episode.4 ~墓守~

 屋外は30度を軽く超える真夏日。日本に住む限り、夏の暑さは受け入れるしかないと頭では理解しても、こう連日猛暑が続くと心が折れそうになります。


 とはいっても、空調された室内は快適な気温と湿度に保たれ、屋外に出ない限り、暑い思いをすることもないのですが、つい口癖で『暑い』を連発してしまうのが人間のさがなのでしょう。


 気持ちよさそうにソファーで微睡む猫たちにつられ、私もウトウトしかかったとき、不意に鳴った電話の着信音で現実に引き戻されました。





 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。


 電話はご近所に住む穂高静花さんから。彼女は、かつて私が勤めていた会社の先輩で、退職後も静花さんはじめ、他の同僚たちとの交流は続いていました。


 我が家がマイホームを建てていた同じ頃、我が家からわずか2ブロックの場所に彼女もマイホームを建築していて、転居のお知らせに驚いた静花さんが直接我が家を訪問し、初めてご近所さんになったことを知りました。


 現在も同じ部署で勤務している静花さん。当時まだ浸透していなかった産休・育休を取得したパイオニアでもあり、その後、彼女に続いた女子社員は数知れず。今ではその実力と資格を認められ、主任に昇格。


 ですが、一般職の彼女が育児をしながらここまで来るには、並大抵のことではなかったのも事実です。





 静花さんの用件は、明日から3日間、家族で毎年恒例の北海道旅行に出掛ける旨の連絡でした。



「留守中、何かあったら宜しくね!」


「了解~! 安心して、楽しんで来てね」



 特に決まりというわけではないのですが、泊りがけでお出かけする際、住民の皆さんの間で、隣近所や仲の良いお宅に一声掛ける習慣がありました。


 その理由の一つは、緊急の回覧板がストップする可能性への配慮と、もう一つは、防犯という観点から。


 例えば、偶発的に開いてしまった門扉や、お庭の中で倒れたものが何日も放置されていると、留守と気付かれ、空き巣に狙われる可能性が高くなり、その対処をするだけでも防犯に繋がるのです。





 我が家から静花さん宅までは、徒歩で1分も掛からない距離ですが、彼女が電話で連絡してきたのには、猛暑以外にも理由がありました。それは、葛岡さんのおばあちゃんです。


 以前、お向かいの萩澤さんが旅行でお留守だったときのこと。私に声を掛けて来たおばあちゃんが、ご近所中に響き渡るような大きな声で、



「あ、松武さ~ん! うちの嫁さんから聞いたんだけど、萩澤さんとこ、一昨日から旅行に行かれてるんだって~? 4泊5日だから、帰ってくるのは明後日かねぇ~?」



 ひえぇぇぇぇぇぇ~~~!!!!


 慌てておばあちゃんを庭の端っこまで引っ張り込み、小さな声で、かつ、きつい口調で注意しました。



「そんな大きな声で、誰かに聞かれたらどうするんですかっ!」


「何で? 萩澤さんのことは、ご近所の皆さん知ってるでしょ~?」


「ご近所の皆さんは良いんですっ! 問題は、もし物陰に潜んだ泥棒さんに聞かれたらってこと!」



 そこで、ようやく事の重大さが理解出来たおばあちゃん。慌てて両手で口を押さえても、後の祭りです。幸い何事もありませんでしたが、萩澤さんが旅行から戻られるまでハラハラしました。


 他にも、誰かに尋ねられれば、住所や電話番号、家族構成、お勤め先といった個人情報を、本人の許可なく勝手に教えてしまう癖があるおばあちゃん。年代的に、個人情報を漏洩する危険性が理解出来ないのでしょう。


 本人にとっては、純粋に親切心からしていることで、悪気はないものの、事と次第によっては大事に発展する可能性もあるご時世ですから、悩ましいところです。



「ですからね、いつも町内のことをとても気にかけてくださっている葛岡さんに知っておいて頂くのは、皆さんも心強いと思うんです。ただ、世の中には悪い人もいますから、話す時は気を付けないと」



 もっと強く言いたい気持ちを抑え、おばあちゃんのプライドを傷つけないよう、言葉を選びながら忠告しました。


 すると、それに気を良くし、嬉しそうな顔で、



「ああ、そうだね~! 私は耳が遠いから、どうしても声が大きくなって、気を付けないとねぇ~!」



 問題の本質がそこではないことに気が付かないのか、あるいは気付かないふりをしているのかは分かりませんが、耳が遠いといいながら、余計なことだけはすべて聞き通せる地獄耳の持ち主。


 その真偽を確かめず、吹聴するという悪い癖があることも周知の事実。よって、彼女に情報が渡ることは、スピーカーの前で内緒話をするのも同然でした。


 そういう理由で、重要な連絡事項はすべて電話やメールで済まされるようになった次第です。





 数日後、留守中の御礼にと、限定品の特産物やスイーツなど、たくさんのお土産を持って遊びに来てくれた静花さん。


 彼女とは、かつて私が不動産部に配属になってから、かれこれ14年のお付き合いになりますが、静花さんご夫妻と、私たちかつての同僚は、ある大きな秘密を共有していたのです。


 それはまだ、長女の莉帆ちゃんが生まれる前のこと。彼女の出生に関して、出来れば彼女には知られたくない事実でもありました。





 静花さんは、ご主人の伸亮さんと、中学1年生の長女、莉帆ちゃんの3人家族。


 共働きだったため、莉帆ちゃんが幼い頃は学童保育を利用していましたが、私がご近所ということもあり、この街へ転入してからは一人でお留守番するようになっていました。


 ところが彼女、結構なうっかりさんで、しばしば鍵を忘れることがあり、そんな時は決まって我が家へ避難。


 一応、スペアキーを預かってはいましたが、塾や習い事がない日は一人でお家にいても楽しくないらしく、私にとっても、生まれる前から知っている子ですから、莉帆ちゃんの訪問は歓迎でした。


 動物が大好きで、前からペットを飼いたいと希望していましたが、きちんとお世話が出来る年齢になったら飼っても良いという約束をしていて、我が家へ来るたびに、2匹の猫たちを可愛がりながら、



「どっちにしようかな~? やっぱり猫かな~? 犬もいいよな~」



 そんな彼女の姿を、私も微笑ましく見ておりました。





 それは、今年の一月半ば頃のこと。その日も、鍵を忘れて自宅に入れなかった莉帆ちゃんが、我が家へ避難しに来ました。



「こうめさん、また鍵がどっか行っちゃった。中で待ってていい?」


「勿論。ママに連絡は?」


「ケータイの留守電にいれておいた」


「OK! おやつにするから、手を洗っておいで」


「お邪魔しま~す!」



 玄関にランドセルを置き、慣れた様子で洗面所で手を洗うと、リビングにいる猫たちに駆け寄り、遊び始める小6女子。



「クッキーか、アイスクリームか、肉まんがあるけど?」


「肉まん! …で、お願いします。すみませんが…」



 間もなく中学生という年齢になると、多少の遠慮が出てくるのか、あるいはママから教育的指導が入ったのかは分かりませんが、子供のいない私にはこうしたシチュエーションは新鮮で、もし我が家にも娘がいたらと想像が膨らむというもの。


