《(3)黒白のウサギ その3》

第48日 終末暦6531年 4月17日(日)(推定)

 終末暦6531年 4月17日(日) 晴れ おにぎり(ツナマヨ)


 さっきまではウサギと一緒におにぎりを食べていた。


 ここに至るまでの話を、つまり、ここから先は一昨日の話の続きをしようと思う。


 ウサギを殺すことができなかった私は、図書室を飛び出して先生を一昨日から昨日にかけて探した。ウサギたちに会って、殺したかったのに殺せなかった。そのせいで、私は自分がどうしたら良いのか分からなくなってしまったのだ。

 先生ならきっと何とかしてくれる。先生なら私を導いてくれる。

 長くて薄暗い廊下を走りながら、そう必死に頭の中で唱えていた。古い木でできた廊下が延々と続いて、お腹の横がキリキリと痛んだ。頭の奥と鼻の奥がツンとして苦しかった。廊下にも、それに面している教室にも人気はなかった。


 この時、ちょっと前に黒ウサギを鉈で殴ったときの感触が、まだ少し残っていた。指先から腕にまで這い上がるような感触は、日記を書いている今も思い出す。何かをえぐるというのは、まさにこういうことなんだと知ったような気がした。


 荒い息の合間に、泣き声がこぼれ出てダメだった。黒いウサギにも”泣くな”と言われたけれど、それは無理な相談で。後から後から溢れる何かが止まらなくて、止まらない何かは涙や泣き声になって私の外へと出て行ってしまおうとするのだけれど、それはそれでまた苦しくて堪らなくて、せめて泣き声だけでも堪えようと私はしゃっくりをあげていたのだった。


 私はやがて木製の階段を上がっていた。ついでのように壁際についている窓は赤い夕日の光を通して階段にいびつな影を作っていた。他の”わたしたち”が、ウサギを血なまこになって探しているのが分かった。この時の私はまだ”わたし”だったから、わたしが何をしているのかちゃんと分かったのである。


 いつまで廊下を走っていて、いつから階段を上がり始めたのか、定かではなかった。でもできるだけ早く先生に会いたくて、できるだけ早くウサギから離れたかった。それだけを思いながら、私は駆け続けた。

 腕に続けて足も痺れ出していた。階段の固さが辛かった。やっとのことで踏み締めて、一段一段を上がっていく。


 そうしてたどり着いた階段のてっぺんには、教室のドアと同じような木製の引き戸があった。あまり深く考えずにそれを開け放てば、ビュッとつんざくような風が脇を通り過ぎた。室内から外へと吹くそれに押されるように、よろめきながら私は歩を進めた。


 そこは学校の屋上、ではなかった。

 一面、金色の明かりが灯っているととっさに思ったけれど、それも少し違う。

 はっきりと私の目に映ったのは視界一面に広がる金色の麦畑だった。階段を上がってきて、やっとたどり着いた場所だということを一瞬忘れるくらいには衝撃的な光景だった。上を見上げると、そこは暗い夜空が広がっていて、そこには無数にあるものが瞬いていた。

 そして麦畑の中にポツンと一羽、ピンクのウサギが佇んでいた。私は久々に空気を吸ったかのような心地でそのウサギを見つめた。私たちの間は5メートルくらいの距離があった。

 ウサギはどこからともなく、スケッチブックを取り出した。さっと開いて頭の上に掲げるとこんな文章が書いてあった。


【やっほ。やっと、追いついた。そして、とっても待ちかねたよ】


 丸っこい手が振られても私は動かなかった。何故か黒いウサギは見当たらなかった。

 目の前のウサギは続けてゆっくりと何枚かページをめくった。


【……と、言ってもアレか。何のこっちゃ分かんないよね】

【ま、正直さ、私もどうしたら良いか分かんないのよ。最適解って何だろね?】

【だからこそ、こうして”わたし”に会いに来ているんだけどさ】

【ってわけで、まずは前口上いっときますか】


 文字は丸っこく、口調は。軽く目の前のウサギのスケッチブックは言葉を数々写し、そしてこの言葉で一度止まった。


【私は怪盗アズマ。今宵、私は”わたし”をいただきに参上しました】

「へ……?」


 今思えば、ずいぶんと間抜けな声を出してしまったなあと思うけど、後の祭りだ。とにかく私はこの時すごく残念な声を出した。


【ま、正しい反応だよね】


 私はまだ鉈を持っていて、手は汗でベタベタだった。必死に殺そうとして、必死に逃れようとしたウサギが目の前にいると思うと、さらに頭が混乱を通り越して真っ白になっていたのだ。


