第一部

◆一、流れ星は落ちる

 鈍色の分厚い雲が空を覆った冬の日。窓側に置かれた大きな暖房が、小さな低音を鳴らしながら教室を暖めていた。

 「それではみなさん、クラムボンが何なのか、想像して絵に描いてみましょう」

 若い男の担任教師がノートの一ページほどの大きさの画用紙を配布した。


 少年は机の中の道具箱から十二色の色鉛筆を取り出した。青、水色、緑、黄緑が短くなっていた。茶色、紫はまだ長いままだった。

 十二色の色鉛筆じゃ、描きたいものの微妙な色が描けないと少年は思っていた。もっとたくさん色の揃っているものが欲しいと少年は母親にねだったことがあるが、十二色で十分だとして、少年の願いが聞き入れられることはなかった。

 周囲を見回すと、ほかの子どもたちは二十四色や三十六色の色鉛筆を使っていた。隣の席の男の子は、大きなケースに入れられた百色の色鉛筆を使っていた。

 百色も必要ないかもしれないけれど、十二色なんかじゃなく、もっとたくさん色があれば、もっと良い絵が描けるかもしれないのに、と少年は思っていた。


 そんなことを思ってから、少年は水色の色鉛筆を手に取ると、横にした画用紙の下半分を塗り始めた。その塗り方はいい加減で、塗られた水色はあるところは薄くて色の隙間から画用紙の白色が顔を出しており、あるところは濃くてそこだけ水色の塊ができていた。

 下半分を水色に塗り終えると、少年はそれから黒の色鉛筆で水色の上に二匹の魚を、塗られていない白紙の部分に一羽の鳥を、輪郭線だけで描いた。そして魚たちの下に、三匹の蟹を、赤い色鉛筆で描いた。ここまで少年は非常にゆっくりと描いた。丁寧に、ではなく、自信なさげにといった感じであった。よくできた絵だとはとても言いがたい、と少年は自らそう思った。

 それから少年は、画用紙を見つめたまま手を止めてしまった。


 「はい、そこまでにしてください。みなさんクラムボンは描けましたか」

 教室の中は、子どもたちが自分の描いた絵を隣の子どもに見せたり、自分の想像がどのようなものであるのかを喋ったりしていて、がやがやと騒がしかった。

 「静かにしてください。誰か、自分の描いた絵を発表してくれませんか」

 少年は自分の画用紙に視線を落とし、教師の方を見ようとしなかった。

 「それでは、芦川康介君、発表してください」

 教師の口から少年の名が呼ばれた。自分の絵を見せびらかしたい子どもたちから一斉に不満の声が上がった。

 「みなさん順番に。それでは芦川君、おねがいします」

 少年は画用紙を手に取り、勢いよく立ち上がったが、絵を胸の前で見せただけで、突っ立ったまま何も言えずに黙ってしまった。

 「君はクラムボンをどう描いたのですか」

 教師は少年にそう尋ねたが、少年は口をぱくぱくさせただけだった。少年はそのまま俯いてしまって、教師は困り果てた様子で頭を掻いた。

 「君は、クラムボンは何だと思いますか?」

 「分かりません……」

 少年がやっとのことでそう言うと、教室の中がまた騒がしくなった。「馬鹿だ」「蟹と魚と鳥だけしか描いてない」「へたくそ」子どもたちはめいめい思ったことを口にしていた。「クラムボンは泡だよ」「いや光だよ」「自然だ」

 「静かにしてください。みなさんの意見は後で聞きますから」

 教室が静かになると、教師はまた少年に向かって尋ねた。

 「クラムボンは、みなさんは、泡だとか、光だとか、自然だとか言っていますが、君はそうは思わないのですか?」

 「分かりません…… でも、違う気がします」

 「どうしてですか?」

 「泡は、蟹が泡って言っているし、光は笑ったり死んだりしないと思うんです…… それに、自然ということなんて、ここには書かれていないし……」

 「ではクラムボンは何だと思いますか?」

 「クラムボンが何なのかなんて、ここには書かれていないから、よく分からないんですけど…… クラムボンは、笑ったりして、殺されて、死んじゃうものなら、それはきっと生き物で…… そういうものなんだなって、思います……」

 「分からないって」「馬鹿だ」「そんなことも分からないなんて」教室の中の子どもたちのほとんどが、突っ立った少年を見て笑っていた。少年の方を見ていない何人かの子どもたちは、得意げに手を挙げて教師に向かってアピールしていた。


 子どもたちの嘲笑を浴び、少年は内臓を強く掴まれたかのような不快感を覚え、顔が火照るのを感じた。笑う子どもたちの顔を眺めることができずに、目を伏せようとしたとき、一人の少女の姿が少年の目に入った。

