◆二、青白い光

 少年は真っ暗な自室のベッドにうつ伏せになって、枕に顔を押し付けていた。日の沈んだ暗い窓の外から、街灯の明かりがぼんやりと部屋の白い壁に浮かび上がっていた。しとしとと雨の降る音が真っ暗な部屋を包み込んでいた。心臓は強く鼓動を繰り返し、横になった少年の全身に伝わった。腰から爪先までの力はまるで抜けてしまったかのようになって、ぴくぴくと小刻みに震えが続いていた。

 「見られちゃったかな……」

 少年は先ほどのことを思い出していた。

 少年はゆっくりとベッドの上で起き上がり、床に置かれたランドセルに手を伸ばした。がたごとと音を立てながら中を手で探り、少年は目当てのものを取り出した。それは小さな木組みの箱だった。箱の中には、水色の小さな玉が入っていた。少年は玉を手に取り、目の前まで持ってきてそれを手のひらの上で転がしたり、指の腹で撫でたりしてみた。

 玉は窓から差し込む薄明かりに照らされて、きらきらと青白く光った。その光を見つめながら、少年は何とも言えぬ重苦しい感覚から徐々に解放され、次第に新たな喜びの感覚に満たされてゆくのを感じた。


 少年は玉を手に持ったまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。階下の扉のすりガラスから、リビングの光が漏れていた。

 扉を開けると、台所に立つ母親の後ろ姿が少年の目に入った。少年は母親のもとへと走り、母親の服の裾をちょんと手に取って引いた。母親は手を休めずに少年の顔を見降ろした。


 「これ見て」

 少年は得意げだった。だが母親はちらと少年の手の中の玉を見て、「綺麗なビー玉ね」と言っただけで、少年から顔を逸らし、作業を続けた。

 「ビー玉じゃないよ! 星なんだよ! 見て!」

 少年が大きな声を出してそうせがんでも、母親は少年の言葉に耳を貸さず、まったく目を向けようともしなかった。

 「今忙しいからあっちに行っててちょうだい」

 「ねえお母さん! 星だよ!」

 「うるさい!」

 少年が叫ぶと、母親はかん高く怒声を放ち、少年を突き飛ばした。突き飛ばされた少年は尻餅をついた。母親は息を荒げ、肩を上下させていた。

 「どうしてあんたはお母さんの気持ちが分からないの!」

 母親は怒鳴りながら少年の頬を手のひらでひっぱたいた。

 「お母さんの気持ちを考えて行動しなさい!」

 母親は何度も少年の頬を叩いた。

 「どうしてそんなことができないの! 土下座しなさい!」

 少年の目からは涙が溢れ出し、びりびりと痛む頬を伝って流れ落ちた。言葉にならぬ声がこみ上げてきて、少年は肩を震わせた。少年はそこで正座をして、母親に謝罪した。


 母親はまだ息を荒げていたが、少年はその顔を見ないで立ち上がり、リビングを飛び出して二階へと駆け上がった。自室に飛び込むと力のかぎり勢いをつけて扉を閉めた。ばたんと大きな音が家じゅうに響いた。

 少年はベッドに飛び乗って布団の中にもぐり込んだ。玉を手の中に収めたまま、膝を折り曲げて身をかがめて縮こまった。少年の胸のうちにはどろどろとした、よく分からない罪悪感と恐れが湧き上がり、それがじわじわと全身を包み込んでいった。少年はそのまま眠りへと落ちて行った。


 *


 部屋の窓に何か小さなもののぶつかる音がして、少年は目を覚ました。窓に目をやると、向かいの家の真っ暗な部屋のベランダに、三つ編みの少女が雨の中に立ち、何かをこちらに投げている姿があった。投げたものがコツンと少年の部屋の窓に当たった。少年が部屋の電気をつけて窓を開けた。部屋の中に流れ込んできた冷たい外気が少年の少し火照った頬をかすめた。

 「電気を消して」

 ぎりぎり少年にだけ届くような、雨にかき消されてしまいそうな、抑えられた低い声だった。少年は言われるがままに部屋の電気を消した。辺りが再び真っ暗になった。


 「久しぶりにそっちに行っていいかな」

 少女の表情は暗くてあまりよく見えなかった。

 「ちょっとこれ受け取って」

 少女は何かを少年に投げてよこした。紐でつながれた、一足のスニーカーだった。それから少女は壁に手をついて、雨で濡れたベランダのへりに裸足で立ち上がると、ほんの少し地面を見下ろしてから、少年のいる窓に向けて勢いよく跳んだ。

