第12話 第三章「君の好きな場所」2

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 ネネルは自分がまとめた、初めての商談を胸に、テイチが運転するトラックの助手席で、ずっと風景に笑顔を溶かしていた。

「何だネネル。今日は朝っぱらからニヤニヤしてるな……気持ちわりぃぞ」

「笑ってるんだから、いいことがあったんだよ」

 トラックは既に橋の中程の休憩所で食事を終え、島へと向けて再び走り始めていた。テイチの問いかけにも笑顔でこたえてなお、カンパーニュサンドのおいしさを思い出して頬をほころばせるほどに、心は余裕を持っていた。

「そのいいことが何だって話だろ」

「うん、実はインスから商談もらって、契約してきたんだ」

「ほぅ、そいつは確かにいいことだな。で、どんな内容なんだ?」

 テイチは前を向いたままなので、その表情は窓に映る淡いものでしか、うかがい知ることはできない。だが、いつもは低いばかりの声が、少しだけ上向いているように聞こえた。

「何か、島にしかない花があるらしくって、それが欲しいんだって」

「花……島にしかないってことは、あの花か……ルブんとこのせがれが欲しがりそうなもんだな」

 テイチはなぜか上向いていた声をまた落として、右手の人差し指で握るハンドルの上をとんとんと、苛立ちにも似たリズムで叩き始めた。

「父さんは花について何か知ってるの?」

「まぁ少しはな……お前も色々知ったことだし、もう隠すこともねぇな」

 指を止めたテイチは、一呼吸置くと窓を少しだけ開いた。それはタバコをやめる前の癖なのだろうか……何か重要なことや長い話になるとき、テイチは必ず窓を明けて、場の空気を変えようとする。だから逆に、その動作がある時は、そういうことなのかと、少し身構えてしまうのだった。

「あの花はな、少し前までっつっても、昔話になるほど前じゃねぇが、島からの持ち出しが禁止だったもんだ」

「ど、どういうこと?」

 輸出禁止という単語を聞いた途端、インスに一杯食わされたと思ったが、話に続きがあることを信じて、問い返した。

「もう、今じゃ違うってわかってんだがな、あの花の成分が、耳が生えちまう原因なんじゃって考えられてたことがあんだ。花は元々島だけに自生してたらしいんだが……島に入ってきた人たちのせいで、あそこに咲いたって思われちまってな。運悪くワルもんにされちまうとこだったってわけだ」

「そうなんだね……インスのやつ……」

 初めから危ない橋を渡らせる気だったのかとわかると、ふつふつと心の奥底から憤りが湧いてきた。しかし、これはインスが言った通り、れっきとした商談であり、その証に握手を交わしてしまった。そして、今すぐにそれを反故にするには、理由が足りない。何せテイチの言葉通りならば、今は特に持ち出すために制限がないように受け取れる。ならば、今は憤りという負の力を、何とかしてみせるという正の力へと変えて奮起してみせる時だ。

「ねぇ父さん、その花はどうやったら手に入るの?」

「……さぁな。それはお前の商売だ。お前が自分で何とかすりゃいい。出来ないなら、お前の初めての商談がなしになるだけだ」

 テイチは目線の先にある島の入り口である、橋の終りを見つめて、厳しく言い放った。厳しいが、それは真っ当な意見であり、もしテイチを頼るというのなら、自分も身を切ってテイチからの情報を得なければならない。親子といえど、無償で協力を求めていいものと悪いものがある。

 そしてこれは、自身のためにも、親に手を引いてもらってはいけないものなのだ。自分はもう成人し、ひとりで歩き始めている……危なっかしく、傍から見ればよちよちな歩き方でも、一歩ずつ前へと進まなければならない。その道程にある痛みと考えれば、インスの商談は、丁度いいものだ。

「うん……ひとりでやってみるよ」

「ああ……」

 決意を伝えたところで、トラックは島へと入り、管理事務所の横で停止した。

「ご苦労さんテイチにネネル……ん?」

 守衛はあいさつを途中で止めるように、まじまじと見つめてきた。付け耳はきちんとつけているし、服装におかしいところもないはずだ。

「ネネル、ええ顔しとるなぁ……うん、男の顔じゃぞ」

「そ、そうかな……ありがとう」

 守衛の褒め言葉には、照れてしまった。人生の先を歩いてきた年長者に、面と向かって認められると、それだけで何かを成し遂げた気分になってしまう。

「ジィさん、褒めるのはまだはえぇぞ。帰りにも同じ顔してたら、改めて褒めてやってくれや」

「手厳しいのぉ。男は面構えが変わったときから、もう何かを成し遂げとるもんじゃ。何かは知らんが、しっかりな、ネネル。本懐を遂げてくるんじゃぞ」

「はい!」

「いい返事だな。行くぞ……またな、ジィさん」

 トラックは動きだし、舗装された橋から未舗装の道を渡り、石畳の道へと走り抜ける。商店の並ぶ道を行き交う人々の様子は、絵本の挿絵を見るように変わり映えせず、ゼンマイ仕掛けで緩やかに流れている。その様を見ていると、本当に絵本のおとぎ話の世界に迷い込んでいるような奇妙な感覚に襲われる。だが、ここは現実で息をしている人が住まう場所なのだ。

