第53日 終末暦6531年 4月22日(金)

 終末暦6531年 4月22日(金) 晴れ とっても豪華過ぎてとにかく料理名が分からない料理


 朝、目が覚めて少しだけ目を開けて木の天井が見えて、ここは学校でもクジラでもなかったことをふと思い出した。フカフカのベッドは温かくて、もう少し寝ようと目を閉じたときだった。落ち着いていて低くて、けれど大きな声が聞こえた。


「出て行ってくれ」


 トキノの声だった。トキノの声を聞くだけでドキドキしてしまって何だかダメだった。声が聞こえる方とは逆の向きにそっと寝返りを打って、耳だけを澄ませた。


「お前らが手ぶらで帰れる状態じゃないのは分かっている。引き返せない状態なのは分かっている。が、俺もそうだ」

「――――」

「ああ、許さなくて良い。そもそも、許されようとなんて端から思っていなかった」


 話をしている相手の声がかすかに聞こえたけれど、誰と話しているのかまでは分からなかった。トキノの声はイライラしているようにも聞こえた。


「この二日間、空白の日にまでお前らを寄越すとは思っていなかったが……。とにかく、トウドウから勧告も出ているだろ。これ以上問題になる前に、テリトリから出て行った方が良い」

「――――」

「俺はアイツがいるなら、それで良いんだ」


 会話はそれで終わったようだった。部屋のふすまが閉まった音が聞こえた。トキノは一緒に出て行ったようだった。


 ベッドから体を起こすと、殺風景な部屋が目に入った。誰もいない、私しかいなかった。

 身支度を整えて、私は部屋を出た。新しくなった屋敷は小さいものの、前の屋敷と部屋の位置などは変わっていないように見えた。トキノはどこかへ行ってしまったようだった。クジラから脱出した日から二日間は空白の日で、病院にいたはずのトキノはたぶん怪我がある程度治って屋敷に移って来たのだろう。


 

 変な話だけれど、私はこの時トキノを探していた。トキノに用があるなら部屋にいた時に声をかければ良かったのだけれど、心の準備なんか全然できていなかったし。だからと言って、この時準備ができていたのかと聞かれればそんなこともなく、とにかく私はトキノを探してどうするかとか何も考えないまま部屋の外に出たのだった。


「あれ、おはよう」

「あ、おはよう……ございます」


 しばらく歩き回っていると、先生に出会った。先生の寝癖はひどかったけど、殴られた傷は治っていた。セーラー服姿は二日前とは変わっていなかった。


「えっと、二日ぶり」

「はい。まさかクジラから出てきてすぐに空白の日があるとは思いませんでした」

「まあ、おかげで良く休めたけどな」


 おや、と思ったのは、先生のその喋り方だった。


「ああ、何ていうかさ、もう繕うのはやめたんだ」


 先生は晴れやかに笑った。ちょっと照れているように頭を掻いていた。


「変、かな?」

「……変じゃない、です」


 むしろ、その晴れやかさがとても気持ちよくて、前の話し方より好きだなと思った。


「ところで、今、僕を探しているんだ。同じ部屋で寝ていたはずなんだけど、今朝起きたらいなくてさ。君、どこに行ったか知ってる?」


 僕というのはウサギのことだ。知らなかったので私は首を横に振った。


「実は私もトキノを探していて。見かけていませんか?」

「見かけてないなあ。そもそもトキノは病院じゃなかったか?」

「私もそう思っていたんですけど、今朝は部屋にいたんです」

「そうなんだ。でも、トキノのことだから、君を置いてそんな遠くには行ってないと思うんだよね。僕の方はどうだか分からないけどさ」


 ひとまず、トウドウさんに訊いてみたらどうかなという先生の提案で、私たちはトウドウさんに会いに行くことになった。

 トウドウさんの部屋は花や鶴で飾られたふすまの部屋だった(注:たどり着くまでにすっごく迷子になった!)。オトギリさんがかつて使っていた部屋ととても似ていた。ふすまを開けるとそこは広い畳の部屋で、たくさんの本が積み重なっていた。開け放たれていた障子の方から温かな風が吹いていて、青い空が見えた。その傍には文机があって、座布団の上に座ったトウドウさんが書類と格闘しているようだった。私たちが入室すると、羊毛をフカフカにさせて驚いていた。