 同時に、そろそろ難しいお年頃に差し掛かる時期でもあり、静花さんに限らず、同年代のお子さんをお持ちの親御さんのご苦労が偲ばれます。





 時刻は午後7時過ぎ。普段は6時半には帰宅し、遅くなる際には必ず連絡を入れる静花さんですが、莉帆ちゃんの携帯を確認すると、着信履歴はあるものの、伝言はなし。


 さすがに今日はお迎えが遅いと感じ始めていた時、インターホンが鳴り、静花さんの姿がモニターに映りました。


 玄関に入るや、鍵を開けに出た私を押し退けるように転がり込み、



「莉帆!? いるの!? 莉帆、返事して!!」



 大声で娘の名を呼びながら、靴も脱がずに上がり込もうとする狼狽ぶりです。



「ママ? どうし…」


「よか…良かっ…た!」



 そう言うとペタリと座り込み、激しく嗚咽し始めた静花さん。


 莉帆ちゃんも手伝い、二人で両脇から静花さんを抱えるようにして、リビングのソファーに座らせ、落ち着くのを待ってから何があったのかを聞くことに。


 ですが、いつまで経っても一向に治まらず、尋常ではない母親の様子に、莉帆ちゃんも不安そうに、ぴったりと寄り添って座っていました。


 いつも冷静沈着な静花さんがここまで動揺するのには、相当の理由があるのでしょうし、まだ6年生の莉帆ちゃんとふたりきりで帰せば、心配が増大するだけですから、とりあえずここにいるように言い、その旨をご主人の伸亮さんに連絡しました。


 小一時間ほどしてお迎えに来た伸亮さん。ちょうど、私の夫と帰宅が重なり、静花さんもこんな状態でしたので、夕食をお誘いすると、伸亮さんは少し考えて、



「それじゃ、莉帆だけお世話になっても良いかな? 静花は、とても食べられる状態じゃなさそうだし、側にいたほうがいいだろうから」


「分かった。落ち着いたら、迎えに来て上げてね。静花さん、お大事にね」


「ご迷惑をお掛けするけど、宜しくお願いします」



 そう言って深々と頭を下げると、伸亮さんは静花さんを支えながら、ご自宅へ戻って行きました。


 いくら我が家が慣れているとはいえ、この状況で一人残された莉帆ちゃん。不安そうな表情は隠せません。


 今夜の夕食のメニューは、パスタとピザ。そこで、少しでも莉帆ちゃんの気が紛れればと、一緒に両親へのお土産のピザも作ることにしました。



「こうめさん、ママ、どうしたのかな? どこか病気なのかな?」


「分からないけど、パパも側にいてくれるから」


「莉帆は、どうすればいい?」


「そうだね、ママがして欲しいことをしてあげたり、そっとしてあげるのも大事かもね」


「ママ、元気になるよね?」


「きっとね。でも、もし何かあったら、すぐにおばちゃんところに言っておいでよね?」


「うん。…あ、はい。宜しくお願いします」


「敬語なんていいから。さあ、沢山作って、莉帆ちゃんはたくさん食べてね」



 伸亮さんが莉帆ちゃんを迎えに来たのは、午後10時を回っていました。


 静花さんはお薬を飲んで横になっているそうで、色々と話したいことはありましたが、莉帆ちゃんの前なのでお互い何も言わず。


 伸亮さんは私たちに何度も御礼を言い、莉帆ちゃんと一緒に作ったピザを持って、その日は帰宅されました。





 翌日、再び静花さんご夫妻が訪ねて来たのは、午前9時を回った時刻。平日のため、ふたりともお仕事はお休みされたとのこと。



「朝からごめん。それに、昨日はご迷惑をお掛けして…」


「ううん、それより、大丈夫?」


「夕べ、莉帆を預かって貰ってた間に、二人で話すことが出来たから。それでね、事情を知ってるこうめちゃんにも、聞いておいて欲しくて」


「やっぱり、あのこと絡み?」



 その問いかけに無言で頷き、深い溜め息をついた静花さんと伸亮さん。


 昨夜の動揺ぶりから、何となくそんな予感はしていましたが、二人から聞かされたあまりにも身勝手なその内容に、当時の事情を知る私も強い憤りを覚えました。





 ことの始まりは、まだ静花さんと伸亮さんが出会う以前に遡ります。当時28歳だった静花さんには、柴田直樹さんという恋人がいました。


 ふたりは結婚も視野に入れた真面目なお付き合いで、静花さんの妊娠を機に、直樹さんの実家へご挨拶に伺うことにしたのです。


 ところが、母親の貴代さんは、初対面の静花さんに向かって、こう言いました。



「冗談じゃないわよ。我が家は由緒ある家系なのだから、それなりの方でないとね。あなた、ご実家は何を?」



 幼い頃に父親を亡くした静花さん。その後、女手一つで育ててくれた母親も、彼女が社会人になった年にこの世を去りました。


 母親の苦労を見てきた静花さんは、奨学金で国立大学に進学し、在学中に宅地建物取引主任者(宅地建物取引士)の資格を取得した努力家で、兄弟はおらず、親戚とも疎遠で、ほとんど天涯孤独の境遇でした。





 一方、直樹さんの家系は、かつて家老も務めたという武家の家柄で、静花さん同様、父親はずっと以前に他界。違うのは、代々受け継いだ資産で何不自由なく暮らして来ました。


 一人っ子の直樹さんが実家を継がなければならないことは、交際当初から承知しており、同じ一人っ子でも縛られるもののない静花さんの立場なら、結婚する上での支障はないと思っていたふたり。


 しかし、静花さんの家柄や生立ちは、何よりも格式を重んじる貴代さんのお眼鏡に適わず、さらにとんでもないことを言い出したのです。



「だいたい直樹、どうしてこんな人なの? あなたなら、もっと顔もスタイルも頭も家柄も良い女性、いくらでも選べたでしょうに。それを、こんなチビでブスで、まるで豚みたいな娘をお嫁さんにしたいなんて、気は確かなの? これじゃ恥ずかしくて、表にも出せないでしょ」



 あまりの暴言に、思わず言葉を失うふたり。


 実物の静花さんは清楚な雰囲気の美人で、知的な人間性でしたから、貴代さんの暴言は、一人息子を盗られたことへの嫉妬から出たものでした。


 とはいえ、人として許されるものではなく、怒りを露わにし、取り消して謝罪するように詰め寄る直樹さんの声にも聞く耳持たず、静花さんとは目を合わせようともしない貴代さん。