 息づいている島なのだ。

「街並みとかで、余計そう思っちゃうんだろうなぁ……」

「何か言ったかネネル。着いたぞ準備しろ」

 テイチは言い残すと、ネネルの準備を待たずして、トラックから降り、荷台へと向かった。手元には言わずも納品書の本書が置いてあり、それをアメレへと届ける間に、テイチは荷台から今日納入される品物を下ろし、帰ってきたところで、倉庫にそれらを搬入するという作業の流れが出来上がっていた。

「アメレさんに聞けるとしたら、搬入が終わった後かなぁ……」

 軽い挨拶を交え、納品書をアメレに渡し終え、裏へと戻りながら、今後の算段を空に浮かべて考えていた。トラックまで戻ると、目の前には商品の山が出来ている。週に一度の納品で、毎回同程度の搬入があるということは、雑貨のパードはそれなりに盛況であるということだ。

 これもまた、ここがおとぎの国ではない証拠――物証だ。

「そういえば、雑貨屋ってここしかないんだっけ」

 専売というなら、島の住民全てがここで商品を買うことになる。それならば、毎週搬入する商品が山であっても頷けることだ。

「でも、僕らが来てるときって、ほとんどお客さん来ないんだけどなぁ……」

 その理由は何なのだろうと思案を巡らせながら、一つ目の木箱を両手にした。

「なぁに、難しい顔しちゃって」

「うわっ! アメレさんいつの間にっ!」

「あんたの監督よ監督。慣れてきた頃だし、ここいらが一番タルむってもんだから、厳しく初心を教え込まないとねぇ」

「嬉しいご配慮だけど、店のほうはいいの?」

「大丈夫。ラウドさんとテイチさんが見ててくれるから、あたしは心置きなくネネルを指導できるってもんよ」

 アメレは組んでいた腕をほどいて、手に手をかぶせて、指を鳴らし威嚇するような真似をしてみせる。さすがにテイチのように指はボキボキと鳴りはしないが、その仕草はげんこつの破壊力を詳細に呼び覚まし、背筋が冷たくなるものだった。

「うう、指導されないように頑張ります……」

「わかったら、さっさとちゃっちゃと運んじゃいな。きりきりはきはき働く!」

 アメレの剣幕は、とても質問をぶつける状態ではなかった。とりあえずその近道は、この荷物を倉庫へと片付けることだと、ネネルは無言でトラックとの往復をこなしていく。

「あら、やけに今日は従順じゃない。仕事早いのはいいけど、指導しがいがないのも寂しいもんねぇ。ほらネネル、頭が寂しがってない?」

「寂しくないよ! それに、今日はもうこれで終りだから」

 最後の商品を倉庫に入れ終り、かかった時間は先週の半分以下だった。

 慣れれば手際よくできる、これからどれだけその効率をあげてやろうかと、ネネルは前向きに考える。それがこれから行おうとすることの景気づけになる気がしたのだ。

「ふぅ……あ、仕事とりあえず終わったから、ちょっと教えて欲しいことあるんだけど、聞いていい?」

「スノの胸の大きさなんかは、土下座して聞いてきても教えてやんないわよ」

「ち、違うよ! そ、そういうんじゃなくって、花のこと教えて欲しいんだ」

「花? 何、花屋でもはじめるのに、仕入れ先が知りたいとか?」

 当たらずも遠からずのアメレの話に、これはすんなりと進むかもしれないと、搬入で疲れた体から、少しだけ重さが取れた。

「そうじゃないんだけど、この島にしかない花って知ってる? それを欲しがってる人がいて、手に入れたいんだけど」

「花……この島にしかない……あぁ……あれのことね」

「知ってるの、アメレさん!」

「おっとと、そうがっつかないの、ネネル」

 思わず飛びかかりそうになる体を手の平で静止される。止めておいてアメレはもう片方の手をあご先に当てて、頭の中で計算をメモ帳に繰り返しているように、きょろきょろと視線が定まらない。二度三度ゆっくりと呼吸をしている間続いていた算段も、計算が終了したのか、メモ用紙がなくなったのか、アメレはゆっくりと視線を絡ませてきた。しかし表情がいつもとは違い、明らかに何かを企んでいる顔だった。それには、げんこつをもらうよりも遙かに嫌な予感しか想起されず、無言で身構えた。

