第3日 終末暦6531年 3月3日(木)
終末暦6531年 3月3日(木) 雨上がりのちシャボン玉 あんかけチャーハン
朝起きると、トキノが悪夢にうなされていたので、ラッパを鳴らして起こしてあげた。
「俺は……キリン虫とは戦えねえよ……つぶらな瞳は卑怯……」
大体、こんな感じの妙な寝言だったが、本人はどんな夢だったかきれいさっぱり忘れているようだった。夢の内容がとても気になるけれど、そうなってしまっては仕方がない。
朝食にバナナとヨーグルトを食べた後、窓から外を見るとすでに雨ノ市が始まっていた。心臓の辺りがキュウっと痛んで、目の前が一瞬暗くなる。窓の縁にかけた手が汗に濡れた。
「ああ、そうか。今日は雨ノ市だったな。お前、どっちの雨もダメだったろ。出かけるのはやめた方が良いんじゃないか」
「そうかもしれない。けど、今回の影は数が多いんだ。何日も放っておくわけにはいかないよ」
「じゃあ、レインコートとイチゴキャンディーを忘れるなよ。そうしないと、お前は雨の中を歩けないのだから」
トキノはそんな風にぶっきらぼうに優しい口調でそう言ってくれた。私の手に右前足をチョンと乗せて励ましてくれているようだった。今日もトキノの肉球は、ぷにぷにだった。
アパートの外付け階段を下っていくと、サイハテの町中から雨が上がっていくのが見えた。地面のそこかしこから水分がにじみ出て雫になって、空高くへ上がっていく。あるいは、空に降っていく。これが、雨ノ市。サイハテに来てから、何度かこの光景を見ているはずなのに、いつ見てもこの光景は綺麗で、美しくて、そしてひどく怖い。
雨が上がる音を誤魔化すのに、イチゴキャンディーを舐めると少し落ち着く。味覚で聴覚が紛れるなんて何か不思議だ。キャンディーはトキノがいつも用意しておいてくれるのだ。トキノは本当に優しい。
黄昏図書館に寄って、仕事の準備を整えてから番傘屋のテリトリへと向かった(注:ミナミさんが家の床からの上がってくる雨漏りの件で依頼に来ていた。イノウエさんが担当になるそうだ)。少し、《伏線》が点検で遅延していたせいで、到着したのは昼頃だった。
番傘屋のテリトリは《高利貸し》のテリトリに隣接している。何を作っているのだか分からない工場だらけで、いつもは煙がもくもくと空気に満ちている。今日は雨ノ市だったからなのか、どこも煙を吐き出している様子はなかった。ラッキーなことに、雨がちょうどいい具合に空に上がっていって、ヒツジ雲の群れが鳴きながら空を駆けるのが見えた。これをトキノに報告したら「俺だってそれくらい見たことある」とふてくされていた。(というか、この日記を書いている今もむくれた顔をしている。本当は見たことがないに違いない)
影のいる空き地はテリトリに入ってすぐに見つかった。煙突が三つある小さな灰色の工場の裏手にあった空き地には、忘れられたように雑草に覆われた土管が一つ。その前にある黄色いタンポポを囲うように影が五体ほど輪になってグルグルと回っていた。
「かごめ、かごめ」
「籠の中の鳥は」
「いつまでも出られない夢の中」
「カラスに摘ままれ食べられて」
「鶏がらスープの仲間入り」
口々に言うそれらは、子どもの影だった。楽し気に笑って弾む姿は、サイハテに住む子どもたちとも相違ないように見える。けれど、彼らは実体がなく、黒いだけ。
初めて彼らを見たときはとても怖かった。今でもやっぱりほんの少しだけ怖いけれど、何となく懐かしくて悲しい存在だなあと思えるようにはなっている。
いつものように影を記す前に私は「すみません。ここから出て行ってください」と丁重に言った。もちろん、いつものように無視されてしまった。影たちは踊り、歌い続けるばかりだった。無駄な行為ではあるんだけれど、これはこれで私にとって儀式みたいなものなので、やっておかないと落ち着かないのだ。
私は手早く影を記した。記すといっても、私の場合、大鎌で切るだけだ。影はあっという間に消えて、空き地には枯れてしまったタンポポの花が地面に臥せるばかりだった。上がっていく雨粒にタンポポの綿毛が入っていて、私はそれが天高く飛んでいくまで、ずっと眺めていた。そのせいで帰りが遅くなって、トキノに怒られてしまった。
夕飯はあんかけチャーハンだった。とろとろのあんがとても美味しくて、おかわりしてしまった。
追記:3月6日…番傘屋に報告に行ったら、今日は休業日とのこと。明日出直してみよう。それにしても、タンポポは好きな花だから、枯らしてしまったのは気の毒に思った。けど、仕事だし仕方がない。
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