いやーずている
藤和工場
第1話 ちょっと昔のおはなし
川のように横たわる海を挟んだ向こうに、島が見えます。十年ぶりの大嵐が去った次の日、空は海の青を深く映し、碧を青に、青を蒼にまでしています。海は昨日の荒れた感情をどこに忘れてしまったのでしょう。黄金の眠りに抱かれた赤子のように、おとなしく静かな寝息の波音です。
海に抱かれた島へは、つい最近に渡る橋が出来たばかりです。それまでは面倒でも島へ渡るには船を使わなければなりませんでした。
「ネネル、もういいだろ~」
「もうちょっと待ってー」
海岸線に一番近い公園の片隅、ネネルと呼ばれた少年は、手に望遠鏡を持っています。一方、少年をネネルと呼んだ少し丸みを帯びた姿の少年、インスは望遠鏡が自分のものだと主張したいのでしょう。ですが、まだ七歳のネネルにとって、自分の手の中にある時、そのものはどんなものだって自分のものなのです。
「ちょっと、待ってってば。今見てるんだから……あ……」
ネネルはのぞき込んでいる丸い世界の先に、何かを見つけたようです。
「ネネル、どうしたんだよぉ~」
「誰かいる……」
ネネルは望遠鏡で見ている海の向こうにある島、その海岸線に誰かを見つけたのです。
「僕にも見せてよっ!」
インスは順番など、もうどうでもよくなってしまったようで、渋るネネルの手から望遠鏡を奪い返してしまいました。
「どこだよーネネル。何も見えないし、誰もいないよぉ」
望遠鏡が作る小さな丸い世界は、同じ方を向いていたとしても、同じものが見えるとは限りません。ネネルの見た世界とインスが見た世界は違っていたのです。
「僕には見えたんだよ、もう一回かしてよ!」
ネネルはインスの手から望遠鏡をさっと取ると、また碧い海に抱かれた島へと視界を投げました。
「いる……やっぱり誰かいる」
「いいなぁ~僕には見えなかったのに」
インスは諦めたのか、ふくれ面で抗議だけをして、ネネルの横に立ちました。
「すねるなよぉ。僕がどんな人か言って教えてやるから」
ネネルはインスには見えないものが自分には見えていると思うと、少し得意になりました。インスはお金持ちで自分が絶対に手に入れられないもの……この望遠鏡のようなものも持っているのに、自分だけが見える世界がある。それはなぜか誇らしいことでした。
「じゃあ早く教えてくれよぉ。どんな人なんだ」
「ちょっと待ってよ……頭に何か見えるんだけど……インス、これもうちょっと遠くが見えるようにならないの?」
ネネルはあと少しが届かないように、もどかしく手をもぞもぞとさせます。
「うーん、右手の方をくるってすると、もうちょっとは見えるかも」
インスが教えてくれたように、ネネルは望遠鏡の先を持つ右手をひねってみました。
「おぉ~でも、ちょっとぼやけたよ?」
「仕方ないよ~遠くを見ようとすると、ピントがうまくあわなくなるんだ」
それでもネネルは必死に右手と左手をしぼって、人影がはっきりと見えるように頑張ります。
「あ……見えた!」
「なになに、何がちゃんと見えたの?」
飛びつくインスの体重で、ネネルの見ている世界は揺れます。ぐらぐらと円は揺れても、その中心に映った人影は逃さないようにしっかりと見据えます。ですが、ネネルのそれは見据えるというよりも、目が離せないと言ったほうが適当かもしれません。
「早く教えてよぉ~」
「うん……黒っぽいかみで……何だろ……頭の上にまた三角でふさってしてて……動いてる」
「動いてて、三角でふさってしてる? 何か猫か犬の耳みたいだなぁ」
インスの感想に、ネネルは望遠鏡から一瞬目を外して、またすぐに丸い世界へと戻ります。
「そうだよ……耳だよ……」
ネネルはそれがやっと耳だと確信して、ますます目が離せなくなったのです。
「耳、耳……あ、かみが長い……女の子かなぁ」
ネネルは自分の母親の髪が長いという理由で、髪が長い人は女であるという判断をしました。まだ髪が長い男も世界には普通に存在しうるということを知らないのです。
「でも、おかしいなぁ」
「何がだよぉ~」
インスの記憶と知識を足し算して出した答えのような疑問に、ネネルは目を望遠鏡につけたまま、不機嫌に返します。
「だって、あの島……誰も住んでないっておじいちゃんが言ってたよ?」
「何いってんだよぉ~じゃあ僕が見てるのは何なんだ」
「……ゆうれいとか?」
「ばか言うなよ。ゆうれいが手をふるわけないだろ?」
ネネルは言いますが、インスにはわけがわかりません。
「手なんかふってるの?」
「うん。こっちに向かって、手ふってるよ」
ネネルは海岸線を越えるほどに身を乗り出して、自分に手を振っていると言い張る存在を凝視します。
「あっ、危ないネネル!」
「何が……あ、ああっ!」
望遠鏡とそれが作り出す丸い小さな世界に没頭したネネルは、海へと落ちそうになり、インスに腰を抱えられてやっと、地へと転び戻りました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます