第49日 終末暦6531年 4月18日(月)(推定)

 終末暦6531年 4月18日(月) 晴れ 夕食なし


 あの麦畑で少し眠って、その後学校の中に戻ったのだ。どうやって戻ったのかは覚えていない。ウサギが【ついてきて】と言って(書いて?)、私の手を引いて先を歩いて行ったのだ。

 ウサギに手を引かれている間、私はずっと俯いていた。黄金色の茎と暗い土の色をずっと見ながら歩いていた。そうしながら、昨日ウサギとしたやり取りの数々を思い出して、何故かとても消えてしまいたい気分になっていたのである。


 おかしな話だ、本当に。あんなに求めて、殺したかったのに。むしろ、死ぬよりもっとひどい仕打ちをしてやりたいなんて思っていたくらいなのに。けど、いざウサギと出会って互いに話をして、色んなことを言い当てられて、自分の方こそ消えてしまいたいと、そういう気持ちが体の中いっぱいに渦巻いていった。それが胸どころか体の隅々を刺しているようで、とても顔を上げて前を見て歩くなんてことはできそうになかった。


 ウサギはどんな気持ちでいたのだろう。ウサギも私を殺したかったはずなのだ。麦畑を歩いているときに、一回だけウサギの方を見てみたけどよく分からなかった。


【どうしたの?】

「何でもない」

【ふーん。でも、よく分かんないけどモヤモヤしてるよね】


 ウサギの表情は全く変わらなくて、着ぐるみらしくニコニコとした笑顔を浮かべているばかりだった。

 ウサギのセリフはそれだけで、後は黙って二人で歩いていた。ずっとずっと黙って手を繋いで。二人で。



 とにかくそうして歩いた後、いつの間にやら教室やら職員室やらの前を通り過ぎ、下駄箱の前までやってきていた。そのときは気づかなかったけれど、校舎の中は私たち以外の人気が全くと言っていいほどなかった。あれだけたくさんのわたしがいたはずなのに、気味が悪いほどシンと静まり返っていた。

 下駄箱は扉付きだったが、すべて開け放たれていて、台風か何かが通り過ぎた後のように上履きも外履きも散乱していて荒れ放題だった。


 仕方なく、私とウサギは靴を踏みつけながら校庭へと出た。

 日差しが眩しくて、目が痛かった。目をぱちぱちして慣らしてから見回せば鉄棒やら上り棒やらの遊具とか少しくすんだ朝礼台だとかが死んだように立っていた。ウサギは迷うことなく校庭端にある簡素な小屋までやってきた。立派な白い体育倉庫の隣にある、もろそうな柵の中。ペンキの禿げた緑色の小屋。柵についている看板も少し禿げかけていて、でも、ところどころは読むことができた。


『しろうさぎ ×××イちゃん くろうさぎ ×××く× の おうち』

『さく を ×××ないでね! うさぎさん が ××××しちゃうよ!』

『うさぎさん は ××× が だいすき だよ』


 ウサギは柵の扉を開いて、小屋の中まで入っていった。小屋の中はわらのようなものが敷き詰められていて、少し臭かった。小屋の中は緑の壁で大きく二つに仕切られていて、そこに小さな黒い塊が横たわっていた。傍にあったわらが少し赤くなっているあたり、その塊は怪我をしているようだった。


【さて、傷の具合はどう?】


 その塊と私に見えるようにウサギはスケッチブックを掲げた。

 塊がもぞもぞと動いて、キラリ光る青い目がこっちを見たのが分かった。二つの三角の耳がピクリと動いて、私はそれが猫であることが分かった。何となく不気味さを感じて後ずさってしまった。塊の目は少しの間私を見ていたけれど、すぐにウサギの方へと向いた。


「どこに行っていたかと思えば……」

【まだ、相当痛そうだね】

「……まあな」


 黒い塊は呻くような声でウサギの言葉に応えていた。黒くてあまり目立たなかったけれど、背中の部分に大きく深い傷があるようだった。

 そうして見ていると何となく気恥ずかしい思いがして、目をそらした。その先でスケッチブックが掲げられる。黒猫には見えないような角度のそれは、こんなことが書かれていた。