 「危ない!」

 そう言ったときには、もう少女は宙を跳んでいた。ガタンという大きな音が家と家との間に響いて、少女は少年の部屋の窓枠を通り抜け、上半身から床に落下した。

 「有海ちゃん、大丈夫?」

 少女は自分の頭をさすりながら無言で立ち上がると、しーっと声を出さぬように合図した。

 向かいの家の部屋がぱっと明るくなった。それを見ると少女はすぐさま窓を閉じ、鍵をかけた。

 「押し入れの中に隠れて」

 少女が少年の手を取ってそう言うと、二人は即座に押し入れの中に入り込み、じっと身を潜めた。少年と身を寄せた少女の体は濡れて冷たく、小刻みに震えているのが分かった。


 「有海! 隠れていないで出てこい! どこに行った!」

 外から聞こえてきたのは、感情的で、怒っているような、男の大きな声だった。その声に二人ともびくんと体を震わせて驚いた。男は大声で少女の名を叫んでいた。

 「何があったの……?」

 少女は震えたまま黙っていた。両手でぎゅっと自分の膝を抱き寄せていたようだった。

 それからしばらくすると少女の名を呼ぶ声は聞こえなくなり、間もなくして車の扉を開け閉めする音が聞こえてきた。エンジン音がそれに続いた。

 「諦めたんだ……」

 少女がぽつりと独り言のように言葉を漏らした。車のエンジン音はすぐに遠くなり、やがて聞こえなくなった。少年の隣で少女が深くため息をつくのが聞こえてきた。

 それからしばらくの間、二人は何も話さずに押し入れの中で静かにじっとしていた。


 先に口を開いたのは少女の方だった。

 「ごめんね、康介…… うちのお義父さん、たまにああやって、怒るんだ」

 少年は何も言うことができずに黙ったまま話を聞いていた。

 「いつもは私も逃げたりしないんだけど…… 今日は何と言うか、ちょっと嫌になっちゃってさ……」

 「殴られるの……?」

 「うん……」

 「いやだね……」

 「でも殴られるだけじゃないんだ」

 「え?」

 「あんなやつ…… 死んじゃえばいいのに……」

 少女はぽつりとまた言葉を漏らした。少年は少女の発言に息を呑んだ。

 「あ、いや、何でもない。何でもないの……」

 少年は何も言い出すことができなかった。再び二人を沈黙が包み込んだ。


 再び口を開いたのも少女だった。

 「小さいころ、よく二人で押し入れに閉じこもって遊んだよね」

 「そうだったね」

 「覚えてる……?」

 押し入れの中に入り込んで遊んだときの記憶は、ぼんやりとした映像としてだけ、少年の頭に思い浮かんできた。その映像には少女と少年の二人の姿があったので、それが本当の記憶なのかどうか、少年にはよく分からなかった。だが、その映像は何やら神秘的で、少年ははっきりとしないその記憶の中に、言いしえぬ懐かしさとともに、寂しさや、胸を締め付けるような思いが浮かんでくるように思えた。

 「康介は忘れちゃったんだ……」

 「いや、そうじゃないけど……」

 少年は慌てて否定した。

 「押し入れの中で遊んだことは、覚えてるよ。でも、ぼんやりとしてて、あまりよく思い出せないんだ……」

 「そっか……」

 少女は泣いているようだった。

 「それじゃあ、あのことも、覚えてないんだ……」

 「あのこと……?」

 少年にはそれが何のことかさっぱり思い出せなかった。だが少年は大事なことを忘れてしまったために少女を泣かせてしまったということだけは分かった。それがひどく少年の罪悪感を駆り立てた。少年は胸がきりきりと痛むような気がした。


 そのとき、押し入れの中に突然青色の薄明かりが浮かび上がった。それまで真っ暗で見えなかった少女の顔が、青白く照らし出された。少女ははっと目を見開いていた。眼鏡が光を反射させながら、その奥の目元で涙がきらきらと光っていた。

 青い薄明かりは少年のポケットから漏れ出ているようだった。少年がポケットに手を入れると、そこにはあの玉が入っていた。少年がそれを取り出すと、指の間から青白い光が漏れ出し、押し入れの中はよりいっそう明るさを増した。青白い光に照らされた少女の顔がはっきりと見えるようになり、押し入れの壁に少女の影が映し出された。光はゆらゆらと揺れ、少女の顔を照らす光と壁に映った影もまた、それに合わせてゆらゆらと揺れていた。

 暗闇の中で青白く照らされた少女の顔と、壁に映った影の姿を見ていると、少年はなんだか懐かしいような、寂しいような、何だか胸が締め付けられるような、そんな不思議な気持ちに包まれていった。それは以前学校の教室で、カーテンを閉めて真っ暗にして、幻燈機でガラス版に描かれた絵を壁に映して見たときにも感じたものだった。だが、そのときの気持ちすらも、もっと古くから少年の中にある何かに由来しているように思われたのだが、それがいったい何であるのかは少年には思い出すことができなかった。


