第3話 第一章「初仕事」2
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トラックに揺られ、ネネルは橋の終わりに着いた。
その橋の終わりである島の入り口には、簡単な事務所のようなものが構えられていた。建てられていくら経ったのか、作りは古びていて、鉄製の外壁は潮風に錆び負け、所々赤茶けた肌をさらしている。
「おう、テイチ。もうそんな日にちか」
「ああ、またよろしく頼むぜ、ジイさん」
テイチは事務所の歳召した柔和な笑顔の守衛に軽く手をあげてこたえ、トラックを一度止める。事務所の小さな窓から古びた帽子を被った守衛は顔を出し、こちらを見て驚いている。
「お、今日はひとりじゃないんか?」
「ああ、息子なんだ」
「ほう、跡取りか……」
一見してつぶやくと、守衛は一層に表情をほころばせ、しわを深くして笑って見せた。
「あ、こんにちは……」
たどたどしく頭だけさげる。垂れていた頭をあげると、守衛はまだ笑ったままだった。
「あの生意気坊主だったテイチが、もう跡取り連れてくるようになったんか」
「ジイさん、生意気だけ余計だぞ」
「何言うんなら、まったく。しかし、息子はお前に似ず、嫁さん似のようでよかったな。よっぽどかわいらしい嫁さんなんじゃな」
「ほっとけよ」
テイチと守衛のやりとりに置き去りにされていたが、しなければならないことを思い出した。
「あの、僕……ネネルっていいます。よろしくお願いします」
「おお、こいつはご丁寧に。ほら見ろテイチ、お前さんとは基本的なデキが違うみてぇじゃの」
「どこがだよ」
「お前がこぉんな時分に、初仕事に来たときにゃ、自己紹介なんかできんかったじゃろ。よっぽど嫁さんの教育がよかったんじゃな」
「嫁さん嫁さんと……確かにナナは俺にはすぎた嫁さんだが、俺だってこいつをしっかり育ててきたつもりだぞ、じーさんに仕込まれたぐらいにはな」
テイチの主張を一笑に付した守衛は、帽子を脱ぎ、また見つめてくる。帽子が取れた頭には、毛艶のあまりよくない灰色の耳がまだ多分に潮を含んだ風に揺れている。
「ネネル……親父と違って、素直な目をしとるなぁ……これからよろしゅう頼むぞ」
「はい、お願いします」
助手席に座ったままの一礼だったが、込めた想いは通じたようで、サインのように、守衛はニッカリ笑顔を返してくれた。
「じゃあ行くぞ。ジイさんまた帰りにな」
「おうよ、ネネルもしっかりな」
はいと答えたが、走り始めたトラックの走行音に消されたようで、守衛は片手をあげた笑顔のままで遠のいていった。
トラックはそれから島の中へと入る。道幅は橋のそれよりもかなり狭く、きちんと石畳で舗装などの整備はされているが、同じスピードで走れるものではなかった。ゆっくりとなった景色を眺め、文化に触れてみるが、家の造りなどは自分が住んでいる地域とさほどの違いは見受けられなかった。修行の一環として、インスの実家である運送業のアルバイトで、遠方に出向いた時に出会った街並みのほうが、余程異文化と語るに適している。
「そんなに、変わんないね……」
「ん、どうした?」
独り言のはずだったものに、テイチがこたえてくれた。見ても顔は変わらず正面を向いたままで、橋の上よりも当たり前だが慎重な運転をしている気がする。
「いや、僕らの住んでるとこの建物とかと、あんまり変わらないなぁって」
「建物ってやつは、地域ごとに変わるが、それは気候っていうデカイやつが変わればって話だ。ここと俺らの街じゃ、そういうもんに大差ねぇからな……当たり前っちゃ、そうだが……」
言われて、インス家のアルバイトで行った先で見た建物は、違いを口にした時、そこが冬になると大雪が降る土地だと聞かされたことを思いだした。そういう意味では、この島は全くわからない未知の場所ではない。そう理解すると、妙に親近感がわき、初めて見る町並みさえも記憶のどこかにあったもので、懐かしいとさえ感じてくる。
「そう考えると、なんだかラクだな……あだっ!」
甘くなった考えを正されるように、路面のくぼみでトラックが不意に突き上げられた。
「ははっ……さぁ観光気分もそろそろ終いにしとけよ」
テイチはトラックを左に折れさせると、一層スピードを落とす。先ほどよりは幾分か広い道幅にも関わらずスピードを落としたのは、人通りの多さからだと気づいた。杖をついた人、一人用の荷車を押す人など、行き交う人の頭には色とりどり、垂れたり尖ったりなどのふさふさした耳が揺れている。
