第20日 終末暦6531年 3月20日(日)

 終末暦6531年 3月20日(日) くもり 納豆巻き


 今朝はしっかり自分の部屋で目を覚ますことができた。窓から見える大通りは、いつもと違って人気がなかった。たぶん、昨日言ったエッセイを書いている最中だったのかもしれない。

 空気の入れ替えに窓を開けると、風が強くて雲の流れが早かった。風に乗って大通りの薄桃色の花びらが部屋まで吹き込んできた。この分では、近々すべて散ってしまうかもしれない。それはそれでちょっと寂しい。


「ちょっと出かけてくる。……夕方には帰る。約束だ」


 トキノはそう言うと、窓からさっと身を翻して出て行ってしまった。トキノがちゃんと約束していってくれた。それだけで十分だった。

 彼の悩みを聞いてあげなきゃって思っていたけど、また聞き逃してしまった。むしろトキノが話してくれるまで待った方が良いのかもしれない。

 いずれにせよ、今日はオトギリさんと会う用事があったので、ちょうど良いと言えばちょうど良かったかもしれない。


 オトギリさんとの用事というのは、今朝、たまたま発見した、ふすまに挟まっていた和紙のことだ。薄桃色の花びらのような柄の和紙に細い文字で”もしよろしければ、またお会いしたいの”と書かれていたのだ。可愛い和紙だった。

 これが私に向けられたものにせよ、トキノに向けられたものにせよ、この前の件のあとで、オトギリさんとトキノを会わせるのはあまり良いことではないのは明らかだった。


 私がオトギリさんの部屋に入ると、オトギリさんはベッドではなく、車椅子に腰かけていた。相変わらず、腕には針が刺さっていた。車椅子に座ったオトギリさんは小さな手帳を持っていて、一ページずつそれを千切りながら部屋を飛ぶ本に呼びかけていた。


「焦らないでちょうだいな。たくさんあるのだから」


 人差し指と中指でページを挟んで掲げると、そこに急くように本が群がった。一番大きな本『終わらない話』は、他の本を押しのけて開いたページをそこに擦り付け、また飛び去って行く。そうすると、オトギリさんが持ったページからは文字が一切消えていた。


「ああ、来てくれたのね。ありがとう」


 紙袋がかさりと鳴った。


「ちょうどこの子たちの食事の時間なのよ。今はね、私の日記をあげているの」


 なるほど。手帳だと思ったものは日記だったらしい。私の革表紙の日記よりもサイズが小さく、しかし、私のなんかより分厚く、紐で綴じてあった。

 オトギリさんは本と戯れながら、私も方を向いて尋ねた。


「あなたは日記は書く?」

「はい。最近、書き始めました」

「素敵。あなたも物書きね」

「物書きなんて、そんなこと」

「日記は、自分の話だもの。大切に書いてちょうだいね」


 日記は大切に。オトギリさんは言った。


「それなら、どうして日記を本に食べさせてしまうんですか?」


 たぶん、オトギリさんは今までたくさん、長い間、日記を書き続けてきたはずだ。日記の分厚さと擦り切れたページや表紙がそれを物語っている。それなのに、オトギリさんは一枚ずつ千切って文字が食べられてしまったそれを床に破って捨てていた。


「大切だから食べてもらうのよ。私にはもうこれしかないから。でも、もう少しよ。もう少しで『終わらない話』を完成させることができる。終わらせることができそうなのよ。今日はそれを伝えたかったのと、あなたの顔が見たかったので来てもらったのよ」

「え?」

「あなたの猫ちゃん……トキノさんと言ったわね。彼に言われて気づいたの。私は私の話を書けば良いと。そもそもはそれが原点だったはずなのに忘れていたのね。ここに至るまでに随分とかかってしまった」


 オトギリさんは苦笑の息を漏らした。


「遠くに行ってしまった自由な迷子を呼び戻してあげないと。終わらないのは悲しいことだものね。夢童話みたいなはかない話になるかもしれないけれど、それでも私は……私が書く私の話を終わらせる」

「……夢童話」


 オトギリさんのセリフに妙な既視感のようなものを感じた。私は彼女のセリフを知っている。そんな気がするのだ。


「だから、明日まで待ってちょうだい。もう少しなの」

「そうですか。分かりました。その、ご無理はされないように」

「ええ、ありがとう。終わったら、あなたが最初の読者になってちょうだい」


 オトギリさんは言った。私は頷いてみせた。

 

 そんなに長く話し込んだつもりはなかったのに、部屋に戻って外を見たらすっかり夕方になっていた。あいにくの天気で夕日ははっきりとは見えなかった。窓を開けっぱなしにしてしまったせいで部屋中花びらまみれになっていた。

 トキノは私より先に帰ってきていた。トキノは口に、薄桃色の花を枝ごとくわえていた。オトギリさんの和紙も綺麗だったけれど、やっぱり実際の花の方が綺麗に見える。


「ごめんな」


 トキノは言って、私の足元にその枝を置いた。彼は私と目を合わせないで枝ばかり見ていた。


「えっとな、俺は自分の行動が間違っていた、とは思わない。けどな、や、やっぱり俺もやりすぎたとは思っている。わわ、悪かった」


 どもりながら、花の枝に謝る様子がとても可愛い。きっと間違って折ってしまったのだろう。私はトキノの頭を撫でてあげた。ここ数日、行動がおかしかったのはこの枝に謝る練習をしていたからだったんだ。ずっと謝り方を悩んでいたんだろう。


「大丈夫だよ。きっと許してくれるよ、トキノ」

「……え? あ、ああ……ん?」


 綺麗なお花だったので、トウドウさんに言って花瓶を借りた。今夜は花を見ながら、納豆巻きを食べた。


 トウドウさんの顔色がまたあまり優れないようだったのが、少し心配だ。明日は『終わらない話』の最初の読者になるという大事な仕事もある。早めに寝て、明日に備えようと思う。


 追記:トキノに今日のオトギリさんに会ったことをを話しておいた。「そうか」とちょっと複雑そうに言っていた。

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