第9話 第二章「島という場所」5

    5


 それからネネルは、インスと打って変わってくだらない話をして過ごし、いつまでトラック洗ってやがるんだというテイチのしかりを受けて、一日は終わってしまった。

 世界は夕闇に沈み、色濃い影と闇色の空が重なる時間が近づいていた。屋外の単色に染まりつつある風景とは一変、目の前にはナナが丹精込めて作った色とりどりの夕飯がならび、食事の始まる合図を待ちわびている。

「ネネル、手は洗ってきたの?」

 ナナはお決まりの言葉を一つに結わいた長い髪を揺らしながら問うてくる。もちろん、既に手は洗い、洗車で汚れた服も着替えたあとだった。

「うん、大丈夫……母さんの教育がいいからね。大概のことはちゃんと出来るよ」

「嬉しいこと言うわねぇ、じゃあご褒美におかずをひとつ多くあげましょ」ナナはんふふと鼻をならすと菜箸を立てた。「じゃあテイチのお皿からひとついただいてっと……はい完成!」

「おいおい、そういうのは、俺の見てないとこでやれよ」

 テイチは頭をかきながらも、変わってしまった皿の中身の構成について文句を言うつもりはないらしく、そのままテーブルの席についた。ナナも笑顔のまま、それに倣い席につく。三人で囲むに丁度いい丸いテーブルにイスが三脚、その中心には季節の花を生けた花瓶があり、主食と一皿にバランスよく盛られたおかずが三品。慎ましい中でナナが最大限計らってくれたものだ。

いただきますを合図に、時折楽しい会話が混じる食事が始まる。

 絵本にでも出てきそうな夕食の風景は、紛れもない幸せな時間でもある。

「おいしいなぁ……」

「あら、いつもはそんなこと言わないのに、珍しいわねぇ。それとも隠し味に気づいちゃったかしら?」

 ナナは嬉しそうに、笑いを交えながら食を進める。

「なんだ、隠し味ってのは? 今日はいつもと違うのか?」

「いやねぇ~隠し味はいつも入ってるの。愛情っていうのがたっぷりね」

 その仕草に呆れながらも、飯がうまいのはいつものことだと、テイチも食をすすめる……ここは、そういう連鎖で形成されている。それは不自然ではなく、生まれてからいつ物心というのがついたかはわからないが、毎日変わらず続いている風景だ。テイチとナナがつまらない喧嘩をしてしまった時も、夕飯の時には元通りになっているような、そんな時間だ。

 だからこれは、日常なのだ。

「……僕の日常と島の日常……同じように見えたけど、きっと違うんだ……」

 テイチにもナナにも聞こえないように、下を向き、皿の料理にぼそぼそと落としただけの言葉だった。そんな調味料を加えても、ナナの愛情がこもった料理の味は変わらない。力強く、心地よく、命を作ってきてくれた味だ。

「ねぇ母さん……あとで折り紙教えてくれない? ツル以外も知りたいんだ」

「あらら、どうしちゃったの? そんな坊やの頃の遊びに戻っちゃって……も、もしかして……ついにネネルにも来るべき時が来たのかしら!」

「な、なんなの、来るべき時って?」

「いやぁねぇ~こんな女の子受けしそうな遊びをもっと知りたいだなんて、つまりはそういうことでしょでしょ?」

 ナナを一言で表すなら、明るいというのが一番だろう。テイチとのくだらない喧嘩で落ち込んだ顔を見せることもあるが、それもすぐに笑いで吹き飛ばす。誰かが暗い淵に落ちて、もがいているとしたら、片手でひょいとすくい上げそうだ。そういう意味で、この食卓がいつも普通に幸せの絵を描けているのは、ナナの功績なのだろう。今までは考えることもなかったが、ナナの明るさが、知らず存在してきた危機から、家庭を守ってきたのかもしれない。

「そんなんじゃないよ。ちょっと知りたいだけ」

「変に勘ぐらずに、教えてやってくれ、ナナ。こいつの商売の助けにもなるもんだろうからな」

 仕事を離れている時は、たとえ仕事の話をしていても、父親の顔しか見せないテイチ。それも仕事を一緒にやり、さらに家庭でも一緒だから気づける変化なのかもしれない。

 ネネルは、短い間に多くを発見していた。

「あらあら、じゃあ何がいいかしらねぇ。あんまり難しいのも、ネネルじゃできないでしょ?」

「そうだね……人が見て、かわいいとか思えるのがいいかな」

「なるほどねぇ。じゃあ食事しながら考えるから、教えるのは終わったあとのお楽しみね」

 ナナは鼻歌交じりで、食事を再開させた。愛情が隠し味というなら、ナナは家族の笑顔や談笑をおかずに、食事を楽しんでいるのかもしれない。でもなければ、こんなに日々笑顔でいられるはずがない。今は、その明るさに素直に救われる。

 自分がもし、この食卓を突然に奪われて、父も母もいない世界を迎えることになったら……それは想像を絶する。もちろんそれは、人として生きる以上、突然の死によってもたらされる可能性も十分にある。そうでなくとも、老いという過ぎゆく時間の中で、あらがえない事実からもたらされることもあるだろう。そんな普段はまるで考えてもいないことでも、可能性から導けば、考えざるを得ないことでもある。

「死っていう絶対みたいなものでも、こんな風に思うのに……」

 食物を噛むように独り言を口の中で砕く。別れが死だとしても、簡単に納得なんて出来そうにもないというのに、島の理由を考えると、さらに納得など出来そうにもなかった。

 だが島はあり、そこに人は住んで、生活している。そして、あの家屋の数だけそれぞれの食卓が存在する。

「…………」

 考えても、こたえは出てこない。ただナナがどんな折り紙を教えてくれるのだろうと紛らわすしか、ネネルには心のやりようがなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る