 「すごい……」

 少女は青白い光を放つ玉に視線をじっと落としたまま、言葉を漏らした。

 「流れ星だよ」

 少年は小さな声で言った。少女は目線を上げて、少年の言葉を聞こうと少年の顔にじっと視線を注いだ。少年は少女のその視線を避けるように、少し顔をそむけて言葉を続けた。

 「これ、流れ星なんだ。空から降ってきたんだって……」

 「どこかで拾ったの?」

 少年はこのとき自分の軽率さに気づいて、言葉に窮した。

 「あ、あの、えーと。そう、拾ったの……」

 この玉を「買った」ということを、少女には言えなかった。けれどひょっとしたら少女はその一部始終を見ていたのかもしれなかった。

 「そうなんだ」

 少女の返した言葉はそれだけだった。

 「すごいね」

 少女がそう言って笑ってみせると、少年の心の緊張はじわじわとほぐされていった。


 二人は玉の放つ青白い光に見入っていたが、しばらくすると光は止んでしまった。い押し入れの中には再び暗闇が広がった。

 「もう帰るね」

 二人は押し入れから出ることにした。

 時計を見ると、時刻は夜中の12時を回っていた。少女の家のベランダの窓はおそらく施錠されてしまったので、少女は窓からではなく玄関から帰る必要があった。自宅の鍵は持っているようだった。

 二人は音を立てないように慎重に部屋の扉を開け、玄関に向かった。廊下や階段がきしむ度に少年の内臓が何かに掴まれるかのように感じられた。

 施錠されていた玄関の鍵を開けるとガチャリという大きな音が大きく響いた。後ろを振り向いてみたが、そこには少女以外には誰の姿もなかった。少年は深く息を吐くと、意を決してゆっくりと扉を開いた。こちらもガタンという音を立てた。その音は夜の街並みに広がってゆくようだった。少女はするりと扉の隙間を通り抜け、少年に小さく手を振って小走りで駆け出した。それを見届けてから少年は扉を閉めて、鍵をかけた。

 事が終わると、家の中がいっそう深い静寂に包まれているように思われた。少年はしばらく玄関から動くことができなかった。音を立てるのがどうしようもなく怖いような気がしたからだった。


 *


 少年は扉のすりガラスから、リビングの明かりが透けて見えるのに気がついた。父親が起きていたに違いなかった。ひょっとしたらたった今のことを父親に気づかれていたのかもしれなかった。少年はそう思うと、体が急に強張ってきて、どうしてか、怒られるのではないかという罪悪感に見舞われた。そして同時に、少年は夕食を食べていないことを思い出した。少年は食べていない夕食を求めて、さも今起きたかのように装って、リビングの様子をうかがいにゆくことに決めた。


 扉を開けてリビングに入ると、父親がソファに座り、テレビを見ているのが目に入ってきた。父親が少年に気づき、口を開いた。

 「こんな夜遅くにどうした。もう寝なさい」

 「お腹が空いちゃって」

 少年は眠そうな様子を装って、ダイニングテーブルの上を見たが、そこに夕食は残されていなかった。台所の冷蔵庫の中も覗いたが、それらしきものはなかった。

 「お父さん、僕夕ご飯食べてないんだけど、知らない?」

 「お母さん、怒ってたよ」

 父親がテレビから目を離さずにそう言うと、少年の体がびくんと反応した。少年はまるで内臓を鷲掴みにされたかのような気持ちがした。じわじわと不快感が腹の底から湧き上がってきた。

 「どうして怒ってたの……?」

 「そんなこと俺に聞くなよ」

 少年は父親に尋ねるのをやめて台所のごみ箱を見に行った。蓋を開けると、そこには焼き魚が一尾と、煮物が捨てられていた。少年はそのまま蓋を閉じた。空腹感が少し増したような気がした。

 「お母さん怒らせちゃだめだよ」

 父親はテレビから目を離さなかった。

 少年は父親のそばへ寄り、ポケットから水色の玉を取り出して、それを父親に見せた。

 「綺麗でしょ」

 父親は一瞥しただけで何も言わなかった。

 「星なんだよ、これ。流れ星なんだって。綺麗に光るんだ」

 「あっそう」

 父親は玉をもう一度見やってそう言うと、すぐにテレビへと視線を戻した。少年は肩を落とした。

 「もう遅いから寝なさい」

 「はい」

 小さな声で答えると、少年はリビングを後にした。

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