【何で顔を赤らめているんだか。私は彼のこと、別に好きってわけじゃないんだけど?】

【ああ、でも、もしかして、わたしはそうなの?】

「ち、違う……」

【うーん……じゃ、たぶん、”気恥ずかしい”じゃなくて”気まずい”だよ、それ】


 【わたしは彼を斬ったわけだしね。ってことは……あれ、私もちょっと気まずいや】とウサギは続けた。気まずいという言葉は間違っていないように思えた。どころか、しっくり来た。

 予感はあった。姿かたちは全く違っても。この猫が、数日前に私が斬った黒いウサギだって。あの時の優しい手の主だって。けれど、だからこそ、私は恥じ入るのだ。


「何が違うんだか知らないが……」


 黒猫は静かに胸を上下させて、薄汚れた天井を瞳に映す。


「とりあえず、そいつを、連れてきてくれた……それには感謝する、アズマ」

【かなり迷惑かけちゃっているからね。せめてもの罪滅ぼしってやつよ。私としてもわたしに用があるわけだし】

「……そうか」

【怒ってる?】

「ああ、とても」


 猫の言葉にウサギは少し固まった後、ことさらゆっくりとした動作でスケッチブックをめくった。


【そう、安心したわ。怒れるってことは、まだそこに自分がいるってことだから】

「煽っているようにしか……見えねえな」


 それに応じる黒猫の苦笑。そして、ウサギも同じように肩を竦めた。


【だね。ごめん。けど、もう少し時間がほしい】

「分かった。早めに頼む。おい、えっと……オマエ」


 呼びかけられて思わず体が跳ねた。心臓がドキドキと忙しなかった。一体私はどうしてしまったのだろうか。

 黒猫の青い目が私を映す。はっきりと見えない。けれど、私はその瞳に息を飲んでいた。まっすぐ見る目を。


「今のうちに……日記、書いておけよ」


 妙なアドバイスだった。彼は怒っているはずなのに優しい声で。けど、それは不思議と腑に落ちた。だから、自然とお礼が口から出てきたのだ。


「分かった……ごめんなさい。ありがとう」

「また、会おうぜ。また、笑える、ように……なったら」


 そうして黒猫は力尽きたかのように目を閉じた。わらの上に体を投げ出して、胸を上下させていた。


【私も、もう一度怒れるようになれるかな?】

「でも、猫は、”笑えるようになったら、また会おう”って」

【それは、私やわたしに向けられた言葉じゃない。貴女への言葉よ、お嬢さん】


 そうだったのだろうか。

 猫が寝入ってしまって、もはや確かめようはない。けれど、予感はあった。彼にもし尋ねたなら、彼がどう答えるか。


【さて、少し出てくるね。日記を書き終わったら会いに来て】


 予感を伝える前にスケッチブックが示されて、ウサギは小屋から出て行った。

 猫と二人取り残されて、途方に暮れなかったと言えば嘘になる。けれど、何をすれば良いか分からないというわけでもなかった。むしろ、やることははっきりしていた。

 小屋の隅にこんもりと盛られたわらの上に腰掛けて、日記を書き始めた。そして、今も書いている。


 何故、黒猫が私に日記を書くよう言ったのか。

 何故、ウサギは私を置いて外に出て行ったのか。


 どちらも同じ理由だ。二人は私に時間をくれている。

 私。あるいは、

 あるいは、

 あるいは、と言うべきかもしれない。


 さて、きっと最後だ。書きたいことを書こう。そして、


 わたしが最後に言いたいことは、こうだ。


 どうかあなたが、あなた自身として在ることができますように。そして、いつかあなた自身として朽ちることができますように。

 わたしは、この存在の限りの憎しみと優しさを込めて、祈ります。

 さようなら。



【追記】

 さようなら。ただいま。

 そして、おかえりなさい。

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