◆三、盗られたもの
翌朝、少年が起きた頃にはもう父親も母親もすでに家にいなかった。リビングのテーブルには、食パン一枚と千切ったレタスのサラダが置かれていた。少年はそれを平らげると、身支度をしに部屋へ戻った。
机の上に置かれた木の箱が少年の目に入った。少年はそれを手に取り、蓋を開けて中の水色の玉を見た。部屋に差し込む日光を反射させて、玉はきらきらと光っていた。少年はそっと蓋を閉じ、机の上に置いて部屋を出た。
*
教室に入ると、少年は自分の席の近くに人だかりのできていることに気づいた。近づいてみると、誰かを何人もの子どもたちが囲っているようだった。子どもたちは口々に「いいなあ」「すごいなあ」と何かを褒めたたえ、羨ましがっている様子だった。
「いいだろ。銀製なんだぜ」
輪の中から男の子の声が聞こえてきた。少年もその輪に加わり、顔を覗きこんで見てみると、輪の中心にいたのは少年の隣の席の男の子だった。男の子の手から銀色の懐中時計がぶら下がっていた。
男の子の持つ銀色の懐中時計は、買ったばかりの新品といった様子で、まだ傷や手垢もついておらず、ぴかぴかと光っていた。文字盤の一部が透明になっていて、そこから時計内部の複雑な歯車が顔を見せていた。
「お父さんが買ってくれたんだ」
「見せて! 見せて!」
輪の中にいた一人の男の子が声を上げた。
「特別だぞ」
そう言って男の子は時計を手渡した。
「すごいなあ」
「大事に扱ってくれよ。何しろ銀製なんだから」
男の子はふんぞり返っていた。
「僕にも見せてよ」
少年は輪の後方から片手を突き出してそう言った。男の子は急に真顔になり、少年を睨みつけた。
「お前はだめだ。馬鹿がうつる」
周囲の子どもたちの視線が少年のもとへと集中した。
「懐中時計はな、精密機械なんだ。お前が触って時計が馬鹿になったらどうする」
男の子はまっすぐ少年を睨みつけながら、口元だけはへらへらと笑わせていた。
「そうなったらお前、弁償できるのか?」
少年は突き出していた手を黙って引っ込めて、男の子から視線を外してうつむいた。
「お前には無理だよな。お前の持ってるのはゴミみたいなものばかりだもんな」
少年ははっと息を呑んだ。それから少年は惨めな気持ちになり、そのままどこかへ消えてしまいたくなった。だが、少年は思わず口を開いてしまった。
「そんなことない! 僕は…… 僕は、星を持ってるんだ!」
少年の声は上ずっていた。少年がそう言うと、一瞬水を打ったように周囲は静かになったが、間もなく子どもたちは一斉に笑い声を上げた。
「星だって」「やっぱり馬鹿なんだ」「相手にするな」子どもたちは次々に思い思いの言葉を発した。
「待て待て。こいつの話を聞いてやろうよ」
男の子は笑いをこらえながら子どもたちを制し、少年に尋ねた。
「星ってあの星のことか?」
「そうだよ」
少年の顔は真っ赤になっていた。
「空から降ってきた流れ星なんだ」
そのとき再び大きな笑いが沸き起こった。「聞いた?」「流れ星だって」「単なる馬鹿じゃないぞ」「嘘つきだ」「馬鹿が嘘ついた!」
「お前知らないの? 流れ星って、宇宙から地球の大気に飛び込んでくる石やチリが空気摩擦で燃えて光ったやつのことを言うんだぜ。流れ星は燃えてなくなるんだ。だから流れ星は地上に落ちてこないんだ。はい、お前嘘つき決定!」
「嘘つき!」「嘘つき!」「嘘つき!」
少年は顔を真っ赤にしたまま口をもごもごさせたが、何も言えずに黙ってしまった。そのとき子どもたちの輪の中に三つ編みの少女のいることに気づいて、少年は心臓を鷲掴みにされたかのような思いがした。少女は輪の中にいたが子どもたちの声には加わらず黙って少年を見つめていた。
それからすぐにチャイムが鳴り、教師が教室に入ってくると、子どもたちはめいめいの席へと散らばって行った。少年は席に座るとうつむいて、顔を上げようとはしなかった。
「それは何ですか?」
教師のやや怒気を帯びた声が耳に入ってきた。見上げると、教師は少年の隣の席の男の子をまっすぐ見つめていた。教師のその表情は強張っていた。
「時計ですよ。銀製なんです。お父さんが買ってくれました」
男の子は得意げに時計を手からぶら下げて、教師によく見えるようにその手を前に突き出した。教師は男の子の目の前まで歩いてゆき、仁王立ちになった。
「そんな高価なもの、学校に持ってきてはいけません」
教師は早口でそう言った。声がいつもよりかん高く聞こえ、耳に突き刺さるかのように思われた。
「学校が終わるまで先生が預かっておきます」
「いやですよ。これは僕の時計です」
「何かあったらどうするんですか。失くしたりしたら大変ですよ。だから先生が預かっておきます」
教師は男の子の体を押さえて腕を掴み、その手から時計を取り上げた。教師は手に取った時計を少しの間しげしげと眺めまわしていた。
「先生、良い時計でしょう」
