第2話 第一章「初仕事」

 第一章 「初仕事」


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 がくんという制動が作り出す衝撃で、ネネル・ハッサはかすかに目を覚ました。父親であるテイチの運転する大きなトラックの助手席は、少しだけ開いた窓から滑り込む海からの涼やかな風とやわらかな陽光とで、眠りを誘う好条件がそろっている。

 トラックは陸と行き先の島を結ぶ橋の中程にある休憩所にとまっていた。エンジンは動いたままで、ラジオからはゆるやかな音楽が海風に溶け出していく。橋は出発点から終着点まで波を和らげる微少な曲線をしているが、道なりは真っ直ぐで、トラックがのんびりと渡りきるのに休憩なしで十五分はかかるほどに長い。対向車があるわけでもなくひたすらにのどかな道なので、運転手でもなければ眠気に負けても仕方のないことだと思えた。

 ネネルはトラックの天井にまで手を伸ばし、座ったまま背伸びして、眠気を体の外へと追い出す。

「ネネル、初仕事なのに居眠りか。跡取りが大物で俺は嬉しいぞ」

「はは……ちょっと気持ちよくてさ……それから夢見てた」

「なんだ、自分が将来成功して大金持ちになって、俺や母さんがラクして暮らしてるとこでも見えたか?」

 言葉尻に豪快な笑いが加えられたそれは、嫌味とも希望ともとれるもので、どう返したらいいか、少し困惑する。

「まぁいい……お前が何をしに、島に行くかさえ覚えてればな」

「それは、忘れないよ」

 十五歳で成人してからの一年間を伝票の書き方、仕入れの仕方……と、家業である生活雑貨などの仲介業の仕事と、また修行という名目で、関連業種でのアルバイトで費やした。

 ただ細いだけだった体は薄くとも筋肉を全身に纏い、少々の肉体労働に悲鳴を上げることもなくなった。そこは、元々虚弱な体質であるが故、あくまでも「少々」の肉体労働ということわりが含まれるのだが。

 じっと手を見つめ、力を込めて拳を握りしめると、腕から肩にかけて、わずかな筋肉の浮き上がりが現れ、力が順に続いていく感覚が生まれる。それは世界とこの体がつながっている実感を持たせてくれる。

「忘れてないならそれでいい……じゃあメシを食え」

 テイチは紙袋を、太さ倍以上はあろうかという腕で、胸元へと差し出してくる。中身は母……ナナが、今朝作って持たせてくれたカンパーニュのサンドイッチだ。挟んであるのは、ゆで卵にたまねぎ、焼いたエビとつぶしたアボカドを和えたナナ特製のディップで、記念日には必ず食卓にあがる、好物に数えるひとつだった。単純に見えて、卵や隠し味の調味料など、一口がぶりとやると、一筋縄ではいかない風味をしていることがわかる。

「この味……やる気が出るね」

「母さんも、お前の初仕事がうまくいくことを祈ってるってこった。しっかり噛んで食えよ」

 最後の一言は成人して初仕事を迎える息子にあてて、正しいものかは疑問だった。だがそれは、同時に父を感じられるものでもある。

 父の言葉や母の思い、色んなものを挟みこんだサンドイッチをはぐはぐと口へおさめていく。忠告を聞き入れ、よく噛むことはもちろん、合間に水筒から紅茶も忘れずに補給した。サンドイッチはそれだけで主食とおかずを兼ねているものだが、今は耳からの音楽と頬に触れる海風も、十分におかずたり得ている。そんな食事の傍らで動くテイチの手を見ると、同じようにサンドイッチがあった。だが、そのかじりかけの中身は、自分が食べているものとは、少し違っていた。同じアボカドディップに加えて、彩りと食感のレタスが加えられ、さらに栄養のある高価な生ハムまでも挟まれていた。

「何か、ずるい気がする……」

「何だネネル。自分のサンドイッチと違うってのがそんなに悔しいか」

 質問には言葉で答えない。無言を通して手に残るサンドイッチを黙々とたいらげた。

「悔しいなら、早くお前も、自分特製のものを作ってくれる人を探すこったな」

「わかったよ……」

 母たるナナは息子には特別だと、どこかで思っていたし、それは事実だとも思う。しかし、テイチの存在はもっと特別なのだ。人の一生という永遠に置き換えても不足ない時間を、共に歩こうと決めた相手なのだから、仕方ない。

 そんな風に諦めだすと、途端にサンドイッチの味が薄れ、何を食べているのかわからなくなってくる。音楽も耳にうるさいく、おかずだった海風は、やたらとしょっぱいだけになった。

