第50日① 終末暦6531年 4月19日(火)
終末暦6531年 4月19日(火) 晴れ 色んなおにぎり
ずっとピッピッピッという連続した電子音を聞いていた。何かのカウントダウンかなと思って耳を澄ませるのだけれど、結局音の正体は分からない。
分かるのは、自分がどうしようもなく独りで、誰も私の傍にはいないこと。
傍にいてほしいと思っていた誰かを傷つけたこと。
そして、自分が自分としてあることが、実はとても難しいということだった。
そんなことを思いながら約10日間、つまりクジラに飲み込まれてから今日まで、ずっと私は過ごしていた。もしかしたら、その前から私は少しおかしかったのかもしれない。
「まず、最初に謝っておかなければならない、ごめんなさい」
とにかく、そんな日が終わったのは、わたしが尋ねてきたからだった。
「こんなことになってしまったのには、色んな事情がある。そもそも、アズマは白いウサギだった。アズマの周りには白いウサギたちと黒いウサギたちがいて、いずれからもバケモノと呼ばれていた。だから、バケモノと呼ばれないよう、アズマもウサギらしく振舞おうとした。白いウサギらしく、振舞おうとした」
電子音が規則正しく続く中、唐突にその姿を見つけることができたのはとても不思議だったけど、今となっては見つけられて良かったという安心の気持ちの方が大きかった。
掠れた小さな声が電子音と隣り合って聞こえてきた。
「恥ずかしがりの図書委員、怒りっぽい掃除係、笑い上戸の演劇部部長、泣き虫の後輩、いたずら好きの同級生、無口なリレー選手、ひょうきんな先輩……色々試しながら、理想の白いウサギを追いかけた」
ウサギのぬいぐるみの頭の部分だけを抱えて、セーラー服のその人が立っていた。おさげの髪の毛が可愛いかった。
「……そして無数のわたしたちをまとめる理想的な先生。それが、ここにいるわたし」
こんにちは。そう言おうとして、口が動かないのに気づいた。私の口はどこに行ってしまったのだろう。そして、目や耳。手足さえも。
目の前の人物は見えていて、声も聞こえているのに、私は私自身がどこにいるのか分からなかった。
「アズマは、今までたくさんの自分を演じ続けた。アズマは良い役者ではあったけど、演じ続ければ、演じた役ばかりが自分の中に膨らんでいく。どんどん、どんどんわたしたちは膨らんでいって、着ぐるみの中に納まるには大きすぎる存在になってしまった」
言いたいことはたくさんあった。
どうしてバケモノなんてひどいこと言う人がいたのか。
それに反論する人はいなかったのか。
あなたに味方はいなかったのか。
傍に誰かいなかったのか。
「傍にいたのは、わたしたちだけだった」
私の考えを読んだかのように、その人は、先生は言った。
「わたしたちはどうしようもなく愚かだったから、大きくなりすぎてしまった。大きくなりすぎてしまった、わたしたちのことを、アズマは嫌った。大きくなり過ぎた自分を、アズマは嫌った。心の底から憎んだ。魂の底から嫌悪した」
そして私たちもアズマを嫌った、と先生は抱えていたウサギの頭を抱き締めるように持ち直した。中はもちろん空洞で、その暗い穴が私からもわずかに見えた。
「やがて、わたしたちはアズマの体を突き破り、外に出て行った。アズマは苦しんでいたけれど見ないフリをして。アズマの理想の存在だったわたしでさえも、もうアズマを好きではいられなくなってしまっていた」
わたし。
今となってはそれが、”私の中のわたし”じゃなくて”アズマさんの中のアズマさん自身”だということはもう分かっているのだけれど、こうして先生と面と向かって話すまで、私はそれに気づくことができなかった。
やっぱり私は少し混乱していたのかもしれない。
「アズマは、怪盗アズマとなってわたしたちを探した。わたしたちに復讐するためなのか、それとも取り戻すためだったのか……今となっては分からないけれど」
怪盗アズマは、他人がいらないと思ったものを盗む。確かそんなことを誰かが言っていた。
もし他人がいらないと思ったものの中に自分がいるんだと思っていたとしたら、それはなんて悲しいことなんだろう。なんて寂しいことなんだろう。
「とにかく、わたしたちは嫌悪のまま、各々サイハテ中を巡っていた。まるで怨霊か何かみたいに。そのうち、わたしと他の何人かがシロクジラに飲み込まれて、巡り巡って貴女に迷惑をかけることになってしまった」
だから、申し訳ない。先生は最初に謝ったときのようにうなだれてそう言った。