 少女は長い髪を二本の三つ編みにして、眼鏡をかけていた。その少女は、少年の隣の家に住んでいる少女だった。

 小学校に上がるまで少年と少女はお互いの家を行き来して、日がな一日二人だけで遊ぶほどの仲だったが、いつの頃からか、あいさつ以上の会話をほとんど交わさなくなっていった。それは少女の母親が再婚したころだったように、少年は記憶していた。

 当時を思い返すと、少年はなんだか心の奥底の鋭敏な部分に触れたような気がして、なんだかくすぐったく、加えて恥ずかしいような気持ちがした。今では顔を合わせてもあいさつさえしないこともあった。それと並行して、少女が人と会話しているところをほとんど見なくなった。最近では教室の中で一日中一人でいることが多いようだった。

 眼鏡の向こうに見えた目は、ほんの少し吊り上っていた。誰もが笑っている中、少女はただ一人笑わず、真顔でじっと少年を見つめていた。少年は笑っていない少女の姿を目にすると、なんだか安心したような気がしたのであった。


 「みなさん静かにしてください。芦川君、君はもういいです。もう少し想像力をはたらかせてみてください」

 そう言って教師は少年を座らせた。

 「それでは次は…… 松本有海さん、発表してください」

 名指されたのはあの少女だった。少女は画用紙を手に持って立ち上がり、絵を胸の前で見せ、教師をじっと見つめていたが、押し黙って一言も話そうとしなかった。少年に続いて少女も黙ってしまったためか、教師はやや呆れたような表情をしていた。

 少女の画用紙の全体は薄く水色に丁寧に塗られていて、いくつかの泡のようなものが描かれていた。少年は少女の絵を綺麗だな、と思った。そしてあれぐらい綺麗に絵が描けたらいいのに、とも。

 「松本さん、あなたはクラムボンをどう描きましたか」

 「クラムボンが何なのか、よく分かりませんでした」

 少女はじっと教師を見つめたままはっきりとそう言った。教室が静まり返った。教師はそれを聞くと肩を落として大きく息を吐いた。

 「松本さんが分からないなんて珍しいですね……」

 教師は手のひらを額に当てて、何やら少し思案していた。

 「松本さん、もういいです。あなたも想像力をはたらかせてみてください」

 少女は何も言わずに前を見たまま席に座った。少年は少女に悪いことをしてしまったかのような気がしながら、少女の姿を見つめていた。

 それから何人かの子どもの絵が発表されたが、少年の耳にはそれらは入ってこなかった。少年はその日、誰とも口を利かないまま下校した。


 *


 学校からの帰り道、少年はいつものように少し大きな公園を通りがかった。人通りはいつもと打って変わってほとんどなかった。

 公園の中ほどにさしかかったとき、少年は風呂敷を広げていた露天商の男に声をかけられた。襟元のよれた皮のジャンパーを着た、恰幅のよい男だった。着ている服の上からも、その男の腹がでっぷりと出ているのが見て取れた。髪は薄く、垂れた頬には無精ひげが生えていて、薄い茶色のサングラスをかけていた。


 少年は、サングラス越しに男と目が合ってしまった。少年と目が合うと、男は口角を上げ、にやりと笑って目を細めた。その男のまなざしに、少年は不快感と恐れに加えて、言いしえぬ興味を覚えた。男のことが気にかかりながらも目を逸らして通り過ぎようと思った刹那、少年は男に呼び止められてしまった。

 「そこの坊主、お前の欲しいものが、ほら、ここにあるだろう。見て行きなさい」

 男の声は低く、その顔には不釣り合いな綺麗な声だ、と少年は思った。その声は父親とも学校の教師とも異なっていて、男からではなく、もっと遠くのどこかから発せられたかのような声だと思われた。その声を聞くと、少年は足を止めてしまったのだった。


 風呂敷に目を落としてみると、そこには薄汚れた古臭いがらくたが並べられていた。見たことのない銀色の四角いロボットは埃をかぶり、飛行機のおもちゃは胴体がへこんでいて、けん玉の紐は切れていた。人形などは首や腕など、どこか欠けているものばかりだった。

 「こんなものが売り物なの?」少年はそう思ったのだが、風呂敷に並べたものの中の一つが、少年の目を釘付けにした。淡い水色の、ビー玉のような小さな玉だった。それはきらきらと青白く光り、いつの日か図書館で見た図鑑に載っていた、冬の空に瞬くシリウスの光や、望遠鏡で拡大されたプレアデス星団の光のように、気高く孤高な光を湛えて少年のまなざしをまっすぐに引き寄せていた。