「お二人とも、お目覚めになられたのですね。色々あった後でしたからお疲れかと思って起こしにいかなかったのですが」

「僕らに対するお気遣いありがとうございます、トウドウさん。今お一人ですか?」

「そうですね。少しばかり雑事を行っていました。起床されたのでしたら食事を用意いたしましょうか。もうお昼ですから昼食という形にはなりますが」

「ありがとうございます。いただきます。けれど、その前にお聞きしたいことがあって……」


 私たちはトキノとウサギを探していることをは話した。トウドウさんは私たちを向き合って真剣に話を聞いてくれ、


「トキノさんはあの夜、病院で手当てを受けた後、この屋敷にお戻りになりました。深夜のことでしたので、お二人はご存じなかったのでしょうね。今朝はお客様の対応をされて、今はお部屋にお戻りになっているかと思います。貴女のすぐ隣の部屋ですよ」

「え」


 すれ違ってしまったというのも驚いたけど、もっと驚いたのはトキノが私とは別の部屋で過ごしているということだった。

 驚いた後、すぐに冷静になって、私はトキノの言葉を思い出した。”トウドウさんの勧告”の話だ。トウドウさんはトキノを訪ねてきた人が誰なのか知っているんじゃないだろうか。


「そのお客様って誰だったんですか?」

「貴女が心を砕くべきはそこではありませんよ」


 優しいけれど強い口調。トウドウさんらしくないそれがどうも引っ掛かったけど、私が何かを言う前に、トウドウさんは先生に向き直った。私への口調とは裏腹に、今度は歯切れが悪かった。


「ウサギさんは、そうですね……。私よりも、貴方の方が分かるのではないでしょうか」

「分からないので訊きに来たんですけど……まあ、確かに貴方の言う通りだ。自分のことですからね。分からなくて他人を頼るなんて虫の良い話でした」


 トウドウさんは汗をたくさんかいていた。羊毛がいつかのようにぐっしょりだった。口元をもにょもにょっとさせて、申し訳なさそうにしていた。しかし、やがて私たち二人を真剣な表情で見て、「私からお二人にお伝えしたいことがあります」と言った。


「僕たち二人に?」

「ええ、大事なことです」


 トウドウさんは一際汗をかきながら私たちを見ていた。


「鏡に自分自身は決して映らないということです」

「は」

「へ」


 ほとんど同じような反応を私たちはトウドウさんに返した。でも、トウドウさんからのこれ以上の説明はなかった。


「私から言えることはこれだけです。どうか覚えておいてください」


 明らかに私たちを部屋から出そうとする口調だった。


「……ごめんなさい。お食事は後でお持ちしますから」

「いいえ、こちらこそお邪魔しました」


 トウドウさんは謝ってまた文机に向かった。私たちに背を向ける格好になった。私たちもこれ以上何も言わずに一礼だけして、部屋から出て行った。


「鏡に自分自身は決して映らない、か……」


 ひとまずウサギは置いておいて、トキノを探しに行くことになった。と言っても、トウドウさんの情報が正しいならトキノは部屋にいるはずだ。先生は私の隣を歩きながら考え深げに言葉を繰り返した。


「詩的な表現だな」

「このテリトリの人たちは文学的なものが好きだから」

「なるほどな。でも確かに言う通りかもしれない」

「え」


 さっきはあんなにぽかんとしてたのに、と思いつつ先生の方を見ると、先生自身もあまり釈然としていないようだった。


「あの人が言っていることの意味は分かるんだ。何となくだけどさ。けど、これを君にも言った意味が分からないんだよな……あ、着いたぞ」


 話している間にあっという間にトキノの部屋の前に着いていた。私の使っている部屋の隣の部屋。ふすまは閉まっていて、先生が破る直前くらいの勢いで思い切り叩いた。


「おーい、トキノ。いるか?」

「せ、先生、そんないきなり、」

「いるぞ。誰だ?」

「お嬢ちゃんが用があるってさ」

「……入ってきてくれ」


 先生は無言でふすまを顎で指した。一人で入れということらしかった。確かに先生が一緒に入室する理由はなかった。先生は先生でウサギを探しに行く用事があるのだから。

 恐る恐るふすまに手をかけた。鍵などは閉まっていなくて、すんなりと開いた。


「あの、」

「おう」


 これが私たちの第一声だった。部屋の様子は私の部屋とあまり変わらなかった。簡単な棚とタンス、それからベッドが一つ。お風呂やトイレの配置も一緒だった。トキノは部屋の中央で待ち構えるようにこちらを見ていた。青い空のような目がこちらを見ていた。私が落ちた時、空は夕方だったけれどお昼に落ちたら、たぶんこんな色をしているんだろうなと思った。


