第8話 第二章「島という場所」4


 翌日、ネネルはブラシを片手にトラックの洗車を朝から行っていた。

海風を受けて長い時間かけて橋を渡るというのは、車体にとても負担のかかることで、その塩分を洗い落とすということは、トラックの維持において非常に重要な作業なのだ。

「く、この、そりゃ」

 特に重要なのは、下回りの洗浄だった。

トラックの下を覗くように座り込み、ホースから水を常に出しつつ、ブラシで必死に手が届く場所をこする。海風によって付着する塩など、目に見えるはずはなく、目に見える状態ならば、それはもう手遅れでもある。そして、この不毛な闘いは、その目に見えない塩を絶対に洗い落とすというもので、洗えば目で見てわかる、ドロ汚れなどのほうが、幾分か達成感をもたらせてくれる。

「この、この、この!」

 秋口と呼ばれるにふさわしい季節になってきて、朝夕の涼しさはいずれ寒さに変わる。そんな中、水のしぶきを浴びて、服のあちこちを濡らしながら見えない敵と闘うことは、体力以上に精神力を奪われる。

「姿は見えずに、奇声は聞こえる」

 水しぶきで、近づいてくる足音は聞こえなかったが、さすがに傍に立たれれば、声も聞こえるようになる。

「何だよ、インス……僕は仕事中なんだよ」

 トラックの脇に座ったまま作業の手は休めず、声だけをインスに向けた。

「オレだって仕事中だって」

「どこがだよ……前と一緒でぶらぶらしてるだけだろ」

「まぁいいじゃんか」

「よくないよ!」

 すぐ脇に見えた足先に水でもかけて、高級な靴をびしょびしょにして、気分悪く一日を過ごす魔法をかけてやろうかと思ったが、今の敵は塩分なので、良心に傾き自制しておく。

「まぁまぁ、そうカリカリすんなって。そういや、もう島には慣れたのか?」

「慣れた……ってのも、変な言い方だよね」

 島ではなく、インスが仕事と言っていれば、慣れたと聞かれても、冗談を交えながら、素直に答えることができたはずだ。

ではなぜ、インスは島に慣れたのかとわざわざ聞いてきたのだろう……二度目、島に行く前に見せたインスの表情が、水をかけ続けているトラックのいちだんと暗い場所に浮かんできた。甘いと言われて食べた果物が、舌の上で苦いとわかったような……それでいて、もっと深刻な表情だった。

 水を暗所にかけ続けることをやめ、一心不乱に動いていたブラシも止め、ゆっくりと傍に立つインスを見上げた。

「なぁインス……インスは島のこと、知ってたのか?」

「あらためてなんだよ。オレは国中を股にかけるルブ商会の跡取りだぜ。知らない事なんてないんだよ」

「そんな冗談聞きたいんじゃないよ!」

「冗談じゃないんだけどなぁ……何怒ってるんだよ……」

 インスは見上げられるのを嫌うように、ズボンのお尻が濡れることも構わないと、地べたに並び座ってきた。それに合わせ、ネネルもトラックのタイヤにもたれ、座り直す。ホースからは水が出たままだが、それを無駄にせぬように、トラックのお腹に水をかけ続けた。

「ホント、どうしたんだよネネル。島に行って変わっちまったか?」

「僕は、かわって……」

 ない、と言い切れなかった。変化というのは、前とどんなことであれ違いが生まれれば「変化」ということになる。悪い事象ばかりでなく、よい事象もまた変化だ。ならば、ネネルは変わってしまったと言ってもおかしくはなかった。

「変わったっていえば変わったけど、それはきっと知ったって意味だ」

「知った、か……」

「うん。インスは島のこと知ってたんだな。島がどういう場所で、あそこに住んでる人が、どういう人たちかって」

「そりゃね」インスは手を広げてこたえる。「家の仕事柄ってのもあるけど、ウチには本もいっぱいある。それこそオレが好きな世界の不思議や珍しいものとかの情報も満載ってわけさ……普通の人が知らないことも知ってるのが、オレだ」

 インスは、それが悪いことだとか寂しいことだとかと知らせるような顔はしていない。むしろ、嬉しそうにもとれる目の輝きで、視線を遥かにしていた。

「僕は知らなかったんだ……なぁインス、それは悪いことだったのか?」

「悪いってわけじゃないね。むしろネネルが普通なんだよ」

「僕が普通?」

 インスの言葉を解釈すれば、島のことも病気のことも、知らないことが普通になる。普通とは何だという大きな疑問にぶつかりそうだ。

「あの病気のことは、ほとんど一般には知られてねぇんだよ。症状その他は、まぁ一般的な病気だし、治るかわからない難病なんて、いくらでもある。でも、たったひとつ他と違うのは、見た目が変わっちまう事だ。動物の耳がぴょこっとな……そういうもんを信仰してる土地もあれば、憑きものだってワルモンにするとこもある。考えても見ろよ、何で病気のために島なんか用意されてるんだ?」

「……そう、だけど……」

 これでは、ラウドが話してくれたことの繰り返しになるだけだった。そこから先へは進めない。しかし、進むというのは、何を示すのかがわからない。

「国は島を用意して、そこで病気の人の治療をしてる。だけど、他の人はそのことをあまり知らない……オレたちは、あの島に橋がかかってるってことが、生まれたときからの普通だけど、そのほんのちょっと前はそうじゃなかったってとこまでは知ってるのか?」