「ねぇネネル君は、どうしてお花が欲しいのかなぁ?」

「くんって……なんか気持ち悪いなぁ……」

「まぁまぁそう言わずに、おねーさんに色々言ってごらんな」

 このくねくねとしたアメレの申し出に、はいそうですかと乗ってしまっていいものかと、思考が迷路に入り巡り続ける。だが、頼れるのもアメレだけだというのが現実だった。逡巡を飲み込み、ネネルは意を決した。

「う、うん……僕の初めての商談なんだ……この島にだけ自生してるっていう花をとってくるのが」

「ほほぅ、商談とな……」

 どこか話し方までおかしくなってしまっているアメレは、商談と聞いて大きな目を光らせた。

「それで、ネネルは花の情報が欲しいのねぇ……なるほど、商談か……」

「……アメレさんは、花のこと知ってるの?」

「もちろん……あたしが知らないことなんてないわけよ」

 この先は、口を開けて待っている猛獣に素手でエサを与えるようなものかもしれない。それでも、手がかりはこれ以外にない。商談を成立させるために、別の約束や交換条件を飲むことも、また普通である。ならば進むしかない。

「じゃあ、その……花のこと教えて欲しいんだけど……」

「……それはネネルが自分の商談を成立させるために、あたしに情報提供を申し出たってことだよねぇ」

「う……うん……そうです」

 改めて問われこたえて、しまったと思っても遅かった。アメレの狙いは、まさにこれだったのだ。まんまとエサを握って差し出した腕を、がぶりとやられてしまった。

「じゃあ、その情報を提供する代わりに、何かあたしにも利をくれるってことだよねぇ?」

 再度問い返さずとも、そういうことだと嫌になるほど教授された。これがアメレの言う指導ならば賞賛を送るが、あの表情ではそこまでの深い考えは頭のメモ用紙には刻まれていないだろう。

「よし、じゃあ成立だね。ほらネネル、握手握手」

「うん……」

 アメレはなぜか満面の笑みを浮かべて、手を差し伸べてくる。平素乱暴な物腰と、おおざっぱでさっぱりとした性格から、真逆の笑顔に魅せられて、その手をとったが最後、どんな難題が待っているかと想像しがたい。だが、インスからの依頼を全うし、花を持ち帰るには、現状アメレから情報を得る以外にない。今はこれが最良で、これもまた経験なのだ……そう言い聞かせ、アメレの妙に女性らしい手を取った。

「よしよし、いい子だねネネル……」

 だがその笑顔も、続くのはこの瞬間までだった。

「さてと……じゃあまずは……定番の草むしりでもしてもらおうかねぇ」

「く、草むしり?」

 何か言った? とでも言いたげな顔で、アメレは早々と倉庫を出て行く。このまま放っておけばあるいは、などと思ったが、にらみ顔でさっさと出てこいと圧迫感をもらってしまった。

「ええと、どこの草むしりしたらいいの?」

 日差しはまだ天近くから注いで、秋晴れが容赦なく肌を刺す。せめて日陰の湿った部分の草むしりであればいいと思うのだが、当然甘い想像だった。アメレは陽の当たる倉庫脇に広がる草むらをびしりと指差していた。当たり前である。日が当たるからこそ草もうっそうと伸びるのだ。

「ここいら一帯綺麗にしといてね。むしった草は、あの前に集めておいて。終わったら表に来なさいね、ぬふふ~♪」

 そう容赦のない説明と含んだ笑顔だけを置いて、さっさと歩いて行く。数歩行ったところで、思い出したかのように立ち止まって振り返った。

「あたしが見てないからって、サボんじゃないわよ! サボったり、あたしが納得できないデキだったら情報なしだからねっ」

 返答は必要ないのだろう。アメレは自分の言いたいことを告げ終わると、さっさと店の方へと行ってしまった。

 残されたのは、ぼうぼうと自由奔放に生え育った大小背丈のばらついた雑草たち。それが申し訳程度に吹いてくるそよ風に揺れている。中には小さくて可憐な花をつけているものもあるが、今はその美しさに心休めたり、命を奪うことに躊躇している場合ではない。無心で抜いて抜いて更地のように整えなければならない。

 ネネルは、大きくため息一つで、諦めを全てはき出して、作業にはいった。

「くぅ、これは結構……疲れる……」

 草たちは抜かれないための努力か、それでも抜かれてしまう復讐なのか、丁度立っては抜けない長さであり、中腰やしゃがんでの作業の連続で体は悲鳴を上げ続ける。それでも無心でいようと黙々と抜き続けていたら、終りが見えてきた。広大なルブ家の庭というなら、半日はおろか、一日作業を続けても終りは来ないだろう。しかし、ここは広いと感じても、店の裏庭である。小動物の額程度と言ってもさしつかえはない。間口が狭く、奥に長い構造で長方形の敷地を小さく逆コの字にすくい取ったようなのが、この場所だ。少しあがけば、ひとりでも必ず終りが来る。

