第18話 第五章「僕は走る」2
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スノが眠りについてから、ネネルは病室を出ていた。
アメレもラウドもテイチも同様で、体は自然と風が息を殺して澱んでしまう、廊下の突き当たりで、申し訳にベンチが置いてある場所へと引き寄せられていた。
窓と壁に殺された、ほんのわずかな波音だけが静寂に生きている。
誰の口も重く、ただ時をどうして過ごしていいかわからない。満月の美しさも、かすかな波音の心地よさも、話題にすることは出来なかった。だが、ただ黙しているわけにもいかない。このままでは、スノの命が尽きてしまうのを夜に沈むように待つだけだ。
「ねぇ、スノはどうしたら助かるの?」
その問いが愚問であると言いたげな顔が三つ一斉にこちらを見返す。
「……何だよみんな……どうしてそんな顔するのさ!」
声にアメレは目を合わせず、ラウドもテイチも考え込んだように口をつぐんでいる。
「どうして……みんな諦めちゃってるんだよ……父さんだって、さっきはお医者さんに食ってかかってたじゃないかよ!」
それがおそらく作り上げていたテイチの像そのものであり、厳しくも頼もしく、正しいを正しいと成す、憧れる背中だった。それなのに、今はポケットの中のたばこの残りでも探しているような顔をしている……実際は違うかもしれないが、そんな何かに負けた顔に見えているのは間違いない。
「アメレさんだって、どうして……どうしてもっとスノを励ましたりしないんだよ!」
妹の命が終わろうとしているというのに、何もせず、ただそれを待つだけでいるアメレに苛立ちを感じ始めていた。
「……何もしたくないわけじゃないよ……でも、ダメなんだよ……」
「何がダメなの……いつものアメレさんなら、そんなのげんこつ一発で考え事ごと消しちゃうじゃないか!」
「そう出来るなら……してるわよ……」
アメレは頭の耳をしおれさせ、それにならうように俯いてしまった。
「島ではね……それは意地張ってみても仕方ないことなんだよ……薬がないっていう理由なら、受け入れるしかない。スノにもそれはわかってるんだ……だからあんたにだって、あんなこと言ったんじゃないか」
アメレは感情を表に出しているわけではない。そればかりか、耳がしおれている以外に、指先が震えているわけでもなく、読み取れるものなど、一片もなかった。
「人はいつか死ぬんだ……それが早いか遅いかだけなんだよ……病気も事故も、闘って死んでも、逃げ腰で死んでも、死は死なんだ。それに、あたしたちには耳がある……」
「耳があるからって、何なのさ……耳があったら、諦めなくていいものも、諦めなきゃダメみたいじゃないか!」
弾けた声は、廊下を滑って見渡せる向こうの端にぶつかって消えたようだった。誰も受け取らなかった声が弾けて消えたあとには、虫たちが作る秋の静寂が広がる。冬のようではなく、しんと冷えた空気が風の澱んだこの場所でも肌を包む。その空気をまとったように、ゆらりとアメレは顔をあげた。
「……間違ってないよネネル……この耳は、そういうもんなんだ……ただ、受け入れるだけ……そうしないと、ここにいる人たちは、みんな何かに押しつぶされちゃうのよ」
冷たい、けれど……悲しい宣言だった。これ以上はないよとアメレの目は迫ってくる。
「そんなの……僕は嫌だっ! スノがこのままいなくなるのも、そんな考えが当たり前でなきゃいけないことも、全部嫌だっ! 僕だけでも、そんなこと受け入れないし、認めない!」
「ネネル!」
叫んだ直後にはアメレの声も忘れて、その場にある全てを置き去りにして、走り出していた。行く当てもなく走ったわけではない。自分に従い、何かを否定するためには、死を否定することを生業としている者の元へ行くのが一番だと感じたからだ。足は自然と診察室の奥へと向いていた。
「先生!」
「君はさっきの……あの娘に何かあったのか」