「どうした……苦い顔しやがって。やっと緊張してきたか?」

 テイチがかけてくる言葉に刺はない。むしろ本当に心配がこもっていた。

「なんでもないよ……父さんの言う通り、僕もいっぱしに緊張してきたんだ」

 行く道の途中、うたた寝をしていたとはいえ、それもまた本当だった。修行一年間の総決算というよりも、これから――おそらく一生を決める何かが始まる日でもあるのが、今日これからの時間なのだ。

「うううっ」

 そう思うと少し身震いがした。

「なんだ、食ったから今度は出すのか。残念だがここに便所はないから、島までガマンしろ」

「ち、違うよっ、父さんじゃないんだから!」

 日光をまんべんに浴びたリンゴの反論は、軽く笑い飛ばされてしまった。本当の理由は違っていたのに、そうじゃないかと指摘されたことで、真実がすり替わったように、感じ始めてしまう。

「うう……」

「なんだ、やっぱり出たいのか。仕方ねぇ、トラックでされてもこまるし、黙っててやるから外でしてこい」

「だから違うってば!」

 またテイチには、軽く笑い飛ばされてしまう。

「便所に行きたい行きたくないで、わーわー言ってるんじゃ、まだまだガキだな。安心したぞ」

 テイチの発言は、さっき今日から大人だからというような宣言をしておいて、まだ子どもであることを、喜んでいるようにも受け取れる。何とも複雑で難解で……だが、それが親なのかもしれないとも思った。ナナがいつまでたっても、何事かがあれば自分を、歩き始めたばかりの子どものように扱うのと同じだ。

「みんな勝手だよな……」

「ん、なんか言ったか?」

 うまくラジオと波音に紛れ、愚痴はテイチの耳に届く前に消えてしまったようだ。だが、余計なことで、口うるさく言われるようなことになるよりはいいと思えた。

「じゃあ俺はそろそろ終わりにして、島に行くぞ。お前は残り食ってろ」

 テイチはパンッと手をひとつ叩いて、手についていたパンくずを落とすと、ハンドルを握って前を向いた。

「じゃあ僕もさっさと食べるよ」

「まあ焦るな。ここから島までは、お前が呑気に居眠りして、夢まで見るのと同じ時間かかるんだ」

 嫌味なのか適当な言い換えであるのか、言葉に続いた笑い声だけでは計り知れない。そんなものを考えているうちに、トラックはゆっくりと動き始め、休憩所を出て行く。

 ラジオからは変わらず音楽が流れ、真っ直ぐに続く道を、眠気誘う退屈なものにしないためにと必死で歌っているようだった。

 手に残るサンドイッチの欠片を、橋の支柱にぶつかって砕ける波音のリズムで口に押し込み、紅茶で流し込んだ。テイチのように豪快ではなく手についたパンくずを落とし、滑り止めのついた作業用手袋を膝の上に置いた。これで、いつでもトラックをおりれば、作業が始められるという、仕事への臨戦態勢を整える。

「お、もうやる気十分か……だが手袋をするのはちょっと待て」

「なんで?」

 素朴な疑問だった。いつもトラックから降りる前には、すぐに作業が始められる準備をしておけというのは、テイチからの教えだったからだ。それをこんな土壇場で覆されても戸惑うばかりである。

「なんてことはない。ただ手袋をする前のほうが、つけやすいってだけだ」

「つけやすい?」

 オウム返しが意図せずに続いてしまう。そうすることが許される年齢ではなくなったが、今はこれ以外で疑問が解決する術を思いつかなかった。

「口でいうよりはモノを見たほうが納得するだろう。ネネル、足下にある箱の中身を見てみろ」

 テイチは前を向いたまま、ハンドルから片手をはがして、指をそこへとサインしてみせる。運転席と助手席の間、そのわずかな空間に、繊細に編み込まれた……箱というよりは、籠があった。それを膝まで取り上げて、全面を眺めてみる。鍵のようなものはないが、籠のふたが簡単に開かないようにと、数カ所がツメのような金具で、しっかりと留められていた。

「開けて中身を出してくれ」

 言う通りに、金具を外して籠のふたを開けて中身をみた。

「……何これ……」

 新たな疑問と共に、手を籠へと差し入れ、中身を取り出す。それは二本の長いはちまきのような布であり、一本につき、その一部分に三角形のふかふかとした物体が二個くっついていた。

「父さん、これは何の冗談?」

「冗談でも何でもねぇ。くそマジメだ」

 テイチは低音をうならせ、すぐさま否定してきた。だが、それで納得は出来ず、言葉をとって返す。

「でもこれ、耳だよ? 灰色のとこげ茶色いのと、両方耳だよ?」

「ああ、灰色のほうがお前のだ」

「そんなこと聞いてるんじゃないよ!」

「なんだ、見ただけで付け方もわからんのか。困ったやつだ……新商品の説明を客にしてくれって言われたら、どうするつもりだ」

「それとこれは話が違うよ!」

 テイチは何かうまく話の芯を外しているような気がする。自分の聞きたいところとは別の答えを用意されて、納得しろと言われているようだ。

「……めんどくさいやつだな」

 テイチはやや乱暴に言うと、路肩へとトラックをとめて、籠からこげ茶色の耳がついた布を取り上げた。

「見てろ。こうやって頭に巻くんだ」

 仕方なく、言われた通りテイチが布を巻く実践を見届ける。耳は頭の頂点付近に来るように、自前の耳の後ろを通るように巻き、首後ろでしっかりと縛る。だが、そんなことを見物したいわけではない。

