第69日 終末暦6531年 5月8日(日)
終末暦6531年 5月8日(日) 雨ノ市 エビピラフ
今日の朝は少し急な目覚めだった。
ピーピーピーピーと甲高いサイレンのような音で目が覚めたのである。
一瞬何が起こったのか分からなくて、自分が寝ていたことすら、そしてナリタくんと手を繋いでいたことすら忘れて、私は両手で耳を塞いだのだった。
耳を塞いだ瞬間、何故か目の前まで真っ暗になった。それは、ナリタくんと初めて出会う前にいたあの暗闇そのものだった。暗い中に星のような明かり、そして数えきれない視線。
前回の時には分からなかったけれど、この視線を私はそれ以前にも経験したことがある気がする。日記を書いている今でも、それがいつのことだったかは思い出せない。もしかしたら日記を読み直したら、思い出せるかもしれない。とにかくこの視線の奔流は、私にとってこれが三度目だったのだ。
三度目とは言っても、慣れることが出来るようなことでもない。やっぱり恐ろしいという思いが先に来て、どうしたら良いのか分からなかった。
でも、私の時間で数秒ほどで視界はパッと切り替わって、私は白い部屋に戻っていた。
「おい、大丈夫か?」
目の前にはナリタくん、そしてその肩にはトキノが乗っていて私の方を見ていた。ナリタくんは両手で私の手を握っていた。
何と応えたものか悩んだ末、私は「お、おはよう」と返事をした。ナリタくんとトキノはポカンと口を開けてこちらを見て、それから互いに顔を見合わせた。
「大丈夫そうだな」
「だな。安心したわ。こちらこそ、おはようさん」
そういうわけで朝から少し災難だったのだけど、何故だか最終的には和やかな空気になっていた。それどころか、ナリタくんの挨拶でどこかまったりとした感じにさえなってしまって、思わず笑ってしまった。
ちなみにサイレンのような音はメンテナンス終了のお知らせだったそうだ。これですべてのエレベーターがまた動くようになったらしい。
朝のゴタゴタの痕、ナリタくんの誘いで観測員の仕事を見に行った。
観測員は塔の外壁にいて、塔の工事の進み具合とか星の観測をするのだという。
「シロクジラの一件で、俺たちのことを御伽草子のテリトリに伝えてくれた連中だな」
「あ、あの時の!」
「あれがなかったら、俺たちはトマトのごとく……だったもんなあ」
「えっと……うん、そうだね」
それはちょっと嫌だなあと苦笑いしながら、私とトキノはナリタくんの後に続いた。エレベーターを使わないで部屋にあった窓から外へ出た。ベランダになっているそこは、そのまま塔の外側の回廊に繋がっていた。空気がキンと冷えていて、私はマントをきつく体に巻き付けた。
ナリタくんは私たちの話を聞いて、愉快そうに笑った。
「へえ、お前らってかなり無茶苦茶やってんのな」
「無茶苦茶って言うほどかなあ……」
「言うほど言うほど。たぶんお前らの冒険の前じゃ、図書館の蔵書も形無しだぜ?」
「えええ、そこまで言うの?」
ナリタくんにそう言われて驚いた。トキノはムッと顔を顰めながら、
「おい、ナリタよ。今図書館つったな」
「おう、言ったぜ」
「天文塔は図書館がないテリトリだったはずだが?」
「は? そんなわけねえだろ?」
私たちの方を振り向いた表情は怪訝を通り越して、不信感に染まっていた。
トキノの言う通り、各図書館に所蔵されている公式記録には天文塔のテリトリに図書館が存在するという記録はない。なかったはずだ。
その話をすると、ナリタくんは「そんなわけない」と繰り返した。
その後、少し図書館の有無についての議論が続いたけれど、結局真相は分からないままだった。
「じゃあ、俺が今まで本を借りて読んでいたのは一体どこの本なんだ。納得いかねえ」
ナリタくんは最後にそう言ったけど
「あーやめやめ! どうでも良いや! んな話! つまんねえし」
と手をひらひら振って笑った。
その時、もう長いこと塔の回廊を歩いていた。
周囲は濃い霧に満ちていて景色は見えなかった。ただ、空を見れば時々晴れ間が覗いていた。
「もう少ししたら、観測所に出る」