「……うん、終わった……かな」

 更地とまでは言えないが、抜いた草はアメレが指示した場所に山積みになっていた。ナナに実家の庭掃除を命じられても、これならいいわよと言ってもらえる程度にはなっていると実感がある。風に草が揺れて、そのかすれが生む涼しげな音はなくなったが、改めて吹き込む風は素直さを持って、空に溶けるようになった。

 完成を満足に見届け、汗を袖で簡単に拭うと、その足で表へと回る。アメレからの条件がこれひとつで終わるわけがないという、嫌な予感が働いたからだ。

 案の定、表に回ると、入り口にアメレが立っていた。

「遅い! あのくらい、半分の時間でやんなさい、もうこれだからネネルはっ」

「う、ごめん……」

「んじゃ次ね、次行くわよ!」

「やっぱりかぁ……」

 何か言った? と、また睨まれた気がする。予想していたとはいえ、的中してこれほど落胆するものはなかった。傘を忘れた日の雨ほど嫌なものだ。

「次はネネル君が大好きなお掃除ですよー」

「僕、好きなんて言ったことないけど……」

「ばかねぇ。あんたみたいな男の子は掃除が得意って決まってるの。本に書いてたし」

「どんな本だよぉ……」

 しおれてみても、アメレが掃除を取り下げる気配はない。ご丁寧に店のドアを開けて招き入れるように待っているということは、アメレが望む掃除というのは、店内のことなのだろう。草むしりと同じ肉体労働といえど、店内清掃であれば、幾分かは楽だろう……そう思っていた。

「うぐ……」

「ほら、ちゃっちゃと棚にはたきかけて、床を磨く!」

 店内には、ラウドもテイチもいるのだが、呑気にお茶をすすり、談話していて、こちらのことには関せずという姿勢を保っている。口出しがないのなら、アメレからの仕打ちは全てテイチの了解の元であることになる。確かに店内清掃程度は、取引のおまけ範囲でしてもいいものだろう。何せ雑貨のパードは島唯一のお得意様でもあるのだ。しかしながら、アメレの監督と監視と叱咤がすぐ傍らにあり続ける作業というのは、心的な重圧も相当だった。

「はふ……」

「はいはい、変な溜息ついてる間には、モップを動かしなさい。いつまでたっても終わんないわよ」

「わかってるよ……」

 はたきをかけ、床にモップをかけていると、まじまじと棚を見る機会が出来る。そこで気づくのは、棚に対しての品物量だった。店内は、お世辞にも広いとはいえないものだが、人ひとりが通るに適した通路を取って、窓を除くと棚ばかりなんじゃないかと思わせる。だが、きちんと分類されて陳列された商品は見やすく選びやすく、買う人を意識した陳列だった。草むしりと清掃という疲労で体は、各所動きが鈍く、少し休ませろという催促をし続けてきている。だが、こうして陳列を改めて見直す機会を得たというのは、アメレに感謝してもいいものだった。

「お、終わった……」

「はい、ご苦労さん……」

 さすがにもうこれで終りであり、次はないだろうと信じた。しかし、無情にもアメレは言葉を切ることなく、次の言葉を発するために息を吸い込んでいる。

「んじゃ次は……ああ、そうだ。今日は重労働があるって言ってたから、スノの手伝いでもしてもらおうかな」

「重労働だったら、何で僕なの!」

「男の子でしょ、文句言わない! 情報あげないわよっ! それにスノのお手伝いしたいって思わないわけ!」

 勝手な時だけきちんとした男扱いをするのは、女の特権だとかインスが独り言のようにつぶやいていたことを思い出す。まさかそれを目の当たりに体験するとは、思いもよらなかった。だが、言われてみると、反論は出来ない言葉でもあるので、やるせない。