 「それが欲しいんだろう、遠慮せずに買いなさい」

 少年が玉に釘付けになっていると、露天商の男は声を発した。耳の奥を震わすような、頭の中がくすぐったくなるような、そんな声だった。

 「でも、僕お金ないんです。せっかく綺麗なビー玉ですけれど……」

 「坊主、これはビー玉なんかじゃない。これは星だ」

 男は玉を手のひらに乗せ、その手を少年の顔の前まで運んだ。

 「星って、あの空で光ってるやつ?」

 「そうだ。だがちっとばかし違う。空で光ってるあれと全く同じものじゃあない。こいつは空から降ってきたのさ」

 「空から?」

 「そうだ」

 「空からってことは、流れ星……?」

 「そうだ。こいつは空から降ってきて、俺の頭にぶつかったんだ。だから俺の頭はこんなになっちまった」

 男はそう言いながら声を出して笑いつつ、薄い頭を毛深くてごつごつした手で撫で回した。その間も、男の目はじろじろと少年を見つめて離さなかった。

 「どうだ、こいつが欲しいだろう…… こいつはな、実を言うとお前に買ってもらうためにここにあるのだ」

 男は急に真顔になって、じっと少年の目を見つめながら、目をすぼめた。少年はまた男の手のひらに載った水色の玉を見た。玉はきらきらと光っていた。

 「買うとしたって、やっぱり僕お金ないんだもの……」

 少年は思わず男から目を逸らした。少年は緊張していて、体が強張っていた。

 「坊主、この星はお前のためのもんだ。だから特別にサービスをしてやろう。あることをしてくれれば、この星はお前のもんだ。お前に売ってやる……」


 男は少年の耳元で何かを囁いた。耳元で囁いた男の息が、まず少年の耳をくすぐった。その感覚は少年の全身に響き渡り、まるでほどよく痛い電撃が全身を走ったかのようだった。少年の全ての意識はその一瞬、耳に集中し、感覚が研ぎ澄まされ、風が触れてもそれを感じ取ってしまうほどに鋭敏になっていた。そのために体に小さな電気が走るかのような感じがした。

 それからもう一度男が耳元で囁くと、少年はそれにびくんと体を震わせて反応し、少し男から離れて、男から目を逸らしたまま、黙って小さく頷いた。少年の心臓はどくんどくんと強く鼓動していた。その鼓動も全身に地鳴りのように伝わってゆくかのような気がした。全身が硬直してゆくように思われ、体を自由に動かすことができなかった。加えて、風邪でも引いたかのように顔が火照るのを感じ、足はがくがくと震えていた。


 *


 事が全て済んだとき、少年は当惑していた。男は小さな木組みの箱に水色の玉を入れて、それを少年に手渡した。少年は男の目をみることができずに、半ば奪い取るようにして木箱を受け取った。男が「大事にするんだよ」と言うのを聞き届けると、少年はあいさつもせずに後ろを振り向いて駆け出した。心臓が強く鼓動して全身を打ち、足はまだがたがたと震えているようだった。


 前も見ずに走っていたので、少年は目の前に人がいるのに気づかずに、そのままぶつかってしまった。少年がぶつかったのは、三つ編みで眼鏡をかけたあの少女だった。少女は尻餅をつき、両手を地面についた。少女は見上げるように少年をまっすぐ睨んでいた。

 「ご、ごめん」

 謝ったのは少年だった。睨みつける少女のまなざしから逃れるように視線を泳がせ、それからはっとして手に持った木箱を背中へ隠してうつむいた。少女は立ち上がり、一歩少年に近づいて少年の顔を覗きこんだ。

 「康介、顔真っ赤じゃない。震えてるし、息も上がってるし…… 熱があるんじゃないの?」

 少年は黙って首を横に振り、俯いたままそっと少女を盗み見ると、少女の吊り上った目と合って、少年はまた思わず謝ってしまった。

 「どうして康介が謝るのよ」

 「だって…… 有海ちゃん、怒ってる……」

 「怒ってないよ。私の顔は元からこうだったでしょう」

 「ごめん……」

 「だから……」

 少女はため息を吐いた。


 「ところで康介、さっき、あそこで何をしてたの?」

 「えっ…… 見たの……?」

 少年は思わずそう聞き返した。先ほどの光景と、そのとき得た感覚が脳裏に浮かんでいた。心臓の鼓動が耳を打ち、顔がいっそう熱くなるのを感じた。恥ずかしさや後悔、罪悪感が少年の体を満たしてゆくようだった。

 「その手に持ってるの……」

 少女がまた一歩近づいてくると、少年はくるりと少女に背を向けて、ランドセルを背中から降ろし、手に持っていた木箱をその中にしまった。

 「ねえ……」

 背後から少女が肩に手をかけたとき、少年はびくんと飛び上がり、そのまま少女から逃れるようにして何も言わずに一目散に駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る