「元気か」

「う、うん」


 しっかり言葉を交わすのは久しぶりだった。ぎこちないし、何を話したら良いのか分からない。


「もう何ともないか?」

「うん、まあ……」


 何を話そうと色々考えている間に私は気づいた。そもそも私はトキノを傷つけていて、本当なら話す資格なんかない。体の中が引き攣れるように感じた。

 

 ”鏡に自分自身は決して映らない”


 トウドウさんの言葉だ。たとえば、私はこの時どんな顔をしていただろうか。体の中が引き攣れるようになった時、本当に引き攣れていただろうか。

 もしも、私がそれを隠して笑っていたなら、あるいは、笑うまでいかなくても無表情だったなら、鏡はそれを映すだろう。笑う私を。無表情の私を。でも、


「なあ……」


 呼びかけられて心臓が跳ねた。

 いつの間にか、トキノは私の足元までやってきていた。私の足を自分の前足で触れていて、大きな目で見上げていた。そこに映った私の顔は泣きそうな表情をしていて。


「トキノ……」

「本当に泣き虫だな、お前」


 たまりかねて名前を呼ぶとそんな風に言われた。


「泣いてないよ」


 本当だ。私は泣いていなかった。


「いいや、泣いている」


 でも、トキノはそう断言した。


「泣いてないよ……」


 あまり私を見ないでほしかった。泣いていなくても泣いてしまうに違いないと思った。だって、私は泣いていないのに、


「トキノが、泣いているんじゃん……」

「ああ、そうだったか?」


 はぐらかしても無駄だった。青い目が湖みたいに光っていた。湖から水がちょっとずつこぼれていた。そこに映る私もとうとう泣き始めた。


「笑えっつったろ、バカ」

「トキノが、笑ったらね」


 私はしゃっくりを上げながら、トキノは声を殺して泣き続けた。お互い泣いているのは確かなのに、私ばっかり格好悪く見えてしまうのは何か納得いかない。


「俺もお前が笑ったら笑う」

「何それずるい」


 トキノの言い方がおかしくて、何がずるいんだかよく分からなくて、私もトキノも顔を見合わせた。そして、次の瞬間噴き出した。


「ふふっ、トキノったら子どもみたいな言い方」

「お前のも、何がずるいんだかよく分からないぞ、ははっ」


 私たちはひとしきり笑って泣いていた。こんなこと最近はなかった。私として笑ったり泣いたりすることも、トキノと笑ったり泣いたりすることも。


「ただいま。おかえり」


 私は言った。涙を拭わない顔で。

 その姿をトキノは見ていた。


「ただいま。おかえり」


 トキノは言った。涙を拭わない笑顔で。

 その姿を私は見ていた。しっかりと目に焼き付けた。



 その後、私たちは色んな話をした。お互いの話をした。互いが独りだった時の話をできる限りたくさんした。トキノは一生懸命聞いてくれて、一生懸命話をしてくれた。私も一生懸命聞いて話をした。

 トキノは私と別れてウサギの群(注:これはアズマさんではなく、”わたし”たちの方らしい)を追いかけた先でアズマさんを見つけ出したらしかった。”わたし”たちのやったことを知ったアズマさんは、トキノと一緒に私のアパートを訪ねたらしい。が、既に私はいなくなっていた。行方を捜しているうちに、シロクジラに行き当たって潜入したとのことだった。

 この話が本当だとしたら、本当に無茶な話だなあ、と思ったけど、私も色々ひとのことは言えないから黙っていた。


 トウドウさんはお昼と夕方に食事を持ってきてくれた。いずれもトキノの部屋で食べた。立派過ぎて料理名が分からない御膳だった。どれもこれも美味しい料理だった。



 追記:トキノには私の部屋に移ってもらった。

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