「ここは、商店街みたいなとこなの?」
「ああそうだ。この島の商店はこの通りに集まってる」
人通りは多い……だがそれは島に入った直後に走った道と比べてというものであり、商店が並ぶ前の道……商店街だと一般的に考えれば、閑散としていると言ってもいいだろう。
「父さん、この島って住んでる人少ないの?」
「そうだな……俺らの街の半分以下か、それより少ないかだ。俺にもはっきりとした数はわからねぇ。ここでの商売は仲介だからな。発注側にいわれたもんを持ってくるだけのもんだ……」
疑問はテイチの言葉で解けたが、島はその数の人が住むには大きいと感じる。これでは島の大部分が、人のいない寂しい場所になってしまうんじゃないかとさえ思える。トラックの窓を急ぎ開けて、潮の匂いはしなくなったが、まだ海岸線にほど近いこの場所から島の奥へと続く山を眺める。緑の木々の隙間に、民家と思える屋根が点在し、中腹には大きな白く四角い建物が見て取れた。
あれは何だろうとつぶやく前に、トラックは通りを折れて、人通りのない脇道で止まった。
「お喋りはここまでだ。行くぞネネル」
「うん」
「ウチと取引してくれる……というか雑貨屋は島に、この店一軒だ。つまり、だ……ここの主人に契約を切られたら、島での仕事は終わりってこった」
「……わかってるよ、うまくやってみせる」
あからさますぎる苦言には、対処できるものだ。だがテイチの言うことは正しく、初対面での印象というのは、その先を左右するにふさわしいものだ。一度ついた印象を覆すことは、いい方向であればあるほどに、難しい。
「行くぞ」「はい!」
テイチの呼びかけには、歯切れ良くこたえ、ドアを開けて島へと降り立った。
足をつけた道は、平らな石畳のように舗装されていて歩きやすそうでもあり、目を見張ると、各所が妙にへこんでいたりもするので、それなりの歴史あるものだと感じる。
だが、靴底で叩くと軽快な音を立てて迎えてくれる。物というものは、案外そういうもので、遠くからみたら綺麗でも、近く見てみると、薄汚れていて、触れるとまた温かい。
頬にあたる風も潮の風味が和らぎ、優しい挨拶のように感じた。
「ネネル、この伝票持って、店行って店長呼んでこい」
石畳の感触を楽しんでいた背中に、テイチは伝票の束を投げてよこす。それを受け止めると、辺りを見回した。店の出入り口を探したのだ。だが、ここは裏通りなのか、目につく位置に入り口らしきものはなかった。
「裏口はそっちにあるが、あまりつかわねぇ。表に回って正面から行け」
ほろのついたトラックの荷台からテイチの指示が飛んできた。疑いようもないので、素直に従い、目の先にある角を折れて、トラックで抜けた通りへと小走りに駆け出る。
通りに出てすぐ脇に店はあった。決して立派という間口ではなく、建物も奥にずっと長いという独特な構造をしている。屋号の看板も控えめに、入り口の脇にある柱に付けられているだけだった。
「雑貨のパード……か。あっさりした名前だなぁ」
「ずいぶん真っ直ぐな感想だねぇ~」
「え……」
突然の声に気づいた時には、既に真後ろに立たれていた。自分の影を捕まえたように重なる影の主へと、ゆっくりと向き直る。
歳は同じくらいに見えたが、自分よりも上の位置にある、大きくも少し目尻に向かって高くなる角度のある瞳には、テイチ同様の威圧感さえ漂っている。それに反し整った顔つきをして、薄い桃色の唇が光を受けて輝いている。ナナほどの長髪ではなく、ほどけば肩口くらいまでだろうか……その長さの黒髪は頭の高い位置に後ろで縛られ、短い馬の尻尾を作って揺れて、その近くに黒い三角のふかふかとした耳が立っている。白い半袖のシャツをまだまくりあげ、ぴっちりとした作業着ジーンズの裾も織り上げて素足を覗かせている。胸にはエプロンをして、主婦でないなら、どこから見ても、どこかの店の店員だと思わせる風格だ。
「じっくりと観察した感想はどうかな?」
「そうだね……店員みたい」
「店員……それだと半分正解」
頭が疑問で埋まってしまう。店員みたいと思ったが、それでは半分――疑問が不可解すぎて、足下の石畳がぐにゃりと柔らかくなって、足からけろりと飲み込まれるように感じ、今自分がなぜここにいるのかということさえ、わからなくなってきた。
「はぁ……」
溜息をついたところに、手の中の伝票を思い出した。自分はこの店の店主に会いにきているのだ。だが、そう考えると余計に混乱してくる。