「うぐ、じゃあスノのとこに行くね……」

「素直にそうしてればいいのよ……あ、ネネル」

 表に出ようとした足を止められてしまった。これ以上に何かを付け加えられては、さすがに譲歩の交渉にでなければならないだろう。

 だが、アメレは止まったままで、指を自身の背後に向けて差していた。

「こっちからのが近いから、そこのドア抜けて、中通って行きなって、ネネル任せじゃわかんないわね……ついてきて」

 自分で言い始めて、言い終えたアメレは、ラウドたちが談話する横を抜けて、カウンター奥のドアへと消えた。慌ててその後を追う。

「ほほ、ネネルは尻に敷かれるタイプじゃなぁ。誰かさんとそっくりじゃ」

「ほっとけよ……ネネル、今日は大目にみてやるから、自分のことをしっかりやれ」

 そう二人からもらった激励に、無言で頷き返すと、言葉に背を押されたように、ドアに入った。

「こっちだよ、ネネル」

 ドアを一枚抜けたそこは、前に想像した通り、居住部分になっていた。居住部分は商店特有の整った感覚とは別に、綺麗に整理整頓されているにも関わらず、そこかしこから、生活の匂いがしている。だが、大きな家具や調度品は質素で簡素で、飾り気などはなく、実用性を重視したような……どこか味気ないものだった。一見それは普段の服装から推測してアメレの趣味なのかとも思う。また、同居しているスノならばもっとかわいらしい、言うなればスノがしているエプロンのようにレースやフリルの装飾が施されたようなものを選ぶだろうとも思う。

 結果、至る所をじろじろと見ることになり、それでもこたえは思いつかなかった。

「こら、あんまり女の子が住んでるとこをじろじろ見ないの。こっちから、スノの店の厨房につながってるから」

 アメレは西日がくすぐったいというほどに、わずかに頬を染めていたが、厨房に繋がるというドアをさっさと開けて、その中へと逃げるように体を滑り込ませた。

「ったく、ネネルは油断も隙もあったもんじゃないんだから……スノにも言っとかないと」

「酷い言いがかりだ……確かにちょっと見ちゃってたけどさ……」

「あれ、お姉ちゃんにネネルくん……どうしたの?」

 アメレに干されている最中、エプロンをはためかせ、頭に三角巾をつけたスノが厨房から顔を覗けた。

「スノ、今日は重労働があるって言ってたじゃない。だからそれを代わりにやってくれるやつを連れてきたってわけ」

「それがネネルくんなの?」

「そうそう。ネネルは今日一日あたしの下僕だから、好きにつかっていいわよ」

「ちょっと、僕はアメレさんの下僕になった覚えはないよっ!」

 さすがの扱いに少し反論してみた。だが、アメレは驚く風も臆することもなく、薄い桃色の唇をにぃっと横へ開いた。

「あれあれ、スノの前だと元気になっちゃって……いいとこ見せたいのはわかるけど、約束忘れたわけじゃないでしょ? あんたも商人の端くれなら、このくらいの扱いは飲み込んでガンバんなさい」

「く……正論すぎて、何も言えない……」

「てわけだから、スノ。何でも言いつけな。あたしもネネルがサボんないように、ここで見張っててあげるから」

「え……でもネネルくん、いいんですか?」

「うん……頑張るから、何でも言って」

 スノは事情が飲み込めず、困り顔のままだが、その不安を煽るようなことはせず、ただ受け入れるという態度を見せると、やがて笑顔になった。

「じゃあお願いしちゃいますね。今日はクッキーの仕込みなんですけど、たくさん作るので、粉と砂糖とバターをミキサーに入れるのが大変で……」

 たくさん作るという部分に、喉が鳴った。家でナナが作るクッキーとは、その量が違うのだろう。およそ、片手で粉類を計量している姿が想像できない。それはすなわち、本日三回目の肉体労働を意味する。

「えっと、その粉と砂糖はどこに……」

「何言ってんのよ、目の前にあるじゃない」

 スノに聞いたはずなのに、こたえはアメレから返ってきた。そのアメレは指を下に向け、スノはその様を見て、苦笑いしている。そうまでしなければいけないものなのかと、アメレの指を額に汗を走らせながら追う。

 指が指し示し、追う視線が行き着く先には、小麦粉の入った大きな袋と、砂糖の入った大きな袋が置いてあった。大きな大きなと重ね、業務用とは言ったもので、家庭用の包装とはわけが違う。ナナに行ってらっしゃいと、おつかいに出されて、手籠に買って帰った小麦粉の袋を20ほど詰め込んだような大きさだ。それだけで重さは想像出来るものだし、それがスノにとっては重労働であることもわかる。おまけに砂糖まで家庭用の十倍はあるような袋である。

