第70日 終末暦6531年 5月9日(月)

  終末暦6531年 5月9日(月) 霧 エビピラフ(カレーヌードル)


 今朝早く、ノックの音で起こされた。

 目を擦っている間にコンコンコンと三回、またノック音がして。それにどう応えようか悩んだ。ナリタくんもトキノもまだ寝ていたし、そもそもベッドからドアまでは少し距離が離れていた。ナリタくんの手を離すことになってしまう。

 しかし、とうとうドアの外から呼びかけがあって、私は手を離してドアを開ける決意をすることになる。


「今回は蕎麦ではなく、カレーヌードル用の麺をお持ちしましたよ」


 外からそう小声で言った声に、聞き覚えがあったから。


「大丈夫ですから、出てきてください。私は貴女の味方です」


 もちろん、躊躇した。青い鳥裁判所で、彼に言われたことを忘れたわけじゃなかったから。


「大丈夫ですから。私がちゃんと貴女を掴まえます」


 外の人物は重ねて言った。

 何にせよ、彼が何故私のことをあんな風に言ったのか気になっていたから、話は聞くつもりでいた。もちろん怖かったけど、そんなことを言っている場合じゃなかった。


 だから、私はナリタくんの手を(注:心の中で謝りながら)離したのだった。その時、テーブルの上にあったスノードロップがやたら目に入って、何故だかとても印象に残った。上手く表現できないけれど、とても胸が痛くなった。

 手を離した瞬間、真っ逆さまに落ちていくような心地がした。辺りは真っ暗になって、ナリタくんと出会う時のように、視線と星が取り巻いているようだった。一人はとても心細く、そして泣きたくなる。


「お嬢さん」


 ノックの主が私にそう呼びかけた時、私はちょっぴり泣いていた。最近は少し泣かなくなったと思ったのに、そうでもなかったらしい。

 いつの間にやら、私は手を握られていた。というか、蹄が私の手に触れていた。

 今日は仕立ての良いスーツに、青と緑のストライプ柄のネクタイだった。


「カシワギさん」


 私は目の前に立つ、アパートの隣人たるロバパカに声をかけた。できる限り、平静でいようと思ったけど声が固くなってしまった。

 私たちはドアの外にいた。番号の書かれたドアが並ぶ、塔の外部。外は霧がかっていて、景色は見えなかった。ただ白くて、先が見えない。


「どうしてここに?」

「黄昏図書館から、ちょっと」

「図書館からの依頼で、青い鳥裁判所のテリトリにも来ていたんですか?」


 カシワギさんは俯いた。傷ついたように見えたけど、気にしなかった。


「それは……」

「図書館からの依頼で、私にあんなことを?」

「……貴女は、何もしていません。だから、存在価値なんてありません。貴女は、サイハテで最も消えて良い方です……この言葉に嘘も偽りもないですよ。これに関しては、図書館の依頼ではなく、私自身の言葉です」


 でも、とカシワギさんは言葉を続けた。


「……でも、そうでないことを願う私も確かにいます。図書館からの依頼もありますが、それが、私がここにいる一番の理由なのです。貴女に宛てた言葉は貴女を傷つけ、もう戻ることはない。発した言葉は取り返しがつかない。分かっています。しかし、私にはまだ、貴女に届けたい言葉がありますので」

「あはは、あれ以上に言うことが?」

「はい。事が済んだら、申し上げたく」


 カシワギさんが膝を床についてお辞儀をした。


「少しお話したいことがあります。貴女の隣人として、しばしお側にいることをお許し願えますか?」


 カシワギさんの表情はよく分からなかったけど、誠実さはよく伝わった。私への発言を撤回するつもりはなく更に言うことがあるみたいだけど、少なくとも今すぐ私が消されるとかそういうことはなさそうだったので、私は彼の質問に頷いたのだった。


「では、改めて自己紹介をば」


 カシワギさんは更に深く頭を下げた。


「私の名はカシワギ。現在、黄昏図書館の新人図書館員として微力ながら尽力しております。どうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」



 カシワギさんが図書館員になったのは、実はアパートに引っ越してきたばかりの時期らしい。私が何だかんだで風見堂のテリトリにいる機会が少なかったので、図書館員としての挨拶をし損ねていたということらしい。

 それから少し一緒に歩くことになって、カシワギさんはどうしてこのテリトリにいるのかを説明してくれた。

 私の居場所を突き止めて尋ねて来たのは、図書館からの情報を共有したかったかららしい。


 曰く、このテリトリには図書館がなく図書館員の派遣もないにも関わらず、影の発生報告が少ない。というか、ここ最近は一切ない。

 曰く、テリトリ管理者であるブーツさんの音沙汰も同じく、途絶えているという。

 以上二つについて、調査しに来たということらしい。


「ブーツ!」

「どうしました、お嬢さん?」


 カシワギさんの肩の上で(注 : カシワギさんが私を肩車すると言って聞かなかったのだ)、私はハッと口を押さえた。


「ブーツを探しているって言っていた人がいて……たぶん、テリトリ管理者さんのことだったんですね。履物じゃなくて」

「そうでしょうね。噂によるとブーツというのは、このテリトリで好んで使われているコードネームとやらだそうです。名前は別にあるのでしょう」

「ということは……」


 テリトリの住人たちもテリトリ長の居場所を知らないということだ。ウミノさんはかなり気軽な様子だったけど、テリトリ長が行方不明というのは、かなり問題なんじゃないだろうか。