「それに、静花は妊娠しているんだ。いくら母さんが認めないって言ったって、僕たちは結婚するからね」


「堕ろしなさい。子供なんて、またいくらでも出来るでしょ?」


「母さん…!?」


「どうせ、財産目当てだったんでしょうけど、お生憎さま。手術の費用と手切れ金は払いますから、二度と息子の前に現れないで頂戴。さ、直樹、この人にお帰り頂いて」



 それだけ言うと、貴代さんは席を立ち、部屋を出て行きました。


 あまりのショックに言葉も発せず、ただ震えながら座っていた静花さん。応接間に陳列された高価な調度品が、自分との格差を突き付けられているようで、いたたまれない気持ちになります。


 直樹さんは母親の非礼を何度も謝罪し、その日は静花さんをマンションまで送ると、もう一度貴代さんと話し合うといい残し、自宅へ戻りました。





 数日後、直樹さんに呼び出され、待ち合わせのファミレスで静花さんを待っていたのは、直樹さんの他にもう一名、貴代さんの代理人を名乗る人でした。


 彼は分厚い封筒を差し出し、その中身が貴代さんからの堕胎費用と慰謝料兼手切れ金であることを説明し、帯封がついたままの100万円の束を、静花さんに確認するように言いました。


 それと一緒に、お腹の子供を処分することへの同意書と、今後一切、直樹さんに会わないという誓約書も提示したのです。


 唖然とする静花さんの真正面で、直樹さんは黙ってうつむいているばかり。こんな重大なことをこの場で即決など出来るはずもなく、『二人だけで話がしたい』と、しばらく代理人に席を外してもらいました。



「あなたのお母さんのお考えは、よく分かった。でも、私が知りたいのは、直樹さん自身の気持ちなの」



 すると、暗い顔で下を向いたまま、直樹さんは答えました。



「あれから、必死で母を説得したんだけど、どうやっても無理で。君のことは、とても愛しているけれど、僕は家の跡継ぎだし、母を一人にするわけにも行かなくて…」


「そう…」


「ごめん…」



 その言葉で、静花さんの心は決まりました。むしろこうなる以前に、貴代さんと初めて会ったときから、自分が嫁として受け入れられることはないと分かっていたのです。


 何より、自分の血を分けた子供より、自分を産んだ母親を選んだ直樹さんに心底幻滅し、あれほど愛していた彼に、今は一縷の未練も感じない自分が冷血にすら思えました。


 再び代理人を呼び戻し、一度持ち帰ってじっくり考えたい旨を伝え、この日はお金を受け取ることはせず、書類も白紙のまま静花さんが預かる形で別れました。





 翌日、静花さんから『相談がある』と呼び出されたのは、不動産部の同僚女子、智枝さんとさゆりちゃん、それに私たちと仲が良かった受付の梨花さんと乃理ちゃん、そして私の5人。


 一年前、不動産部で起こったとある事件で、私たちが立ち上げた『チーム・プロジェクト8』の女子メンバー全員ということになるのですが、その事件というのは、また別のお話。


 静花さんから妊娠したことを聞いていた私たちは、結婚報告だと思っていただけに、彼女から伝えられた内容はあまりにも衝撃的で、かける言葉も見つからず、重苦しい沈黙の時間が流れました。


 それを破ったのは、静花さんのさらに意外な言葉でした。



「私ね、彼とは別れる決心は出来てるの。でも、子供は産もうと思うの」


「ちょっと待ってよ、静花さん!」


「正気なんですか!? 産んで、一人で育てるんですか!?」


「会社は? まさか退職しないですよね?」



 そういうことも、すでに考え尽くしていたらしく、とても落ち着いた表情と口調で、一人一人の顔を見ながら答える静花さん。



「勿論、子供を産んだって、会社を辞めるつもりはないわ。そのための宅建の資格でもあるし。ただ、未婚のまま出産した場合の会社の規約がどうなのかってことと、もう一つは…」


「もう一つは?」


「むこうは、子供を堕ろせって、お金まで出してきてるのに、私が勝手に子供を産んだ場合、罪になるのかってこと。むこうは、弁護士が付いてるから」



 確かに、そのどちらとも難しい問題です。


 そこで、一つ目の『未婚出産』については、かつての私のお世話係で、総務の女帝都築さんに訊くことにして、法律的な部分について、思い出したように智枝さんが言いました。



「そういえば、木山って法学部出身じゃなかったっけ?」


「あ! 確か、そう言ってましたね」



 内容が内容だけに、いくら親しい同僚とはいえ、男性の木山さんに相談するのは気が引けますが、苦労人で、部署の中でも信頼の厚い彼ならということで、まだ残業をしていた彼を呼び出し合流。


 話を聞いて、相当驚いてはいましたが、彼が知る限りで良いので意見を求めると、



「確か、強制的に堕胎させることは出来ないはずだと思う。むしろ、無理やりそんなことしたら、犯罪になるんじゃないかな?」



 とのこと。ただ、木山さんも法律の専門家ではないため確証がありません。


 そこで、大学時代の友人で、法律事務所で見習いをしながら司法試験に向けて勉強している穂高さんに連絡を取り、今から来てくれることになりました。


 弁護士さんの卵と聞いて想像した人物像とは違い、とても気さくで明るい感じの彼は、今回のことを、あくまで友達として相談に乗ってくれるとのこと。


 もし、今後トラブルに発展したり、静花さんが訴訟を起こしたいという気持ちになれば、その時点で正式に弁護士事務所に相談を持ち込めば良いからとアドバイスしてくれて、そんなところも好感を集めました。





 穂高さんによれば、やはり堕胎を強要することは出来ないそうで、子供を出産する権利は静花さん(母親)にあり、直樹さん(父親)に対し生まれた子供の認知や養育費の請求等も出来るとのこと。


 同意書についても、サインしたからと言って約束を守らなかったとしても、それで罪に問われることはないのですが、もし相手に訴えられた際、場合によっては不利になることもあるのだそうです。


 たとえば、誓約書の中に『子供の認知や養育費を請求しない』といった内容があると、それを請求することは出来ても、裁判では不利な判決が出る可能性が高いという程度のことで、とりあえずひと安心。


 逆に、静花さんが今後一切、認知や養育費の請求をするつもりもなく、直樹さん親子と関わりを持ちたくないと考えているのなら、むしろその旨の覚書は有利かも知れないとのこと。


 相手は、後になってそうした請求をされると不都合なわけで、こちらとしては、何らかの事情で、あちら側から子供の引き渡しを要求されては困ります。


 法律的な強制力こそないにせよ、後で言った言わないのトラブルを避けるため、何より裁判に発展した場合に備える意味でも、書類を交わしておくことのメリットを説明してくれました。