「そして、こう言っては何だが、お礼を言わせてほしい。久々にアズマに会って、あんなにあった殺意が霧散してしまった。まったくなくなったかと言えば、そうでもない。他のわたしは納得しないだろうが、今のわたしがアズマに対して抱くのは、少しばかりの殺意と少しばかりの憐憫だ。貴女のおかげで、わたしは頭を冷やすことができたらしい。だから……ありがとう」
正直に言えば、謝られてもお礼を言われても、私はそれに応えることができない状態だった。目の前の先生に何か言葉をかけたいと思っても、私はそこにいないかのように、手ごたえがなかったのだから。
それに先生も気づいたようで、少し目を見開きながら、けれど納得したかのように言った。
「ああ、そうか……。今、貴女がここにいないのは、わたしのせいだ。わたしは貴女を利用して……いや、貴女だけじゃない。クジラに飲み込まれた者たちを利用して、憎悪の限りを尽くしてアズマを消そうとしたんだ。すべて、わたしのせいだ。わたしがアズマの理想通りにできなかったから」
それは違う。そう口を動かして言いたかった。
確かに、先生のしたことはとんでもないことだ。思い返しても、ひどいと思う。ひどいのは、私たちを利用したこととアズマさんを消そうとしたこと。
けれど、違うんだ。そうじゃない。先生はアズマさんの理想として存在していたのに、理想通りにできなかったかもしれない。それは事実かもしれない。けれど、そうじゃない。何度でも私は言う。言いたいと思う。でも、やっぱり言葉は出なくて。
こんな時、彼が傍にいれば、何でもできる気がするのに。
ふと、そんな思いがよぎった。彼とは誰だったか。思い出したかった。姿形も声も匂いも言葉も、思い出そうとするとその考えの端を掠めていく。それが嫌で嫌でたまらなかった。
私はたぶん彼に頼りきりだった。
私はたぶん彼がいないと何もできない。
私はたぶん彼を傷つけた。
私はたぶん彼がいない弱い自分が嫌いで。
けれど、彼に傍にいてほしいといつだって願っていた。
考えの端に手を伸ばす。考えの端へ歩み始める。考えの端を見て、声をあげる。
「貴女……」
先生が驚いたように言ったのを聞いた気がした。
声はまだ出ない。苦しい。息が詰まるようで。けど、良い。息くらい詰まっても。苦しいけれど、怖いけれど、私はその傍らにいたいと、いつだって思っていたから。
「……ぃ」
そして、小さく隙間から私は声をあげた。初めて生まれた時もきっとこうだったんじゃないだろうか。それくらいの苦しさと嬉しさをもって、私はやっと彼の名前を呼ぶことができた。
「トキノ」
その言葉から湧き出るように、足が、手が、目が、耳が、口が、戻ってくるのが分かった。というか、そこに私はいたんだとやっと見つけることができた。先生の目の前に私は立っていた。白いワンピースに黒いマントを被り、大鎌で影を斬る女の子。それが私。アズマさんでも、生徒Kでも、先生でもない。私はそこにいた。
「……驚いた」
先生が言った。
「先生、あの、」
息が上手くできなかった。息が切れるけど、この10日間とは違って、ここにいるのは紛れもない私だって分かった。それまで聞こえていた電子音は不思議と消えていた。
「先生の事情はよく分かりました。アズマさんに会いに行きましょう」
「え、けど、」
「日記を書き終わったら来てって言っていたじゃないですか。だから、会いに行きましょう。今の話は私じゃなくて、アズマさんにするべきじゃないでしょうか?」
先生に言いたいことはたくさんあった。たった10日間だったけれど、先生と私は、ある意味では一緒のものだったんだから。けれど、先生に対して私が色々言うのは、少し違う気がした。今すぐ話さなきゃいけないのは、私と先生じゃない。
「でも、きっとわたしとアズマじゃただの殺し合いになってしまう。話し合いの段階なんてもうとっくに通り越していて……」
「けどとか、でもとか、言うのは後でもできます。他人の私にも話せたんですから、自分自身に話せないはずありません」
先生の片手をつかんだ。もう片手でしっかり大鎌を握る。
私より少し大きくてしっかりした手は、冷たいようにも感じた。その手を引いて、私は歩き出した。先生も戸惑うように、けれど力強く握り返してきて。振り返れば、意を決したように唇を引き結んだ先生が見えた。
私たちは、私の内側から外へと一緒に走り出した。
(続く)
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