「どうした、どうした。黙ったまんまじゃ、なんもわかんないよっ!」
「ぎゃっ!」
突如、目の前の女の子に頭を強打された。拳を握ってのことではないのが、救済の一撃が、脳天から足先まで走り抜けた。
「ちょ、何するんですかっ!」
「何だ、ちゃんと話せるじゃない。私に用があって、来たんじゃないの? 伝票持って、あたしの店の前に突っ立ってんだから」
「あたしの……店?」
「そ、あたしの店。あたしが雑貨のパード店主アメレ・パード」
余計なものがない、すっきりとした自己紹介だった。逆に、それ以上でもそれ以下でもないという宣言にも聞こえて、どう反応していいか迷ってしまった。
「もぉ、しっかりしなっ!」
「ぎゃあっ!」
黙ったまま立っていたら、今度こそげんこつが脳天に降り注いできた。平手の時など比べものにならない痛みが、指先まで到達して、思わず握っていた伝票の束が手から離れた。
「うわっと、とと……」
それを何とか前のめりになりながら、地に落ちてしまう前に手の中へと戻した。
「へぇ、なかなかやるじゃない。あんた、今日初めて来るっていう、テイチさんトコの人だよね?」
「あ、はい……そうです」
名前はアメレ、雑貨のパード店主。おそらく性格は乱暴……自分がしたお返しのごとく、まじまじと身姿を見られながら、今度はアメレの内面の分析をしていた。
「……なんか失礼なことを考えられてる顔だ」
ぼそりとしたつぶやきなのに、アメレの指摘は的確すぎて、ぎょっとした。
「そ、そんなことないですよ、アメレ……」
「アメレ“さん”でしょ!」
また、げんこつが鋭く降って、また悲鳴は上げてしまったが、今度は伝票を手から落とさずにすんだ。
「うう、なんでこんなぽんぽんぽこぽこ叩かれなきゃ……」
「あんた歳いくつよ?」
「……はい、十六歳になりました……」
「ほら見なさい。あたしは十七歳で年上なんだから、さんづけで呼ぶのは当たり前」
「ううう……」
当然よと言わんばかりに――風に煽られてだろうが――アメレの頭の耳がぴんぴんと揺れていた。
「しかも、あたしは店主なんだから、敬意を表しなさい」
「す、すみませんでした……」
言われっぱなしだが、それでも年上であり、店主でありという尊敬に値する事実が並んでいる以上ネネルは、謝るしかない。
「何やってるネネル、伝票は渡したのか?」
背後から、額に汗をにじませたテイチが問うてくる。伝票はまだ手に持ったままだった。
「テイチさん、今日もお疲れ様です。裏に搬入してくれたんですか?」
「いや、荷台からおろしただけだ。今日からはそういう力仕事をやってくれるやつがいるからな。ラクさせてもらうことにする」
テイチはこちらを見ながら言ってくる。まだ伝票も渡し終わっていないのに、早くも次の仕事が舞い込んでしまった。しかも考えるまでもない重な肉体労働で、おそらく終わっての感想は、アメレに生意気を言って、小突かれているほうがマシだったというものになるだろう。
「はぁ……」
「溜息か深呼吸か知らんが、そんなもんしてるヒマはねぇぞ。さっさと伝票渡して、裏行ってこい」
「そうだそうだ、働け!」
テイチとアメレに責められるが、伝票を渡す相手はアメレだろうと思う。その思いが先行し、体を動かすのをためらっていた。
「中にもうひとりいるはずだから、その人に伝票は渡してこい」
テイチに言われ、アメレに見送られ、しぶしぶながら、店内へと入ってみた。
「こんにちは……」
威圧されているわけでもないのに、一段声の調子を落として、あいさつを店内へと響かせた。午後にぽっかりとあいた時間なのか、店内に客の姿はなかった。暗いとも明るいとも言えない照明のもと、綺麗に陳列された商品を見ていく。どれも面をへこませることなく、きっちりと前に出されている。基本的な日用品から、ちょっとしたお菓子までが並べられていて、雑貨屋というより、何でも屋のような印象だった。取り扱いがないのは青果や精肉などの生鮮食品類だけかもしれない。
「あの、すみません……」
「ん……なんじゃ……」
電話でもしもしという程度に、魔除けのつもりでつぶやいた声に、突然テイチのものよりもさらに低い声が返ってきて、言葉を失った。店の奥、レジが置いてある場所の手前に、人影がある。白というよりも、灰に近い色で短く刈り込まれた髪と、それにならった色の髭が、口元を覆っていた。頭には当然のように、髪色に似た耳があった。だが、アメレのもののように、毛色に艶がなく、年齢を感じさせる。
