第50日② 終末暦6531年 4月19日(火)
【やっと来た。待ちかねたよ】
そこにはランタンが並んでいた。光は気持ち悪い濃い赤色の肉を照らしていた。ヌラヌラと脈打っているそれは、地面や壁、高い天井まで私たちの周りを覆っていた。空気はひどく湿っていて、さっきとは違う意味で息苦しい。
私はピンクのウサギを見た。スケッチブックを掲げて、静かに立つその姿はとても寂しそうだった。
私の隣には先生が立っていて、まだ私の手を握っていた。震えていた。震えながらも、しっかりとウサギを見ていた。しばらくそうしていたけれど、先生はぐっと手を握りしめた後、とうとう私の手を離して一人で歩き出した。邪魔にならないように私も後に続いた。
ウサギの足元には黒い塊が転がっていた。少し動いて、それがトキノだって分かった。トキノのところに駆け寄りたい気持ちをぐっと私は大鎌を握った。
「……待たせて、ごめん」
【おやおや、ビビっているね。そんなに私が怖い?】
「怖い、とっても怖い」
【そっか。じゃ、もう楽にしてあげよっか】
「怖いけど!」
大きな声で叫ぶ声。低くて通る声が響いた。ピンクのウサギがスケッチブックをめくる手を止めた。
「怖いけど……」
今度は呟くように。笑顔で。
「けど、アズマ……あなたもそれは同じでしょ?」
【へえ、どうして?】
アズマさんは誤魔化さなかった。
【私はわたしで、わたしは私。互いに互いを分かっているつもりだったけど、もう私はわたしのことが分からない。それはあなたも同じはずだよ、先生】
【離れてしまったあの日から、ずっと。でしょ?】
「確かにその通り。けれど、こうして離れたから分かることもある。あなたが自分をピンクに塗ってしまった理由も、きっと同じ。怖かったからだ」
【さっきから随分と知ったようなことを言うねえ。ただの予想でしかないでしょ】
「……」
【それに怖いのも、もう今日でおしまい。だってさ、今日で君は死んじゃうんだし。いや~ここまで長かったねえ?】
先生は無言で、持っていたウサギの頭の耳の部分を片手でつかんで前に突き出した。
【え、何?】
「―――――だ」
傍らに立っている私にも聞こえないほどの小さい声。笑った顔は頬が震えていた。体が震えていた。
声をかけるべきか悩んだ。けど、きっとそれは無駄なことなんだろうなと思った。今、先生が話をしているのはアズマさんで、アズマさんが話をしているのも先生で。私はたまたまそこに居合わせただけで。ここでは黙っているのが一番なんだと思った。
【ちょっと~聞こえないんだけど。何だって?】
「……」
けれど、やっぱり心配になった。今度は押し黙ってしまったから。押し黙ったまま、セーラー服の先生は、いきなり歩き出した。早歩きで肉を踏み締めて、ピンクのウサギの鼻先へ。そして、
「え……」
先生は何も持っていない方の手で、ピンクの長い耳を勢いよくつかむと、ウサギの頭をもぎ取って肉の地面に投げ捨てた。私が声をあげてしまったのは、ピンクの頭が取れた後のウサギを見たからだ。
ピンクの頭がなくなった後には、体だけが残されていた。
つまり、そこに頭はなかった。ピンクのウサギの体は動かなかった。【ちょっと~聞こえないんだけど。何だって?】のページを開いたまま、スケッチブックを持っている様子は、申し訳ないけど少しマヌケに見えた。
ピンクの頭がしばらく転がって止まる。それまで、誰も声をあげなかった。一番初めに声をあげたのは先生だった。
「君がこれを忘れるわけないだろ、アズマ」
先生の声はまだ震えていたけれど、優しい感じだった。
「よく見ろ。これは、君の……お前の頭で、わたしたちの頭だよ、アズマ。わたしたちが出て行って、体を裂かれた痛みで苦しんだお前が捨てた、本当のお前自身だ……!」