男の子はにこにことして、かなり得意げになっているように見えたが、急に真顔になると、教師を睨みつけた。
「盗らないでくださいね。絶対に返してくださよ」
教師は何も言い返さなかった。それから間もなくいつも通りの朝礼が始まった。少年の脳裏にはあの時計の姿がちらついていた。
*
給食後の昼休み、少年はするあてもなく教室の席に座ったまま机に突っ伏していた。昨日のことや今朝のことを思い出しながら、ぼんやりとした思考の中で浮かび上がってくる言葉やイメージを次々に連鎖させていた。
突然少年の名を呼ぶ声が聞こえ、少年は身を起こした。教室の入り口に教師が立ち、少年をまなざして手招きしていた。
「君のお母さんから電話があったのですが、君のおうちに空き巣が入ったようです。お母さんがどうしてもとおっしゃるので、今日はもう早退しておうちに帰りなさい」
少年の脳裏に浮かんだのは、部屋の机の上に置いてきたあの木箱だった。少年の全身から血の気が引いて行った。
「君、顔が青いですよ。一人で帰れますか?」
少年は教師には目を合わせずに黙って頷いた。帰り支度をし、教室を出たところで、少年は廊下に立っていた三つ編みの少女と目が合った。少女は何も言わずにじっと立ち、少年を眼鏡越しに見つめていた。少年は何も言わずに少女の前を通り過ぎた。
*
家の前にはパトカーが一台と、自転車が何台か止められていた。近所の人が数人寄り集まって、帰宅した少年をちらちらと見ながら何かを話していた。「不用心ね」「最近多いのよね」「でも盗るものあるのかしら」「案外隠してたのかもしれないよ」パトカーの回転灯が辺りを照らしていた。
玄関には若い警官の男が立っていた。
「君、ここの家の子?」
少年が黙って頷いた。警官は無線で何かをやり取りすると、少年を家の中へと入れた。
「警察の邪魔はしないでね」
開けっ放しになっていたリビングの扉から、ひどく散らかったリビングの様子が目に入った。少年はリビングへは行かずに、そのまま二階へ上がろうとした。
リビングでは母親が大きな声を出して警官の一人と話していた。少年の姿を目に留めると、母親は警官との会話を中断して少年の方へとまっすぐ向かっていった。母親は少年の手を掴み、掴んだ手を思い切り強く引いた。少年を目の前に立たせると、少年の頬をあらんかぎりの力で叩いた。
「あんたが鍵かけなかったからだからね」
それから母親は再び少年の頬を叩いた。その目には涙が浮かんでいた。もう一度手を挙げたとき、警官がその手を掴んで制した。
「まあまあ落ち着いてください。被害は少なかったんだからいいじゃないですか」
「ふざけないでください! いいわけないじゃないですか!」
「まあまあ……」
少年はそのやり取りを横目に、二階へと上がって行った。自室の扉に手をかけるとき、木箱が机の上に置かれたその様子が脳裏に浮かんだ。心臓が強く鼓動し、手は汗でじっとりと湿っているようだった。
扉を開けると、少しだけ散らかされた部屋の様子が目に飛び込んできた。クローゼットや箪笥の扉は開け放たれ、その隙間からほんの少しの衣類や物が顔を出していた。机の引き出しも開けられていたが、少年の注意の向かった先は机の上の木箱だった。それは今朝少年が置いた通りのまま、そこにあるように見えた。
おそるおそるその蓋を開けてみると、水色の玉がその姿を現した。そのとき少年は思わず木箱を床に落としてしまった。水色の玉がころころと転がって机の下へと入り込んだ。
少年は扉を開け放しにして部屋から飛び出し、階下にいた警官の制服を掴んで言った。
「僕の部屋から無くなってるんだ……」
少年の消え入りそうな声は震えていて、目には涙が浮かんでいた。警官はその場にしゃがみ込んで少年の顔を覗き込んだ。
「何が無くなったんだい?」
「星…… 僕の星が無いんだ……」
「星? 星って一体何だい?」
「星は星だよ!」
「その星って一体どういうものなのか、説明してくれるかな」
「星は星だって言ってるでしょ!」
少年は顔を真っ赤にして涙を流し、しまいには叫び声を上げてがたがた震えていた。
「困ったな…… 君もなのか……」
警官の口調は穏やかだったが、ややとげのあるものだった。
「君のお母さんもなんだよ。何だか分からないのだけど何かが無いと大騒ぎだ。お金や貴重品はほとんど無くなった形跡がないんだが、何かが無いって言ってね。説明してくれなきゃこっちも確認できないんだよ……」
そう言うと警官は別の警官に呼ばれて少年のもとを離れた。少年の頬を伝って涙が流れ、床にぽたぽたと滴が落ちていた。リビングから母親が何かを言うのが聞こえたが、少年はリビングを覗こうとはせず、そのまま階段に足をかけた。
少年は自室に入ると扉を閉め、机の下に潜り込み、転がった玉を拾い上げた。それから少年はベッドで横になると、そのまま深い眠りへと落ちて行った。
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