「ええと、これをあのミキサーに入れればいいの?」

「はい、そうですよ。重いですけど頑張ってくださいね」

「うん……あ、どのくらい入れればいいの?」

「全部です」

「ぜ、全部なの……」

 ごくりと大きく喉が鳴った。重労働という意味は、小麦粉や砂糖の袋を移動させるだけでなく、このミキサーに投入することを含めていうのだと、やっと理解した。

「どうネネル。いつもはスノがひとりでそれ全部やって、まだ他のケーキとかも作ってるんだぞ。偉いだろ!」

 何も自分の手柄ではないはずだが、アメレはここぞとスノ……妹自慢をしてみせる。

「はいはい……いばりんぼのアメレさんと違って、スノは偉いよ」

 語尾は出来るだけしぼってこそこそとこぼして、ネネルは膝をついた。

「まずはこのバターと……んしょ。ミキサーのスイッチをいれてっと……バターが柔らかくなったら、砂糖を混ぜますから、ネネルくん、合図したら砂糖から入れてね」

 説明しながらだが、スノがミキサーに投入したバターも結構な量であり、重さもそれなりにあるはずだ。砂糖の紙袋の封を切る間に、大きなミキサーはバターをこね終えていた。

「じゃあ、少しずつ、私がいったら入れてくださいね……はい」

 スノの合図を受けて、ネネルはさらさらと砂糖を投入していく。巨大な三本の鉄の爪がバターと砂糖を撹拌し、ふわふわとしたものへと練り上げていく。

「ん、もういいですね……じゃあ小麦粉ですよ」

 いよいよかと、ネネルは腰に力を込め、見るからに重い小麦粉の封を切り、持ち上げる。それなりに鍛えたはずの筋肉が、何か言葉にならない声で叫んでいるようだった。さらに、ミキサーに入れるという行為は繊細さを伴う手元での作業だ。それが余計に余分な力を全身にはびこらせ、筋肉を震えさせる。

「ほ、ホントにスノは偉いね……ぎゃんぎゃん言ってるだけの誰かさんと大違い、だ……ね……」

「誰かさんって誰かなぁネネル君? 余計なこと言ってないで、さっさと入れなさい。それで終りじゃないんだかんねっ!」

 アメレはげんこつのかわりに、小麦粉を入れ終り、気が抜けた尻を盛大に叩いてきた。

「わかったよもう……」

「はい、ありがとうございます……もう、お姉ちゃんは乱暴なんだから……」

「いいのよ、少々叩いたくらいで壊れるネネルじゃないんだから」

 けなしているのか、体の強さを褒められているのか、理解困難な表現だ。

「ネネルくん、じゃあ、お言葉に甘えて、すぐに混ぜあがるので、生地をあちらに運んでくれます? 実はこれが一番大変なの」

「う、うん……」

 喉が鳴った。今ミキサでまわっていたものは、当然ながら今までに投入した全てのものが混ぜ合わさったものだ。こんな簡単な算数を間違えようがないが、既に微少なけいれんを始めている両腕は、それを間違えと指令を送ってくる。

「今、爪を外しますから、その……銀色の部分が丸ごと外れちゃうので、それごとお願いしますね……」

「わ、わかったよ……」

 ネネルは覚悟を決めて、ここはアメレが言うように、スノにいいところを見せようと思うことしにした。そうでもしないと、全身の筋肉が指令に反しそうだったからだ。

「んくっ、んんっ…んしょっ!」

 本当にスノは普段、自分一人でこの作業をこなしているのかという重量だった。スノが示した作業場の平たい板までわずか数歩であるのに、この気合いが必要だった。

 もしかしたら、げんこつをもらって、真に恐怖すべきはスノなのかもしれない。

「わぁ、さすが男の子です! ありがとうございますっ」

「ん、んん……これくらい!」

 スノの丁寧なお辞儀を伴うお礼とお願いは、受けていて清々しい。何一つ交換条件などなくとも、自ら進んで手伝いをしたくなる。たとえ全身が否定しようとも、意識だけはスノの味方だ。

「そんなかしこまらなくてもいいのいいの。便利につかいな」

 そして、この物言いであるのがアメレだった。もう、ここまで言われるのであれば、満足するまで、付き合ってやるという気概が生まれてくる。ただし、肉体からの反論は聞かない事にした場合に限定される。

「お姉ちゃんっ!」

 だが、アメレの声も芽生え始めた気概も一撃で打ち砕くような声が、スノからあがった。

 これには、アメレもびくりと体を揺らし、頭の耳を垂らす。

「ど、どうしたのよスノ……」

「どうしたのじゃないでしょ。私はお姉ちゃんとネネルくんの間に、どんな事情があるかわからないけど、もう許してあげてもいいんじゃない? お姉ちゃんのことだから、私のことの他にもこんな風に、いっぱい色々させたんでしょ?」

「そ、そんなことないよ?」

「本当ですか、ネネルくん?」

「あ、え、と……」

 素直にスノの質問にこたえてしまいたいが、スノはこちらに視線を向けているため、その傍らにいて、頭の耳を精一杯に尖らせ、毛を逆立たせて、大きくかわいげも垣間見えた目を鋭角が二つある三角形のようにして睨んでいるアメレの形相には気づいていない。

「はっきり言ってくださいネネルくん。お姉ちゃんに何をやらされたんですか?」

「……あの……」

 形相からは、俯くことで、視線を外した。

「裏庭の草むしりと店の掃除……かな」

「やっぱり! 疲れるようなことばっかりやらせてるじゃない。しかも裏庭の草むしりは私がお姉ちゃんに頼んだことでしょ!」

 スノは勝手な想像から、あまり感情を表にせず、いつも礼儀正しく物静かなものだと思っていた。だが、こういう姿を見れば、近所で評判の似たもの姉妹だと言われることが、おぼろだがわかるような気がした。

「だってぇ……ネネルとの交換条件だから、いいかなぁって……」

 感心していたところに、アメレの言い訳が始まっていた。アメレは姉であるが、今は立場が逆転している。睨んできていたアメレの形相と今スノに説教されている姿は、とても同一人物と思えない。その姿に、この場で浮かんできてはいけないものがふつふつとこみ上げてきてしまった。

「ぷ……あはは、ははっ」

 ただ咳き込んだだけかと思っていた呼吸は、乱れたまま、笑いとなって、こぼれていた。

「何がおもしろいのよ、ネネルのくせにっ!」

「あがっ!」

 振り上げたげんこつは、唖然とするスノの声よりも早く、ためらいなど微塵もなく脳天へと降り注いできた。これまでの指導という名目だったものとは、比べものにならないくらいの破壊力だった。

「お姉ちゃん! ね、ネネルくん大丈夫ですか?」

 足下にまで響いた衝撃で、膝を揺らしてしまい、慌てたスノに駆け寄られた。この程度でと、こたえて見せたいが、アメレの渾身から繰り出されたげんこつの威力は強がりさえも許さなかった。

「もう……お姉ちゃんは乱暴なんだから……これだけしちゃったんだから、もうネネルくんを許してあげて……」

「うぐぐ……まだまだ利用価値があるって思ってたのになぁ……まったく仕方ないねぇ……ネネル、スノに感謝しなよ……はい」

 アメレは頭をかきながら、手を差し伸べてきた。それは約束を交わした時と同じくして、違う意味を持っているようだ。まだ少しくらむ視界を進み、アメレの手をゆっくりと取ると、その瞬間に痛いぐらいの力がこめられた。

「はい、これで交換条件終り! あんたのお望み通り、花のこと教えてあげるわ」

 苦節と冠をつけるほどに長い時間ではないが、アメレの言いなりと化して三つの仕事を終えたのだ。この先には初商談をまとめられる足がかりになる情報提供が待っている。

「ありがとうアメレさん! スノもありがとう!」

 アメレと握手したまま、傍らのスノの手もとって、喜びをあらわにした。

「あ……ネネルくん……」

 スノも笑顔で答えてくれるかと思ったのだが、そこにあったのは柔和な笑顔ではなく、少し頬を赤らめた姿だった。

「だから、調子に乗るなってのっ!」

 握手を切ったアメレは振りかぶり、一呼吸つくこともなく、げんこつを落とそうという体勢になった。一日に何回げんこつを落とされたのだとベッドで夢見る前に数えたくない一心で、ネネルは手を切って、二人からぴょんと一歩下がり、距離を取った。

「ったく……油断も隙もないんだから。ほら、ぼやっとしてないで、行くよ」

「行くってどこへ?」

「あたしの店に戻るの。そこで花の話してあげるから。スノも一緒に来る?」

「あ……うん、私は後で行くから……ほ、ほら生地をこのままにしておけないしね!」

 溜息をつくように大人しくなったり、花開くように勢い付けて話してみたりと、スノは忙しい。

「そっか、んじゃ先に行ってるね。ほらネネルおいで」

 一方アメレは変わることなく振り向くと、我が道たる住居を渡り、来た道を逆さに進み、店へと帰ってきた。

「うまくいったんか?」

 何かをテイチに聞き及んでいたのだろう、帰り着いた雑貨のパードで、ラウドにそう聞かれた。

「んー、ええと……」

「まぁまぁね、まだまだだけど。テイチさん、時間まだいいですよね?」

 それに答えたのはなぜかアメレであり、続けざまにテイチへと質問を飛ばした。テイチは傾きかけた日を窓から眺め、思案すると口を開いた。

「まぁいいだろう……あまりのんびりもするなよ、ネネル」

「うん……」

 なぜアメレがテイチに時間を聞いたのかわからぬまま、励まされてしまった。これでは辻褄の合わないすごろくでもしている気分だ。関知していないのに、サイコロの出た目が足し算されているような、心地悪さがある。

「さてと、んじゃ花のこと教えたげるわね」

「待ってました……」

 その後につけたくなった、溜息は何とかこらえて飲み込んだ。これから始まるのは希望ある会話なのであって、溜息などは無用の長物でしかない。

「その前に、まずはあたしから花についての注意事項を教授してあげましょう。花のいわれくらいは知ってるだろうから省くけど、まず不思議なことに、あの花はそのままこの島から出すと、五分で枯れるわ。ちなみにその理由とかをあたしに聞いても無駄よ」