医者はいたって冷静だった。いつ何時も冷静でなければいけない職業なのだろう。だが、アメレが見せる戸惑いを隠すための冷静さとはわけが違う。それはスノに何があろうと、その態度を変えることはないという絶対の宣言のようにも見えた。
「先生、薬は本当にないんですか……」
「ああ、昨日使用したもので最後だった。国からの支給日は決まってるから、それまでは、こちらからじゃ、どうにもできん」
「次っていつなんです……スノには間に合うんでしょ?」
「さっきも言ったが、それは無理だ……薬は早くて一週間後だろうが、あの娘は一日ともたない」
両手に余るほどの経験に基づくような断言だった。人の命の力はそんな宣言をいくつも回避してきたと聞き見知るが、それを全て否定する、言葉の剣の切っ先を向けられた。だが、それにひるみはしない。切っ先をかいくぐり、返す手にある短剣を突きつける。
「じゃあ黙ってそれを見てろっていうの! 僕は嫌だ……嫌だ……薬があれば……スノは助かるのに……その努力はしてくれないんですか!」
「ふむ……君の思っている助かるというのは、少し違う。その薬は合併症の進行を遅らせる薬であって、治すものではないんだ。結局、遅いか早いか……それだけだ」
「それだけだなんて言わないでよっ! 遅くなれば、そのうちに治せる可能性だってあるんでしょ! じゃないと、そんな薬作るわけないよね、そうだよね!」
「確かに、君の言うとおりだ。薬は進行を遅らせて、そのうちに治療しようという目的で開発されたものだ……だが、ここにその薬がないっていう事実には変わりないんだ。私にも君にもどうにもできん」
医者はまた残酷に言い放つ。この医者にとって、スノは救うべき患者ではないのかと問いただしたくなってくる。
「もういいよ……その薬はどこに行けばもらえるの……教えてよ……」
「まさか、取りに行くつもりか?」
「僕がそれを取りに行くかどうかなんて、先生には関係ないよね……僕は先生が目の前にそれがあったら、スノに使ってくれるっていう絶対が欲しいだけなんだ」
声には自然と力がこもっていた。力……と、いかにも綺麗なものにしてしまうのは、許されないのかもしれない。心に宿り、今言葉を吐いているのは、憎悪や憤怒、そういった希望などから引き算で生まれたものなのだ。
「……わかった……約束しよう」
「うん、ありがとう先生……じゃあその薬がある場所を教えて。あと、そこへ僕が行ってもちゃんと薬がもらえるように、一筆書いてください」
憤怒に駆られていても、商人の血は忘れていなかった。約束とは、口約束でも十分な効果を発揮するものもあれば、きちんとした書面がないと、門前払いになる場合もある。今回は間違いなく後者であり、医者からの紹介状や要請状でもなければ、行くだけ無駄という行為になりかねない。それはスノのためにも絶対に避けなければならないことだ。
「ああそうだ……あと、そこまでの地図も書いてくださいね。もしこれに対価が必要なら、僕が一生かけてでも払う」
心優しすぎて、行動力に欠ける……それが印象として他者が持ち、自分を言い表すために用いる言葉たちだった。だが、今こうして医者へと詰め寄っている自分は何なのだろう。商人の血は忘れなくとも、やはり憤怒が突き動かしている結果なのだろうか。ここに鏡はない。だから自分の顔をうかがい知ることはできない。だがもし、それを見てしまったら、自分で自分の顔に戸惑い、足がすくむかもしれない。
「わかった……今書くから、少し待ってくれ」
医者はひとつ、タバコの煙をはくように息をすると、机に向き、紙にペンを走らせ始めた。ペンが紙に文字を書き込む音と、虫たちの声に波音が静かな所内に響く。書面が出来上がるまでの時間は、ただもどかしい。早く書き上げて欲しいと願うが、書き損じてもらっては困るという狭間で心が揺れていた。
「おいネネル、こりゃどういうこった」
ペンの音をかき消し、テイチが部屋へと入ってきた。走り去ったままなのを心配して、所内を探し歩いていたのかもしれない。その中で、話し声が耳に届き、それを追ってきたのだろう。静かな所内ならば、話し声はよく通るに違いない。
