第17話 第五章「僕は走る」1

第五章 「僕は走る」



ネネルは揺れるトラックの助手席で、後部……荷台のことばかりを気にかけていた。

陽は秋に引かれ既に陰り、窓から吹き込む風は、肌に冷ややかなものへと変わっていた。額からひっきりなしに流れ続ける汗も、シートまで落ちきる前に、氷の粒へとなるのかと錯覚するほどに冷たい。平時ここを通行するよりトラックの速度は出ている上に道幅は狭いので、テイチのもうひとつの目となり、ネネルはいつも以上に前方への注意を配る。だが、意識は後方……トラックの荷台にしか注がれない。

「ネネル、心配なのはわかるが、今は前を見とけ。俺たちが事故でもしたら、終わりなんだ」

「う、うん……」

今トラックは、薄く意識を取り戻したスノを荷台に寝かせ、そこにはラウドとアメレが付き添い、島にある診療所へと向かって走っている。

島の道はいつ整備されたのかわからないが、古い石畳で、至る所にでこぼことした小突起が存在する。トラックはそれをタイヤで拾う度に小さく跳ね上がる。

「く……」

思わず苦悶が漏れる。後方では同じくスノが苦悶を漏らしているに違いないと同調しているだけかもしれない。だが、ただ早くという望みを、何も生み出さない焦りにしないためにも、それは必要なことだった。

「父さん、まだなの?」

「ああ、だがこの角を曲がればすぐだ……」

どうしてテイチが診療所の場所を知っているかなどは、今気になることではない。自分よりもこの島に長く訪れているのなら、その場所を知ることも自然とあったはずだからだ。

こういう妙な冷静さも、きっとスノの事を処理外におきたいが故のことなのだ。言葉も思考も嘘つきだ。

「よし、門は開いてるな。このまま突っ込むぞネネル!」

テイチは門と門の隙間を速度落とすことなく駆け抜けて、診療所の玄関前でトラックを止めた。

「よし、俺は医者に伝えてくるから、お前は後ろに行って、スノをおろす準備しとけ!」

 テイチの指示に、冷静で固めていた思考が熱く溶ける。

「わかった! 着いたよ、スノ!」

運転席と助手席のドアが、同時に開き、地面に降り立ったテイチは建物へ、ネネルは笑う膝を無理やりに立たせて、荷台へと回った。

「よし来たかネネル。アメレと一緒に前と後ろで布団をつかんで、スノをくるむようにしておろすんじゃ。急いどっても、慎重にやれぇ」

ラウドは杖をつき、荷台から的確な指示を与えてくれる。身長の差から、アメレが荷台からおりて、スノの頭側を持ち、腰をかがめてネネルは足側を持つ。かけ声で無事にスノを荷台からおろすことが出来た。

「ネネル、このままスノを中まで連れてくよ!」

「うん!」

二人、急いではいても、呼吸を合わせ、出来る限りスノに影響を与えないようにと、細心の注意を払い、歩を進める。玄関の階段は選ばず、緩やかな坂道をつくる入り口を選択してスノを運び入れる。

所内は診療時間を既に終えていて、照明はひとつふたつと申し訳なく点灯してあるだけで、視界は薄暗く、見渡せる世界は季節よりも冷たい色をしている。長い廊下の途中、光がこぼれている場所目指して、先頭のアメレは行き先を決める。だが決めるという自発的な行為というよりは、その光に足が吸い寄せられているようだった。ネネルはその先導に従って足を運んだ。

「アメレ、ネネルこっちだ連れてこい!」

その光軸の中から、息を荒げたテイチが転がり出て、手招きで呼ぶ。アメレはそこへと足を向けて進む。スノが乗っているシーツをちぎるほどに握りしめているのが、ここからでもよく見えた。

「先生、早くスノのこと診てやって!」

「わ、わかった……とにかく、そこの診察台の上に……そっとおろしなさい」

アメレが先生と呼んだ人は、白衣を着ていて、いかにも医者に見える。島にいるのか、外からその都度やってくるのかはわからないが、頭にケモノの耳は生えていなかった。

ネネルたちとどう扱いが違うのか、その耳がなくてもいい理由を問うている場合ではなかった。

人物像を観察している間に、医者は素早くスノの診察を始める。目を見て、脈を測り、胸をはだけ聴診器を当てる……一通りの簡単な検査が終わると、医者は診察台の横にある椅子に腰掛けた。

「……合併症の発作だな……」

「そんな、あんな簡単な調べ方でわかるっていうの!」

気がついたら叫んでいた。そして、当然のごとくアメレやテイチ、遅れてやってきていたラウドも声を続けると思っていた。

だが、いつまで待っても、援護は来ない。どうしてと振り返った所には、顔を伏せてベッドの下にある暗がりでも見つめているような三つの顔だった。

「どう、したんですか、ネネルくん……大声、出したら、びっくりしちゃいますよ」

「スノ!」

「スノ、よかったわ……あたし…」

店を出てからまたくぐもった息を続けていただけだったスノが意識を取り戻し、言葉を発した。

「よし、気がついたな……ここじゃ何だから、あいてる病室に移そう。そこのストレッチャーに乗せ替えるから、手伝ってくれ」

 医者が診察室の奥から、車輪のついた動くベッドのようなものを持ってきた。これがおそらくストレッチャーというものなのだろう。

「ネネル、シーツごといくよ」

「うん、せーの」

かけ声で力を合わせ、スノの体重を二人でわけて、ストレッチャーへと載せた。

そのまま医者のあとを追い、ストレッチャーを押して行く。医者がいるのなら、看護師も常駐していておかしくはないはずなのに、なぜかこの診療所に、この時間その姿はなかった。

「ねぇアメレさん、看護師さんっていないの?」

「ああ、看護師さんは島の外から来てる人しかいないから、帰っちゃうんだよ……」

その割に、仕事での行き帰りに、そういう人に会ったことはない。なぜかそれがアメレのついた嘘のように思える。

「よし、ここだ。中に入れてくれ」

医者の指示で、スノは暗い病室に運ばれた。大きな部屋で、いくつもベッドが並ぶ相部屋のようだが、スノがベッドを埋める以外に患者はいない。だから余計にがらんとした冷たく大きな空間が、悪い予感を運んでくる。薄く白いカーテンの揺れる窓の外は、陽はつるべに乗り井戸に落ちて、丸く大きな月が支配する時間になっていた。

風の音と、波の音がかすか交互に入り込む病室で、スノの呼吸音が、大きく響いている。

「ネネルくん、お姉ちゃんも、どうしたんですか?」

額に汗を薄くはらせながら、スノは沈んだ顔に質問を投げてくる。だが、それにこたえるものは有していなかった。

「うん……スノ、発作で倒れたんだよ……」

「アメレさん!」

「いいの……黙ってても、仕方ないことなんだから」

アメレはこれが役目だからと言うように、真剣な顔をしてスノへと振り返る。

「スノ……スノはね、合併症が出ちゃったみたいなんだ」

「そっかぁ……合併症ですか……」

首もとまでかかったシーツを掴んだスノは、その端をくしゃりと握った。だが、その仕草も、細い腕で砂糖や重い粉袋を持ち上げていたと語った強さはない。白い指が、今は簡単な衝撃で折れてしまいそうだった。

「じゃが、安心せい。完治というわけにはいかんが、よく効く薬が今はあるんじゃ。なぁ先生」

「……ああ、あるにはある……だが、今はない」

「あるのにねぇっていうのは、どういうことだ、てめぇ!」

医者の言に、今まで黙していたテイチが、いきなり掴みかかった。その姿には驚いたが、スノのことを考えれば、当たり前のようにも感じる。

「落ち着きなさい……薬は、昨日同じ症状の人に使ってしまったんだ……予備はない」

「どういうこと……予備がないって……そんな簡単に予備なんてなくなるものなの?」

雑貨のパードでさえ、商品の欠品がないようにと、ある程度の備えは用意してあるものだ。それなのに、薬という最も必要だろうものが、備蓄切れを起こす意味が想像できなかった。

「何……じゃあその合併症ってのがいっぱい起こってて、使う人がたくさんいたから?」

「いや……合併症は、なりやすいとはいえ、そんな頻度で発生するものじゃない」

「じゃあどうして……」

だが、その投げかけた質問に、こたえてくれる者はまたしてもいなかった。そこにある空気はネネルを避けて、ものわかりがいいように渦巻いている。

「いいんですよ、ネネルくん……」

そして、こたえられるはずのないスノだけが、苦しみの隙間から言葉を返してくれた。

医者は自分が出来ることは終わったと言いたいのか、何かあったらコールしてくれと残して、出て行ってしまった。

波音と夜風と呼吸だけが支配する病室で、スノを囲むように、空いているベッドに腰掛ける。スノは囲む顔をひとつひとつ見回し、それから口を開いた。

「……とんだお誕生日会になっちゃいましたね……」

スノの声は発作が起きた直後と違い、柔らかで涼やかな風のおかげか、幾分か落ち着いたようで、はっきりと苦しみを混ぜた声ではなくなってきた。

「せっかくお姉ちゃんとネネルくんのために、はりきったのに……張り切り過ぎちゃいましたね」

「そんな……スノのケーキ、すごくおいしそうだったよ! 食べられなかったけど……」

「じゃあまた作りますから、今度は食べてネネルくんのお母さんのケーキとどっちがおいしいか教えてくださいね」

「どうして母さんのケーキと?」

「いやですねぇ。男の子はお母さんのものと他の女の子のものを、比べるものなんですよ。知りませんか?」

スノはふふふ、とシーツで口元を隠して笑ってみせる。その小さな揺れに呼応して、頭の耳が、ひょこひょこと揺れた。そうしているのを見るだけならば、眠る前、ベッドの横で絵本を読んで聞かせているだけの、幸せな景色だ。

