第10話 第二章「島という場所」6

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 考えに囚われたネネルの心は、常に霧の中にあるようだった。

空が澄み渡り、豊漁の魚群を思わせる雲がたなびいていても、すっきりとした面持ちになることはなかった。方々へ仕事で出かけても、淡々と言われた事をこなすだけで、気がついたら、また島へと訪れる日になっていた。

 当然、こたえらしきものは何もない。休憩所で食べたカンパーニュサンドの味も、今日ばかりは、まったくわからなかった。ナナの愛情も遠くしているという罪悪感が重く背中にのしかかり、胃を締め付けた。

 ただひとつ胸に新たあるとすれば、ナナから教えてもらった折り紙の折り方だけだった。

「……今日の風、ちょっと冷たいね」

「そうだな。本格的に秋が近いってこった……ここいらの冬はそれほど厳しくはねぇから、外套みたいな本格的な防寒着はなかなか売れねぇ。が、秋から冬にかけては、ちょっとした羽織モノなんかもよく出るようになる。覚えとけよ」

「うん……」

 少しだけ開いた車窓から吹き込む、海で冷やされた風は、頬を撫でるだけでなく、あたたかい何かまでどこかへ奪っていきそうで、テイチの役立つ話も、上の空だった。

「おぅ、ネネル元気にしとったか?」

「はい、おかげさまで。守衛さんも元気そうでなによりですよ」

 橋の端で、あいさつを交わしても、それに過去二度のような心はこもっていなかったように思える。ただ、過ぎて行くもの……風が吹くと、草原の草が揺れるというような、ごく当たり前の現象としてだけ過ぎてしまった。

 テイチも、そんな変化には気づいていただろう。だが、あえて何も言わないように、平生を保ってくれている。その態度に、少しは助けてくれてもいいじゃないかと憤る瞬間もあったが、テイチのやりようは自分で学ぶという筋道だと思えば、自責して俯くしかなかった。

「……何がよくて、何が悪いのか……どうしたらよくなるのか、わかんないや」

「何か言ったか?」

 いつの間に到着してしまったのか、気がついたら、景色は雑貨のパードの裏道だった。

「ううん、何でもないよ。じゃあ僕は裏で荷物運びするね……」

 独り言は、トラックの制動音にかき消され、テイチには届かなかったようだ。だが、それでいい。このこたえは、自問して悩みを重ね、時間をかけて向かうべきものなのだと、自分に言い聞かせ、その考えでふらふらと弱った心をたき付け、うきあがったところで無理やりに縛り付けて、しっかりと固定させた。

「んしょっと……」

 納品書の写しを片手に、トラックの荷台から納入する品物を拾い上げていく。荷台と地面の往復は、想像以上に酷なもので、さすがに、それ以外のことを考える余裕がない。さらに続くのは、裏倉庫への搬入であり、この仕事が一段落つくまでは、心を空に出来そうだった。

 しかし仕事は、ひとつひとつでもこなしていれば、やがて終わりが来る。それを惜しむよう額に出た汗が前髪を張り付かせ、うつむけば、倉庫の床に汗の黒い染みができる。

「……座ろ……」

 以前、アメレが腰掛けていた逆さの空箱へと、腰が吸い寄せられた。手が箱に触れた瞬間に膝は折れて、臀部は小さな座面を埋める。背もたれなどは当然ないが、安楽椅子に抱かれるほど深く眠るように腰掛け、天井を見上げる。見える単純な木目模様の繰り返しに満足して、息を大きく吸い込み、止めてまた大きく吐きながら、体をくの字に折りたたんで、一転床を見つめる。

「……ふぅ……」

 出てくるのは、疲れ特有の深呼吸だった。静かな瞬間に訪れるのは、やはり疑問に対するこたえを求める思考だった。

 だが、こたえは出ることもなく、深く息をつくだけの繰り返しだった。

「なぁに、暗いとこでじめじめと、きのこかあんたは……終わったんなら、お茶でも飲みに表に来なさいよ」

 何度目かの息をつき、顔をあげたら、そこにはアメレが腕組みをして立っていた。入り口の逆光を背にして、顔は笑っているのか、平静なのか、よくわからない。

「ったく……返事くらいしなさい」

「うん、ごめん……」

「何よ、元気ないなぁ……なんかあったの? ネネルの事だから、どうせツマんないことで、イジけてるんでしょ?」

「ツマんなくなんて……ないよ」

 つまらないはずがない。こたえがないほどに、重要なことだからきっと悩んでいるのだ。

「まぁ困った事ねぇ~。じゃあ、ここはひとつ、おねーさんが相談に乗ってあげようじゃないの」

 アメレは腕組みをとくと、どんと胸を叩き、傍にしゃがんできた。陽のあまり当たらない場所特有の匂いを割って、アメレの持つからりとした夏の日差しのさわやかな香りが身を包む。

