第19話 第五章「僕は走る」3


ネネルはアメレたちがいる診療所から、自分の足で走り出した。

だが、どこへ向かえばいいのかというのは、頭にない。だが立ち止まることも出来なかった。

「ネネル、やっと来たんかぁ……ん、トラックはどうしたんなら?」

気がつくと、足は橋の管理事務所で止まっていた。荒い呼吸の耳に、守衛の疑問が降ってくる。

「ど、うした……って、僕……」

息がつらく、言葉がどうにも続かない。秋の夜は風も涼やかだが、走り続けるにはまだまだ暑いのだろうか、汗がしたたり落ちる。

「聞こえんがな、ネネル……テイチとトラックはどうしたんなら」

「僕は……行くんだっ!」

「ネネル、おい、ネネル!」

名を呼ぶだけの守衛の声を置き去りにして、橋へと走り出る。一歩一歩と足を進め、腕を振ると、普段はトラックで走るだけの路面が、いかに堅いものかとよく知れる。

橋の上はとても静かで、波が穏やかに奏でる音は耳によく届き、靴底は一定の感覚で乾いた音を路面に落とす。

「はぁ、はぁ……」

穏やかな月夜の風景とは裏腹に、一歩一歩進むごとに、呼吸は荒さを増していくのがわかる。だが、足を休めることは絶対にしたくなかった。

「いつに、なったら、終わるんだ、この、橋……」

見据える対岸はまだ遙かで、民家の灯りさえ認識出来ず、橋の終着点が粒のように感じる。それでも、足は休めない。路面からの衝撃で、既に足の裏は度重なる衝撃に耐えかねると宣言する手前だった。

繰り返す波の音も、最初は心地よいだけだったが、橋の中腹を過ぎたあたりから、時間がたつにつれ、苦痛に変わった。体から水分も失っていき、呼吸はさらに荒く絶え絶えになる。耳は既におかしく、自分の呼吸だけがやけに強く大きく聞こえるようになってしまっていた。

「ダメだ……それでも、僕は……行くんだ」

走っていた足は、いつの間にか歩きに変わっていた。それでも進め続ける足を包むズボンのポケットに手を突っ込み、そこに紹介状があることを確認すると、手を抜き、歯を食いしばり、また心を燃やすことが出来た。

「スノ……待ってて……」

言葉につられ顔を上げた先は、やっと橋の終わりだった。そのまま住宅街へと続く道をただ歩く。残念ながら、もう両足に大地を力強く蹴り上げる力は残っていなかった。

残り計り知れない旅路を前に、ただ進むことしか出来なくなっていた。

解決策もなく、ただ歩くのみの体になっている。

「ダメだ……諦めちゃダメなんだ……僕が、僕までが諦めちゃったら……」

スノは今すぐにでもいなくなってしまう……そんなことを考えていた。

「おーい、ネネルじゃねぇか。何やってんだよ、こんなとこで」

気を抜けば崩れ落ちそうな背中に、脳天気で季節の風情さえも台無しにしそうな声がかかった。

「なんだ、よ……インス、僕は……」

吐きかけた言葉が、開けた口の中で、全て消えた。それはインスがただ道に立ち、同じ目線で会話していないと気づいたからだ。

インスは地べたを這うのかというような、見たこともない車に乗って、その運転席の窓から話していた。トラックに乗っていてすれ違ったならば、その存在さえ気づかないかもしれない。だが、そんなことは今どうでもいいことだと、体だけが動いた。

「インス、今すぐおりろ! それで、僕にこれを貸せっ!」

体を寝るようにつけられたフロントウィンドウに貼り付け、インスに言い放った。

「お、おいおい……どうしたんだよネネル。それに今日は島に行ってるはずだろ……オヤジさんはどうしたんだよ」

「そんなことはいいんだ、とにかく貸せ、乗せろ!」

話にならないと思ったのか、インスはとりあえずと、車から降りてきた。

「ネネル、いきなりすぎだろ。確かにこいつがかっこよくて、運転苦手なお前も、かっとばしてみたくなっちまう気持ちはわかるぞ」

「違う、違うんだ……僕には行かなきゃいけないトコがあるんだ!」

かすれ声が叫びに変換されて、夜の道に響く。

「わ、わかったから、とりあえず、これ飲めよ」

インスは助手席を開くと、そこにのっていた水筒を差し出してくれた。そんなものはどうでもいいのだと思っていても、体の危険信号は素直で、しゃべり始める前に、水筒の中身を全て体内に流した。

「で、落ち着いたか? まぁ深呼吸くらいしてから話せよな」

「うん……少しは頭が冷えたかもしれない」

そうして、一呼吸大きく肺を精一杯に使ったようにして、インスに事の次第を話した。

「なるほどな……それで車貸せっていうわけか」

インスは頷きながら、頭の中で何かを考えているように、視線を遠く海の上で笑う月に合わせている。

「頼むインス! 僕はどうしてもそこに行って、薬を持って帰りたいんだ……だから頼む!」

「わかったわかった……そんな拝み倒すなよ。オレは無宗教家だぞ」

インスは折れたのか、両手を挙げた。

「ただしだ。オレはそっちの事情に同情したとか、どうしてもとか、そんなんじゃねぇ」

「どういうこと……だって、だから貸してくれるんじゃないの?」

「オレは島に行ったわけじゃねぇ。ケモノの耳があるっていう運命の重さだって知らねぇ。けどな……オレはネネルだから貸すんだ」

「それって、どう違うの?」

問い返すと、インスは照れたように鼻先をかくと、月から視線を外さずに、言いにくそうに口の中で噛んでいた言葉をゆっくりと紡いだ。

「困った時はよ、まずオレを頼って欲しいんだよ……それが、その……オレとネネルの友情ってやつだろ?」

「うんうん、インスはいいやつだなぁ、僕もインスみたいな友達持って自慢だよ」

ばしばしと、わざとらしくインスの背中を叩いた。

インスはややその態度が不満だったのか、ふざけて感じたのか、むっとしたものの、また腕を開いてみせた。

「まぁそれにさ、島の暮らしはわかんねぇけど、昔一緒に望遠鏡で覗いた場所だしな」

「え……ああ、そういえばそんな事があったような……」

「忘れるなよ、結構いい想い出だぞ。それをオレの中のだけのもんにすんなよ」

「はは、悪い悪い……」

「ったくネネルは……まぁらしいっちゃらしいか……ほれ」

インスはアルバムでもめくっているのかという顔をしたまま、車を指さした。

「走るんだろ? 早く乗れよ」

「う、うん……」

インスに言われ、運転席へと回ってドアを開こうとする。

「あれ、これ、どうやって……」

その車はあまりにトラックとは違いすぎていて、ドアの開け方さえわからなかった。

「これをこうすんだよ……ホント大丈夫かネネル……」

「だ、大丈夫だってば……ほら、他にも違うトコとかないのか?」

「違うって言やぁ、全部がトラックとは違うぞ。まず、ネネルくんの大好きな面倒で大変なギア操作があってもないみたいなもんだ」

インスは手元を見ろと、トラックならばギアレバーがあるはずの部分を指してくる。そこには、確かにギアレバーのようなものが存在しているが、見た目の形状が大きく違っていた。

「こいつは車が自動でギア操作してくれんのさ。基本的に、ブレーキを踏んで、ギアをここに合わせて、ブレーキを離すと、車は前に進みはじめるってわけだ。簡単だろ? あとはアクセルを踏めば踏むだけ早く走ってくれる。止まるときも、ブレーキだけ踏み続けてれば止まるし、そのあと停車したけりゃレバーをここに持ってくりゃいい」

長々しいインスの説明を大人しく端から記憶に留めておく。

「ちなみに、ネネルん家のトラックの三倍は早いぞ、こいつ。そして、燃料も早く減っちまうから、トランクには燃料の予備が入ってるからな」

「用意周到ってやつだなぁ。インスは頼もしいねぇ」

「こそばゆいだろ……こいつの慣らしが終わったとこに、ネネルが歩いてたんだよ……あ、ひとつ言い忘れたけど、絶対に事故るなよ。こいつの値段はそれこそ半端ないからな」

インスの言うことは脅しではないかもしれない。大衆向けに――とはいえ、とても家運を賭けた事業でもない限り、買うことはない――トラックなどの車が存在するが、富溢れる者には、そこへ向けたとんでもない車も存在する。そして、この車はそのとんでもない車なのだ。

「ひひ、事故ったらネネルは向こう二十年給料半分で暮らさなきゃいけなくなんぞ」

「笑い事じゃないだろっ!」

「まぁそう言うなよ。今回のレンタル料は出世払いにしといてやっから」

「こらこら、インスの友情にはいちいち金銭が絡んできて、すっきりしないし、さっぱりしてないぞ」

それをまたインスは笑いで返してきた。

「まぁ修理費っていうよりも、事故ったらトランクの予備燃料でどっかんだろうから、そん時は、チャラにしてやるよ……だからネネル、ちゃんと帰って来いよ」

「うん……薬持って、必ず帰ってくるよ……」

「ああ、じゃあさっさと行け! 時間がねぇんだろ。助手席のもんは勝手に食っていいぞ。そいつはオレのおごりだ」

言われてみると、助手席には先ほど飲み干した物とは別の水筒が二本に、いい匂いをかすかに漂わせるバスケットが置いてある。

「うん、行くよ……行ってきます!」

言葉で返すことはせず、インスはただ行く先を指さしてくれている。体を自然に包み込んでくれるシートに体を預け、やけに指先になじむ適度な柔らかさのハンドル――否、ステアリングを握る。エンジンは既にかかっていて、あとはギアをかえ、アクセルを踏めば進み始める。

小さなウィンドウからインスに手を振り、橋をたぎる心のまま渡りきった、痛む足の裏で、アクセルを緩やかに、しかし強く踏み込んだ。


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