「えぇええっ! 僕そんなこと何も知らないよ!」ネネルはいわれも何も、この島でだけ自生していると言う事しか知らない。「そ、そんな……じゃあどうやって持って帰れば……」

「焦らないの。そのために花専用のケースってのが開発されてるわけよ。嫌な理由さえなくなれば、綺麗な花だからね。持ち帰りたくて使う人もいるだろうと思って作られたんだろうけど……まぁ残念だけど、そういう開発した人の願いってのは叶わなかったけど」

 アメレは仕方ないねと表情で付け加えると、足を店の隅にある棚へと向け、そこから大きな透明のケースを取り出した。ケースを抱いて戻るアメレは、薄く積もった埃を払いながら、差し出してくる。

「……何か古そうなんだけど、大丈夫なの? 売れ残りの匂いがぷんぷんですが……」

「し、失礼ねっ! そんなハズないでしょ。まったくネネルは……」

「そいつはの、アメレが店主になって初めて発注したんじゃが、それ以来ずっと売れてねぇもんなんじゃ」

 ラウドの笑い混じりの説明に、持論が裏付けされた。同時に、アメレでもそんな失敗を経験してきて、今があるのかと、妙な親近感が湧いてきた。

「……ま、まぁいいのよ。今日これも売れるわけだから」

「え? 何で売れるの……」

「これだからネネルは……ほら、考えてみなさいよ。あんたは花が欲しい。けれど、花を島の外へ持ち出すには、ケースが必要。そして目の前にはそのケースがある」

「くれるの?」「売るの」「誰に?」「ネネルに」

 そんな短い言葉の応酬が続く。

「ちょっと、じゃあ売れるって、僕がこれを買うっていうことなの?」

「当たり前でしょ! それがないと、花が枯れちゃうって言ってるでしょうが!」

「ラウドさん、それ本当なの?」

「うむ、こればっかりは嘘じゃねぇがな。不思議な花じゃ……土に混じる養分が必要なんか、そこから出るもんが空気に混じることが大事なんか、ワシにはわからん」

 ラウドはため息混じりで説明してくれた。じりっとアメレを見つめる。

「ちょっと、あたしが嘘ついて押し売りみたいなことするっていうの!」

「現に、売れ残りを僕に売りつける気じゃないか! だったら、それを僕が買うってだけで、情報との交換条件には十分だったのに、草むしりや店の掃除までさせて!」

「細かいことを、男がいつまでもぐちゃぐちゃ言うんじゃないのっ! それにスノの手伝いは進んでやりますって顔してたじゃない、この八方美人!」

「ス、スノの手伝いは……別に……」

 言い合いの最中、スノの笑顔が浮かんできて、アメレの怒りは収っていないようだが、ネネルは心が和んでしまった。

「どうしたんですか? 賑やかですけど……」

 そこへ、遅れて来ると言ったスノが、カウンター裏のドアから、顔を覗けていた。

「またお姉ちゃんがネネルくんいじめてるの?」

「ち、違うわよ。どっちかって言うと、いじめられてるの!」

 どちらにせよ、正しくはないのかもしれない。しかし、スノが来てくれたおかげで、場の収拾がつきそうだった。売れ残りを買うのは忍びないが、そのケースがないと花が持ち出せないというのは事実らしい。ならばそれを買うしかないが、ここでインスの言ったことが脳裏を走った。

「必要経費は、僕持ち……インスのやつ、本当はケースがいること知ってたな……」

 はめられたとも思う。だが、それはインスの知識が勝っていて、交渉の腕が上だったということだ。騙されたと思うよりも、そう考えさせられることのほうが、悔しかった。

「じゃあ、そのケース買うよ……ちゃんと花の場所まで連れて行ってよね、アメレさん」

「はいはい、お買い上げありがとうございます。もちろん花のとこまで、あたしが連れてってあげるわよ。スノも来るでしょ?」

 スノはそれに頷くだけで返した。ケースの代金は、花の命を長らえるための機能を備えているというだけあって、それなりの出費となった。何としても、ほんの少しだけでもケースの値段よりも高くは、商人の誇りとして、インスに花を買わせてやるという心意気がネネルの中にたぎる。

「話がついたんなら、さっさと行ってこいネネル。いつまでもアメレやスノに迷惑かけるんじゃねぇぞ。それに帰る時間が過ぎちまうしな……ナナの晩飯に間に合わなくなっぞ」

「うん、わかったよ父さん。アメレさん、案内お願い」

「はいよ、じゃあ行ってきます。あとよろしくお願いしますね」

 店に残るテイチとラウドに送られ、こうして花までの道程、アメレを先頭にスノと伴っての、三人の短い旅が始まった。

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