 その後、穂高さんのアドバイスに従って私たちで書類を作成し、以降の話し合いの場には立会人として必ず誰かが同席し、その都度会話を録音しました。


 穂高さんに同席して頂ければ心強いのですが、まだ弁護士の卵という立場である以上、直接交渉事に巻き込むわけには行かず、事前に綿密に打ち合わせをし、静花さんを中心に私たちがフォローするという形で、話し合いを進めたのです。


 あちらの最大の要望である中絶に関しては、直接的な表現は避け、『妊娠については、一切を静花さんが責任を持ち、それに対し、直樹さん側は、今後一切関わらない』という、お互いが納得出来る形の記載で合意。


 貴代さんからの100万円は、静花さんの強い希望で受け取らないことで合意し、これ以降二度と会わないという誓約書に、相手方は貴代さんの代理人、こちらは智枝さんと私が立会人としてサインし、話し合いは終了しました。





 もう一つの懸念、『未婚で出産した場合の、会社の扱い』がどうなるのか、あくまで一般論として、総務の都築さんに尋ねたところ、労働基準法では問題ないものの、会社としては前例がないので、何とも言えないとのこと。


 当時は、既婚女性が仕事を続けるのも難しかった時代。妊娠・出産ともなれば、退職するのが当然という風潮の中、未婚でとなると、周囲からの好奇の目に晒され、頭の固い上層部から圧力が掛かるかも知れません。


 最大の強みは、静花さんが宅建の資格を持っていること。不動産部にとっては必要不可欠ですから、おいそれと退職させることはないでしょうが、それでも安心は出来ません。


 何か良い手立てはないか、皆であれこれ考えていたのですが、その解決策は、あっけなく舞い込んで来たのです。





 話し合いが上手くいった御礼に、私たち女性6人で、木山さんと穂高さんをお食事にお誘いしたときのこと。


 御礼というのは口実で、法律的に詳しい穂高さんのお知恵をお借り出来ればというのが本音でした。


 静花さんの今後の会社での処遇がどうなるかで、盛り上がる私たちに、



「要は、結婚っていう大義名分があれば、問題ないわけですよね?」


「それはそうなんですけどね」


「だったら、僕と結婚しませんか?」



 あまりの突拍子もない穂高さんの発言に、誰もが一瞬『ふ~ん』とスルーしかけた後、彼を二度見したほどです。


 ぶっ飛んだ発言に、親友の木山さんも、



「おい、穂高。いくらなんでも、そういう冗談は…」


「冗談なんかじゃないよ。うちも母子家庭だったから、シングルマザーの苦労は身をもって経験してる」



 今でこそ、随分と子供の権利が守られるようになりましたが、当時は『婚外子』であることが、人生を左右するほどのハンディキャップだったご時世です。


 穂高さんの申し出は、彼自身が経験した、今後静花さん母子が直面するであろう問題をクリアするには、有効かつ手っ取り早い手段ではありますが、穂高さん、静花さん、そして生まれてくる子供の人生と戸籍に関わる重大なことです。


 今後、お互いの状況や心境の変化がないとも限らず、何より、お腹の子供が穂高さんの実子ではないことだけは事実。無関係な彼を、今回の出来事に巻き込む道理などありません。


 すると穂高さんは、そんな静花さんの思いを察するように、



「僕の母はすでに他界していて、他に親戚もいない天涯孤独の身です。もう一つ打ち明ければ、幼い頃の病気が原因で、僕には子供が出来ません」


「そうなんですか…?」


「確かに、生まれる子供は僕の本当の子供ではありませんが、入籍すれば、特に怪しまれることなく、戸籍上は実子として受理されますし、婚姻後200日以内に出産した場合は、後から親子関係不存在確認調停の申し立てをすれば、戸籍の訂正をすることも出来ます」



 確かにその方法なら、子供は夫婦の嫡出子として戸籍に記載されますし、もし今後、穂高さんと子供が親子であることに不都合が生じたとき、戸籍を訂正することも可能です。


 法律事務所で働いていると、そんな相談案件がたくさんあるのでしょうか、穂高さんの知識と発想には誰もが感服するばかり。


 が、静花さんだけは背徳感が払拭しきれない様子。



「でも、やっぱりこんなことに協力してもらうなんて、人としてどうかと…」


「こう考えたらどうですか? 僕はあなたを心から応援したいと思って、それが『プロポーズ』という形だった。世の中には、子連れの人と再婚するカップルだってたくさんいるでしょう? その子が、生まれる前か後かの違いだけです」


「おっしゃることは正論ですけど、会って間もないうえに、お互いのこともよく知らないで結婚なんて…」


「お見合い結婚だったら、それが普通ですよね? でも、もしどうしてもあなたが僕を受け入れられないなら、それは尊重します」


「そんな!」


「子供が生まれるまで、まだ時間がありますから、じっくり考えてみて下さい」



 穂高さんの言葉には、一つ一つに説得力があり、第三者である私たちは勿論、当事者であり、元来真面目の塊のような静花さんの心も、少しずつ動かされ始めていたのも事実。



「一つ、伺っても良いですか?」


「はい?」


「穂高さんは、私と結婚して、どんなメリットがあるんでしょう?」


「守るべき家族が出来ること、ですかね」



 何の躊躇もなく、そう答えた穂高さん。その言葉に、嘘偽りがなかったことは、その後の彼らを見てきた私たちが、何よりの証人です。





 1か月後、入籍したふたりのために、友人たちの合同主催で手作りのお祝いパーティーをし、その半年後に誕生した元気な女の子、それが莉帆ちゃんです。


 その後、穂高さんも無事司法試験に合格し、静花さんも会社に復帰。親族のフォローがない共働きでの子育ては大変でしたが、問題が持ち上がるたび協力して乗り越えたふたり。


 莉帆ちゃんの成長と共に、徐々に問題も少なくなり、静花さんは実力が評価され、一般職から初の女性主任に昇格、穂高さんは務めていた事務所を独立し、個人で法律事務所を立ちあげました。


 穂高法律事務所には、多くの会社や個人から顧問の引き合いがあり、私の夫の会社も、穂高先生に顧問弁護士をして頂いており、その当時、色々な出来事に翻弄されたのですが、それはまた、別のお話。


 当初は、生まれてくる子供のための偽装結婚というスタンスで始まった結婚生活でしたが、穂高さんの言葉通り、少しずつ着実に愛情と絆を強めていったこのファミリー。


 確かに、莉帆ちゃんと穂高さんには、遺伝子上の父娘関係はありませんが、戸籍上はれっきとした親子であり、真実を知るのは限られた人間だけ。その事実は黙されたまま、この先も莉帆ちゃん本人に告げないのが、私たちの暗黙の了解でした。





 そうして、莉帆ちゃんが間もなく小学校を卒業という、一月のその日。鍵を忘れ、我が家に避難していたその頃、いつものように、会社を出た静花さんの前に、突然現れた60代後半の女性。