「え……橋が普通じゃない?」

 インスはまた遠くを見て、本のページをめくるような仕草を手でしてみせる。

「昔は橋なんてなかったんだよ。一度行ったら、二度とこっちには帰れない。そういうトコだったんだ。長い長い時間かけて、やっと橋がかかった。けど、あの島の人たちは変わらず、こっちに来ることはほとんどないみたいだけどな。いったんあそこへ行ったら、故郷に帰る人もほとんどいねぇって話だ。みんなあそこで最後を迎えるんだよ」

 いつも、対向車なく寂しい一本道だったのは、そういうことだったのだ。島で、車というような、移動手段を見かけたことがなかったのも、こういう理由であって、島内で生活の全てが完結している彼らにとって、大がかりな移動手段――それらは基本的に必要のないものだったのだ。

「島に商品納入してるのだって、ネネルのとこ合わせて、片手の指で足りるくらいだしな。こっちの人間は、そうそうあの島には行けないんだ」

「なんで行けないんだよ。橋がかかってるだろ!」

 思わず言葉尻があがってしまった。インスに憤りを感じても、どうにもならないとわかっているが、その感情が抑えられない。

「……落ち着けよ、ネネル。そういうもんの根っこは深いんだよ……じゃあネネルは、昔オレたちをイジめてたやつらを、今なら肩たたき合って、許して、認めて、受け入れて、一緒に遊べるか? お前今なにやってんだ、そうか幸せなんだな、はははって笑えるか?」

「……いや……それは……きっと出来ない……」

 重い記憶の中にあるその情景を思い出すだけで、今でも容易に心が斜に傾く。

病気にはそれだけの――いや、比べてはならないほどの凄惨な歴史があって、今に至っているとすれば、どんな綺麗な言葉を並べてみても、橋がかかった程度で、全てをなかったことにするなど、出来るはずもなかった。

 だが、島にはここと変わらない生活があり、耳が生えているだけで、何一つ変わらず、心のある人が住んでいると、ネネルは知っている。

 もう、知ってしまった。

「知らなかったのって、悪いことだったのかな……」

 何度も繰り返した言葉を、インスにも聞かせてしまった。

「どうかな……オレは色んなことを、本から知った。それも学校の図書館じゃ片隅に一冊あったかなかったかっていう本に、数行書いてあるような内容じゃなくてな、発行禁止になってたり、世の中に一冊しかない手書きの本とかな……要するに、変わった今があったとしても、昔からそれは知ることや知らせることを積極的にしたくなかったもんなのかもな」

「それは、世界が隠そうとしてたってこと? 何のために……」

「まだ二回でも、ネネルは実際に島へ行ってるし、そこの人とも話とかしてきたわけだろ。何のためにかとかは、本しか読んでないオレよりはわかるんじゃないか?」

 インスに言われ、少なく短いながらも、島で過ごした時間を思い返してみる。そこに手がかりが隠れているかもしれないと、注視するように、ひとつひとつの会話を思い出してみた。

アメレの仕草、スノの態度。そしてラウドの言葉……そこには、見た目に耳が生えているから、島に来たというこたえがあった。それは、インスも言ったことだ。

それだけをかきあつめても、それが正解だとしか思えない。

 それが正しいこたえであり、世界が隠そうとしている理由ならば、言葉にできるものではない。

「……理由なんて……ないよ。世界から隠されなきゃいけなかった理由なんて……」

「そっか……ネネルがそう思うなら、そうなんだろう。だけど、それは今だから言えるってこともあるぞ」

 インスは聞くまでもなく、自分のこたえを持っているのではないかと思える。だから、何かを譲らないんじゃないかと……そんな気がする。

「あの病気は今だから、治療法もできてるけど、昔はそんなものわからなかったからな……人と違うものは、それを持ってない人にはおかしく映るってもんだろ?」

「……それはそうだけど……」

「それに、人から人に感染するってことも言われてた。今これは間違いだったってわかってるけどな……治療法がわかんねぇんじゃ、出来ることは少ないってことになっちまうし、その行為を肯定もしちまう……負の連鎖ってやつだ」

 インスの言葉には説得力がある。インスは何かの病気ではないが、人にはないものを持っている。持っているという言い方もおかしいかもしれない。インスは生まれた家がたまたまルブ商会という富豪だった。自分が望んでそうなったわけではない、不可抗力の事態だ。だが、それが理由での言いがかりやいじめは絶えなかった。

 経験からもたらされるものは、本だけで得た知識だというものを、後ろから強固に支えている。

「要するに、そういうことなのさ……本当は何が優先されて、あの島に耳が生えた人たちが集められたのかはわかんないけどさ」

 インスは両手を肩の高さにまであげて、本当にわからないんだという仕草をしてみせる。それは嘘ではなく、真実はインスが家にため込んでいる本を見ても載っていないようなことなのだろう。

「結局、どうすればいいんだろうね……」

「どうしたらいいかなんて、わかんないな……とりあえずネネルは、知ったってところからはじめればいいんじゃないか?」

「知った……知らなかったものを知った……か」

 それでも、こたえは見つけたかった。自分がどうすればいいのか、どうするのがいいのか……ホースから出っぱなしになっている水の音は、波のように寄せてはかえす心地よいリズムを持たず、ただ一方向に押し流すだけの強引な力で、ここにあった想いも、汚れた何かと一緒に、暗い淵へと落ちていきそうだった。

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