「相談……していいのかな」

「だから、していいって言ってるでしょ! 少しは信じなさい」

 強く優しく言葉にしたアメレは目を丸くして、見つめてくる。

「アメレさん……こんな優しそうな顔も出来るんだね……」

「んっ?」

 言うことを間違えたのか、途端に目尻がつり上がり、口元までが歪んだ。

「ごめんなさい……」

「大人しく相談してみる気になった?」

「はい……相談させてもらいます……」

 しぶしぶだった。抱えているものを、アメレに話していいものか――前にアメレは何でもないと、風邪ぐらいにケモノ耳のことを言っていた。けれど、それを駄菓子のくじを選ぶ子どもの顔のまま鵜呑みにしていいかはわからないのだ。

「病気の……ことなんだ」

「ネネルどっか悪いの? 頭……は、このアメレさんにも治しようがないわよ?」

「ち、ちがうよっ! 僕は頭悪くないよっ!」

 元気が出たわけじゃないが、アメレの話は少しだけずれていて、なぜか自分の本当が出ていくような気になる。

「病気……アメレさんたちの病気のことだよ……島のこととか」

「なぁんだ、またそれか……」

 前は何も知らなかった。だが今は、インスから知識を得て、それが世界からどう思われているかという片鱗を知った。

「……なるほど……前とは少し違うことを知ってきたって顔ね」

「うん……ラウドさんにも言われたでしょ。それでどうするかは、僕次第だって……だからずっと考えてたんだ」

「考えたけど、こたえは出ませんでしたって情けない顔してるけどね」

 あははと、アメレは軽い笑いを付け加えると、しゃがんでいた腰を、床へと下ろした。揃えた足を倒し、視線は動かないまま見つめられた。

「うん……こたえは出ない……わからないんだ……僕は何をしたらいいのか……」

「ふむ……今のネネルは、あたしやスノが何年も前にしたことをしてるってわけか」

 悟ったように、アメレは彷徨い迷う目を見つめてくる。その目からは、なぜか逃れられない気がする。垣間見たアメレの女性的な面を一言であらわしているほどだった。

「あたしだって、それなりに悩んだもんよ。いきなり病気になって、ここに連れてこられて、さらに妹まで同じ病気になっちゃって……なんでよ、不公平よってね。しかも家にも帰れない、親にも会えないってね」

「うん……」

「けどね、それもいくらかしたら、別のものが見えて来始めるわけよ。ここで生活してる人たちのこととか、自分に与えられた仕事のこととかね、きっと病気よりも自分にぴったりくっついてる、生きてるってこと」

 アメレは事が深刻さを増さないようにするためにか、大げさな手振りを添えて、表情を読むように話をしている。それだけで気を遣わせているとわかるのだが、今は年長者の気配りに素直に甘えたかった。

「そうなってくると、何で自分がここにいるんだとかの意味が変わってくるのよ。あたしはこの店のことをラウドさんから教えてもらって、スノは隣でケーキ作りを学んで、島のみんなを笑顔にしたいって言って頑張り出す……もう、耳がどうとかって、それこそ島中がそうなんだから、意識が薄くなるわけよ」

 得意そうに、頭の耳をぴんと張らせて、アメレはひとつひとつ頷きながら語る。脳裏に巡らせているのが、想い出なのか、自問の山なのかは、表情からは読み取れなかった。自分のようにわかりやすく眉間にしわでも入っていればよかったと、ネネルは思ってしまう。

「確かにね……もう帰る場所もないってわかった時は辛かったし、いっぱい泣いたわよ。お父さんもお母さんも、そういう顔で、送り出したし。あたしはさらに、スノまで後でここに来ちゃったからね……でも、姉妹一緒にいられるなんて、考えようでは幸せだよ、ここではね……それでいいやって思っちゃった」

「島の人たちって、肉親でっていうのはないの?」

「そうだね……知ってる中じゃ、あたしたちくらいかも。でも、島に住んでる人は、みんな家族みたいなもんよ」

「そうだね……」

 家族……それは昨夜の食卓のようなものを言うのだろうか。ならば、この島にも見えていないだけで、同じような食卓が毎夜明かりのともる家々にあるのだろうか。真実はわからなくても、そうであって欲しいと願った。

「じゃあ……島以外から来た僕は……家族でもないし、耳だってニセモノだよ」

「それは、あたしに何か望んで欲しいってこと? あんたがこうあるように、みたいに」

「え……どういうこと?」

 思わず言葉にしてしまうくらいに、アメレの言ったことがわからなかった。だが、一呼吸してみると、その意味が知れてきた。よそ者であり、耳も偽物である自分は、どういう存在であることを望まれればいいのかを考えていたのだ。それは、自分で出すこたえなどというには、おこがましいものだ。

「まぁいいんじゃない。それでネネルがその困った顔のまんまじゃなくなるなら……あたしが望んであげる」

 言うとアメレは視線を外して、また想い出を整理するように思案顔を見せた。大きく、性格をよく表した釣り目を一度ぱちりと閉じて、ひとつ唸ると、またぱちりと見開いた。短い髪の尻尾は揺れ、頭の耳は毛をぱっと広げ生き生きとする。

「うん、ネネルは出会った時のまんま、少し抜けた君でいなさい。ここには、辛いことも苦しいこともあるけど、楽しいことだってあるのよ……それはそれで、あたしたちはここで生きてるってことでしょ。そんな中にひょっこり現れたネネルは、山道で会う野ウサギみたいなもんだから」

「僕はそんなにかわいくないよ」

 反論してみると、アメレはなぜか立ち上がり、手を頭へと伸ばしてきた。経験が生む条件反射から、咄嗟に目を閉じて衝撃に備えたが、取り越し苦労だった。手はただ置かれるように頭にふれると、偽物の耳を含めて柔らかく髪を撫でつけてくる。

「かわいいもんよ……だから、そのまんまでいい。あたしはもしかしたら、ネネルが欲しがってるものと違うものを望んでるのかもしれない。けどね、あんたは少し抜けたままのネネルでいて欲しいのよ……それであたしもスノも救われる」

 そのままでいるだけで、救うなんて自分に出来るとは思えない。だが、それは自分がどうするべきかというこたえにもなっている気がした。

 何よりも、髪を撫で続ける目の前のアメレは、見たこともない優しい目をしているのだ。

「うん……」

「さて、甘えん坊の時間はおしまい。残りの仕事片付けて、表においで」

 アメレは途端に撫でることをやめると、踵を返して出口へと向いた。後ろ姿にゆれる髪の尻尾は勇ましく、耳もぴんと上を向き、それはもうあのアメレ……憧れを抱いてもいいと思えた、姿そのものだった。ならば、こちらも、いつも通りにならなければならない。

「仕事って、もう商品は搬入したんだけど……」

「何言ってるの、よぉく見てみなさい……あら不思議、ネネルの横に商品の入った籠があります」

「ホントだ……いつの間に……」

「あたしぐらいになると、いつの間にかこういう仕事が出来ちゃうのよ……それにネネルにはもういっこ大事な仕事が残ってるでしょ?」

 残っている仕事とは、今与えられたもの以外にあるだろうか。先ほどまで、それさえもなく、既に仕事は終わったと思っていたほどだ。

「これ運ぶ以外に何か仕事あるの?」

「はぁ~だからネネルはネネルなのねぇ……まぁいいかと思えちゃうあたしも、まだまだ、だ」

 アメレは嘆息しながら振り返ると、自責をこめるように、手の平で額を叩き、そのまま固まってしまった。

「あんた、今日なに納入したんだっけ?」

「え……」

 商品は残念ながら、覚えられるような数ではない。その中であえてと、聞かれているのならと考えてみると、ひとつだけ印象的な商品が浮かんできた。

「折り紙か……」

「そうそう、もちろん新しい折り方のひとつも覚えてきて、あたしに教えてくれるんでしょうね?」

「もちろん! それは母さんにちゃんと教えてもらったから大丈夫!」

「ぷふふ、あはははっ」

 求められたものにきちんとしたこたえを返したはずなのに、アメレは盛大に吹き出して、笑い始めてしまった。

「な、何で? そんな面白いこと言ってないよ!」

「あはは……ははっううん、いいんだよ。そういうとこがネネルらしいってね、思っただけだから……うん、それでいいのよ。そのままでいてちょうだい」

 アメレが笑った理由は、わからなかった。だが、それでいい、そのままでいい、そうあって欲しいと望まれるなら、それが島における自分の姿なのだろう。

「うん、僕はこのままでいるよ……」

「そうそう。けど仕事だけはちゃんと出来るようになってくれなきゃ、困るわよ。げんこつのおかげで、あたしの手が毎回痛くって仕方ないからね」

 アメレはまた大きく笑うと、倉庫から出て行った。揺れる髪の尻尾を追い、薄暗い倉庫から飛び出すと、傾きかけた陽の光が一日の終わりを呼んでいるようだった。

「うん……僕は僕のままでいよう……夕焼けはどこで見ても、きっと夕焼けの色なんだから」

 見る人々、それぞれの心は違うだろう。夕焼けを見て感じることも、考えることも、思い出すことも……それでも、夕日は夕日なのだ。アメレに望まれたことは、自身の求めていた答えに違いない。

 そう心に誓い、ナナから教わった折り紙をアメレに、どんな風に教授しようかと店へと足を速めた。

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