 歳月が彼女の容姿に年齢を重ねてはいたものの、瞬時に、静花さんの封印した記憶を呼び覚ましました。


 もう二度と会わないという誓約書まで交わさせたにも関わらず、今目の前にいるその人は、かつて結婚を前提に交際していた柴田直樹さんの母、貴代さんでした。


 相変わらず、人を蔑むような冷たい目で、静花さんを睨み付ける貴代さん。13年ぶりの再会で、開口一番口にしたのは、



「話があるの。私と一緒にいらっしゃい」


「私とは、二度と会わない約束では?」


「約束を破ったのは、そっちが先でしょう?」



 同じ空気を吸うのも嫌でしたが、莉帆ちゃんの存在を匂わせるその言葉に、無視するわけにも行かないと考え、ひとまず近くの喫茶店で話を聞くことに。


 そこで聞かされたのは、昨年の秋、直樹さんが不慮の事故で他界したとのこと。享年40歳、予想だにしなかった出来事に、静花さんとしても、すぐには言葉が見つかりません。


 貴代さんによれば、ふたりが別れた半年後に、直樹さんはお見合いで結婚したそうですが、3年しても子供に恵まれず、貴代さんの指示で二人は離婚。


 その後、すぐに別の女性と再婚したものの、子供に恵まれず、再び離婚。それでも懲りずに、貴代さんに勧められるまま再再婚したのですが、やはり子供は出来なかったといいます。


 かつて、静花さんとの間に子供を儲けていましたので、不妊の原因は嫁にあると思っていたのですが、年齢的なこともあり、念のため病院で調べたところ『無精子症』であることが判明したのです。


 静花さんと別れた直後、直樹さんはおたふく風邪を発症し、40度を超える熱が続いたことが原因と思われ、そうなると自然妊娠は難しくなりますが、最新の治療法なら可能性が残されており、善は急げで早速予約を取り付けたのですが。


 そんな折、直樹さんの不慮の事故によって、子供の誕生どころか、跡継ぎさえ失った貴代さんは、ふと、静花さんのお腹にいた子供が頭を過りました。


 妊娠に関しては、静花さんに一任するということで、その後どうしたのかまでは知らされておらず、弁護士に尋ねても『関わらない約束』ということで、取り合ってもらえませんでした。


 そこで、貴代さんは探偵を使い、静花さんと子供の消息を調査したところ、直樹さんと別れた直後に別の男性と結婚し、女の子を出産していたことを知りました。


 子供は夫婦の実子となっていましたが、時系列から直樹さんの子供と確信し、直樹さん亡き今、この世でただ一人、柴田家の血を継ぐ莉帆ちゃんを奪還しようと、静花さんの前に現れたのです。



「あの子は直樹の子供なんですから、こちらが引き取ると言ってるの。我が家にとって大切な跡継ぎだし、その方が、子供も幸せでしょう?」



 あの時のことを忘れたとでも言うのでしょうか。一人息子を失ったことには同情しても、あまりの身勝手な発言に、静花さんは身体が震えるのを感じました。


 今更、貴代さんが何と言おうと、自分たちの身分は法律で守られており、夫で父親である伸亮さんが法律の専門家であることは、静花さんにとって何より心強い存在です。


 問題は、何も知らない莉帆ちゃんがその事実を知ったとき、どう思い、どう受け止めるのか。年齢的にも難しい時期に差し掛かっているだけに、最も危惧する部分でした。



「さっき、自宅のほうへ伺ったけど、誰もいなかったから、わざわざこうして会社まで足を運んだのよ」


「うちへ行ったんですか!?」


「ええ。直接本人に言った方が話が早いし、何なら、そのまま連れ帰ってもいいと思って」


「ふざけないで!! そんなことしたら、誘拐ですから!!」


「大袈裟ね~。祖母が孫を連れ帰るだけでしょう? それにしてもあなた、うまいことやったわね~。直樹に捨てられて、すぐに違う男に乗り換えるなんて、育ちが悪い人はすることが大胆ね~。あの子がそれを知ったら、どう思うかしら?」



 自分だけなら何を言われても我慢しますが、愛する我が子に降り懸かるとなれば話は別、静花さんは怒りでいっぱいでした。


 終始、自分のことを主張するばかりの貴代さんからは、愛しい孫として莉帆ちゃんを要求しているとは到底思えません。



「とにかく一度、直樹の子と話をしたいから、うちに連れて来なさい。いいわね?」


「お断りします。それに、直樹さんの娘ではなく、私と夫の娘です」


「私に盾突くつもり? なら結構、今後は、直接直樹の娘と話をしますから」



 そう言うと、貴代さんは席を立ち、そのまま店を出て行ってしまいました。


 残された静花さんは、貴代さんに対する怒りから、しばらく放心状態でいたのですが、不意に彼女が莉帆ちゃんを連れ去るのではという恐怖に駆られ、慌てて電話をしたものの繋がらず。


 パニック状態で帰宅する途中、ようやく莉帆ちゃんの留守電に気付き、我が家へ飛び込んで来た次第です。


 昨日は鍵を忘れたことが幸いし、貴代さんが莉帆ちゃんに接触した形跡はなく、莉帆ちゃんはいつも通りに登校していますが、登下校中に貴代さんからのアプローチがあるかも知れないことを考え、今日は送り迎えすることにしたそうです。


 ただ、いつまでもこうした状態を続けるわけにも行かず、



「ショックかも知れないけど、莉帆にはきちんと伝えておいたほうが良いという結論になったの」


「そっか」


「出来れば、もっと違う形で話せれば良かったんだけどね」



 むしろ、話さずに済んだらどれほど良かったか。


 誰もが、その秘密をお墓まで持って行くと決めていただけに、今頃になって現れた貴代さんが、心底恨めしく感じられました。





 その日の夕方、我が家を訪れた莉帆ちゃん。


 事情は分かっていましたので、すぐに自宅へ招き入れ、一応、本人の了解を取って、静花さんに預かっている旨の連絡を入れておきました。


 もっとショックを受けているかと思ったのですが、予想に反して淡々とした表情で、さっきあったことを私に話してきました。


 莉帆ちゃんによれば、両親から伝えられた内容は、



・伸亮さんは本当の父親ではなく、柴田直樹さんという人が、本当の父親であること。


・静花さんは直樹さんとは結婚出来ず、伸亮さんと結婚したことで、彼が莉帆ちゃんの戸籍上の父親となったこと。


・昨年、直樹さんが事故で他界し、莉帆ちゃんにとって祖母に当たる貴代さんが、莉帆ちゃんを引き取りたいと言ってきたこと。



 と、概ねありのままに伝えていました。


 莉帆ちゃんいわく、それほどショックはなかったものの、ただ、あまりにも唐突なカミングアウトにどう反応して良いか分からず、自宅に居づらくて飛び出してきたのだそう。



「っていうか、パパが本当の父親じゃないことは、前から知ってたし」


「え? どうして?」


「なんかいろんな書類とか見たの。柴田直樹っていう名前も、そこに書いてあった。松武こうめって、こうめさんの本名だよね? ねえ、教えて? 私はどうして生まれてきたのか、こうめさんは知ってるんでしょ?」