【うん、そうだろうね。わたしは私を殺したいし、私から逃げ出したい。そうね。私も同意見。手紙でも確か同じこと言ったよね】


【けど、違うんじゃない?】とウサギは続けた。麦畑にカラリと乾いた風が吹く。それなのにウサギの耳は動かなかった。


、そういうところ、余計なお節介】

【もちろん、そもそもこうなっちゃった原因は私だし、こんなこと言うのは君からすれば理不尽だって思うかもしれない】

【でも、私は君を巻き込んでしまったことを謝るつもりもないんだ。君から飛び込んできたっていう側面もないわけじゃないから】

【それに、私は生来自己中心的だし。できれば、他殺より自殺が良い派だし】


 私は麦畑を見回した。先生を探していた。


【先生ね。うん。ま、それも”わたし”って言えばそうか】


 いちいち、私の考えていることを言い当てるウサギにだんだん怒りが湧いてくるのが分かった。とにかく目の前のウサギを酷く傷つけてやりたくなった。

 ウサギは軽く小首を傾げた。


【泣いているの?】


 泣いていた。泣き過ぎて目が痛かった。


【殺したいの?】


 殺したかった。心が尖ったように体を突いて。


【良いよ。トキノくんへの義理も果たしたいし、私もちゃんと向き合いたいし】

「……うあぁぁあぁあぁぁぁああぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!!!」


 ウサギの言葉が合図となって、喉が裂けそうなくらいの絶叫が響いた。私の喉から出ている声だった。横になぐように、鉈を振るえば周りに茂っていた麦の上半分が風に散った。


「殺殺シテやるコロス殺ス殺してコロスコロセ殺して!!!」

【ああ、そうね。そうだね。お互い早く死んで楽になるのも一つの方法だよね、


 ウサギは器用にスケッチブックを掲げた。麦を切り刻みながら、私はウサギに近づいていった。

 先生。そうウサギは私を呼んだ。


「わたしは、せんせい、じゃない。ちがう……ちがああううぅ!!!せんせい、どこだ!!」

【うん、そうだね。君は違う。でも、そこにいるのは自らを”先生”と名乗る”わたし”に違いないよ。手紙読んでくれたんでしょ?】


 言われて思い返せば、確かに私は手紙を読んでいた。日記に挟まっていたそれを読んで……それで、腹が立ったのだ。


 先生はどこにもいなかった?

 先生は私?


 よく分からないまま、私は腕を振った。振り下ろした鉈をウサギは軽い動作でかわす。代わりにまた、麦が切れた。私はがむしゃらに鉈を振った。


【そして、”わたし”は、君にとっては不要なもの、いらないもの。でもさ、それって私が喉から手が出るほど、欲しい代物なわけ。やっと見つけて、向き合えるものなわけよ】

「にげぇるなあぁあああ!」


 ウサギは走り始めた。私はそれを追う。一見すると、向き合うと言いつつ逃げていくウサギの行動は、筋があっていないようにも見えた。私は麦を薙ぎながら走った。それでもさっきまでの疲れもあったので、ウサギにはなかなか追いつけない。


「まてええぁああぁああ!!!にげるなあっぁあああ!!」

【逃げているわけじゃないよ】


 この時は分からなかったけれど、確かにウサギは逃げていなかった。以前に会った時とは違って、本気で逃げる感じがなかった。本気で逃げるなら本気で走るはずなのに、ウサギは私の方を時々振り向きながら跳ねるように進んでいるだけだった。


【ついてきてよ、先生。私はここだよ】


 スケッチブックのページを千切って、こっちに投げてくるのが鬱陶しかった。走っている私たちの頭上では、日記が瞬いていた。ただのノートとか本とかに見えるのだけれど、私には直感的に日記だと分かった。御伽草子のテリトリで見たオトギリさんの本とは違って、何かを目指して飛んでいる様子はなくて、何冊も何冊も

 折り重なるように風に乗って漂っていた。

 日記からは時々文字が噴き出して、それも空を彩っていて。いつか誰かがつづった言葉が、暗い夜空に輝いていた。


 長いような短いような時間の後、ウサギはいきなり立ち止まった。こちらの方を振り返っている様を見て、私は鉈を構えて振りかぶった。


「うわぁあぁあっぁああ!!」


 ウサギにとびかかるように麦畑から飛び出せば、投げ出されたらしいスケッチブックのページが、私の目の前を覆った。


【あ、危ないよ!!!!】


 体が後ろに引っ張られて、勢いでひっくり返る、土の香りがした。ウサギが私を見下ろしていた。


【大丈夫?】


 何かあんまりだなあ、と思った。こちらは目の前のウサギを殺してしまいたくてたまらなくて、それについて”良いよ”とウサギ自身が言ったのに。ウサギは、殺されるという危機感も何もなくて私を心配していて。気軽な口調で声をかけてきて。


【それだけ泣くことができるなら、大丈夫かな。ごめんね。いきなり引っ張ったりして】


 ウサギが私の髪をそっと梳いた。


「あんまり……だなあ……」

【そうだね。あんまりだね】


 ウサギの顔はよく見えなかったけれど、笑っているように感じた。起き上がって泥を払ったけど汚れは簡単に落ちそうになかった。


【泥だらけだね。これも取っちゃおうか】


 二人で一緒に泥を落とそうとしたけれど、結局無理だった。私もウサギもお互い汚れただけだった。目に巻いていた包帯を取られてしまった。とっさに顔を隠したけれど、ずっと隠しているわけにもいかない気がして少し目をこすってから顔を上げた。何となくだけれど、周りの景色もウサギのことも少しだけはっきり見えるような気がした。


【けど、本当に危なかったんだよ。ほら、あっちを見てごらん】


 丸い手が指した方向、つまり私がさっき飛び出した方向を見ると、麦畑がなくなっていた。あるところから、それこそ鉈か何かですっぱり切られてしまったように。


【麦畑の縁、その向こうってのは大体、崖なの。あんなところに落ちてしまったら戻って来られなくなっちゃう】

「どうして……」

【どうしてこんなところに来たかってことでしょ。片や、物騒な刃物持ち。片や、フワフワなウサちゃんの手。どう考えたって、対等とは言えないでしょ。それがちょっと嫌だったの】


 そう言えば、鉈はどこに行ったのだろうか。どこにも見当たらなかったので、たぶんさっき引っ張られたときに崖の下に落ちてしまったに違いない。


 私たちは二人して崖に足を投げ出して座った。麦に頬をくすぐられてこそばゆかった。せっかく少しでも泥を落としたのに、おしりの部分にまた泥がついてしまうなあ、と思った。

 おかしな話だけれど、さっきまであんなに殺したいと思ってそれだけで体を動かしていたのに、この時はもうそんな思いは嘘みたいに消し飛んでしまっていた。まったくなくなったわけではなかったけど、”じゃ、今から殺しましょう”なんて言われても、その気になれるとは思えなかった。


【流石、わたし。私と一緒だ。対等になったらやり合おうとか思ってたんだけどさ、イマイチそういう感じじゃなくなっちゃったよね】


 何かあんまりだなあ、とまた思ってしまった。そう思ってしまった自分がおかしかった。


【笑っているね】

「あなたも」


 上手く出なかった言葉はすっかり戻っていた。あっけないくらい心は凪いでいた。


「少し、疲れた……」

【うーん。だね。疲れた】

【あ、おにぎりあるよ。とりあえず、食べて、ちゃんと休んで、それから殺す殺さないは考えよう】


 ウサギは体を捻って、背中のチャックを開けてみせた。中に手を突っ込んで、おにぎりを二つ取り出した。おにぎりはラップに包まれていて、綺麗な三角形だった。


【ツナマヨとおかかだよ。どっちが良い?】

「……ツナマヨ」

【うん、やっぱね。仕方ない。今回は譲ったげるわ】


 おにぎりは美味しかった。おにぎりなのに、にぎり過ぎてないしちょうど良い柔らかさで、マヨネーズとの相性は格別だった。

 ウサギはチャックが開いた背中におかかおにぎりを放り込んで閉めた。


【本当はトキノくんと食べる予定だったんだけど。ま、良いよね】

「トキノ……くん……?」

【ああ、ごめん。そういや、まだ君は”先生”だったよね】


 ここ数日の日記を見直すと、【先生からのコメント】が、書かれていた。つまり、最初から私は”わたし”であって”先生”であったらしかった。

 トキノという名前は懐かしいような気がして仕方がなかったけれど、それだけだった。ウサギの口調から、先生ではなく私に関わる人だということは想像できたけれど。


【さっきも言ったけど、もう休もう。で、トキノくんとこ、行こ。そしたら、その懐かしさの理由も分かるんじゃないかな、たぶん】


 そう言われなくてもそもそも疲れていたので、私は休む気満々だった。日記は書いておいた方が良いとウサギに言われたので、自分の頭を整理するためにもここまでまとめて書いておいた。

 もうクタクタだ。眠くてたまらない。でも、何だかワクワクもしていた。麦畑で眠るのは、何となく心地が良いと思うから。

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