「先生、あんたも何してんだ」
「私は頼まれたことをしているに過ぎない……今の私には医者としてこれくらいしか、するべきことがないと思ったからね」
「ち……ガキの戯言真に受けやがって……ネネル、無駄なことはやめろ」
「無駄って……父さん、なんでそんなこと言えるんだよ! 父さんなら……父さんだったら僕の気持ちわかってくれるって思ったのに!」
「わかってらぁ! わかってるからこそ、言ってるんだ……」
「どういう意味かわかんないよ!」
一番の理解者でいてくれると思っていたテイチこそが、一番の敵に見えてくる。
「取り込み中すまないが、出来たぞ。紹介状と委任状、それからその場所の地図だ」
「く……もういい……てめぇの目で見て、それで判断しろ……俺は……」
何かを言いかけて、テイチは息を詰まらせるようにして、医者の後ろへと下がった。
「さぁ受け取りなさい……対価はいらない。もし君が薬を持ち帰れるのなら、だ」
「はい、ありがとう先生」
紹介状兼委任状、それに地図を受け取り、その書面を確認する。そして希望に満ちているはずの地図を開いた。
「え…………そんな……」
希望の地図を開いて、テイチの言う意味がわかった。敵として立つ意味も……テイチはただ無謀なことに駆り立てられた息子をなだめ、押さえつけようとしていたわけではない。
そこに、この真実があるから、止めようとしたのだ。
「ネネル、わかっただろ……その薬があるってとこは、遠すぎるんだ……ウチのオンボロトラックじゃ、どんなに急いでも、往復に一日以上はかかっちまう……間にあわねぇんだよ……行ったとして、帰ってきたとき、スノがまだ生きてる保証はどこにもねぇ……お前は最後の瞬間に、あれだけ望んだスノの傍にいてやろうって思わねぇのか、くそうっ……」
テイチは謎解きをしてくれた。どんなに強がって誰しもが認めることを否定は出来ても、距離を一瞬で飛び越える術のない以上、それは夢想でしかない。
それでも、心は納得しなかった。事実を知る前よりも、もっと激しくうずき、熱き血流を全身へと送り続け、たぎらせていく。
「僕は嫌だ……嫌だ……そうだってわかっても、嫌だ……何もせずになんかいられない!」
テイチと医者を置き、足は冷たい現実がいくつも転がる廊下へと走り出していた。そのまま玄関めがけて走り続ける。
「待って、ネネル!」
そこから外へ飛び出そうとした手前で、アメレと鉢合わせる。
「待たないよ……僕は行くんだ……無理でも無茶でも行くんだ……ただ待ってるなんてしちゃいけないんだ」
アメレは決意を聞いて、しばし考えていた。本当はそれさえも、もどかしい時間だった。
「どうしてそんなに無茶するの? トラックでも遠いトコなんだよ」
「僕は……何もしないままでいたくないだけなんだ」
口に出して思いを再確認すると、また心がたぎってくる。今すぐアメレの脇を抜けて、走り出したい。
「行っても、苦労しても、無駄かもしんないよ……それでも行くの?」
「無駄なんかじゃないよ、きっと……行けばスノの合併症を抑える薬が手に入るんだもん」
アメレはそれを途方もない夢でも語られたように、ため息混じりで聞いていた。
「もういいでしょ。そこどいてよ……僕は行くんだから!」
やがて、ため息を吐ききったアメレは、腕を胸の前で組んだ。
「うん……行っといで。あたしはスノと待ってるから……ネネルがやろうとしたことをして、帰っといで……ただし、気をつけてね」
「アメレさん……うん、行ってきます……」
アメレの目には、迷いはない……けれど、それはスノの死が絶対だと諦めていた達観とは少し違うように思えた。どこか、いつものアメレらしく、背中を思い切り叩かれて、送り出してくれたように思う。
だから、走れる……目的の場所まで走りきることが出来る気がしていた。
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