前方に目を凝らせば霧に紛れて、塔から通路が空中に突き出ていて、その先に小さな小屋があった。
「観測所では何を観測しているの?」
「空に見える色々とか塔工事の進捗とか、とりあえず見えるもんすべてを記録している。ほら、あそこから何か紙が下に伸びてるだろ?」
ナリタくんが小屋の方を指さした。
塔と同じように煉瓦造りのその小屋には三角の屋根があり、そこには大きな四角い窓が付いている。
小屋から下に長々と何かが伸びているのが見えた。小屋に着いた時に確認したけれど、それはタイプライターで打ち出した記録用紙が次々と伸びている様子だった。記録用紙は下で別の観測員が回収して保管するらしい。
小屋にたどり着いた時には、霧の湿り気で体がすっかり濡れてしまっていた。トキノも体中に水滴が付いていて、観測所内に入る前に体をフルフルと震わせた。
ノックをして中に入ると、もうおなじみになった防護服が見えた。タイプライターに何かをカタカタと打ち込んでいた。
「あの、こんにちは」
「お客人なんて珍しいわな。まあ、観測していたから驚きはないがねえ」
そういう割には声をかけた時、体を跳ねさせていたのだけれど。
観測所の中は暖炉があって、温かかった。
「あっしはボンネットメーカーだ。寒かったろ。ウミウシガメのスープを食べるかね?」
「ウミウシガメ……」
「ああ、鶏肉が効いていて美味いぞ。体もあったまる」
ボンネットメーカーは私たちの返事を聞く前にスープをよそった。
「あ、ありがとうございます」
「たんと食え」
トキノは顔を顰めてスープに口を付けなかった。これで私まで口を付けないのはとても失礼だと思ったので、一口だけ食べた。塩気がちょうど良くて、美味しかった。トキノが食べなかった分はナリタくんが食べていた。トキノはウミウシガメのスープが嫌いなのだろうか(注:私もあまり好きとは言えないけれど……)
「そいで、何しに来た?」
「あの、お仕事見学させてもらえればと思って」
「まあ、そうだろうな。普段は大した仕事はしとらんがね、今日はお客人、幸運だ」
ボンネットメーカー曰く、今日は雨ノ市だから特別な作業を見せてやれるとのことだった。実際、雨ノ市という天候を上手く利用した作業だったから見ていて、とても興味深かった。
それは雨が上がっていくのを利用して、塔工事のための物資を上部に運んでいくというものだった。
スープを飲んでまったりしている間もボンネットメーカーは観測を続けていた。タイプライターを叩きながら外の様子をとてつもなく大きな望遠鏡で覗いていて、やがて「そら、霧が晴れてきたぞ」と私たちを窓辺まで呼んだ。窓際に行く前にはたとトキノは立ち止まった。そして、ボンネットメーカーに尋ねた。
「なあ、悪いが、飴か何かないか?」
「黒飴で良ければあるが……しかし、モノ好きだな。今時、飴なんて。粉の方がよほど良いだろうに」
そんなことを言いながら、タイプライターの傍らにあったマジックハンドで少し離れた戸棚をいじった。そこあった数ある小瓶の中から一つを取り出して、そこから黒くて丸いものが私の手のひらにころっと転がった。
「それ舐めとけ」
渡そうとすると、トキノは短くそれだけ言って窓の縁によじ登りに行ってしまった。
「行こうぜ」
そうナリタくんに声をかけられるまで、私はしばらくぼうっとしていた。
まだ風見堂のテリトリにいた時、トキノは雨の日に必ず飴をくれていた。それを今思い出して、何だか少し懐かしく思っていたのである。飴を口に放れば甘くて優しい味がした。それがちょっと嬉しかった。
窓から見えたのは、あちこちにフワフワと浮かぶ巨大な水の球体だった。見た目はしゃぼん玉に似ていて、中には赤茶色の煉瓦が数十個入っていた。水の球体も中の煉瓦もゆらゆら揺れながら上へ浮かんでいった。煉瓦以外にも、パイプ椅子や電気スタンド、スーツケース……何に使うのかよく分からないものも入っていた。
「天文塔の地面でバケツを使って、上に行く前の雨粒を集めるんだ。そこに色んなもんを突っ込む。そして、ワッと空に放つ。そうすりゃこの通りよ」