 霧の中、回廊をぐるぐる歩いた。ドアの番号が違っていたおかげで、どうにか進んでいるらしいことが分かった。ただ、時間の流れだけは分からなかった。進んでいる気もすれば巻き戻っている気もするのがおかしかった。

 とにもかくにもしばらく歩いていると昨日の観測所が遠目に見えた。相変わらず、記録用紙が滝のように下へと伸びていた。あの後、ボンネットメーカーはどうしただろうか。あの記録を下に届けているのは誰だろう。


「観測所ですね」


 カシワギさんは白い息を吐いた。私もマントをきつく体に巻きつけた。

 私は昨日の観測所での出来事をカシワギさんに話した。カシワギさんはひとしきり話を聞くと思案顔になって言った。


「なるほど。不可解なことですね」


 そして、スーツのポケットから銀の懐中時計を取り出した。


「随分と時間が経ってしまいました。貴女と話せて良かったです。私はこのまま調査を続けますが、貴女は戻った方が良いかもしれません」

「お一人で大丈夫なんですか? 私も、」

「いえ、これは私の仕事ですから。それに厳密に申し上げれば、」


 カシワギさんはそこまで言ってから首を横に振った。


「……とにかくです。トキノさんには貴女が必要でしょうから。早く戻った方が良いでしょう」

「トキノに、私が?」


 逆じゃないかと思ったが、そうではないらしい。


「そうです。彼はいつも貴女にべったりとお聞きしていますよ」


 そう言う顔は至極真面目そうに見えて。彼の言う通りかもしれないって錯覚しそうになって。


「……いずれにせよ、戻った方が良いというのには賛成です」

「部屋までお送りしましょう」


 カシワギさんの肩の上からは、いつもと違って広く辺りを見渡せた。まだ霧は深かったけど、それでもだいぶ開けていたような気がする。


 カシワギさんと別れて、部屋のドアを開けるとやっぱり暗い闇と星と視線が満ちていた。でも、すぐに手がつかまれた。


「「丸一日留守にして、どこに行っていたんだ!!」」

「ナリタくん、トキノ」


 ナリタくんからはギュッと手が握られて、トキノからは前足でタシタシと叩かれた。二人の声が見事にハモって思わず笑うと、二人の顔が一緒に不機嫌になった。


「夜になるまでほっつき歩いて。心配したんだぞ」

「勝手に出てくなよ、バカ!」

「バカとはなんだ、ナリタ」

「あぁん? やんのか、トッキー?」


 怒りの矛先がおかしくなったので、私が宥める側に回った。二人はすぐに落ち着いて改めて私に事情を尋ねてきた。

 カシワギさんの言葉を思い出して、私は少し考えた。


“私のことは内緒にしていて下さいね。秘密裏の調査ですので”


「お散歩かな」


 とりあえずそう言うと、ナリタくんは白いテーブルに両肘をついて手を組んだ。もちろん、私の左手もそこに巻き込まれていた。


「……ふむ、トッキーくん、彼女の発言をどう思うかね?」

「コイツがそう言うならそうなんだろう。散歩だな。まあ、許す」

「ふむ……って、ちょいちょいちょーい!! んなわけねーだろ! 何で無条件で信じられんだよ!?? しかも、それで許しちゃうん?」

「え、許さないって選択肢がないだろ。しかも、何で信じられないんだ?」

「手を、」


 ナリタくんは少しつっかえた。顔を少し伏せて、


「手を離したから、だ」


 ナリタくんの手は震えていた。


「約束したのに」


 私の手を力強く握りながら、か細く震えるその様子を見て、怖くなった。


「ごめんなさい……」


 離してしまって、ごめんなさい。

 貴方の傍から離れて、ごめんなさい。

 誰かがいなくなる怖さは私も知っていたはずなのに。


 心からそう言ったら、


「……ってのは冗談デース! だから、そんな顔しないでクダサ〜イ!!」


 パッと顔が上がった。さっきまでのが嘘みたいにナリタくんはニッと笑っていた。


「お、驚かせないでよ……」

「へっ、約束を破った罰だっ! これでチャラにしてやるだけ、ありがたく思えよな!」


 おまけに額を強めに小突かれた。痛かった。


 そんなわけで私たちは仲直りしたらしかった。


 夕飯はカシワギさんが持たせてくれたカレーヌードルでエビピラフを作った。どうやらこのテリトリの食べものはどうあがいてもエビピラフになる運命にあるらしい。ただ、ナリタくんが、


「うめえ! 初めて食ったよ、こんなうめえの!」


 と喜んでくれたので、その点については良かったなあと思う。



 追記1 : 逆に、二人が一日何をしていたのかを訊いてみたら「「散歩だ」」と、またハモった。

 私やカシワギさんとかち合わなくて良かった。


 追記2 : カシワギさんのことがバレないように、日記を誰にも見せないようにしなくっちゃ!

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