「小僧……何の用じゃ。客じゃあねぇじゃろうし……見ん顔……というには、よぉ似とるなぁ」
「は、い……僕は……」
アメレがしたような全身をみる感覚がする視線の動き方ではない。ただ目を一点、射貫くように見つめられ、そして全てを見透かしてくる。時を見つめて闘ってきた目だったが、それに動じてはならない。アメレの時に犯した失敗を繰り返してはいけないのだ。
「僕は、ネネル・ハッサです。今日から父共々お世話になります。これは今回納入分の品物伝票です」
淀みなく言い切って、手にあった伝票を差し出して見せた。
「ふむ……言いたいことはよぉわかった。ところで、お前さんはワシが誰かも確認せずに、そんなもんを差し出してえんか?」
「え?」
「ワシはここにおるだけで、店の者じゃのぉて、ただの客かもしれんぞ」
「そ、そうだった……」
「まぁええ。五〇点くらいはつけちゃろう」
立ち上がり、コンコンと、手にした杖を鳴らしながら、老人は近づいてくる。所々あたりの出たデニム生地の作務衣に身を包み、杖を鳴らしてはいるが、歩く上でそれを使用しているわけではない。ただ単に持っているという感じだった。
「さて、では受けとるか」
「え、何を……」
「面白ぇことを言うな。お前さん――ネネルじゃな。ネネルは何を持ってワシのとこに来たんじゃ?」
「そうだった……これ、伝票です。って、おじいさんはお店の方なんですか?」
「今度は九〇点くらいやるか……ワシはラウド・モリじゃ。この店の……ご意見番みてぇなもんじゃな、ネネルのとことは、じーさまの時代からの付きあいじゃ」
ラウドは言うと、髭をなでつけて杖を鳴らしてみせた。それからすぐにパラパラと伝票をめくり上げ、見終わるとレジの横に置いてしまった。それが終わってしまうと、何をしたらいいのかがわからなくなってしまう。世間話をして間をつなげばいいのか、はたまた、今日持って来た商品について、おすすめのところを説明すればいいのか。
「おら、ネネル! 伝票渡すだけで、いつまでかかってんだ。裏には仕事が山ほど待ってんだぞ!」
助け舟であるはずのテイチは、それなりの剣幕で、その後ろでアメレがにやにやと笑っているのも見えてしまった。
「ラウドも伝票受け取ったんなら、さっさと返してくれ」
「何いうんなら、老人の楽しみをとるな。それにテイチとちごうて、間違いはしたけども、礼儀正しい挨拶の出来る子じゃ。よっぽど嫁さんの……」
「またそれか。どうせ俺は礼儀もクソも知らなかったよ。教えてもらう前にオヤジは死んじまったしな。ネネルはナナの教育のおかげだし、俺にはすぎた嫁さんだよ」
「わかっとりゃえんじゃ。じゃあネネル裏に行って仕事じゃ」
「はい」
苦虫顔のテイチと満足そうに髭をなであげるラウドを置いて、店を出口へと急ぐが、出て行こうとする脇にいた、アメレが背中に声をかけてきた。
「あんた、いそいそ行ってるけど、倉庫の場所わかってんの?」
「あ……わかりません」
「仕方ないわね。今回だけ特別なんだから」
「えと……何が?」
聞き返したのがまずかったのか、アメレはやや柔和だった顔にある眉の間に、ざくりと縦線を走らせた。
「倉庫の場所でしょうがっ! あんたの耳はどうなってんのよ!」
耳と言われて、アメレのそれを見てみると、逆毛を立てて、いかにも感情を援護しているかのようだった。
「すみません、お願いします、連れてってください……アメレ」
言葉を切る場所がよくなかった。
「……さん……だって言ってるでしょうがっ!」
「あだっ!」
またげんこつが容赦なく降り注いできた。
「前途多難じゃな」
「まぁあんなもんだ。びしびしいって厳しく育ててもらわねぇとな」
無責任な会話が聞こえたが、それに構っていると、またアメレにげんこつをくらいそうだったので、ネネルは素直に短い髪の尻尾を追いかけることにする。
歩幅に右へ左へリズムで揺れる尻尾を追って店の外へと出ると、そのまま脇道に入り、トラックの前までやってきた。そこにはテイチが荷台から下ろしたのだろう、木箱や紙箱が山積みになっていた。
「さぁて、んじゃキリキリ働いてもらうからね。さっさとやらないと、お茶の時間も働くことになるわよ」
それよりもお茶の時間なんてものがあることのほうに驚いてしまう。だが、その驚きを本物にするためには、まず目の前にあるこの山を崩さなければならなかった。
「えと、どこに運べばいいんですか?」
「そうね、とりあえず一個……その油瓶が入ったケースにしようか」