何故か自慢げな様子でボンネットメーカーは言った。
「今日のあっしはそれを観測して、何かありゃ下ないし上の連中に報告だ」
「上って?」
「下から物資を上げたら、上で受けとりゃにゃあ話にならんだろ」
「なるほど……そうですね」
タイプライターの脇には黒い電話もあって、時々ジリリリと電話のベルが鳴ったり逆にボンネットメーカーからかけたりもしていた。
私たちはしばらくその仕事ぶりと、巨大な雨ノ市を眺めていたけれど、ボンネットメーカーがあまりにも忙しそうだったのでお暇することにしたのだった。
「すみません。お邪魔しました」
「あまり構ってやれなくてすまないな。また来いよ」
ところが、
「待て」
ドアに手をかけたところで、ボンネットメーカーが鋭く言った。振り返ると、彼はタイプライターから手を離していた。手には小さな水の球体。中には紙切れが入っていた。そこには何か書いてあったのだと思うけど、私たちからは見えなかった。誰かが何か言う前に、トキノがまず私とボンネットメーカーの間に立ちふさがった。どういうわけか毛を逆立てていた。
ボンネットメーカーはゆっくりと尋ねた。
「お客人、ブーツを知らんか?」
「何の話だ?」
ナリタくんは首を傾げたけれど、それは青い鳥裁判所でバリスターにも訊かれたことだった。
ブーツを探している。ブーツを知らないか。
よく意味の分からない質問だった。思い当たる節はない。だから、私もトキノも首を横に振ってみせたのだけれど、ボンネットメーカーも首を横に振っていた。
「知らんはずないだろ。お客人、嘘を吐くな」
「嘘なんか吐いていません。バリスターにも訊かれましたけど、本当に知らないんです」
しばらく、嘘を吐いているか吐いていないかの議論が続いた。私にとってそれはとても長い時間に感じられた。トキノも途中で口を挟んでくれ、ナリタくんも状況が分かっていないなりにボンネットメーカーに落ち着くように言ってくれたけれど、そのうち彼は地団太を踏んで、手が付けられないほど怒り狂い始めたのだった。ボンネットメーカーの怒りは本当に突然で、私たちは本当に驚いていた。
「ふざけるな、ふざけるな! いくらお客人でもそんな……破かれた地図をパズルのごとく組み合わせることよりも荒唐無稽だ! 許されることなき悪逆だ!」
「なあ、そこまで言うことないだろ。本当に俺たちは、あんたらが捜しているっていうブーツに関しては知らないんだ」
「うるさい、黙れ。黒い毛玉の分際で! あっしはこれを上にも下にも報告せにゃならん! 聡明なベルマン殿にもな!」
「どうして、そんな。怒ることはないんじゃないですか?」
それからボンネットメーカーは怒りのあまり訳の分からないことを喚き散らしながら、防護服の頭の部分を掻き毟った。
「蝶ネクタイがヒラヒラ飛んでいくのと同じだ……あっしは観測せにゃならん。船の先にある、希望は……」
そんなようなことをブツブツ言いながら、今度は戸棚に入っていた小瓶を粗方割り始めた。そしてそのうちの一つ、白い粉のが割れた時、彼はつんざくような悲鳴を上げた。頭を掻きむしる手の動きが、いっそう早くなった。その場にしゃがみこんで、粉を見つめているようだった。
「逃げるぞ」
あの時、私は茫然としてしまっていた。ナリタくんがそう言ってくれても逃げる判断がつかなかった。
「おい!」
「行こう!!」
ナリタくんに手を引かれ、トキノに足首をタシタシと叩かれてやっと私はドアを開けた。
そこから部屋までの道のりを私はよく覚えていない。短かったような気がするし、長かったような気もするのだ。ただ、ナリタくんが握ってくれている手にすがっていただけだった。
今は少し冷静になっているけれど、あの時私はたぶん怖かったのだと思う。
それはもう確かめようがないのだけれど、あんな風に判断がつかなくて頭が働かないような状況……そして何があったのか説明できない不可解な状況というのは、やっぱり怖いなあと思い返すのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます