第21日 終末暦6531年 3月21日(月)

 終末暦6531年 3月21日(月) くもり パンカレー


 午後になってトウドウさんがやってきた(注:それまでトキノとゴロゴロしていた)。また汗だくで土下座をしていた。せっかくの着物も彼の羊毛もびしょびしょだ。


「『終わらない話』がもう間もなく完成とのこと。完成のときを貴女に見届けてほしいとオトギリ様はおっしゃっています。トキノ様はこちらでお待ちください」

「……俺は行かない方が良いってか」


 トキノは渋い顔をして、それだけ言った。トウドウさんが汗のしぶきを散らしつつ、首を思い切り横に振った。


「滅相もございません。ただ、オトギリ様がそうお望みなのです。かく言う私も、入室を控えるようにと言われております」

「なるほどな。分かった」


 納得したトキノは私の方に向き直った。


「行って来い。『終わらない話』、ちゃんと受け取って来いよ」

「うん、わかった。待ってて、トキノ。トウドウさんも」

「ええ、いってらっしゃいませ」


 二人から言葉をもらって私はオトギリさんのもとに向かった。


 部屋のふすまを開けると、そこにベッドはなく、ただオトギリさんが立っていた。


「オトギリさん、立って大丈夫なんですか?」

「ええ、平気よ。今日は気分が良いの。何て言ったって、もうすぐ書きあがるんですから」


 真っ白な部屋に立つオトギリさんとその周りを旋回する本たち。オトギリさんの手には『終わらない話』がかかられていた。細い体のオトギリさんにその本はとても重たそうに見えた。もう腕には針は刺さっていなかった。


「大丈夫ですか?持ちましょうか?」

「大丈夫よ、ありがとう。自分で持てるわ」


 オトギリさんは本を胸に抱いた。紙袋の陰で、彼女は小さく呟いた。まるで、祈りのように。


「今まで散々待たせてしまったわね。けれど、もうおしまい。終わりにしましょう。自分を偽るのは……」

「オトギリさん?」

「……ああ、ごめんなさいね」


 オトギリさんがこちらを向いた。紙袋の二つ空いた穴。その先が真っ暗で少し怖く感じた。


「オトギリさん、本当に大丈夫ですか?」

「そうね。もう大丈夫よ、本当に」


 そう答える割には、オトギリさんは目に見えて具合が悪そうだった。肩で息をして、心なしか震えているようにも見えた。


「ねえ、私が書く私の話……、読んでくれるかしら?」

「私で良ければ……でも、」


 昨日、私は最初の読者になることを了承した。けれど、そのあとで一つ疑問が浮かんだのだ。だから、それを尋ねる。


「その最初の読者って、トウドウさんの方が良いのではないですか?」


 紙袋越しでも聞こえた。彼女が息を飲む音が。息苦しく呼吸をする中ではっきりと。


「私にとってのトキノがそうであるように、貴女にとってトウドウさんは大切な存在なのではないのですか?」

「……ふふ、」


 本を抱えたまま、オトギリさんがその場で膝を折った。私が慌てて駆け寄って手を差し伸べようとすると、オトギリさんが右手でそれを制した。オトギリさんは笑っていた。


「好きよ。大好きだわ、貴女のそのまっすぐな言葉。……そうね。きっとトウドウは怒るでしょうね。でも、良いの。身勝手だけど私は彼に怒ってほしいんだわ」


 声が震えていた。


「オトギリさん……」

「ああ、そうだ。貴女は私の顔を知らなかったわね。素性を隠してあれこれお願いするんじゃ失礼よね」


 オトギリさんの右手は彼女の頭の袋をつかんで、引きはがした。


「……」


 言葉にならなかった。一言で言えば、どこが目で、口で、鼻で、耳なのか分からなかった。しわだらけになった首の先は、顔でも頭でもない。泥で固められたようにどす黒い何かがあった。木の枝やら、自転車のペダルやら、鉛筆、下敷き、雑草、空き缶……それ以外にもたくさんのものがその泥の中で混ざり合っていた。べたべたと滴り落ちたそれは、白い部屋の床を汚していた。


「怖がらせて、ごめんなさいね」

「わ、私、違う……そんなんじゃ、」


 ぐちゃぐちゃと泥が蠢いて、そこから言葉が発せられていた。また、オトギリさんの笑い声がした。


「良いのよ。怖がって。そして、怖かったということを記してちょうだい……」

「私が記すのは影だけです! オトギリさんのことは記せません!!」

「そう……ああ、でも、っもう、ダメみたいね……」


 泥が落ちる速度が上がる。オトギリさんの首からは次から次へと泥がほとばしって、体全体を覆っていく。『終わらない話』はオトギリさんの手から離れて、他の本と一緒に頭上を旋回し始めた。


「オトギリさん!!!」

「ああ……あぁ……なくなっていく…………全部、終わるんだわ……これが、」

「オトギリさん!! ……わ、私を読者にしてくれるんじゃないんですか!? オトギリさんの書くオトギリさんの話、私に読ませてください!!」


 私は必死に叫んだ。彼女に届けばいいと思った。そして、


「……もうすぐよ……もうすぐで…………ああ、最後まで……身勝手で……でも、」


 オトギリさんの声が途絶えた。


「         」


 オトギリさん、そうもう一度叫ぶ前に、オトギリさんが何かを言った。でも、聞こえなかった。



 泥が噴き出し、部屋を埋め尽くした。ふすまも、床も、壁も、天井も勢いよく突き破って。壊れた天井から日が差して、それに向けて黒い泥が何かを吠えた。

 かろうじて泥を避けたけれど、私はその勢いで屋敷の外に投げ出された。空高く体が飛ばされたのだ。

 空が見えた。体は宙を飛んでいて。下を見ると色んなものが混ざった黒があって、悲しい気持ちになった。庭も屋敷もその黒に壊されて、どこかから悲鳴が上がった。

 お腹の底からひっくり返るような感覚で私は落下しているのに気づいた。ああ、落下してるなと他人事のように思った。


「お嬢さん! こっちへ!」


 落ちる先、庭だったところにトウドウさんとトキノがいるのが見えた。

 屋敷の瓦礫が崩れ、オトギリさんの泥が迫る中、トウドウさんがいつもより羊毛をモコモコにして寝そべっていた。とってもモコモコになっていたので、私はそこに飛び込んだ。


「ぐえっ」


 羊毛がクッションになって私は怪我なく着地できた。トウドウさんは私たちの荷物も運び出してくれていた。


「大丈夫か?」

「大丈夫。でも、オトギリさんが……」


 羊毛から降りて息を整え、改めて見上げた。その先で大きな山のようになった泥が蠢いていた。その周りでオトギリさんの本が飛んでいた。泥と本は互いに敵視するように、互いが互いを追い回していた。


「どういうことだ。あれは何だ、影か?」

「違う」


 トキノの疑問に私はとっさに応えた。


「違うよ、トキノ」


 トウドウさんは羊毛を着物にしまい込みながら立ち上がった。黒い泥を見上げていた。


「オトギリ……」

「ってめえ、こうなるって分かっていたんじゃないのか、トウドウ!?」


 その着物にトキノの爪が食い込んだ。彼は毛を逆立てて、怒っていた。トウドウさんは汗をにじませていたけど、真剣な顔でトキノを見ていた。


「こうなるとは思っていませんでした。オトギリは、『終わらない話』を書き終えるとだけ言っていました。彼女は他人に嘘は吐かない。あの人が偽るのはいつも自分だけだった」


 トウドウさんの言葉は何となく理解できた。みんなのために彼女は物を書いてきた。きっとそれはみんなを騙しこそしなかったけれど、彼女自身を騙していて。みんなが彼女に書いてほしいものであって、彼女が書きたいものではなかったのかもしれない。オトギリさんだけじゃない。物書きなら、書きたくないものを書かなきゃいけないことはきっとあるだろう。

 でも、そうして嘘を重ねていたら、オトギリさんはオトギリさんじゃなくなった。あの泥というのは嘘なのだ。嘘のかたまりなのだ。嘘というドロドロしたものに飲み込まれてしまった。そう思うと悲しくて悲しくてたまらなかった。

 私たちが立っているところにも、オトギリさんの泥は迫ってきていた。それはすべてを噛み切って飲み込むようにゆっくりと着実に蝕むようで、そしてそれは時折空に向かって吠えていた。


「とにかくここから逃げるぞ」

「待って、トキノ」


 私の心は決まっていた。嘘に飲み込まれたオトギリさんを救いに行く。トキノが止めてもそのつもりだった。というか案の定トキノに止められた。


「お前がどうこうできることじゃない! こんな大きなもん、どうしようもないだろ!!」

「どうしようもなくない!」

 ああ、駄々っ子だ。そのとき、私はどうしようもなく、駄々をこねたかった。オトギリさんと少なからず話をした。彼女の過去の話を聞いた。日記の話をした。


「私、オトギリさんが書くオトギリさんの話の読者になりたい! まだ、読めてないもの!まだ、読みたいもの! オトギリさんと約束だって!!」

「残念ながら、もうダメです。きっとオトギリは貴女を失うことを望まないでしょう……だから、逃げましょう」


 トウドウさんまでそう言った。トウドウさんは汗なのか涙なのか鼻水なのか顔までぐっしょり濡れていた。

 やっぱりオトギリさんの話はトウドウさんが一番最初に読むべきだ。そう、このとき思った。


「……オトギリさん言ってました。”身勝手だけど私は彼に怒ってほしいんだわ”って。だから、オトギリさんが帰ってきたら怒ってくださいね、トウドウさん。そして、『終わらない話』を読んでください。誰よりも先に」

「……」


 トウドウさんは大きく目を見開いた。黒い大きな目が光っていた。


「バカな小娘だ」


 とうとうトキノはそれだけ言った。私がこういう性格なのはトキノが普段から一番分かっている。


「帰ってきたら怒ってね」


 私はトキノに言った。


 大鎌を持って、私は飛び出した。泥に巻き込まれたあれこれを足場にして、私は泥の山のてっぺんを目指した。泥の中には、さっき部屋で見たときと同じで色んなものが流れていた。それはこのテリトリに来る前に、生命線で見た落下物にも似ているように思えた。 

 泥の上を私は跳ねた。折れた電柱を蹴り、タンスの扉に飛び移った。山の周りを旋回する本。それらを攻撃するウソ。進路を遮る泥を大鎌で薙いで。叫び声をあげるそれを黙らせた。鎌を振った反動で、今度はより高く、飛ぶ。高く高く飛んだ。


 そうして、たどり着いたてっぺんには驚くほど何もなかった。のっぺりとした黒い泥が床で、白い雲に覆われた天井があった。本も多く飛んでいた。そこからはテリトリ中を見渡せた。泥の床は呻くようにまだまだ次から次へと噴き出していた。その中に、見つけた。薄茶色の紙袋を。


「オトギリさん! オトギリさん!!」


 泥が吠えた。私の叫び声をかき消すように、オトギリさんの名前を叫ぶと泥が呻いた。泥は私をも飲み込もうとうねり、次々と押し寄せて来た。鎌を振り回して四方八方から迫るそれを払っていくのはなかなか大変だった。


「オトギリさん! 貴女が書いた貴女の話、私読みたいです! 私だけじゃない、トウドウさんだって!」

 そのときだった。泥の勢いが少し弱まった。ような気がした。その隙を見て、私は上段に鎌を振りかぶった。白いワンピースも黒いフードのマントも全部翻って。私はそれを振り下ろしたのだ。全体重をかけてそれで吐き出され続ける泥を切り裂いた。


 泥が悲鳴を上げた、というと奇妙な感じだけど、実際そうだった。泥は確かに悲鳴を上げていた。鎌は泥に巻き込まれた色々を巻き込みながら上から下まで一直線にそれを切り裂いた。着地したところは山の裂けめだった。ぬかるんでいて、私はその感触に寒気がした。

 泥の山が割れた先で私は見た。泥の山を挟んでちょうど向こう側に、ひと際大きな本が飛んでいて。それは見紛うことなく『終わらない話』だった。バサリとページを打ち鳴らして、『終わらない話』は空高く飛んだ。ちょうどさっきの私と同じように。泥のてっぺんまで。

 その間も、泥はまた山を形成しなおそうと、泥を発生させていた。泥の底までせっかく斬ったのに、オトギリさんは見つからなかった。焦ったそのときだった。


「”私は貴女の話が好きだ!”」


 泥の悲鳴に負けない声が轟いた。すべてをかき消すような声だった。


「”一目で貴女の話に恋をした! 焦がれるようだった!! 貴女が書いた貴女の話に、私は恋をしてしまった!”」


 トウドウさんの声が泥に囲まれつつある私にも届いた。


「”……まるで、絵巻物でも見ているみたいに、目の前に色んなものが浮かぶんだ!御伽草子だ!”……だから、オトギリ。私は……僕は……」


 そして、振り絞るように彼は言った。


「いつだって、君の最初の読者でありたいんだ……」


 それは、たぶん彼のまっすぐな言葉だった。彼の偽りも嘘もない言葉だったのだろう。いつかオトギリさんが言っていた”彼女自身の話”の断片、いや根幹である読者の言葉だった。

 泥がまたうねった。けれどさっきとは違って緩やかに、何かを優しく包むように、揺蕩うようだった。このとき、私は泥に包まれてもいいんじゃないかと思った。この優しさになら良いんじゃないかと。でも、


 ぐしゃぐしゃぐしゃぐしゃ、バキン、ボキン……


 そんな音がした。泥がまた悲鳴を上げた。私がいた場所は泥に包まれかけて暗くなっていたが、一気にそこが明るくなる。見上げると白い空。そして、『終わらない話』と他の空飛ぶ本たちがこちらを見下ろしていた。それらは、文字がびっしりと書かれたページを泥に押し付けていた。


 ぐしゃぐしゃという音はしばらく続いて、そのうち止んだ。周囲のものはあらかた壊れていて、あれだけあった何故か泥もなくなって、空飛ぶ本は空を飛ばなくなっていて、私の手には『終わらない話』がいつの間にやら抱えられていて。そのページの最後には”fin.”と書かれていて、私は『終わらない話』が終わったのだと知った。拍子抜けするくらい静かになった。


 そしてこれも何故だか分からないけれど、私は体中真っ赤だった。フード付きマントは黒いから目立たないけど、白いワンピースはかなりこの赤い汚れが目立っていた(注:さっき日記を書く前に洗濯してみたけど妙な臭いが残ってしまった)。地面も絵具をぶちまけたように赤くて、少し臭かった。さびみたいな臭いだった。

少し遅れてトキノがやってきた。少し遠くでトウドウさんが散らばったものを片付けていた。

 トキノは赤い地面を見て、それから私を見た。目を丸くして、黙っていた。私はトキノに尋ねた。

「ねえ、トキノ。オトギリさんは、どこ?」

「お前……」


 トキノはそれしか言ってくれなかった。泥がなくなったということは、オトギリさんは助かったに違いないのに。居場所を秘密にするなんて水臭いなと思った。『終わらない話』のお礼も言いたいし、あの泥のことももっと訊いてみたかった。何より、彼女の話をもっと読んでみたくなったのだ。


 屋敷はなくなってしまったので、今トウドウさんは知り合いの家に、私たちはサカマキアルマジロクラブにいる。明日、トウドウさんには改めて会う約束をしてある。


「大変だったわね。ゆっくり休みなさい」


 ミスマルオカがそう言ってくれた。確かにちょっと疲れた。しっかり眠ろうと思う。



 追記:トウドウさんに『終わらない話』を預けてある。「一度預かりたい」とトウドウさんに言われたからだ。

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