「うぐ……よりによって、一番重そうなやつを……」
「何か言った?」
これには無言で首を高速で横に振って答えた。
「ならよし。じゃあこっち……」
アメレは満足そうに前を向くと、そのまま足を踏み出した。倉庫と聞いたが、想像していた倉庫らしきものはなく、民家の物置のような場所へとアメレの足は向いていた。
一歩アメレを追うごとに、両腕で必死に抱える油瓶の詰まった木製のケースが、がちゃがちゃと音を立てる。ガラスとガラスが触れあうなら、涼やかなものにもなるだろうが、その相手が木ともなると、音は不快というよりも、心配を頭に浮かばせ、やはり腕に重いだけだった。いくら修行で体を鍛えたからとは言え、重いものは、いつまでたっても重いのだ。テイチのように自分の倍はあろうかという、割る前の薪ぐらいの太さになれば、あるいは今感じている程度の重みも感じなくなるのかもしれない。だが、それは叶うかどうかも不定の、そして遥か未来のことだと思えた。
「お、なかなか頑張ったじゃない。途中で一回も休まなかったし」
「感心してるくらいなら、早くこれを置く場所教えてよ、アメレ……さんっ!」
こんな時まで、アメレは自分の呼び名に「さん」がつけられるかどうかを確認していたようだった。危うく忘れかけたが、とっさに付け加えて自分を褒めてやりたい。
「はいはい。ちゃんとアメレさんって言えたから、イジワルせずに教えたげるわ」
アメレはあやすように言って、薄暗い倉庫と呼ばれる物置に入ると、指先でここよと油瓶のケースが置かれるべき場所を示す。そこ目がけ、あと数歩のうちだから、腕力よもう少し頑張ってくれと願いながら進んだ。
「ふぅ……やっと……」
「はいはい、一個運んだくらいで、仕事やり終えたみたいな顔してないの。次があんだから」
アメレの感情を灯したのか、耳がぴんっと天を向いている。もちろん、そのように見えているだけなのだが、なんと便利なもので、自分の付けている耳も、アメレのそれのように、感情や態度を代弁してくれているのだろうかと思う。
「なら、きっと今はへにょんってしおれてるな……」
独り言は宙で消えたようで、アメレは訝しむこともなく先を歩いていくので安心したが、なぜか倉庫の中から出ようとしなかった。そればかりか、今し方運んだ油瓶のケースがある横へと逆さにして置いてある、空の木箱へと腰掛けてしまった。
「ええと、なんで座るんですか?」
アメレは優雅に足を組んで一呼吸した。
「疲れたから?」
そしてのんびりと述べた。
「僕が聞いてるんですけど……」
また付けている耳が地を向いた気がする。そんな便利なものであるはずはないが、言葉なく相手に意志が通じるというならば、それもいい。
「ええとですね……まだ荷物ありますよね?」
「当然ね。一個運んだだけだし、そんなことトラックの前の山みてるんだから、わかってるわよ」
「じゃなくて……」
疑問が解決していないと、逆を返そうとすると、アメレは何かに気づいたのか、手を鳴らした。ついでに耳がぴこんと立ったように見えたが、これも気のせいだろう。
「……なるほど……荷物がまだ残ってるのに、あたしだけ座ってるのに、納得いかないってわけね」
「大方はそうですけど……」
「ふむ……トラックからここまでの道はもうわかるわよね?」
「はい、それは……」
「じゃあ、もうひとりでここまでは往復できるってことでしょ? それなのに、子どものお使いみたいに、あたしがあんたにつきっきりでいる必要あるの?」
「あ……」
アメレの言う通りだった。改めて、自分がここにナナからのおつかいを果たすためではなく、仕事としてやってきていることを思い起こす。
「……そうでした……」
「ふむよろしい。それにあたしは店主、ネネルは?」
「……下っ端です……」
「わかれば、なおよろしい。しっかり働いたら、ご褒美あげるから」
アメレの言うご褒美は、何かも想像できない。だから、自然と不思議な顔になってしまった。
「なぁに……いやらしい顔してご褒美期待しても、そういうもんじゃないんだからね」
「わ、わかってるよ!」
「なら、さっさと回れ右して、前進しなさい!」
いやらしいものというほうが、さらに想像なんて出来なかった。それより容易に想像出来るのは、トラックと倉庫の往復で、汗に溺れる自分の姿と痛打のげんこつだった。
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