 じっと見つめる莉帆ちゃんの瞳に、こっくり頷いて、私も彼女の瞳を見つめながら、話せる範囲で当時のことを話しました。


 時々頷きながら、無言で私の話に聞き入る莉帆ちゃん。一通り聞き終えた彼女は、オフレコという条件で、これまで一人心に抱えていた両親に対する自分の思いを吐き出し、最後に核心部分に迫ってきました。



「私…本当は望まれない子供だった?」


「それは違うよ」



 即座に、彼女の疑問を否定した私。その事は、当時を知る私たちが、何より莉帆ちゃんに伝えたかった事実でした。



「ママはね、何があっても、たった一人でも、莉帆ちゃんを産む覚悟を決めてた。パパがプロポーズしたとき、お腹の莉帆ちゃんも一緒に家族になることを強く希望して、ふたりは結婚したんだよ」


「でもさ、わざわざ妊娠してる女の人と結婚する、普通?」


「ふたりが出逢ったのはね、莉帆ちゃんがお腹にいたことがきっかけだったの。それからずっと三人で一緒に時間を積み重ねてきたから、今の家族があるんだよ」


「でも、私がいなきゃ、ふたりとも別の人生だったよね?」


「だったとしても、ふたりが今の人生を後悔してると思う?」



 少し黙って、唇に笑みを浮かべると、莉帆ちゃんはゆっくり首を横に振りました。彼女がどれほど両親に愛されているのか、本当は彼女自身が一番よく分かっているのです。


 本人も自覚している通り、微妙なお年頃ですから、親に素直になれないだけのこと。


 莉帆ちゃんが落ち着いたのを見計らって、自宅まで送って行くと、先ほど貴代さんから連絡があり、後日改めて莉帆ちゃんと伸亮さんも同席した上で、話をしたいと言ってきたそうです。


 不安そうな静花さんに、さっき莉帆ちゃんと話したオフレコ以外の部分を伝え、ふたりが育てた娘は、私たちが思うより大人で信じるに値するから、心配しなくても大丈夫だと太鼓判を押しておきました。





 数日後、約束通り貴代さん宅を訪れた静花さん一家。


 かつて、静花さんに直樹さんと別れるように言い放った応接間は、調度品の一つまで当時と同じ位置に鎮座し、相変わらず威圧的な雰囲気にあふれています。


 通されてすぐ、貴代さんはこの家がいかに由緒あるかを切々と語り、莉帆ちゃんをこの家の跡継ぎとして自分の養子にする旨を宣言し、すでに必要な書類まで揃えていました。


 莉帆ちゃんの意思確認すらせずに、自分のことばかり主張する彼女の言動には、静花さんも伸亮さんも呆れるばかり。


 すると、もう一人の当事者であり、それまで気怠そうに携帯をいじっていた莉帆ちゃんが、血縁上の祖母である貴代さんに話しかけました。



「あの~、一つ聞いてもいいですか?」


「何かしら? 何でも聞いて頂戴」


「あなたは昔、私を『堕ろせ』って言ったんですよね? 何で今になって、跡継ぎとか考えれるんですか?」



 あまりにもストレートな、しかも本人には知らせていない内容に、静花さんも伸亮さんもギョッとしましたが、貴代さんは待ってましたとばかり、意地悪そうな笑みを浮かべて答えました。



「可哀そうに、そうやって親から、あることないこと吹き込まれたのね。これだから、育ちの悪い人間は嫌なのよ」


「ママが、私の実の父親と結婚しなかった理由や、その時の詳しいことは、誰も、何も話してくれませんでした」


「そう。なら、教えてあげるわ。あなたのお母さんはね、あなたを妊娠していたのに、その男と浮気した挙句、勝手に婚約を破棄して、その男に乗り換えたの。私たちは、大切なあなたまで奪われて本当に辛かったけれど、あなたのお母さんの幸せを思って、我慢したのよ」


「へえ~、じゃあ、何で今頃になって?」


「直樹、つまり、あなたのお父さんが亡くなった今、由緒あるこの家の血を継ぐ人間は、あなたしかいなくなってしまったの。だから…」


「やっぱり、それが理由ですか。ママが浮気したとか、嘘ですよね?」



 そう言うと、莉帆ちゃんはポシェットから数枚の写真を取り出し、それを貴代さんの前に叩き付けました。


 それは、かつて貴代さんが寄越した代理人と交わした、未署名のものも含めた同意書を写したもので、莉帆ちゃんの携帯からは、あの時録音した音声が流れたのです。



『…では、堕胎費用と手切れ金の100万円は、お受け取りになられないということで、今後一切、直樹さんとは関わりを持たないことに同意頂ければ、こちらに署名捺印をお願い致します。……はい、結構です。それでは、確かにその旨、柴田貴代様にお伝えいたしますので』



 決定的なまでのその音源にも、貴代さんは表情を崩すことなく、淡々とした口調で莉帆ちゃんに言いました。



「そんなことはどうでも宜しい。この家の血を受け継ぐ人間は、もうあなたしかいないの。あなたには、この家を継いで代々の墓を守る責任があるのよ。分かったら、素直にこちらの言うことに従いなさい」


「いきなり、血とか家とか言われても、意味わかんないし」


「いい? 直樹があなたの実の父親なのよ。そして私は、実のおばあちゃんなの」


「で、私は実のおばあちゃんに、100万円で殺されそうになったわけだ」



 さすがは実の孫娘だけあり、あの貴代さん相手に一歩も怯まない莉帆ちゃん。毅然と立ち向かうその小さな背中は、大切な家族を守ろうとする強い気持ちで溢れて見えました。



「あなたは、血を分けた実の父親や祖母より、血も繋がらないそんな男を父親だというの!?」



 すると、莉帆ちゃんは貴代さんの目の前に歩み寄り、子供とは思えないような威圧感で答えました。



「生まれてから、一回だって会いにも来なかった父親と、殺せって命令したばーさんを『家族』って呼べるほど、心広くないから、私」


「そんなくだらない昔のことを! それにまあ、何て口の利き方!」


「あんたの遺伝じゃね? あの時殺されてたら、私は今ここにいない。あんたが殺そうとした私を、パパとママが守って産んで育ててくれたから、今私はここにいる。その歳になって、んなことも分かんないの?」


「その時と今とでは、事情が違うの! あなただって、大人になれば分かるわ! 家を守るためには仕方ないことだってあるし、家を継ぐ者がいなければ、この家は絶えてしまうのよ!」