「これで、わかるだろ。ネネルもやってみろ」

 トラックは止まったままで、エンジンの続く音が立ち止まることを苦しいように、早く布を頭につけろと急かしている。

「うん……」

 海上を飛ぶ海鳥の声さえ、渋る自分を責めている気も上乗せされてしまう。先ほどまで優しく曲を紹介していたラジオパーソナリティまでも……そこまで感じてしまっては、疑問を持ち続けていることのほうが悪なのかもしれない。

「ええっと、こうやって……」

 テイチのする様を思い出し、自分も耳を頭に乗せて、布を首の後ろで絞った。

「おお、なかなか似合うじゃねぇか。これならばっちりだ」

 テイチは、ぱっとこちらを見ると、それでいいと納得したのか、路肩からトラックを発車させた。

「ねぇ父さん……僕の質問ってまだ答えてもらってないんだけど」

 しばらくトラックが走っても、テイチは何も話そうとしなかったので、仕方なく口を開いた。

「そうだな……言ってないかもしれんが、ネネル……覚えとけ」

「うん?」

 テイチは前を向いたままで、子どもに言って聞かせるような口調になった。こういう時は、面倒な話か役に立つ話かなのだが、それは聞いて終わるまではわからないものだった。

「何でも人から聞いて知ることが、いいことばかりじゃねぇ。時には何も知らねぇっていう自分から、恥じることなく知っていくってことも必要だ」

「そういうものなの?」

「ああ……人から聞いたことだけで、自分も知った気分にだけなるのはダメだ」

「実践して覚えろってことか」

 それはテイチによく言われた、技術や方法は見て必死に盗んで、自分で考えて失敗して覚えるもんだということに似ているのだろう。くだらない面倒話でなかったことには胸をなで下ろしたが、これはこれで大きな課題を言いわたされた気分だった。

「ただ……そいつのことは少しだけ教えとく。その耳はな、島への通行手形みたいなもんだ」

 それが初仕事を迎える息子へのはなむけなのかはわからない。が、教えられることとしての、締めくくりのような気がした。

「通行手形か……」

 島に限らず、世界にはその土地にしかないしきたりというのが多く存在する。運送業を営む家に同じく跡取りとして生まれた、親友のインスは、伝え聞いた各地の話をしてくれる。その中には、自分が理解しがたいような風習を持つ土地もあった。

 だから、島民はこの耳をつけて生活していたり、行商人や島の外からやってくる者は、耳をつけることが、しきたりなのかもしれないと思えた。それを総じて、通行手形みたいなものだと、テイチは教えてくれたのかもしれない。

かもしれない――そんな仮定ばかりだけれど、今はそれで納得するしかない。それ以上は体感として得るしかないのだ。

「じゃあ、しっかり取れないようにもう一回しばっとくよ」

「ああ、そうしろ」

 仕事の途中で外れたからといって、命をとられるぞというような危機的な話では、きっとないのだろう。だが、外れないにこしたことはないのだ。

「でも……父さんのその姿……」

「なんだ……見慣れないもんだから、珍しいのか?」

「いや……でも、ちょっとかわいいなって思っただけだよ」

「ちっ……そんなトコだけ母さんに似やがって……」

「何か言った?」

 問い直したが、テイチは何でもねぇとトラックのスピードをあげた。穏やかなだけだった風景は、素早く視界に入っては消え、窓から入る風きりの音は、頭の上の耳をばさばさと揺らす。しっかりと結び直したおかげで、布は耳で大きく風を受け止めても、頭から外れそうになかった。

 島に入れば、この耳が何なのかが知れるかもしれない。テイチの言う通り、通行手形であるだけのものなのか、しきたりほどの意味を持つのか……今はそれを考えるだけで、初仕事という緊張感がどこかへいってしまいそうだった。インスにかりた望遠鏡で、島を見た好奇心にあふれた夢の続きを思う。だが、それではいけないのだ。もう、自分は成人し、一年を過ごした。世界において、子どもではないのだ。

「よし……」

 小さな声で好奇心を緊張感にへと、もう一度作り替え、今度こそ臨戦態勢を整える。滑り止めがついた革の手袋を両手につけ、強く手の平を閉じて拳を作ると、迫る長い橋の終わりを見つめた。


 

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