”そもそも、アズマは白いウサギだった。アズマの周りには白いウサギたちと黒いウサギたちがいて、いずれからもバケモノと呼ばれていた。だから、バケモノと呼ばれないよう、アズマもウサギらしく振舞おうとした。白いウサギらしく、振舞おうとした”
先生はそう言っていた。アズマさんは、白いウサギらしく演じようとして、その結果こうなってしまった。今となっては、白でも黒でもない、ピンク色。
そして、先生はずっと手に持っていた黒いウサギの頭を掲げながら続けた。
「恥ずかしがりの図書委員、怒りっぽい掃除係、笑い上戸の演劇部部長、泣き虫の後輩、いたずら好きの同級生、無口なリレー選手、ひょうきんな先輩……お前はたくさん演じ続けた。たくさんの白いウサギを白い体の中に作った。たくさんのわたしたちを作った。けど、お前の本質は、理想は、いつだって黒い姿だった」
頭のない体は答えない。けれど、私は何となくアズマさんがまだ先生の話を聞いている最中なんだと分かった。だってそうだ。耳がなくても目がなくても手足がなくても、話を聞く手段と言うのは無数にあるのだから。
「……だから、たくさんのわたしたちの中に、
そこまで言って先生はその場で崩れ落ちた。おさげが揺れて、スカートが翻った。セーラー服の襟がなびいていて。その場で座り込むようにして、先生は呟いていた。
「ごめん。ごめん……。ごめんなさい……。だから、僕はお前に殺したいし、お前に僕を殺してほしいんだ」
低い声に嗚咽のようなものが混じった。どうしても殺すとか殺されるとか、そういうことになってしまうのが悲しかった。元々は同じ自分なのに、どうしてこんなにも分かり合えなくて傷つけてしまうんだろうか。
他の人を傷つけることは、残念ながら簡単だ。自分自身を傷つけることも実は簡単なことで。その先には”私なんかいなくなってしまえ”という感情が待っている。それを私ももうすでに知っている。
涙が出てきて、目の前がぼやけた。一生懸命ぬぐって二人の方を見れば、
【悠長に話してたら、先手取られたかあ。流石、いきなり首吹っ飛ばすなんて容赦ないね、せんせ】
とアズマさんのスケッチブックが変わっていた。先生の肩を丸い手が叩いて上を向かせた。
「アズマ……?」
【いやあ、死んだよ! 死んだ!! 死んだ! あんなお嬢ちゃんの前で色々恥ずかしい黒歴史さらされて、もう死んじゃった気分だよ!】
「死んじゃった気分て……」
【お嬢ちゃんもごめんねえ! 見苦しいとこ見せたわ!!! うっわー恥ずかしくて無理だわ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ~黒歴史オブ黒歴史だよこれ!!】
「え、あ、いいえそんな。私は、えっと、なんというか、気にしていま、せんよ?」
かなりのスピードでスケッチブックがめくられていった。ピンクの頭は相変わらず転がったままだったけど、体はとても素早く動いていた。少なくともとても死んでしまったものの姿じゃなかった。
【確かにさ、黒歴史さらすのって、効果あるよ? ありまくりだよ? けど、それって、最終奥義どころか禁じ手じゃん? 最高の殺し文句だよね!】
ピンクのウサギの体は震えていた。けど、さっきまでの先生の体の震えとは違って、怖くて震えているんじゃなかった。アズマさんは笑っていたのだった。
「あの、殺し文句の意味間違っているけど……」
先生が戸惑いながらも突っ込みを入れた。
【いやいやいや、何をおっしゃるウサギさんよ。間違っちゃいないよ。本当に最高の殺し文句だわ。って、あれ、ウサギは私の方か!】
アズマさんはスケッチブックの表面をバシバシ叩きながら、体を前後に揺らした。間違いない。ウサギは静かに爆笑していた。さっきまでのかなり真剣な空気はどこへ行ってしまったのか。
しばらく空間にバシバシする音が響き続けていて、それが止んだ時、ウサギは神妙な様子でページをめくった。こう書かれていた。