「んなこと知るか! あんたには家が大事でも、私にとっては家族のほうが大事なんだよ! 私を殺そうとしたことは別にしても、ママを傷つけたことだけは絶対に許さない! 自分は何も努力もしてないくせに、都合の良いときだけ血が繋がってるとか言うんじゃねーよ!」


「何も分かってないくせに、偉そうに言わないで! 努力なら、私だってしたわよ! 子供が出来るように、子供を産まない嫁とは離縁させて、新しい嫁を貰って、それでも駄目ならまた…!」


「あんたって、ホント、可愛そうな人だね」


「何ですって!? 子供のくせに…!」


「幼稚園で習わなかった? 人間には『心』があるから、嫌なことをすれば、相手から嫌われるんだよ。直樹さんて人は、そんな母親のこと好きだったのかな? ホントにそれで幸せだったのかな?」



 思わず絶句し、ペタリとソファーに座り込んだ貴代さんに、莉帆ちゃんは小さな子供に諭すような口調で言いました。



「知り合いのおばちゃんが言ってました。私とパパには血の繋がりはないけど、一緒の時間を積み重ねて来たから、今の家族があるって。んで、その人生を後悔してないって」


「でも、私たちは本当の肉親で…!」


「だからって、何でも許されるわけじゃないことくらい、小学生でも知ってますよ?」



 突き放すように放った言葉に、貴代さんは堰を切ったように泣き出し、帰り支度を始めた莉帆ちゃんは、最後に貴代さんに向かって、



「もう二度と会うこともないと思うけど、生きてるうちに会えて、良かったです。私の家族はパパとママしかいないけど、遺伝子上、あなたもいたんだって、記憶のどこかに置いておきます」



 そう言うと、静花さんを促し、応接間を出て行きました。


 一方、もう少し話があるからと部屋に残った伸亮さんは、ふたりが駐車場に停めてある車に乗り込んだのを窓から確認すると、声を押し殺して泣いている貴代さんに話しかけました。



「すみませんね、生意気な盛りですから」


「あなたに、言われる筋合いはありません…!」


「失礼しました。ただ、莉帆は実の娘でこそありませんが、まったく血が繋がっていないわけでもないので」


「…何を言ってるの、あなた?」


「あなたは、あの頃とまったく変わっていないようですね。と言っても、私のことなどご存知ないでしょうが」


「…あなた、誰なの?」


「私も、莉帆と同じ境遇です。私の父は夏木伸太朗、母とは身分が違うと言って、あなたが無理やり別れさせた、あなたの弟だった人です」


「あなた、あのときの女の…」


「ええ、息子です。あなたの孫娘である莉帆は、すなわち私にとって従姪(従兄の娘)にあたる関係です」



 再び言葉を失い、身動きすら出来ずに伸亮さんに見入る貴代さん。運命は、時としてとんでもない悪戯をするものです。





 かつて、伸亮さんを身ごもった彼の母親も、静花さん同様貴代さんによって、父親である伸太朗さんと無理やり引き裂かれていました。


 血なのでしょうか、直樹さんがそうだったように、伸太朗さんもまた貴代さんに言われるがまま、別の女性との結婚を選んだのです。


 姉と妻の手前、伸亮さんを認知出来なかったのですが、父親の責任として、伸亮さん母子の金銭的なフォローだけはきっちりしてくれました。


 ですが、当時は未婚のシングルマザーに対する差別や偏見が酷く、伸亮さん自身もそのことで相当辛い思いをしてきました。


 彼が大学に入学して間もなく、伸太朗さんはこの世を去り、その後を追うようにして母親も病気で他界。その後は、天涯孤独の身の上となった伸亮さん。


 父親が残してくれた学費で大学を卒業後、法律事務所で働きながら司法試験の勉強を続けていたある日、木山さんからの相談で彼の前に現れた静花さんは、まるでデジャヴを見るようでした。


 まして、その相手が、かつて自分たちを引き裂いた伯母、貴代さんであったとは。



「あなた、何もかも知っていて、あの女に近づいたっていうの…?」


「いいえ、出逢いは偶然でした。でも、柴田直樹という名前を聞いて、すぐにピンと来ましたよ。戸籍上は他人でも、遺伝子上の従兄ですからね」


「私に復讐したつもり?」


「復讐? 結果的には、そうかも知れませんね。かつて、あなたの差し金で私と母は捨てられ、時間を経て、静花と莉帆が捨てられた」


「だから私をどうしようと?」


「今度は、あなたが捨てられる番です。私の母や静花、息子の嫁ですら冷徹に切り捨てたあなたにとって、大切なのは『人』ではなく『家』です。今になって莉帆を欲しがるのも、直系の『墓守』が欲しいだけです」


「…」


「でも、残念ながら、莉帆はあなたの思い通りにはなりません。お気の毒ですが、残りの人生独りで生きて行かれることですね」


「この家や、代々のお墓はどうするのよ? 何百年も続いた家柄なのよ? この家に嫁いだ身として、私には墓守を残す責任があるのよ! ご先祖様に何と言い訳すれば…」


「それこそ、因果応報でしょう。孫の命より家柄を選んだのですからね。莉帆の言葉を借りれば、『んなこと知るか!』です」


「あなたのことを、あの子たちに話すわよ!?」


「どうぞ、ご自由に。話したところで、余計にあなたから気持ちが離れるだけでしょうけどね」


「私はどうすればいいの!? ねえ、教えて頂戴!」



 その問いには答えず、貴代さんによく似た意地悪そうな笑みを浮かべると、深々とお辞儀をして、伸亮さんも応接間を出て行きました。


 そして、妻と娘が待つ車のエンジンを掛けると、一度も後ろを振り返ることなく、この忌まわしい邸宅を後にしたのです。





 その後、貴代さんからのアプローチはなくなり、元の穏やかな生活が戻った穂高家。


 4月には中学に進学した莉帆ちゃん。学校で新しいお友達も出来、夏休みに入ってからは、部活に遊びに毎日飛び回っていて、今日も朝からお土産を渡しに、お友達のところへ出掛けて行ったそうです。


 ふと、もしあのまま直樹さんと結婚していたら、静花さんの人生は間違いなく悲惨なものになっていたと思いました。何せ、姑があの貴代さんですから、想像に難くありません。


 実際、不妊を理由に三回も結婚離婚を繰り返させたほどの人物ですから、莉帆ちゃんはあくまでストックで、長男を産まなければ離婚させられた可能性も否定出来ず、結局、貴代さん含め誰一人として、あの家で幸せになった人はいないのです。