だがスノは、普通に話したかと思うと、休憩のように、重い息を吐き、空気が重く吸うに困難と苦悶を灯し、また普通に話すという、繰り返し同じ場面を見せる影絵の玩具に囚われている。

「ねぇネネルくん……月がきれいだね」

もぞもぞとベッドの中で体を動かし、窓の方を向いたスノは独り言のように言葉を紡ぐ。

「うん……」

出来る限り、優しく頭を撫でるよう耳に届けと声を発する。

「今度ケーキを作るときは、手伝ってくれますか? もっと大きなのに挑戦しようって思うんです」

「うん、いいよ……その時はアメレさんにも手伝ってもらって、みんなが見に来るぐらいの作ろう」

ふぅっと息を吐いて、スノはわかりましたと言ったようだった。

「……あの月は、島の外にあるんですよね……海もどこかに繋がってて、その先には何があるんでしょう」

「海の向こうには、島があるよ……ここよりは大きくて人もたくさん住んでて……」

「そうなんですね……いいなぁいつか行ってみたいです……ネネルくん、その時は案内してくれますか?」

「うん、いいよ……それまでにはトラックちゃんと運転出来るようになるよ」

「楽しみです……」

そのまま消え入るようなスノの声を、ここに留めておけるようにと、希望へと道を照らす。声はスノの頬に溶けるくらい届いただろうか。

「お姉ちゃん……」「なぁに……」

アメレはスノに呼吸する暇も与えるのが怖いのか、即座にこたえてシーツから覗いている手を取る。その目は、まだ手にぬくもりがあることで安堵したように、険しさを隠した。

「私、お姉ちゃんの妹でよかったです……ありがとう」

「そんな……今……言うことじゃないよ、スノ……でも、あたしだってスノのお姉ちゃんでよかったよ」

アメレは優しくも力を込めて、手を握りかえしているようだった。力を感じてか、スノの表情が緩んでいく。

「ネネルくんにも、ありがとうです」

「え、僕も?」

「はい。お姉ちゃん以外に、同じ年くらいの人に会ったことなかったので……ネネルくんと出会えたこと、すごく嬉しかったです」

スノは嬉しかったと、既にそれを過去のものとして語っている。それに、こたえてしまったら、本当に過去のものになってしまうと思えて仕方なかった。

「本当……ネネルくんと会えたから、私の世界とネネルくんの世界がつながってるって知ることが出来ました……戻ることも、行くことも出来なかったけど……海と橋の向こうにも、世界があるんだって……ふふ、元は私だって、そこからここへ来たのに、変ですね」

「スノ……」

「……ああ、そうだ……」

スノは何かいいことを思いついたように、乾き始めている唇を薄く開いた。思いついたものが、希望であればいいと、心から願う。

「ねぇお姉ちゃん、私が死んだら、耳はネネルくんにあげてね……ほら、そうしたらお仕事で使えるでしょ?」

「うん、わかったよ……」

「耳、死っ! スノ、何言ってるの! アメレさんもなんでわかったとか言うんだよ!」

「ネネル……わしらの耳はな、命がつきると不思議なことに頭から取れるんじゃ……」

黙したまま、夜に溶けてしまうほどに静観していたラウドが口を開いた。

「そういう意味では、命として繋がっておるんじゃろうな、この耳は……それを確かめるために、同胞がぎょうさん命を落とした……知っとるもんも知らんもんも……泣いても泣けず、笑えもせん仲間がの……」

「どういう意味、なの……」

「実験したがる人もいたってことよ……死んだら取れる。じゃあ生きてる人のそれを取ったらどうなるのか……あたしたちが今知ってることは、それを知るために、たくさんの命が消えたってことなのよ……」

「それだけじゃぁないがの……ぎょうさんのもんが、海の向こうを見ながら、明日も夢見れんで逝ってしもうた……耳はわしらとつながっとるんじゃ……耳は、わしらそのもんなんじゃ」

「そんな……」

「ネネルくん、そんな耳ですけど……私の生きてた証を受け取ってくれますか?」

「そんな、こと……」

「……ふふ、ネネルくんは優しいですね……だから、私……」

スノは返事を待っていた。だが、口を割ってそのこたえは出ていかなかった。どんな言葉も伝えてしまえば真実になると思えたし、どんな希望を示しても、嘘になると思ってしまったからだ。

言葉を待つ間に、スノは疲れたのか、息をやや穏やかにして、眠りに落ちていた。

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