【手紙、読んでくれたんでしょ、せんせ】
「……ああ、まあ、うん」
【二つお願い事したの覚えてる?】
「もちろん、覚えている、けど」
手紙に書いてあったのは、二つ。
私をトキノのところへ返すこと。
そして、先生がアズマさんのところに帰ってくること。
【せんせは、二つとも守ってくれた。その子を連れてきてくれたし、先生自身も私のところに来てくれた。おまけに私を殺してくれた(色んな意味で)。だから、今度は私が先生のお願いを聞く番】
「僕の願い?」
【うん、そう。歯、食いしばってね】
スケッチブックが空中に飛んだ。と思った瞬間には、頭のないウサギが右手を振りかぶっていた。そして、その拳は迷いなく先生の頬を抉るように食い込んでいった。ふわふわの手なので痛いかどうかは見た目では分からないけれど、バキバキっと何かが折れる音がして、先生がコマのように回転しながら宙を飛んで肉の地面が凹む程度にメキメキと顔から着地するのを見た限りは、とてつもなく痛そうだった。先生が私の足元に落ちるのとスケッチブックが落ちるのは同時だった。
「せ、先生!!?」
「……ん、あばぼぉぼどぅす」
何を言っているのかさっぱり分からなかった。先生の顔は変な感じに変形していて、腫れているのか凹んでいるのかも判断するのが難しいほどだった。殴られたのと着地失敗のせいだと思う。
スケッチブックを拾ったアズマさんは、私のところへやってきた。正確には、私の足元に転がっている先生のところに。先生はあれだけ吹っ飛ばされても、まだちゃんと黒いウサギの頭を持っていた。アズマさんはアズマさんで、片手にトキノを抱えていた。
「トキノ……!」
【彼にも君にもすっごく迷惑かけちゃった。私からも、ごめんね】
トキノを抱き締めると、温かかった。呼吸は早いけれどいつの間にか傷口が塞がっていた。痕にはなっているけれど、どうにか回復には向かっているらしい。傷に触れないように私はトキノを抱きしめた。トキノはここにいて、私もここにいた。そう思えるだけで、とても嬉しかった。
【どう、せんせ。死んだ?】
今度のスケッチブックは先生に向けられた。先生は全体的に腫れ始めた顔で、それを見上げていた。
「ぶぶっ……」
先生の口の間から変な音が漏れた。たぶんだけど、笑っていたんじゃないかと思う。そして、彼はゆっくりと頷いた。
「ん、じんだど。ばが」
【うむ、それなら良かった】
顔の表情は分からない。アズマさんも、先生も。けれど、【良かった】と書いてあるスケッチブックが全部を表しているように見えた。
「Aさん、Aさん、大変だわ。すぐに先生を助けましょう」
「Bさん、Bさん、そうね。先生をお助けしないと」
声が聞こえて振り返ると、そこには白いウサギの着ぐるみが二人いた。
「どうしてそんなことに」
「痛ましい」
さらに見回すといつの間にやら、私たちを囲んでひしめくように白いウサギの群れができていた。どれも表情は一緒で笑っていた。周りの誰かを笑顔にするときのような、笑顔だった。
「あの頭のない子がやったのね」
「何て物騒なんでしょう。まるで、バケモノね」
「そうね、Hさん」
「本当だわ、Pさん」
「悪い子には罰が必要だわ」
「そうね。罰が必要ね。必要だわ」
「どういう罰にしようかしら」
【ありゃりゃ、集まってきちゃったね】
まるで他人事のようだけど、これは全部アズマさん自身なのだ。
「だぃんぼぼだだぃだぉ!」
【何言ってんだか分からないけど、まあ、確かにそうだね。さて、せんせ。一つ提案なんだけどさ、お嬢ちゃんも】
「え、何ですか?」
【ひとまず、このシロクジラから脱出しよう!】
スケッチブックにはそう書かれていた。
「どうやってですか?」
【こう何か、その鎌でズバーッとね】
「そんな無茶な!無理に決まっているでしょう!!」
【ビームとか出ない? 必ず殺す技的なもんとか】
「ありません!」
無茶も良いところだ。確かにクジラから出た方が良いというのは賛成だった。
【え、でもお嬢ちゃんって図書館の人でしょ? 黒猫くんも言ってたよ?】
アズマさんの発言が何を意味しているのかよく分からなくて私は首を傾げた。そうするとアズマさんはスケッチブックをめくった。
【たぶん行けるよ。シロクジラって影だもの】
「え、そうなんですか!」
白い影というと不思議な感じもする。まさかシロクジラが影とは思っていなかった。でも、こんなに大きなものを今まで斬ったことはなかった。
私は大鎌で影を斬って来た。けれど、今回は斬れるだろうか。とても心配だった。
【大丈夫だよ】
アズマさんは私の肩を叩いた。
【ここまでボロボロになっちゃった私だけど、今回色々思い知ったから、これだけは言わせて。自分というものはね、自分が思うよりも、きっと可能性に満ちているんだ】
それまでのふざけた雰囲気はどこかへ行ってしまって、アズマさんはかなり真面目な様子だった。そして、先生が抱えていた黒いウサギの頭を被った。ピンクの体と黒い頭は、あまり合っていなかった。
そのウサギの体にすがるように、先生は立ち上がった。すっかり腫れあがってそれまでの倍くらいの大きさになった顔は、笑っているようにも見えた。
それでも、私はやっぱりそうそう自分を信じられなかった。さっきまで自分の存在すら見失って、大好きなトキノまで傷つけた私が何かをできるなんて思えなかった。
だから、小さな黒い手が私のことをトンと軽く突いた時、私は自分の心の内が言い当てられているようでドキドキしたのだ。
「お前、本当に……バカ、だなあ……」
「トキノ……?」
「難しく、考えすぎるな……バカ」
「トキノ、あんまり喋り過ぎない方が良いんじゃ」
「バカ、ここで話さないで……いつ、話す…バカ」
「バ、バカって言いすぎだよ! バカって言う方がバカなんだからね!!」
流石にカチンと来て言い返すと、トキノはフフッと息を漏らした。
「そんな顔で、泣かないで、くれ……」
「泣いてないもん!」
「笑って、くれ……ノ。俺は、お前の……傍に……」
「え?」
”笑ってくれ”の後、トキノは何か言った。とても大事な言葉を聞いた気がした。訊き返そうとすると、トキノはまた気を失ってしまった。
浅い呼吸。けど、確かに生きている。鼓動を感じた。私のものか、トキノのものか分からなかったけれど。
私は顔を上げた。白いウサギたちはじりじりと私の方に近づいてきていた。
【良い顔しているね、お嬢ちゃん】
アズマさんがそう見せてきた。どうだろうか。このときの私は、どんな顔をしていただろう。鏡がないから分からなかったけれど心が晴れやかだったのは確かだ。脈打つ周囲の肉に負けないくらい、自分の心臓の鼓動を感じた。うるさいくらいに。そして、トキノの鼓動も。
「あぼぼび」
先生が私に声をかけてきた。その手には、私の日記と『終わらない話』。
「ありがとう」
トキノと日記、『終わらない話』を一度足元に置いて私は、大鎌を振り上げた。
心は決まっていなかった。何にも分からなかったから。
私はいつだって臆病で、怖がりで、雨が降ると布団を被るし、トキノがいないと悲しくなる。そんな自分を私は嫌いだ。好きにはなれない。
けれど、傍にいてほしいトキノがいて、傍にいたいと思うトキノの傍に私がいる。それだけで、充分だった。
いつか、こんな私でも単純に愛せれば良いなと思う。
アズマさんもそうであったら良いな。
そう思いながら、私は大鎌を力の限り、思いの限り振り下ろした。
「あぁあぁああああああああ!!!!!!!!」
咽喉がつぶれるかもしれない。そう思うほど振り絞って声を上げた。私はここにいると示すために。
手ごたえはあった。大鎌は赤黒い肉を切り裂いた。
ヴォオオオヴォオオオオオ!!!!!!!!
世界が揺れたと思った。地響きみたいな音が響いて、体が浮いている感じになって。それに負けないように踏みとどまって、最後まで振り抜いた。確かに何かを切り裂く感覚が手に伝わって来た。
眩しい光が目を刺した。咄嗟に目をつむった。大鎌は離さないように握りしめて。
一瞬だったのか、もう少し経っていたのか。時間の感覚があまりにもなくなっていたけれど、とにかく私は目を開けた。
何が起こったのか分からなかった。一言で説明するなら、足元に空があった。色はオレンジ。夕日が沈みかけているのが見えた。
足元、遥か下の方に大きな雲のようなものがあって、地響きみたいな音がより一層大きく聞こえた。見ているうちにそれは、空の色に溶けるようにして消えて行った。
「あばばばぼぼぼぼぼ!!!!」
「え、先生!!?」
傍らをすごいスピードで先生が浮かんでいくのが見えた。というのは少し間違っていて、正確には先生が地面に向かって落ちていくのが見えた。腫れた頬がかなりプルプルしていた。
遅れて空気がすごい勢いで体の周りを流れていく音が耳に届いてくる。これにしても少し間違っていて、正確には、私自身が空気を裂いている音だった。
ここまで分かって、私はようやく自分がかなりの速さで地面に向けて落ちていることが分かった。見上げれば、雲があってその先に地面が見えていた。
驚いて声も出なかった。周りには同じく、落ちているたくさんの白いウサギがいて何かを叫んでいた。
「きゃあああああああああ!!!!!」
もちろん、私も叫んだ。当たり前だ。落ちていたんだから。日記を書いている今は少し落ち着いているけれど、この時のことを思い出すと本当にお腹の中がひっくり返る感じがする。
白いウサギの中にアズマさんも見つけた。アズマさんは相変わらずスケッチブックを抱えていたけれど。ページがバサバサと捲れて、文字は読めなかった。【うわああああああ】とか書いてあったのかな。
息が苦しいのはこれで三度目だった。
大鎌はどこかへ飛んでしまって、黒いフードも外れてしまった。白いワンピースだけが風に煽られていた。
ずっとずっと落ちて行った。シロクジラはかなり高いところを飛んでいたようで、いつまでも地面は遠いままだ。日の光が眩しくて、目を細めた。
そして、見つけた。たくさんの白の中に、小さな黒。私よりも少し上空にいたのは見間違えることはない、トキノの姿。
「ト……」
風に叫びがかき消される。どうせ叫んでも聞こえないんじゃないか。
そんな風に思った。けど、すぐそんなの関係ないと気づいた。流れる空気をどうにか吸って思い切り叫んだ。
「トキノ!!!!」
何度も、何度も。
「トキノ!!!!」
手を伸ばした。日が沈んで夜が訪れそうな暗さの中で、トキノは確かに首を動かして薄目を開けて、私の方を見ていた。そして、口を開いて何かを叫んでいた。
顔にかかる髪の毛が邪魔だった。一生懸命払いのけて、少しでもトキノの近づきたくて空中でもがいた。そして、ようやく、その尻尾をつかんで、引き寄せ抱きしめた。
「んなとこ、つかんだら痛いだろ、バカ」
「バカバカうるさいよ! バカ!」
トキノと交わした会話はこれだけだ。私たちはそのまま黙って地面に落ちて行った。
トキノは何を叫んでいたんだろう。私の名前だったとしたら嬉しいんだけど、後でトキノに訊いてみたら答えてくれなかった。結局、何を叫んでいたんだろう。すごく気になる。
雲の合間を縫うように、私もウサギたちも落ち続けた。下に見えるサイハテの町には明かりがつき始めていて、そんな場合ではないのに綺麗だなあと素直に思った。
どうやって着地したかと言えば、これが意外にもあっさりしていて、ごく普通に足から着地した。広場のような場所で、先に着地したらしいアズマさんと先生がスケッチブックのページを使って、
【着】
【地】
【こ】
【こ】
【!】
と着地地点を示してくれたのだった。そして、そこは大きな白いモコモコで。私はそこに目がけてトキノと一緒に飛び込んだ。
「ぐえっ……」
モコモコから声がした。声の主は分かっていた。白くてモコモコで、着物を着ている礼儀正しい羊と言えば、一人しかいない。
「トウドウさん、ごめんなさい。大丈夫ですか」
「あ、はい。大丈夫で、ぐえっ……失礼しました。大丈夫でぐえっ」
「本当にごめんなさい。助かりました。ありがとうございます……ということはここはもしかして……」
辺りを見回せば、薄いピンク色の花の木に五色布が垂れる大通り。
「ぐえっぐえっ……ええ、そうです。ここは御伽草子のテリトリです。ようこそ」
話によれば、天文塔のテリトリの観測員から連絡が入ったらしく、他のテリトリの住人もみんなで待機していたとのことだった。
「正直、驚きました。あのシロクジラの消失と共に無数の白ウサギとその他色々を観測したなんていう、些か正確性に欠ける情報が天文塔から入って来たものですから。そしてその中に白いワンピースの少女がいるという情報も。特徴を聞いて、まさかとは思いましたが、本当に貴女だったとは思いませんでした」
「本当に助かりました。いくらお礼を言っても足りません。あの、ところで一つ伺っても良いですか?」
「どうぞ。遠慮なくおっしゃってください」
「さっきトウドウさんの話にもありましたが、たぶん、ここに白いウサギがたくさん落ちてきたと思うんです。ウサギたちはどこへ行ったのでしょうか?」
広場にいるのは私とトキノ、アズマさんとウサギ、トウドウさんとテリトリの住人たちだけで、白い姿は見当たらなかった。
「あのウサギたちなら、着地するなり散り散りにどこかへ跳ねて行ってしまいました。お引き留めはしたのですが……。残ったのはあそこにいらっしゃる、二色のウサギさんと制服姿の少女だけです」
「そうだったんですか。教えてくださってありがとうございます」
少し離れたところに立って手を振っていた先生とアズマさんに私は手を振り返した。
「私は大丈夫ですが、貴女は大丈夫ですか。酷く顔色が悪いですよ」
「え……」
言われるまで気づかなかった。足元がおぼつかない。そしてとてもお腹が空いていた。
「それにトキノさんも……これは、かなりの怪我ではないですか。すぐに手当てをするよう手配しましょう」
トウドウさんの計らいもあって、トキノは御伽草子のテリトリ内の病院に運ばれた。私も一緒に行きたかったけれど、トウドウさんやちょうど広場に来ていたらしいミスマルオカに引き留められて、ひとまず夕食を取ることになった。
夕食はミスマルオカが握って来たというおにぎりだった。かなりの数があって、私たちの落下に立ち会ったテリトリ住人たちが一人一個食べてもまだまだ余る勢いだった。
「はいはい、ジャンジャン食べてね! 食べない人はまだご飯はあるから握る方やってね!」
私はおかかとサケとパンのおにぎりをもらった。正直、パンのおにぎりはどうかなと思ったけど、テリトリの人たちが握ってくれたと思うと嬉しくて美味しく感じられた。
アズマさんと先生が二人で寄り添って食べていた。何かを話していて、それが少し気になったけど、邪魔をするのはやめておいた。
空を見上げれば、星空が見えた。たまに流れ星が流れていて、それがとても綺麗で少しだけ、本当に少しだけだけど泣いてしまった。
「ほら、食べな」
「そうですね。一緒に食べましょう」
ミスマルオカがまたパンおにぎりを持ってきてくれた。トウドウさんもきっと忙しいのに私の傍に座って一緒におにぎりを食べてくれた。悲しくなんかないのに、また涙が出てきた。おにぎりがすごくしょっぱく感じられた。
しばらくして、トウドウさんは広場に向けて事情を説明し、テリトリの住人たちを解散させた。そして、私とアズマさんと先生を呼び寄せて、今日は屋敷に泊まるようにと言った。以前壊れてしまった屋敷は、かなり小さいながらも建て直したらしかった。これから風見堂の方まで戻るわけにもいかなかったし、トキノのことも心配だったから、トウドウさんの言葉に甘えることにした。一部屋ずつ使わせてもらっている。
「トキノさんのところには、明日お見舞いに行きましょう」
トウドウさんがそう言ってくれた。気を使わせてしまったようで申し訳なかった。
「ぼうぼばぼべ」
それぞれの部屋に行く前に、先生がそう言って日記と『終わらない話』を渡してくれた。
【風で飛ばされたりしてなくて本当に良かったよ。中央の通りの方に落ちていたんだ】
「ありがとうございます」
【こちらこそ。明日改めてお礼をさせてね。今日はもう遅いから、ゆっくりお休み。良い夢を】
「びびぶべぼ」
「はい、そうですね。お二人もおやすみなさい」
部屋は広くて、ベッドもすごく大きかった。ベッドの中で私は今日記を書いている。ここまで書くのにとても時間がかかってしまってゆっくり休むどころじゃなかった。でも、それだけ書きたいこともあったから。そして、書きたいことはしっかり書けたと思う。とにかく今は寝ようと思う。とても疲れてしまった。でも、その疲れも少し嬉しかった。疲れているってことは、私がここにいるということなんだから。
追記:嘘だ。おにぎりを食べているとき、本当はとても悲しくて泣いていたんだ。
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