 せめて、直樹さんや伸太朗さんが、もう少し自分の意見を言うことが出来たなら、状況は違ったのでしょうが、ふたりとも亡き今となっては、もう…。





 貴代さんの人物像は、私の母と重なります。末っ子長男の弟を溺愛していた母は、弟が交際する女性に何かと文句やケチを付けては、妨害することを繰り返しておりました。


 周囲とは談笑しながら彼女だけを睨み付けたり、彼女だけカウントしないなどといったレベルの低い嫌がらせに、見ているこっちが恥ずかしくなるほど。


 幸い、これまで弟に子供が出来たことはありませんが、もしそうなれば静花さんの出来事は他人事ではなく、姉として出来る限り母の暴挙を食い止めなければ、と思ってはいるものの。


 結局、現在も弟は独身のまま、結婚出来る見通しも立っていません。幸いにも、残念ながらにも。





 最近になって、貴代さんの代理人から伸亮さんの事務所へアプローチがあり、自分が亡き後、全財産を莉帆ちゃんへ譲渡したいと希望しているそうです。


 あの時、完膚無きまでに貴代さんとの決別を宣言した莉帆ちゃんでしたが、未成年ということで保留しているとのこと。


 今後成長して行く過程で、彼女自身どう変化するのかは分かりません。あるいは、直系としての責任感が芽生え、あの家の墓守として跡を継ぐと言い出すかも知れませんが、それもまた莉帆ちゃんの人生です。


 そんな話をしているとインターホンが鳴り、玄関先へ出た私に、おめかしした葛岡さんのおばあちゃんが、相変わらず大きな声で言いました。



「あのね~、松武さん、私、今から出かけなきゃいけないんだけど、鍵を失くしちゃってねぇ~」


「…え?」


「それで、裏口の扉の鍵を開けて行くから、ちょいちょい見ておいてくれる?」



 ひえぇぇぇぇぇぇ~~~~!!!


 すぐさま、おばあちゃんを自宅庭の片隅に引っ張って行き、小さな声で言いました。



「だから! もし、今の会話を泥棒さんに聞かれたら、アウトでしょ!?」


「あ…!」



 慌てて口を押えたものの、一度出た言葉を取り消す術はありません。


 そこで、人目につかない裏口より、通りに面した玄関の鍵を開けておくほうが安心ということになり、わざとらしく鍵を掛けたふりをし、異常なまでに周囲を警戒しながら出かけて行かれました。


 時々リビングの窓から葛岡さん宅を見ながら、静花さんとお話ししていたのですが、一時間ほどした頃、柊くんの自転車があるのに気付き、鍵の件を伝えておきました。


 これで私もお役御免と一安心したところへ、お友達とお出かけしていた莉帆ちゃんから、もうすぐ帰宅するというメールが入りました。



「そうそう、さゆりちゃんが、涼しくなったらまたみんなで会いたいって」


「分かった。私からも連絡しとくね」


「よろしくね! それじゃ、お邪魔しました」


「お土産、ありがとね~!」



 玄関先で静花さんをお見送りしていると、ちょうどおばあちゃんがお出かけから戻っていらっしゃいました。


 ちらっとこちらを見て、小さく会釈したおばあちゃん。私たちもお辞儀をし、静花さんが角を曲がったのを見届けて家の中へ戻ろうとしたとき、玄関から転びそうな勢いで飛び出して来たおばあちゃん。


 そのまま、もの凄い形相でこちらへ向かって来た彼女の身体を支え、いったい何があったのか私が尋ねるより先に、おばあちゃんが叫びました。



「ど、どろ、…泥棒ーー!!」


「え? ああ、それは柊くんが…」


「家の中に、泥棒がいるのーーーっっ!! 警察! 110番に電話!!」



 中にいるのは柊くんだと伝えても、完全にパニックを起こしてしまったおばあちゃん、まったく耳に入りません。



「早く! 松武さん、早く電話!!」


「落ち着いて! 大丈夫だから!」


「もういい、私が電話するから! 110番の電話番号って、何番よ!?」



 外気の猛暑も手伝って、もう自分が何を言っているのかも分からない状態で、騒ぎを聞きつけた周囲のお宅からも、ご近所の皆さんが集まって来ました。


 当然、外の騒ぎを懸念した柊くんも出てきたのですが、それを見たおばあちゃんは、泥棒が出てきたと思ったらしく、近寄って来た柊くんに向かって、



「ぎゃああぁぁぁ~~~っ!!」



 と、断末魔のような叫び声を上げると、腰を抜かして、地面に座り込んでしまいました。孫の顔も判別出来ないほど、動転していたのでしょう。


 間もなくして、けたたましいサイレンを鳴らし、パトカーが到着。どうやら、騒ぎを聞いたどなたかが通報していたらしく、警察官に事情を訊かれ、一連の出来事が勘違いと分かると、おばあちゃんに厳重に注意をして戻って行きました。


 集まったご近所の皆さんも、一安心して自宅へ戻る中、未だ興奮冷めやらぬおばあちゃんは、まだ道の真ん中で大きな声で自己主張を続けていました。



「もう、びっくりしたのなんのって、心臓が止まるかと思ったわよ~!」


「それで、鍵は見つかったんですか?」


「それが、あなた、バッグの中から出てきたじゃないの~! ホントに嫌になるわ~!」



 呆れた顔で自宅に戻ろうとする柊くんに、『連れて帰れ』と合図を送ると、『無理』という合図。


 このままおばあちゃんの餌食となるのも困ったな、と思っていたとき、葛岡さんの奥さんの車がガレージに滑り込み、勢いよくドアから飛び出すや否や、



「もう、おばあちゃん、いい加減にしてよね! 警察から連絡を受けて、びっくりして飛んで帰って来たんだから!」



 私にとって救世主、おばあちゃんには天敵の登場に、急にシレッとした顔で、お嫁さんの声が聞こえないふりをしながら、自宅の中へ消えて行ったおばあちゃん。


 相変わらずの白々しフェードアウトに、今度ばかりは怒りが治まらないといった葛岡さんです。



「会社、大丈夫だった?」


「うん。それより、またご迷惑を掛けて、ごめんね」


「私なら大丈夫。でも、またこんなことがあったら大変だよね」


「いやもう、マジで勘弁して欲しい!」



 『にっこり笑って、バンパイアの胸に杭を打ち込め作戦』第四弾。今回は、おばあちゃんの自爆による不戦勝です。


 鍵を失くしたと大声で話し、孫を泥棒と勘違いし、警察を呼べと大騒ぎしてパトカーが出動し、勘違いだと分かり厳重注意された挙句、お嫁さんにも大目玉ですから、本人も少しは反省して欲しいところ。


 身内である葛岡さんの大変さを思うと、申し訳ない気持ちになりますが、小さくガッツポーズを決めて自宅に戻りました。





 その後も、色んな物を失くしたと言っては、大騒ぎするおばあちゃんでしたが、それ以来、鍵の保管だけは厳重になり、彼女としては大きな進歩です。残念ながら、口が軽く、声が大きいところは治りませんが。


 この先も、彼女が巻き起こす騒動に振り回されるのですが、それはまた、別のお話。


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