちらの様子を伺っていました。
葛岡さんは、おばあちゃんが迷惑を掛けたことを謝罪し、その後、7時の説明会へ向かうべく、6時45分に待ち合わせの約束をして、それぞれ自宅に戻りました。
『にっこり笑って、バンパイアの胸に杭を打ち込め作戦』第三弾。今回は、事実上の敗北ですが、回覧だけは完遂出来たので、引き分けということで。
故意ではないにしろ、下手すれば説明会までに回覧が間に合わない事態になったことは、大きな誤算でした。そうまでして気を引きたいのなら、スルーしてはいけなかったのかも知れません。
そうしたおばあちゃんの要望を、すべて私が受け止める必要はないのでしょうが、葛岡さんに叱られていたおばあちゃんに、何だか後味の悪さが残りました。
それからしばらくは、人が変わったように大人しくなり、顔を合わせてもそそくさと立ち去るようになったおばあちゃん。
ですが、それも時間の問題。過ぎたことは忘れて、すぐに元に戻ると思います。何しろ、おばあちゃんにとって、忘却は最大の武器ですから。
そうして、思いのほか短期間で、ゾンビのように復活したおばあちゃんには、まだまだこの先も振り回されることになるのですが、それはまた、別のお話。
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